総合的学習の行方
(「宮事研」ホームページ過去ログです) 中山文科相、総合的学習の削減検討(2005.1.20)
中山文科相は18日、本県の小林小学校で行われたスクールミーティングの終了後記者団の質問に答え、「国語、数学、理科、社会の基本的な教科をいかに確保するか、総合的な学習の時間や選択教科を含め、もう一度検討し直す必要がある。私は国語と数学にもっと力を注ぐべきで、特に国語の力が全てだと思っている。」として「総合的な学習の時間」の見直しの必要性に言及したと報道されました。(1・19読売)
「ゆとり教育」や「総合的な学習」などの教育施策を支えた基本的な考え方は、それまでの「画一的」「管理主義的」な教育の反省の上に立ったいわゆる「個性主義」教育でした。
こうした考え方に対しては、宮事研40周年記念大会のシンポジウムに講師として招いた市川昭午氏は、次のような批判を一貫して主張していました。
私は、このシンポジウムの前に氏の主張の要旨をまとめ、関係者に配布しました。私としては、こうした問題についても自由に杉谷氏や綾部氏など本県を代表する教師とも議論したかったのですが、「事務研」でこうした教育問題に論究することには強い抵抗があり、断念せざるを得ませんでした。
そこで、その時まとめたものを、市川昭午氏の主張の要旨を何回かに分けてこの機会に紹介しておきます。
(市川昭午「未来形の教育」より)
1「学校改善の基本的考え方」
(1)個性主義による学校教育改革の帰結
・ なぜ個性主義が今日の教育改革原理となったか。それは、平等主義を貫きつつしかも画一主義といわれる批判を回避し、「能力と適性」に応じた多様な教育の実現を図るためである。
・ しかし、学校教育は、本来、国民国家の形成者の育成を目的とするものであり、均質的な集団を対象に定型的な教育をするものであって、個性的能力の伸張を目指す個性化教育とは本質的に矛盾する。
・ 結局、個性主義による学校教育改革は極めて不徹底な形に終わらざるを得ないであろう。つまり、基礎学力の低下や社会性を持たない子供たちの増大等といった問題に直面せざるを得ないからである。
・ また、個性主義に基づく教育改革には、そうした多様化された教育に対応するだけの人的・財的条件の裏付けが必要である。しかし、今日の財政事情下ではそれはできず教職員の過重負担を招きやすい。
(2)略
「総合的な学習」の見直し2(2005.1.20)
(3)「生きる力」について
これからの時代における「生きる力」を育むために必要とされるのは、楽しい学校や優しい教育ではなく、むしろ厳しい教育や苦しい訓練であろう。しかし、それが実施される見込みが乏しい以上、「生きる力」の育成を学校教育に期待することは難しい。
(4)「ゆとり」について
学校は、昔に比べて空間的・経済的な環境に恵まれているが、時間的な「ゆとり」については、週5日制の実施で授業時数が減る上に、情報、国際理解、環境、福祉、ボランティア、自然体験など新たな学習課題も出てきて忙しくなる一方である。
(5)「いじめ」について
いじめの原因は、学校教育だけではなく、家庭や地域、マスコミなどを含め社会全体で考えるべき問題である。幼児期からの自己抑制の不足や家庭崩壊などによる温かい人間関係の欠如、規範意識の弛緩などがその主な原因と考えられる。
しかし、いじめ問題については、それを根絶できると考えるより、むしろ、いじめをしのぐ教育、単純ないじめに耐えられる教育も大切である。一方、犯罪行為に等しいいじめや暴力には厳正に対処することが必要である。
そのためには、いじめに対処する具体的な基準を行政当局が作成し専門の職員を配置して対応したり、これらの問題に専門的に対処する教育機関を設置することなどが必要である。要するに「社会で許されないことは子供にも許されない」という規範意識を持たせることが大切である。
「総合的な学習」の見直し3(2005.1.20)
(6)「総合的な学習」について
新学習指導要領では、教科、道徳、特別活動、総合学習の4本立てになっている。教科には系統性や客体性を、総合学習には総合性や主体性を重視し、教科学習の欠陥を補わせるとしている。
しかし、教科学習と総合学習は相互に移行できる存在であり両者の違いは相対的なものにすぎない。これからいっても総合的な学習の時間を従来の三領域とは別に新たに創設する理由は乏しい。
ではなぜ総合学習が導入されたか。それは、一方では授業時間が大幅に削減される中で、他方においては、国際化や情報化など社会の変化に主体的に対応する能力の育成という社会的要請がありそれにに答えるためである。
「総合的な学習」の試みがうまくいかないのは、それがいうは易くして実行が極めて困難だからである。指導上の困難性だけでなく、総合的な学習ができる教員がいないことや児童生徒の資質能力も関係している。
歴史的に見ると、我が国では30周年周期で教科主義と総合主義が交代してきたといわれる。これから見ると、我が国における総合主義や児童中心主義もやがては教科主義や学問中心主義に代わることが予測される。
「総合的な学習」の見直し4
2 教育改革の基本動向
・ 教育の基本目的は、教育基本法の第一条に「人格の完成」と「国民の育成」となっているが、この根幹部分は今後も変わらないだろう。また、義務教育の達成目標といえる学校教育法36条の規定も普遍性を有するものである。
・ 学校教育の画一性が批判され、個性化教育の名目で学習内容の多様化が進められているが、特に義務教育では基礎学力や一定水準の教養、社会性を身につける必要がある。その意味では学習内容のヨコの弾力化より、学習時間のタテの弾力化が図られる 必要がある。つまり、我が国の極端な年齢主義からの脱却が必要である。
・ もちろん、原級留め置きという措置より、できる限り教育条件整備による学力補強措置で対処することが望ましい。そのため、個別指導や補習教育の強化、グループ別指導、習熟度別学級編成などの教育条件整備をはかる必要がある。
・ 人生の到達目標としては、近年の中教審答申のなかでは「自己実現」が最も重視されているが、それは自己を絶対の基準とする個人主義や快楽主義にもつながる。大切なことは、それが利己主義に陥らない健全な市民意識につながることである。
・ 生き甲斐とは、一般に他の人に何かに役に立つことであるが、普通それは仕事を通じて達成される。特に我が国ではそれによって自己実現が図られると考えられてきた。このように、生き甲斐は仕事を通してもたらされるが、学習も又仕事と不可分の関係にある。
・ 世の中には経験によってしか学べないもの、仕事を通じてよりよく学べるものがたくさんある。人間の弱さへの理解や皆で協力し合うことの大切さなどがそれである。それが学校教育の「知」への偏りを是正してくれる。
・ また、仕事に生き甲斐を感じることができるためには、経済活動が見通し可能であることが重要なファクターであり、そのためには経済規模の縮小や経済活動団がコミュニティ機能を持つことが望ましい。
・ つまり、仕事は生きるための手段に止まらず、人々が個性を発揮したり、自己実現を図る機会でもあるのである。さらに、仕事は人々を結びつけるの骨組みであり、社会への寄与を可能にしてくれる。逆に言うなら、自己実現がそれだけで社会性を持ち得なかったのは、それが仕事を媒介としていなかったからである。
・ したがって、われわれはいっそう多くの人々が仕事に生き甲斐を見いだせるようにし、仕事を通じて有益な学習ができるような社会をめざすべきであろう。全ての人々が一生涯好きな仕事に打ち込め、社会需要を充足するような活動ができる生涯仕事/活動社会の実現こそが教育改革の到達目標である。
「総合的学習」の見直し5(2005.1.22)
「ゆとり教育」もう一つのねらい
最近の事務研究大会における文部科学省の行政説明で、「学力向上」が強調されていることについて、疑問を呈する声をよく聞きます。
「教育課程は、教えるべき最低です。現場の教師の裁量でそれ以上を教えても良い。」と文科省は平然という。あたかも、「学力低下」は、文部科学省の責任ではなく、現場の教師の責任である、といっているかのようだと。
しかし、文科省は、必ずしも態度をコロッと変えたわけでもないのかもしれません。市川昭午氏は、この点について次のような指摘を行っています。
「生徒を詰め込み教育の苦しみから救出するというのは多分に建前である。本当のところは、資質と意欲のある生徒には能力を最大限に伸ばしてもらう一方、資質と意欲に乏しい生徒にはそれほど無理をしてもらう必要はないということであろう」(教職研修03’12p116)
「つまり、できん者はできんままで結構。戦後50年、落ちこぼれの底辺を上げることばかりに注いできた労力を、できる者を限りなく伸ばすことに振り向ける。100人に1人でいい。やがて彼らが国を引っ張っていきます。・・・それがゆとり教育の本当の目的。エリート教育とは言いにくい時代だから、回りくどく言っただけの話だ」(教育課程審議会会長として新しい学習指導要領の改訂にあたった三浦朱門氏の言葉)
文科省が「指導要領は最低基準」というのは、本心では方向転換とは思っていないからなのではないでしょうか。
「総合的な学習」の見直し6(2005.1.22)
このように「総合的学習」の見直し、「学殖向上」、「ゆとり教育」の本当のねらい、と見てくると、これらが今後どうつながって行くのか、おおよその見当をつけることができます。
それは、まず、「総合的学習の時間」と教科教育との関連性を明確にすること、つまり、「総合的学習の時間」を基本的には「教科補充的」に活用することとして、これを、発展的学習、授業前準備学習(100ます計算や朝読など)、ドリル定着学習、学習遅延児の補強学習、習熟度別学習など多様な学習集団を編成し、それに必要なスタッフを配置してその実を上げていくという方向です。
ここで注意すべきことは、特に義務教育段階における普通教育においては、これを一部のエリート養成という偏った目的で行うのではなく、教育基本法にいう一人ひとりの「人格の完成」と「望ましい国民の育成」を目指して、「教育の機会均等」の理念をふまえ、児童生徒の資質やその他の条件に対応したより良い教育環境を整えていくということでしょう。
「総合的な学習」の見直し7(2005.1.22)
また、 市川昭午氏は、最近の政府や産業界から打ち出されて来ている教育改革案とその背後にある考え方について「宮事研40周年記念大会」におけるシンポジウムで次のように述べています。
「最近の政府や産業界から打ち出されて来ている教育改革案は、そのほとんどが新自由主義的な考え方に基づいて市場原理を導入し、教育の効率を上げようというものです。しかし、自由化して競争させれば学校教育が達成するという保障は必ずしもありません。
この市場主義的な教育改革の問題点は学校教育を消費者に対するサービス商品としてみていることです。確かに学校教育にはそういった面がないわけではありませんが、通常のサービス商品とは性格が違います。それは児童生徒や保護者が購入するものが出来上がった商品ではないということです。
つまり出来上がったサービスがあってそれを住民に売ると言うものではなくて、やはり児童生徒、教職員、保護者、地域住民、教育委員会職員などによって日々作られていくものだと思います。
であればこそ教職員だけでなくクラスメイト、学校の環境などが重要になってきます。学級規模の問題でも学校規模の問題でも全て児童生徒と教職員の間で成り立っているように考えますが、そうではなくて児童生徒同士が非常に大事ですし、保護者や住民との関係も大事です。
つまり、生産者と消費者の関係ではなくて学校教育は関係者が共同して作っていくものです。共同制作者として参加していくことが大事だと考えます。住民の連帯と協力による自前の学校作りを各自治体で行っていくことが重要です。」
「総合的な学習」の見直し8(2005.1.22)
また、市川氏は、シンポジウムのまとめで次のようにいっています。
「先ほど公教育は何かということが出てきましたが、私は3つの要素からできていると思います。1つはいうまでもなく公共のお金で経費を負担していることです。2つ目は誰にでも開かれていることです。3つ目は共通したことを学ぶということです。
私立学校にも開かれた学校がありますが、そこに住んでいる住民の子女が全て共通して学ぶことはありません。公立学校でも高校や大学は公費で負担され開かれているけども共通ではない、そこで学ぶ人もいれば学ばない人もいる。
ところが公立義務教育学校は、これこそ公教育の中核だと思いますが、その特徴はそこに住んでいる全ての子どもが同じ学校で学ぶところにあると思います。
いまや行政改革によって公教育の中核である公立義務教育学校の公共性、共通性が危機に瀕していることは非常に重要な問題です。
学校経営の可能性を考えていく場合、可能性は大きくなっていますが同時にその学校は公教育の本質を維持したものであるべきです。あくまでも公立義務教育学校の本当の存在理由を守りながらその経営について考え、経営の余地を拡大していくことが我々に求められていると思います。」
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