教育基本法改正問題について

教育基本法改正は時代に逆行する

2006年12月14日 (木)

 新聞報道によると、「教育基本法改正案は14日午後、参院特別委員会で自民、公明の与党の賛成多数で可決される見込み」という。自民党内には「民主党案」の良い部分を容れ修正に応じるべきとする意見もあるそうだが、いずれにしろ、会期内成立をめざす方針には変わりはない。

 私は、このブログのエントリーを「教育基本法改正の疑問」から始め、前回のエントリーでは「福沢諭吉の儒教批判1」として、明治がなぜ、それまでの伝統的教育法をバッサリと切り捨てたかということを、福沢諭吉の論に見ようとした。なぜかというと、今回の教育基本法改正でもっとも注目を集めている、改正法案第2条の「我が国の伝統文化を尊重し」の、その「伝統文化」の意味内容を歴史的に把握しておく必要があると思ったからである。

 だが、本法案成立も間近いようなので、この機会に、私自身の体験もふまえて、改正教育基本法についての私見を述べておきたい。

 まず第一に、今回の教育基本法改正法案の内容は、やはり時代に逆行するものではないか、ということである。端的に言って、それは前内閣が推し進めてきた教育改革の基本理念である「教育における地方分権」に逆行し、政治権力による教育内容を含めた中央集権統制に陥る恐れがあるということである。

 というのは、現行教育基本法は、「教育理念法」としての性格と「教育行政施策法」としての性格が入り交じったものであるが、前文および第1条(教育の目的)に述べられた「教育理念」は、全体主義に陥った戦前の教育に対する反省から、教育の目的を特に「個人の人格の完成」においたものであり、第2条(教育の方針)以下の条文は、教育行政の基本政策を述べたものであって、その基本的性格は「教育行政施策法」というべきものである。

 これに対して、今回の改正法案は、こうした現行教育基本法の基本的性格を改め、「教育の目的・理念及び具体的な教育目標」を直接法律に定める「教育理念法」としての性格を明確にしている。 それは、第2条に「教育は・・・次の目標を達成するよう行われるものとする」として20項目を超える教育目標を明示した上で、第16条において、「教育は・・・この法律及び他の法律に定めるところにより行われるべきもの」と規定していることで明らかである。

 つまり、教育条件だけでなく教育内容も含めてすべて政府が権限と責任をもつといっているのである。2007年1月号の『文藝春秋』で吉本隆明が、いじめ自殺予告を「文部大臣が真に受けて、自分が何とかできると思っているなら、お前さん、お門違いだよ」(「いじめ自殺あえて親に問う」)といっているが、その通りであって、責任を取れるというのがお門違いなら、権限があるというのは傲慢という他はない。

 つまり、現政府は、江戸時代以来の日本の教育的伝統である「治教一致」=「徳治主義」的伝統の克服という視点を見失っているのである。「伝統を継承し、新しい文化の創造を目指す」といいながら、その「伝統」がなにかということもわからず、従って、それを創造的に発展させるにはどうしたらいいか、ということも考えられないのである。

 今回の教育基本法改正論議の中で「愛国心」ということが話題になっているが、自分の生まれた国を愛するということは、自分自身を愛することと同様当然のことである。しかし、政治家が教育に関心を持つことは当然であるとしても、「民主制のもとにおいては、政治は、教育の一対象領域である各個人の内的規範の育成にはタッチしない」というのが原則であり、その原則をふまえて、伝統の創造的発展ということを考えるべきなのである。

 そして、そのためには、従来の文科省による過度の中央集権的教育行政制度は改め、地方自治体の教育行政上の権限を拡大し、学校経営の自主性・自律性を確立してその主体的な改善努力を待つことが、どうしても必要なのである。地方自治行政においては、教育行政ほど「おもしろくない」行政はないとされてきたが、それは、なにもかも法律で決まっていて裁量の余地がほとんどなかったからである。

 これを地方自治体・教師・親・地域住民が共同して創りあげる生き生きとした仕事にしていかなければならないのである。それが教育改革の正しい方向であって、現場の教育関係者をさらにロボット化するような法律や政策がうまくいくはずがない。名ばかりの地方分権ではなく、名実そろった学校経営主体をどう確立していくか、それが今日の教育改革で問われていることことなのである。([私の教育再建策]参照)