福沢諭吉の儒教批判と武士道

「徳教」は「自主独立」が前提

2007年1月14日 (日)

 福沢の儒教批判の主たる論点は、明治維新以降の開国・欧化の流れの中で、かっての徳川幕藩体制下における儒教主義の旧き「因習に対する合理、差別に対する平等、束縛に対する自由、服従に対する独立、人性をその自然のままに解き放つこと」(『福沢諭吉』小泉信三p200)を主張するものでした。 

  従って、この際、徳教の働きがなくなるというわけではないけれども、自ずからそれを今日の時代に合ったものに変える必要がある。つまり、過去の徳教が、君臣夫子夫婦長幼各二者間の相互依存関係に立っていたものを、「先づ我一身を独立せしめ、我一身を重んじて、自らその身を金玉視し、以て他の関係を維持して人事の秩序を保つ可し」というわけです。

 そして、そのように一身独立すれば、目を転じて他人の独立を勧め、遂に同国人と共に一国の独立を謀ることも自然の流れとなる。また、父母につかえることも、夫婦の倫も、長幼の序も、また朋友の信もここからその適切な秩序を整えることができる。

 「故に、我輩に於いては、今世の教育論者が古来の(儒教)教典を徳育の用に供せんとするを咎(とがめ)るには非ざれども、その教書の働きを自然に任して正に今の公儀世論に適せしめ、その働きの達すべき部分にのみ働きを逞(たくまし)ふせしめんと欲する者なり。」というのです。(『福沢諭吉全集』第5巻「徳育如何」p363)

 問題は、このような諭吉のいう「独立自尊」の精神と、従来の儒教倫理とがどのように「自然に」結びつくことができるかということですが、これは、諭吉自身の人格の中に見事に統合されていたというほかありません。それを物語る次のような話が残されています。(『福沢諭吉全集』第15巻p396)

 これは、明治11年1月20日、亡父(福沢百助)の友中村栗園が諭吉に手紙を書いて、もし諭吉が儒教の「孝悌の道」を重しとしないなら、それは亡父の意志に背くものだといったことに対し、亡父の「言行が果して儒ならば、生(諭吉)はすなわち儒の道を信じて疑はざる者なり」と答書した上で、その10日あまり後「福沢氏古銭配分の記」を書いて6人の子女に示したというものです。

 「福沢の父百助は、大阪在勤中古銭を集めて楽しみとした。或る日、銭差しにさした穴銅銭の中から珍しいと思うもの幾文ずつを選び出して取り、他を元の如く銭差しにさして、忘れてそのまま外出した。然るに、家人はそれを知らず、その銭差しを不足なきものと思って、偶々売りに来た魚屋に魚の代金として払ってしまった。当時大阪の慣習で、売買にいちいち銭の枚数を数えることせず、銭差しの凡その長さによって授受してあやしまぬ風であったから、こういうことにもなったのであるという。あとでこのことを知った百助は、大いに驚き、そのままでは済まされずと、人を雇って百方その魚屋を捜索させ、両三日してその本人を見出して、これに不足金の銭若干を払い、さらにまた煩労を謝するためにと若干の銭をそのものに与えて、不注意の罪を謝した、というのである。

 福沢は母からきいたままに、この父の逸話をさらにその子等に語る。福沢の手許には亡父の集めた古銭八十七文があった。この中には、彼の魚屋に払い渡した銭差しから抜き取った銭もあるに違いない。福沢はいう。今これをお前たちと自分とで配分するから、これを修身処世の記念品とせよ、自分もまたその一分を手許に留めて、生涯の鑑とすること旧のごとくにするであろう。福沢の家は貧しくて余財がなかった。有るものは皆な売り尽くして自分の学資にしてしまったから、家に伝わるものとして、お前たちに分けてやるものは何もない。またあっても、それは金を出せば買えるものだから、なくても遺憾はない。
『独りこの古銭に至ては千金を投ずるも買う可らざる宝物にして、先人の余光の存するものなり。今余と汝等と共に此余光を被る、遺物大なりと云う可し。謹で此宝物を失うなかれ。謹で、此宝物の精神を忘るるなかれ。汝等子あればこれを子に伝えよ、孫あらばまた孫に伝えしめよ。世々子孫、福沢の血統、孜々勉強して自律自活、能く家を治む可きは言うまでもなきことながら、万一不幸にして財に貧なるの憂あるも、文明独立の大義を忘れ、節を屈して心飢るの貧に沈むなかれ。』」(以上『福沢諭吉』小泉信三p207-208より引用)

 この本の著者小泉信三は、1933年から1947年まで慶應義塾塾長兼慶大総長、戦後は東宮教育参与を務めた人です。また、『福沢諭吉全集』全21巻の監修者も務めた福沢諭吉の代表的研究者ですが、「ここに孝子福沢諭吉、厳慈の父福沢諭吉の面目を見る」として、次のようにいっています。

 「不幸にしてその面影をも知らぬ亡き父を慕い、その志を尊び、居常その名を恥ずかしめぬことを期する心は、福沢にあって強い道徳的支柱となった。そうして、福沢が父の肉親を見ず、その肉声を聴かなかったことは、かえって一層その父の影像として理想化せしめるものではものではなかったろうか。これは実践的モラリスト福沢諭吉を理解する上において、年来私のひそかに抱く仮説である。」

 このようにして、亡父(諭吉が生後18ヶ月の時死亡したが、寡婦となった母は朝夕に子供たちに在りし日の父の言行を語ったという。)より受け継いだ厳しい自己規律の精神が、彼の「独立心や平等の精神、世俗からの超越、集団あるいは伝統からの自由といった精神」を支えていたのではないでしょうか。(本ブログ「福沢諭吉の儒教批判その1」参照)