apemanさんとの論争1

「一知半解」コメント / 2001.6.1

「対話編」における「浅見氏のにせユダヤ人論について」という私のコメントに対して、apemanさんが反論してきました。その結果以下の通りの論争になりました。

apemanさんへ
私はただの学習者に過ぎませんので、以下自分が理解している範囲内でお答えします。間違いがあればよろしくご教示下さい。(*を付した部分が私の回答です。)

>つまり、ベンダサンは「ミカは神に絶対服従する事自体が罪であるといった」などとは言っておらず、「神殿(現体制を象徴するもの)を壮大にすることは、神を賛美し神に仕える行為」だが、それが貧者を搾取するものならば「神の意志に反する=罪」である、ということを言っているに過ぎません。

ape へえ。「過ぎません」ですか。では次の文章をどう弁護されますか。

「すなわち、神の戒命(律法)に、一点一画もおろそかにせず絶対的に従うこと自体が、神を信じないこと(すなわち神に従わないこと)になる、という考え方である。」(角川文庫版、100ページ)

*神に対する信仰(=絶対服従)は、神殿を壮大にしたり戒名を守ることで表されますが、しかしそれが民を搾取するものであったり、民に対する哀れみやいつくしみを欠くものであっては、逆にそれは神の意志に反することになりますよ、といっているのです。つまり、神を賛美する行為や戒名にも軽重(?)があって、キリスト教では「汝の隣人を愛せよ」を最も重要視(十戒一とともに)しているのです。
新約聖書「ガラテヤ人への手紙」5:11には次のように書かれています。〈律法の全体は、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」という一語をもって全うされるのです。〉

ミカが言ったことは、おそらく、イエスがパリサイ派を批判した論理と同じというよりその原型なのではないでしょうか。
〈忌わしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。あなたがたは、はっか、いのんど、クミンなどの十分の一を納めているが、律法の中ではるかに重要なもの、すなわち正義もあわれみも誠実もおろそかにしているのです。これこそしなければならないことです。ただし、他のほうもおろそかにしてはいけません。(マタイ23:23)〉
こうした考え方が「人間には真の義すなわち絶対的無謬はありえない」という考え方につながり、従って「全員一致して正しいとすることは、全員が一致して誤っていることになるはず」という考え方にもなるのです。(そんな国がありますよね)

> また、(二)については、ベンダサンが、「全員一致の議決は無効」の論を一般論化しているとの指摘で、そう理解される書き方をしているのは事実ですが、もともとこれは「イエスの死刑判決が全員一致でなされたとの記述が聖書(マルコ、マタイ福音書=筆者)にあるのは、聖書の著者達(ユダヤ人でありキリスト教徒であった)が、当時『全員一致』で処刑するのは違法だと言うことを知っていて、この判決は違法だと言いたかったのだろう」という記述のなかでなされているものなのです。

ape 違います。まるで逆です。偽ユダヤ人はまず「いわばもう血となり肉となって」いるというミカ的発想の「一例として、表題にかかげたサンヘドリンの規定」、すなわち「全員一致の審判は無効」という「規定のことをお話しよう」と述べたうえでイエスの裁判について言及したのです。ですから議論の大枠は「サンヘドリンの規定」であり、それについて語るためのよすがとしてイエスの裁判を引き合いに出したに過ぎません。だいたい、あの章からイエスについての言及をすべて削除してもその趣旨は変わりませんが、「全員一致の審決は無効」を削除したらあの章全体が成立しなくなるじゃないですか。

*「お話しよう」の前には全員一致の審判は無効という文章は出てきませんよ。もっとも章題は別ですが。議論の大枠は「サンヘドリンの規定」ではなく「ミカ的発想」で(だからミカの話が最初に出てくる)、そこから、イエスの死刑が全員一致でなされたと聖書(マタイ27:1、マルコ14:64)に書いてあるのは、初代キリスト教徒(ユダヤ人)が、これは違法だと言いたかったからだろう、とというベンダサンの話につながっているのです。
また、仮に「全員一致の審決は無効」を削除したら、それはapemanさんはお困りでしょうが、それを削除しても章全体が成立しなくなるということはありません。この章の主題は「人間には真の義すなわち絶対的無謬はありえない」ということですから。だから本筋でないところに噛みついても意味はないと言っているのです。「全員一致・・・」が章題に選ばれているのは、日本人が全員一致を疑う発想を全く持っていないから、それとの対比上選ばれたわけで、この章の論述の落としどころは「人間には真の義すなわち絶対的無謬はありえない」なのです。
だって、裁判の議決ルールだけに固執すれば、解釈の仕方はいろいろあるでしょうし、時代によっても変わる。まさに浅見氏が蘊蓄を傾けて解説しているようなことになるのではありませんか。そんな議論専門家以外だれができます?まただれが関心を持ちます?この本はそういう専門家を対象にした学術論文ではないのです。私のような一般庶民を相手にしたエッセイであり、「なるほど、おもしろい発想だ」と参考にしてもらえばいい、というものなのです。そこから、さらに専門的に勉強する人も出てくるわけで、それでいいのではないでしょうか。私は、こうしたベンダサンの指摘を面白いと思う人が多かったからこそ、この本は売れたのだと思います。またapemanさん達の努力にもかかわらず、売れ続けると思いますよ。

>従って、その本旨は「人間には真の義すなわち絶対的無謬はありえない」という考え方がユダヤ人の血や肉になっている、ということを言っているのであって、私はこれ自体は間違いではないと思います。

ape 「人間には真の義すなわち絶対的無謬はありえない」という発想から「全員一致の審決は無効」は必然的に帰結しません。しかし偽ユダヤ人は「人間には真の義すなわち絶対的無謬はありえない」ではなく「全員一致の審決は無効」を章のタイトルに選んだのです。

*ここがapemanさんの解釈ポイントだと思いますが、私はapemanさんの理解不足だと思います。後段の論述は意味不明ですね。

>これについては浅見氏は「ああそうですか」と二度”切り捨て”ているだけです。

ape 実につまらない嘘をつきますねw

*私が所有している『にせユダヤ人・・・』は朝日新聞社刊単行本1984.1.30第三刷です。そのp61及びp62に「ああそうですか」が二度出てきます。書き換えたんでしょうかね?どうでもいいですけど。

>それにしても、タルムードを参照できる人はほとんどいないはずなのに、サンヘドリンの規定解釈に関する議論をよくやりますね。

ape これはまず山本七平に向かっておっしゃったらどうでしょうか。

山本七平は、私は『日本人とユダヤ人』の著者(著作権者)ではないと繰り返し言っていました。また、この本の記述にはタルムードを縦横に引用できる人でないと書けない部分があり、私には書けないともいっていました。そんなことより、まず自ら顧みることが大切なのではないでしょうか。