教育基本法改正問題について

「天の声」はなぜ知事から出るか

2007年1月27日 (土)

 本稿は、このたびの教育基本法改正の問題点を指摘するために書いてきたわけですが、(その問題点の第一に挙げられるべきものが、教育理念・教育目標を法律に規定して怪しまないということですが)そのポイントは、こうした考え方は、日本人の江戸時代以来の政治的伝統である「治教一致」の考え方にもとづくものではないか、ということを指摘した点にあります。

 この指摘は、本稿の冒頭のエントリー「教育基本法改正の疑問」で紹介したとおり、昭和52年にイザヤ・ベンダサンが教育勅語の問題点を指摘する中で行ったものです。氏は、これを、日本の三教(神・儒・仏)合一論以来の伝統思想である「治教一致」の問題とする一方、戦後、「一国の政治ルールを規定するにすぎない憲法や(教育)基本法が教育の依拠すべき基盤と見なされる」ようになったことを、「明治の教育方針がついに行きつくところまで行きついた」といっています。

 なぜそれが問題なのか、という疑問が出てくると思いますが、それは後回しにして、その前に、この「治教一致」という言葉自体の意味を歴史的に明らかにしておきたいと思います。(もう少し早めにすべきでしたが) これは、徳川時代の代表的知識人新井白石が、宝永5年(1708)に、鎖国時代の禁制を破って屋久島に渡来したイタリア人宣教師シドッチを審問したときのことを書いた『西洋記聞』に現れた考え方です。

 この時、白石は、次のようなシドッチの主張に対して、日本国における「治教一致」の秩序のあり方を主張し、キリスト教の布教を受け入れられないとしました。 シドッチは、「国に入りては、国に従うべし。いかにも其法に違(たが)ふ所あるべからずと候ひしかば、骨肉形骸のごときは、とにもかくにも国法にまかせむ事、いうに及ばず。」といって、キリスト教布教の許可を得ようとしました。

つまり、外面的な行為においてはこの国の法律には全面的に従うので、個人の信仰の問題であるキリスト教の布教は認めてくれ、といったのです。 これに対して白石はそれは絶対に認められないとして次のようにいいました。

 「もし我君の外につかふべき所の大君あり、我父の外につかふべきの大父ありて、其尊きこと、我君父の及ぶところにあらずとせば、家においての二尊、国においての二君ありというのみにはあらず、君をなみし、父をなみすこれより大きなるものなかるべし。たとひ其教とする所、父をなみし、君をなみすることに至らずとも、其流弊の甚だしき、必らず其君を弑し、其父を弑するに至るとも、相かへりみる所あるべからず。」

 つまり、白石は、キリスト教の布教を認めることによって、忠誠の対象が二極化することを恐れたのです。西欧社会は、392年にキリスト教がローマ国教となって以来、いろいろな紆余曲折はありましたが、基本的には「肉の秩序」と「霊の秩序」という分け方をして、つまり世俗の政治的秩序と宗教にもとづく精神的秩序の二者を並立させ、両者の緊張関係に生きることを当然としてきました。

 しかし、そのような考え方を日本に容れれば、必ず「分裂して相争い秩序が崩壊して統治不能になる」と考えたのです。つまり、日本における秩序原理は、組織への忠誠を絶対化するもので、「天を祀ることができるのは天子だけ、臣は君を天として祀り、子は父を天として祀っても、一個人が天に直結してはならない」つまり、「人々は常に自己の属する何らかの組織を天としなければならない」(『受容と排除の軌跡』山本七平p128)という考え方です。(そういえば、知事から「天の声」が出てますよね)

 こうした白石の考え方は、徳川時代の日本人の正統的な考え方となり、それが家庭内の秩序をも支配する原理となり、これが「忠孝一本」(君主に対する忠義と父母に対する孝行とは一体であるという考え方)という水戸学の宗族的・家族主義的国家観に発展したのです。この考え方を端的に表明したものが教育勅語(明治23年)であって、当然の事ながら、そこにおける教育原理は、その国家の首長たる天皇より示されることになりました。

 そして、この時(明治12年、民権思想に対する抑圧を開始して以降、政府は『教学大旨』や『幼学綱要』を示して儒教にもとづく道徳教育を復活しようとした)このような「治教一致」(政治秩序と道徳的教育秩序とが一致するという考え方)の政治的伝統の復活に対して敢然として立ち向かい、両者を切り離すとともに、前者の秩序を、後者の独立自尊の精神に支えられた個人の「最大幸福」をめざす相互契約によるべき、としたのが福沢諭吉でした。

 しかし、福沢諭吉は、一方で、従来の儒教主義にもとづく教育に対して仮借なき批判を加えながら、彼個人の身の処し方としては、その「痩我慢の説」に見るごとく、「数百年養い得たるわが日本武士の気風」=士道をもってその独立自尊の要としていました。

 その矛盾を解くカギは何かというと、実は、彼が批判してやまなかった儒教の「腐敗したる部分」とは、それが政治権力と構造的に癒着することによって生み出される社会の停滞と排他性、それに伴う人間差別(上下貴賎の差別、自由・人権の抑圧)に他ならなかったのです。「治教一致」体制の問題点はここにあります。

 では、福沢諭吉が「士風の維持は万世の要」という「士道」は、どのようにして培われてきたものでしょうか。また、それは中国の儒教、朱子学とはどのような点で違っているのでしょうか。また、その「現実の主従関係から遊離した廉恥節義や三河(戦国!)武士の魂を、私的次元における行動のエネルギーとして、客観的には文明の精神(対内的自由と対外的独立)を推進しようとした」(『忠誠と反逆』丸山真男p57)その精神は、現代の私たちとどのようにかかわっているのでしょうか。

 この問いをもって、「教育基本法改正問題について」のカテゴリーでの議論を一旦閉じたいと思います。