教育基本法改正問題について日本の伝統的教育法とは
(本稿の論旨を明確にするため、H19.1.21に本稿下半分の記述を大幅に削除・修正・加筆しました。ご了解ください。) 「民主制のもとにおいては、政治は、教育の一対象領域である各個人の内的規範の育成にはタッチしないのが原則である。」といった。それが民主制における思想、信仰の自由ということなのである。つまり、制度としては、各人が内心でどのような規範を持っていようと一切関知しない。ただ、それが、外面的行為として現れたとき初めて、それが法律に違反していないかどうか判断する。それが民主制という制度の基本的な特徴である。 ところが、このことが私たち日本人には十分解っているとは言えない。というのは、日本人は戦後デモクラシーという言葉を民主主義と訳した。しかし、デモクラシーのクラシーという言葉は、アリストクラシー(貴族制)とかセオクラシー(神政制)というようようにあくまで制度を意味する言葉であって主義ではない、従って、「民主制」と訳すのが正しいのではないかと山本七平はいっている。(『宗教について』所収「日本の伝統と教育」p124) つまり、日本人はデモクラシーを民主主義と訳したために、これを制度と考えずに、主義=イズム、つまり、思想あるいは教えと理解した。(マルクシズムはマルクス主義、ブディズムは仏教)そのため、戦後教育においては、民主主義という思想を子供たちに教えられると考えた。教育基本法もその前文で、民主的で文化的な国家の建設は「根本において教育の力に待つべきものである」としているではないかと・・・。 しかし、実際は、デモクラシーという言葉は、あくまで政治制度のことであって、その属性は、法治主義(権力行使は法律で規定している範囲内でしかできない)、法の下の平等(人種、信条、性別、社会的身分、門地などで差別されない)、基本的人権の保障、多数決原理などである。つまり、国家における政治的意志決定の手続きや社会生活における基本的ルールを定めるだけであって、個人の思想・信条はあくまで個人の自由とするのである。 しかし、社会の秩序は法律による外面的規制だけでは維持できない。ということは、この民主制という政治制度は、個人の側に自分自身をコントロールする力=内面的規範があることを前提にしているのある。従って、その内的規範が何もないという人間が出てくると大変困ったことになる。そこで、この個人の内面的規範を子供たちにどう教えるかということが民主制にとっては極めて重要な課題になってくる。 では、このような個人の内面的規範はどのように教えられるか。実はここに、その民族の歴史や文化伝統との関わりが出てくるのである。日本の場合は、前エントリーで述べたように中国文化の圧倒的影響を受けて自国文化を形成してきたために、その内的規範は教育勅語の中段に書かれたような儒教道徳が基本となっている。戦後はこれを封建的と否定し民主主義を教えようとしたが、前述した通り、これはあくまで政治制度であって道徳規範を教えるものではないから、前者に取って代わることはできない。従って無道徳=無規範に陥らざるを得ない。 つまり、戦後教育の問題点は、このように民主主義を政治制度としてではなく思想と理解したために、教育勅語に見られるような「治教一致」の伝統の克服ということに向かわず、教育勅語中段に述べられたような道徳規範を、民主的政治規範(多数決原理や諸自由など)でもって置き換えることができると考えたところにあったのである。しかし、こうした政治規範で内面的規範教育=道徳教育ができるわけがない。また、こうした内面的規範を人々が共有できなければ、お互いの間に信頼関係は生まれない。 「父母に孝に、兄弟に友に、夫婦相和し、朋友相信じ、恭倹己を持し、博愛衆に及ぼし、学を修め業に習い、以て知能を啓発し徳器を成就し、進んで公益を広め世務を開き、常に国憲を重んじ国法に遵い、一旦緩急あれば、義勇公に奉じ・・・」。これは教育勅語中段に述べられた道徳規範であるが、これ自体は決しておかしなものではない。末尾の「義勇公に奉じ」という徳目は、少し前ならやり玉に挙げられたであろうが、最近では「一旦緩急あれば」という事態も生じているからあえて問題にする人も少ないだろう。 では、この教育勅語の真の問題点は何かというと、それは、明治新政府は政治制度としては立憲君主制を導入しながら、道徳規範教育は教育勅語に拠ろうとしたことにあるのである。というのは、この教育勅語の前段には、「万世一系」の天皇を首長とする宗族的・家族主義的国家観が述べられ、その体制を支える道徳規範として中段の道徳規範が位置づけられていたために、結果的に、明治新政府が採用した立憲君主制とこの教育勅語にもとづく家族主義的国家観とが矛盾対立することになったのである。 結局、この家族主義的国家観に基づく「天皇親政」のイメージが、立憲君主制に基づく制限君主のイメージを駆逐することとなって、昭和の超国家主義が生み出されることになった。さらに、それが拡張されて大アジア主義を生み侵略の口実とされた。そして、こうした昭和の悲劇の思想的原因のその一端を担ったものが、実は、教育勅語に見られたような政治権力と道徳教育の癒着という問題、つまり、徳川幕藩体制下の「治教一致」の政治的・教育的伝統にあるのではないか、ということである。 このことは、戦後の教育基本法にもいえることであって、この教育勅語の伝統を引き継ぐ形で、教育理念が教育基本法に明記された。もちろん教育基本法は日本国憲法下に置かれているもので、その民主的政治制度に影響を与えるものではないが、道徳教育問題としては、依然として、先に述べた我が国の「治教一致」の政治的・教育的伝統を受け継ぐものだといえる。そして今回の教育基本法改正は、この伝統を克服するというよりむしろ、これを強化する方向に向かっているのである。 実は、こうした問題を最初に自覚しその克服に身命を賭した人物が、福沢諭吉であった。彼は、徳川幕藩体制下の封建社会から西欧近代社会へと体制転換をはかる明治期において、それまでの支配的体制イデオロギーであった儒教の批判を通して、独立自尊の個人主義原理にもとづく社会体制のあり方や新しい時代の道徳教育のあり方を説いた。しかし、その論説は社会的無規範をもたらすものとして厳しい批判も受けたという。そこで、以下、福沢諭吉の思想を確かめることにしたい。(「福沢諭吉の儒教批判」へ) |