教育基本法改正問題について

「治教一致」という日本の伝統

2006年12月 2日 (土)

 前回述べたように、明治の天皇を中心とする一元的国家体制は、忠孝一本という宗族的・家族主義的国家観に立つことによって、「治教(政治と道徳教育)一致」の国家体制を構築することに成功した。こうして、全日本人が平等に遵守すべき道徳的基準(=教育勅語)が、宗家の家長たる天皇=政治的最高権力者より示されるということに誰も疑問を感じなくなってしまった。

 このため、教育勅語以降の日本人には、「教育が、二国もしくは数国を共通する同一の聖典下にあるという状態は、理解できない状態になってしまった。通常、一つの文化圏は、その文化圏に共通する教育の原理をもち、従ってそれに育てられた者は、共通でないまでも相互に理解可能な道徳的規範及び価値を持ちうる。だが、教育勅語とか一国の基本法とかを教育が依拠すべき基盤とするなら、その民族は一種の自閉症とならざるを得なくなるであろう。」(「『教育勅語』と日本人」イザヤ・ベンダサン『諸君』1975-4)

  ただ、この教育勅語の中段に述べられた道徳律は決しておかしなものではなく、今日の世情を考えれば、こうした伝統的規範を喪失したことがその混乱の原因と考えるひとが出てきても不思議ではない。それは、次のようなものである。「父母に孝に、兄弟に友に、夫婦相和し、朋友相信じ、恭倹己を持し、博愛衆に及ぼし、学を修め業に習い、以て知能を啓発し徳器を成就し、進んで公益を広め世務を開き、常に国憲を重んじ国法に遵い、一旦緩急あれば、義勇公に奉じ・・・」

 したがって、「たとえばこの日本文を消して英文だけにし、文体を少し変え、最初の部分(爾臣民)を「わが同志よ」とでもかえて、毛沢東(でもだれでもよい、そういった人物)の訓示の英訳だと称して何かの雑誌に掲載し、その雑誌が日本の新聞社の手に入って和訳されたとしたら・・・教育の原則として早速にこれを採用する進歩的人士も現れることであろう。」(上掲論文)

 つまり、問題は、その内容にあるのではなく、たとえそこで述べられた理念や徳性が普遍的と思われるものであっても、それが一国の政治的最高権力者が発する勅令や法律に規定されるということになると、それは自己を律する内面的規範ではなくなってしまう、ということなのである。教育勅語自体は法令ではなく「単なる天皇の個人的著作物」のような扱いだったが、それでも、礼拝・奉読が強制されその独善的な国体観念が押しつけられることになった。

 この問題点が象徴的に現れたのが、実は、美濃部達吉の「天皇機関説」問題である。この問題は、基本的には、明治憲法下における天皇の位置づけ方について、それを教育勅語に述べられた宗族的・家族的国家観(=国体観念)に基づくものか、それとも西欧の立憲君主制(=制限君主制)に基づくものかをめぐって争われたものである。結果的には、学界の通説は機関説であったにもかかわらず、前者が後者を圧倒することになった。

 この時、美濃部達吉は、政治制度(=機関)としての天皇の位置づけ方については、立憲君主制にもとづく明治憲法のもとでは一つの機関(=制度)と見るべしとして揺るがなかった。しかし、教育の基準を示す教育勅語を発布した天皇の位置づけ方については、機関説問題で検察の尋問を受けていたときの応答において、次のような狼狽を見せ自説の訂正をしたとされる。(『天皇と東大』下2005.12立花隆P171)

 美濃部達吉の天皇機関説によると、全て天皇の行為は輔弼者の助言によって行い輔弼者がその責任をとることになっているから、通常の国務批判だけでなく詔勅批判も許されるとなっていた。そこで、美濃部が不敬罪で司法省から告発されていた昭和10年9月14日、検事局で美濃部の取り調べが行われたとき、検事からこの点を指摘され、詔勅批判はできないとする説を紹介されると、「それは俗説だ、そんなばかなことは絶対ありません」と言い張ったという。

 ところが、午後になって調書を取ろうとして何か午前中の調べで訂正することはないかと問うと、「汗をふきながらなかなかおっしゃらない・・・何を言われるのだろうと思っていますと、『実は午前中申し上げたことに関してちょっと間違ったことをいっているから訂正したい』、『どういうことですか』、『政治、経済、軍事、外交といったようなものに関する詔勅は批判してもいいが、国民の風教、道徳に関する詔勅に対して臣民の分として絶対に批判を許さないのだということにご訂正願いたい』」

 つまり、政治制度の問題としては、天皇であっても立憲君主制にもとづく明治憲法下に置かれるとしたが、教育基準(=教育勅語)の発布権を有する天皇の位置づけ方については、それを憲法ではなく、教育勅語に盛られたような伝統思想に基づかざるを得ないことを認めたのである。しかし、こうして教育勅語を憲法外のものとして認めてしまえば、結果的に、そこに盛られた国家観(=宗族的・家族主義的国家観)も認めたことになる。

 山本七平は、明治が、この二つの国家観の矛盾に思想的な決着をつけることができなかったことが、昭和の悲劇をもたらす思想的原因となったといっている。確かに、明治新政府は、その欧化政策に不満を持つ勢力を西南戦争で政治的に抹殺したが、しかし、思想的には教育勅語に盛られた天皇を宗主とする家族主義的国家観は生き残り、これが、明治維新の不徹底をやり直して天皇親政の国体を顕現しようとする国体明澄運動→昭和維新へとつながっていった。

 こう見てくると、教育勅語の問題点は、そこに盛られた徳目はもっともであるとしても、その権威を政治的最高権力者=天皇に置いたことが、教育と政治の混交を招き昭和の悲劇をもたらしたと言わざるを得ない。それが、暴力による言論の圧殺となり、そのため、先に述べたような二つの国家観を思想的に止揚する思想的営為を不可能にしたのである。

 ここで、明治維新そのものの思想史的意味を明らかにしておかなければならない。というのは、昭和維新のモデルとなった明治維新とは何であったということが判らないと、その後の昭和が判らなくなってしまうからである。   実は、明治維新とは、中国型の皇帝(日本では天皇にあたる)による一元的政治支配体制の構築を目指す一大思想革命だったのである。そこで次に、その歴史的・思想的経緯を概略紹介しておく。

  これは、徳川幕府成立後、当初は体制の学として導入された朱子学が、山崎闇斉の崎門学(きもんがく)を経て中国の皇帝中心の一元的国家体制を理想とする国家観を生みだしたことに始まる。そしてこれが、幕末の攘夷論の高まりの中で、中国化に対する反動として生まれた国学思想と弁証法的に結びついたことで、朝幕併存の国家体制を批判し天皇親政の国家を打ち立てようとする尊皇攘夷運動へと発展していった、というものである。(『現人神の創作者たち』S58参照)

   といっても、徳川幕府自体は朱子学を、あくまで修身、斉家、治国、平天下という儒教思想に基づく「治教一致」の体制の学として導入・維持しようした。あるいは、それが天皇を権威づけるおそれがあるとしても、幕府の将軍職はその天皇の権威によって任命されるもの(征夷大将軍)としたため、その真の危険性を察知することができなかった。こうして体制の学としての朱子学は水戸学に発展し、その思想が尊皇倒幕運動となりそれが明治維新へとつながっていったのである。そしてその新しい体制思想が教育勅語に結晶化した。(『受容と排除の軌跡』S53参照)

 今日の教育基本法改正において、我が国の伝統文化の尊重ということが強調されているが、その伝統文化とは、以上のような歴史的・思想的過程を経て形成されてきたものなのである。従って、今日大切なことは、それに対する漠然たる希望に賭けることではなく、以上述べたような民族の伝統の歴史的形成過程をふまえて、その伝統思想の欠点を克服し長所を生かす工夫をすることである。

 従って、もし、こうした観点から日本の教育的伝統の発展の方向性を探るとすれば、その第一の課題は、明治がその決着を先送りにしてきた、二つの国家観の衝突、その中で露呈した「治教一致」の問題点をいかに克服するかということになるのではないか。このことは戦後の日本国憲法下の民主主義政治体制のもとでは、すでに解決済みとする意見もあるだろうが、今回の教育基本法改正論議を見る限り、この問題はいまだ未解決といわざるを得ない。

  政治家の有する国家統治の手段として、教育の理念や目的さらに具体的な教育目標まで法律に規定することは、再び「治教一致」による思想の閉塞化・独善化をもたらさないとも限らない。民主制のもとにおいては、政治は、教育の一対象領域である各個人の内的規範の育成にタッチしないのが原則である。つまり、ここでは、民族の伝統思想がもつそれ自身の創造力が試されているのである。

   最近の自民党の、郵政民営化をめぐる権力闘争に敗れ除名された議員の党籍回復をめぐるやり取りを見るにつけ、政治家の行動規範は、教育における内的規範の育成にとって決して有益なものではないと確信されるのである。