福沢諭吉の儒教批判と武士道

哲学の私情は立国の公道

2007年1月 8日 (月)

 私は、前回、福沢諭吉の儒教主義批判は決して全面的なものではなく、その腐敗し易き部分(徳地主義的・家族的国家観つまり「治教(政治と教育)一致」の国家観が、上下貴賎の差別主義、自由・人権の抑圧、排他的全体主義に陥り易いという点)に対する批判だったのではないか、ということを申しました。

 このことは、後年の諭吉の言葉にも現れている訳ですが、私がそう思わざるを得ないのは、何度か申しましたが、諭吉の独立心や平等の精神、世俗からの超越、集団あるいは伝統からの自由といった精神は、決して、洋学を学んでのち身につけたというものではなく、漢学者であった父や仏教の信心深かった母、そして自身の漢学の勉強を通して身につけたものと思われるからです。

 こういう問題意識から、では諭吉は儒教主義のどの部分を批判の対象としてきたのか、ということを検討してきた訳ですが、私の結論としては、諭吉が批判の対象としたのは、数理学実学の欠如ということを別にすれば、その徳治主義的=「治教一致」的な政治体制に対する批判ではなかったかと思わざるを得ません。

 つまり、諭吉の父のように、徳川幕藩体制下の門閥制度の特権に与れない下級武士や、郷士と呼ばれた人々(武士でありながら城下町に住まず農村に居住し農業を営んだ)など、実務や生産業に携わるとともに、武士的(=儒教的)倫理で身を処していた人々には、個人の能力を無視した門閥主義に対する不満が鬱積していた、つまり、儒教がそうした批判のエートスの供給源になっていたのではないかということです。

 このことがもっとも鮮明に現れたのが、諭吉が、勝海舟の身の処し方について加えた論難の書簡「痩我慢の説」です。これは、福沢諭吉が明治24年に執筆し、勝海舟及び榎本武揚に送って意見を求めたもので、その後は秘して他に漏らさなかったものが、漏れて10年後の明治34年1月の時事新報紙上に発表されたものです。この年の2月、諭吉は脳溢血で66才の生涯を閉じています。

 その内容は、王政維新の時、即ち徳川家の末路に、「家臣の一部分が早く大事の去るを悟り、敵に向かいて抵抗を試みず、ひたすら和を講じて自から家を解きたるは、日本の経済に於いて一事の利益を成したりと雖も、数百千年養い得たる我日本武士の気風を傷ふたるの不利は決して少なからず。得を以て損を償ふに足らざるものと云うべし。」というものです。

 この家臣の一部分というのは勝海舟のことで、「蓋し勝氏輩の所見は内乱の戦争を以て無上の災害無益の浪費と認め、味方に勝算なき限りは速やかに和して速やかに事を収めるに若かずとの数理を信じたるものに外ならず。其口に説く所を聞けば主公の安危または外交の利害と云うと雖も、その心術の底を叩いてこれを極むるときは彼の哲学流の一種にして、人事国事に痩我慢は無益なりとて、古来日本国の上流社会に最も重んずる所の一大主義を曖昧模糊の間に瞞着したるものなりと評して、これに答うるの辞はなかる可し。」と非難しました。

 また、彼の功績を評価せんとする意見も後世にあることなれば、一応それを認めるとしても、「氏の為に謀れば、たとえ今日の文明流に従って維新後に幸に身を全うする事を得たるも、自ら省みて我立国の為に至大至重なる上流士人の気風を害したる罪を引き・・・断然政府の寵遇を辞し、官爵を棄て利禄を抛ち、単身去りてその跡を隠す」べきではなかったか、そうしなかったのは、「ただに氏の私の為に惜しむのみならず、士人社会風教の為に深く悲しむべき所のものなり。」といっています。

 これが当時の世間の人々を驚ろかしたことはいうまでもありません。というのは、当時福沢諭吉は「拝金宗」功利主義の鼓吹者、「拝金家の大和尚」などといわれていましたので、彼に「侠骨稜々」たる士風の維持と気概を見いだし、「平素福沢の思想に反感を抱いていた保守側からも『よし福沢全集は焚く可きも、此の一文は不朽なり』という歓迎の辞さへ呈せられた」(『福沢諭吉選集8』解題 家永三郎)といいます。

 しかしながら、こうした理解に対しては「勝の幕府に対するは封建的主従関係以上のものではないのであって、福沢も認めている如く一片の『私情』の問題に過ぎぬ。封建組織にいち早く見切りをつけ、明治新社会の文明開化を諸手をあげて歓迎した福沢が、勝等に向かってのみ封建道徳の遵守を強要するのは、少しく辻褄が合わない感を免れないでもなかろう。」(上掲書)という疑問も呈されます。

 それゆえに、本書簡が、そうした誤解を以て受け止められることが必定と考えたために、諭吉はこの書簡を10年も隠した訳ですが、では彼がこの「痩我慢の説」で心底いわんとしたことは何だったか、ということが問題となります。この件については、先の家永三郎氏をはじめ多くの論者が論じていますが、私は、小林秀雄は次のような評が最も正鵠を得ているのではないかと思います。

 「『士道』とか『三河武士の精神』とかいう言葉に躓く者は、著者がこれらの言葉を使役して、何を考えているかを見ない者であろう。封建道徳という道徳のある形が賛美されているわけではないし、論じられてもいない。注意して読めば、読者は、福沢が面接した道徳問題の本質的な困難に、連れて行かれる筈なのだ。彼が本当に言いたかった事は、私には明らかなように思われる。道徳は言葉にはない、人心の機微のうちにあるということが、彼は言いたいのである。」

 「『痩我慢の説』は、『立国は私なり、公に非ず』という文句から始まっている。物事を考え詰めて行けば、福沢に言わせれば、『哲学流』に考えれば、一地方、一国のうちで身を立てるのが私情から発する如く、世界各国の立国も、各国民の私情に出ている事は明白な筈である。これは『自然の公道』ではなく、人生開闢以来の実情である。この実をまず確かめておかないから、忠君愛国などという美名に、惑わされるのである。」

 つまり、この「『哲学の私情は立国の公道』という明察を保持していなければ、公道は公認の美徳と化して人々を酔わせるかあるいは習慣的義務と化して人々を引廻すのである。これは事の成り行きであり勢いであって、これに抵抗しないところに、人間の独立、私立があるわけがない。」この「私立」が「痩我慢」であって、「痩我慢は私情に発するであろうが、我慢である限り、単なる私情ではない。」つまり、「私情と公道との緊張関係の自覚であろう。福沢は其処に『私立』を見たのである。」

 小林秀雄流のむずかしい言い回しですが、確かにそう解釈するのが妥当ではないかと私は思います。つまり、福沢の言う「痩我慢」とは、彼が『学問のすすめ』で述べた、「いまの世に生まれいやしくも愛国の意あらん者は、官私を問わずまず自己の独立を謀り、余力あらんば他人の独立を助けなすべし。」という言葉と同義であり、その「独立心」より発せられる「私情」と「立国の公道」との緊張関係を維持する事が大切であると言っているのです。

 従って、究極的には、その「私情」より発せられる「立国の公道」と、官許の「立国の公道」とが衝突する場面も考えられます。その場合、自らの「私情」を優先して官許の「公道」に抵抗する事が許されるかどうか、ということが問題になりますが、この点について諭吉の思想を最も明快に表出しているのものが、西郷隆盛を弁じて明治10年に表した「丁丑公論諸言」です。(この公表はなんと24年後の明治34年、諭吉の逝去後のことです)

 「凡そ人として我が思う所を施行せんと欲せざる者なし。即ち専制の精神なり。故に専制は今の人類の性というも可なり。人にして然り。政府にして然らざる可らざるなり。政府の専制咎む可らずと雖も、之を放頓すれば際限ある事なし。又これを防がざる可らず。今之を防ぐの術は、唯これに抵抗するの一法あるのみ。世界に専制の行わるる間は、これに対するに抵抗の精神を要す。其趣は天地の間に火のあらん限りは水の入用なるが如し。」

 「近来日本の景況を察するに、文明の虚説に欺かれて抵抗の精神は次第に衰退するが如し。苟(いやしく)も憂国の士は之を救うの術を求めざる可らず。抵抗の法一様ならず、或いは文を以てし、或いは武を以てし、又或いは金を持ってする者あり。今、西郷氏は政府に抗するに武力を用いたる者にて、余輩の考えとは少しく趣を殊にする所あれども、結局其精神に至ては間然(=非難)す可きものなし。」

  「余は西郷氏に一面識の交もなく、又其の人を庇護せんと欲するにも非ずと雖も、特に数日の労を費やして一冊子を記し之を公論と名付けたるは、人の為に私するに非ず、一国の公平を保護せんが為なり。方今出版の条例ありて少しく人の妨げを為す。故に之を家に蔵めて時節を待ち、後世子孫をして今日の実況を知らしめ、以て日本国民抵抗の精神を保存して、其の気脈を絶つことなからしめんと欲する微意のみ。」

 諭吉が、この抵抗の精神を「士道」=「痩我慢」の伝統精神に見ていたことに、十分な注意を払うべきです。つまり、彼が批判してやまなかった儒教精神の腐敗したる部分とは、従ってここではなく、むしろ、こうした政府の専制に対する、抵抗の精神のよって来るところの「私情」=「私立」=「独立心」を外から犯し続けているもの、その「治教一致」の政治的伝統に対する批判ではなかったかと私は推測しています。