教育委員会制度論改革論

「教育委員会を腐敗させたのは誰か」寺脇研氏の主張について

2008年8月12日 (火)

 ここで、「大分県教員採用汚職事件」に関して、『中央公論』に元文部官僚(現京都造形芸術大学芸術学部教授)の寺脇研氏が、「教育委員会を腐敗させたのは誰か」という対談記事を載せていますので、この問題について、簡単に私見を申し述べておきたいと思います。

 寺脇氏は「教員出身者だけに任せてはダメだ」という冒頭の小見出しで次のように述べています。

 まず、「大分県教委の”体質”に問題がありました。大分県教委は、教育委員会生え抜きの職員が出世できず、課長以上の上級職を『教員出身者』と『教育現場をよく知らない県庁からの出向者』が固めているという悪い教育委員会のまさに典型例です。しかも、トップの教育長まで知事部局から来た人でしたので、教育について詳しくなかった。自分が詳しくなければ、『じゃあ、教員出身でナンバー2の富松審議官よろしく頼みます』となる。こうして不正につながりました。」

 これに対して、「教育の実情をよく知らない県庁からの出向者ばかりが幹部になるのは問題だと思いますが、現場をもっともよく知るはずの教員出身者に幹部を任せるのが、なぜいけないのでしょうか。」という質問に対し、寺脇氏は、その理由は「彼らが『教員ギルド社会』を作っているからです。」と次のようにいっています。

 「この『教員ギルド社会』のルーツを知るには、戦前の教育制度まで遡る必要があります。戦前は、教員人事だけでなく、教員免許の交付も各都道府県の管轄でした。つまり、教員になるには、唯一の教員養成機関である県の師範学校を出なくてはいけなかった。すると何が起きたか。『学閥』ができたんです。師範学校の先輩・後輩関係とその身内のつながりで、採用や校長・教頭への昇進といった教員人事が決まるようになった。」

 今は全国統一の免許制度になり(問題点1)、他県の大学卒業者も教員として働くようになったので、おおっぴらな『学閥人事』はできなくなっているが、こうした教員同士の「馴れ合い体質」は変わらない。だから、教育委員会は組織としてこれをチェックする機能を作らないといけない、というのです。組合と教育委員会が対立しているところではこうしたチェックが働きます、と。(問題点2)

 また、こうした「馴れ合い体質」が疑われる県としては、第一に旧師範学校の支配体制が残っている「田舎」が危ない。それから、教員組合と教育委員会が癒着している都道府県が危ない。だが、大分のように「お金が動く」というのはレアケースで、普通は「お金」ではなく県会議員や地域のボスからの「圧力」が多い。また、権力者に覚えめでたくなるためには、それまで盆、暮、正月の挨拶をはじめ、雑巾がけのようなことをし尽くさなければならない。だからお金は動いていないといっても、そうした「不正につながっている構造」を見逃してはいけない、といいます。

  そして結論としては、「結局、問題の本質は、教員や政治家たちが、国民のために働くという世界に身を置きながら、教育を受ける側の事を誰も考えていなくて、仲間内の論理だけで動いているということです。日本という社会は、昔はすべてそうして成り立っていたともいえます。建設業界に限らず、日本全体が巨大談合社会でした。しかし、それがどんどん暴かれて、今は入札談合はできなくなりました。教育は「最後の聖域」・・・ということではないでしょうか。」

 この意見に対して、そんな不正の温床になるくらいなら、教育委員会制度そのものを廃止すべきという声もありますが、という質問が投げかけられていますが、これに対しては次のように答えています。

 「そもそも教育委員会制度は、戦後になって,戦前の教育制度の反省から、『政治からの独立』と『教員ギルド社会の解体』を目的に導入されたシステムです。それがうまくいっていないわけですが、単純に『では廃止します』では状況はさらに悪化します。ですから本来の目的に近づくよう教育委員会の立て直しに努めるべきだと思いますね。」

 そして、そのためには、教育委員の公選制を復活させるのも一つの手段です。では、なぜこの制度が廃止されたかというと五十五年体制下の政党の(イデオロギー対立の)影響を免れなかったからで、それが崩れた今ならうまく機能するのではないか。つまり、今回の事件は教育委員会を改革するチャンスで、事務局をきちんとチェックできる教育委員を選び、事務局には国や他県からの外部人材を入れててみるといい。

 以上が寺脇研氏の主張です。

 そこで私見ですが、寺脇研氏といえば、「ゆとり教育」で文科省のスポークスマン的役割を果たした人で、現在、中教審でその見直しが進められていますが、氏自身は「それでもゆとり教育は間違っていない」とがんばっています。しかし、私は、現在、教育再生会議のメンバーにもなっている陰山英男氏の「学力の基礎は読み書き計算にある」「揺るぎなき基礎の上に総合的学習は可能となる」という考えの方が、教育実践に裏打ちされていて説得力があると思います。

 寺脇研氏は、こうしたキャリヤのほかに映画評論家としての肩書きも持っていて、wikipediaには「2004年に文化庁が主催して韓国で開催されたイベント「日本映画:愛と青春」(1965年から1998年に発表された日本映画46本を上映したもの)は、文化庁に在職していた寺脇が中心となって進めた企画だといわれているが、黒澤、小津ら、巨匠と呼ばれる監督の作品を敢えて排し、日活ロマンポルノに属する作品を入れるというラインナップが物議をかもした」と紹介されてます。

 きっと、こうした多彩な能力と、高校卒業(ラ・サール)の時の答辞「私はこの学校のことを懐かしく思い出すことは、これから先ないだろうと思います。なぜなら、ずいぶん多くの友人がこの学校の体質についてこれずに、途中でドロップアウトをし、去っていかなければならなかったからです。彼らのことを考えると、とても懐かしい母校などとは言えません」に見られるような氏の「反骨精神」が、彼の「ゆとり教育論」を支えていたのではないでしょうか。

 さて、氏の教育委員制度改革論についてですが、私はおおむね当たっていると思いますが、いくつか問題点もあります。その第一は、「今は全国統一の免許制度になり」という部分ですが、これはあまり正しくない。教員免許は現在も都道府県教育委員会が出すようになっていて、全国統一になっているのは各免許取得に必要な単位が示されているだけです。そして、その単位取得はそのための講座を持つ大学、短大に任されていて、その免許によって保証される全国統一の「資格水準」が確保されているとは、とてもいえないからです。

 その意味では、確かに戦後の教員免許制度における「開放制」は、戦前の師範学校制度の弊害とされた「学閥」の弊は免れているとは思いますが、それに代わる「教員の専門的資格水準の維持」という点では、むしろ後退していると思います。最近の教育改革提言の中には、今なお根強く残る教育界の「閉鎖的体質」を打ち破るため、社会人の登用枠の拡大等が掲げられていますが、これが容易に進まないのは、むしろ現在の免許制度に原因があります。というのは、これがあてにならないため、各都道府県における採用試験がそれに代わるものとなっているからです。

 つまり、あまりにも教員免許によって保証される能力資質の水準が不明確だということで、むしろ、これを全国統一の資格試験として、一切の学歴要件を排して受験可能とした方が、より公平で開かれたものとなり、戦後改革の趣旨にもあっているのではないかということです。そうすれば、採用試験には、その資格を得て教師としての能力を保証された者のみが受験することになりますので、採用試験のウェイトも軽くなり、今問題となっている教員採用試験の中核都市等への委譲も容易になってきます。(いまのところどこからもそんな意見は聞きませんが)

 第二は、「組合と教育委員会が対立しているところではこうしたチェックが働きます。」というところです。そもそもこうした対立関係は、55年体制下の東西イデオロギー対立が「日教組vs文部省」という形で構造化したものです。こうした対立構造に対応するために、政府は、戦後の「教育委員会法」(s23)を抜本的に改正し、現在の「地方教育行政の組織及び運営に関す法律」(略称「地教行法」)(s31)に代えたのです。その要諦は、地教委(市町村教育委員会)の「ダミー化」でした。そして隙間に「日教組う勢力の掣肘」という役目を担って保守政治家や「地域ボス」が這入り込んだのです。今回明らかになった教員人事への介入はその名残でしょう。

 つまり、寺脇氏の言っていることは、このような自民党の政策が失敗して、組合と教育委員会との対立関係を解消させることができずにそのまま残ったところが、うまくいっていて、逆に失敗したところ、組合と教育委員会が保守系あるいは革新系いずれにしろ一体化し癒着したところはうまくいっていないという”おもしろい”論理になっているのです。氏の反骨性がうかがわれないこともありませんが、より正確な問題の立て方としては、教育委員会を「ダミー」にした「地教行法」を抜本的に改正して、その地域の学校経営機関としての内実を整えるということでしょう。

 氏のいう、教育委員の選任方法の改革や、事務局職員には、国や他県あるいは民間から多彩な人材を登用できるようにするという考え方には賛成です。しかし、そのためには「地教行法」を抜本的に変えるしかないでしょう。また、教員の採用に当たって学閥や馴れ合い人事を排することは勿論のこととして、そのためには、そのより確かな教員資格を担保する全国統一の「教員免許制度」(国家試験)を確立し教職への道を門戸開放するしかないと思います。

 日本の教育界における、これらの伝統的な談合体質の克服のためには、従来曖昧なままに放置されてきた教員資格の水準や、採用・昇進基準を明確なルールに変えることがまず必要であると私は考えます。