福沢諭吉の儒教批判と武士道

福沢諭吉の儒教批判その2

2006年12月29日 (金)

 福沢諭吉が正真正銘の漢学者である父のもとで儒教的規範を身につけ、また自ら漢書を学んで儒教的教養を高めていたことは、「福沢諭吉の儒教批判1」で紹介しました。それが洋学を学ぶにつれて、次第に儒教批判を強め、「今の開国の時節に古く腐れた漢説が後進少年の脳中にわだかまってはとても西洋の文明は国にいることはできない」と考えるようになりました。

 「人の私徳のみに名を下したる文字にて、その考えのあるところを察するに、古書に温良恭謙譲といい、無為にして治まるといい、聖人に夢なしといい、君子聖徳の士は愚かなるごとしといい、仁者は山のごとしというなど、すべてこれらの趣をもって本旨となし、結局、外にあらわるる働きよりも内に存するものを徳義と名づくるのみにて、西洋の語にていえば「パッシーブ」とて、われより働くにはあらずして物に対して受身の姿となり、ただ私心を放解するの一事をもって要領となすがごとし。・・・ただ堪忍卑屈の旨を勧むるに過ぎず。」(『文明論の概略』「知徳の弁」)

 こうした諭吉の反儒教主義はその後も折に触れて繰り返され、ほとんど彼の生涯のテーマとなった観があります。しかし、こうした儒教批判の根底にあった彼の独立心や平等の精神、世俗からの超越、集団あるいは伝統からの自由といった精神は、必ずしも「洋学」によるものとはいえない。また、「いやしくも卑劣なことは絶対しない」とか「から威張りほど見苦しいものはない」といった道徳(儒教)的規範意識も終生変わることはありませんでした。

 また、学者としての誇りや身分制への憤りは漢学者であった父親からうけついだものであったし、また、仏教の信心深かった母親が、身分の低いものにも平等の愛を注いだことや、また中津藩士としての義理を捨て、学問に精進することを決意したとき、無条件に支持した母の強さについても、福沢は、単なる肉親への愛の表現を超えた敬慕の情を繰り返し強調しています。

 つまり、諭吉の儒教に対する批判はその言説の激しさにもかかわらず、決してトータルなものではなく、いわばその「腐敗したる部分」に対する批判だったのではないかと思われます。そこで、以下、その批判の内容を具体的に見てみたいと思います。そうすることによって、徳川幕藩体制から明治立憲君主制へと移行する時代、「恰も一身にして二生世を経るが如き時代」における彼の精神の置きどころが見えてくるのではないかと思います。

1 門閥制度は親の敵(かたき)

 諭吉は19歳で長崎に遊学するまで大分の中津に育ちました。そこは「封建制度でチャンと物を箱の中に詰めたように秩序が立っていて、何百年たってもちょいとも動かぬという有様、家老の家に生まれた者は家老になり、足軽の家に生まれた者は足軽になり、先祖代々、家老は家老、足軽は足軽、その間にはさまっているものも同様、何年たってもちょいとも変化というものがない。」

 そんな牢固たる門閥制度の中で「父の生涯、45年間のその間、封建制度に束縛されてなにごともできず、むなしく不平をのんで世を去りたるこそ遺憾なれ。また初生児(諭吉)の行く末をはかり、これを坊主にしても名をなさしめんとまでに決心したるその心中の苦しさ(当時魚屋の息子が大僧正になったというような話がいくらもあったらしい)、その愛情の深さ、私はこのことを思い出し、封建の門閥制度を憤るとともに、亡父の心事を察してひとり泣くことがあります。私のために門閥制度は親の敵でござる」

 したがって、幕末に至って日本の政府が東西2派、勤王派と佐幕派に分かれ争っているときの彼の基本的態度は次のようなものでした。「第一、私は幕府の門閥圧制鎖国主義がごくごくきらいでこれに力を尽くす気はない。第二、さればとてかの勤王家という一類を見れば幕府よりなおいっそうはなはだしい攘夷論で、こんな乱暴者を助ける気はもとよりない。」というわけで、慶応33年(1867)大政奉還、翌鳥羽伏見の戦いから江戸城明渡しという時節には、官軍、賊軍どちらに向かっても中立的態度を保持しました。

 それというのも、諭吉は19歳で長崎で蘭学を学びはじめ、20歳で大阪の緒方洪庵の適塾に入門22歳でその塾長となり生理学、医学、物理学、化学などの原書を読み、種々の実験を試み、24歳で蘭学から英学に転向、25歳で咸臨丸に乗って渡米、26歳で遣欧使節翻訳方として渡欧し、フランス、イギリス、オランダ、プロシャ、ロシア、ポルトガルを経て1862年12月に帰朝、32歳(1867)で再び幕府の軍艦受け取り随員として渡米し東部諸州を回り6月帰朝するといったような体験によって西洋事情に通じていましたから、攘夷論が無謀であることを知り抜いていたのです。

 そういうわけで、徳川幕藩体制下の門閥制度の「圧制空威張り」を憎むと同時に、勤王佐幕派を通じたその攘夷主義に対しても批判的で、特に勤王家の攘夷論についても「こんな不文不明な乱暴者に国を渡せば亡国は眼前に見える、情けないことだという考えが、しじゅう胸にしみこんで」いました。結局、その生来の独立心から「維新前後にもひとり別物になっていたことと、自分で自分のことを推察しています」と述懐しています。

2 数理学と独立心の欠如

 ところが、こんなわけで「今度の明治政府は古風一点張りの攘夷政府と思いこんでいた」ところが、「のちに至ってその政府がだんだん文明開化の道に進んで、今日に及んだというのは実にありがたいめでたい次第であるが」、それが「私には初めから測量でき」なかっために、「身は政府に近づかずに、ただ日本にいてなにか努めてみようと安心決定」していたといっています。

 そこで、このように新政府が文明開化の道に進んでくれるならばありがたいというわけで、諭吉としては「畢竟この私がこの日本に洋学を盛んにして、どうでもして西洋流の文明強国にしたいという熱心で、その趣は慶應義塾を西洋文明の案内者にして、あたかも東道の主人となり、西洋流の一手販売、特別エゼントとでもいうような役を勤め」ることにしました。

 そのときの「私の教育主義は自然の原則に重きを置いて、数と理とこの二つのものを本にして、人間万事有形の経営はすべてソレカラ割り出して行きたい。また一方の道徳論においては、人生を万物中の至尊至霊のものなりと認め、自尊自重いやしくも卑劣なことはできない。不品行なことはできない。不仁不義不忠不幸ソンナあさましいことは、だれに頼まれても何事に切迫してもできないと、一身を高等至極にし、いわゆる独立の点に安心するようにしたいものだと、まず土台を定め」ました。

 「ソコデ東洋の儒教主義と西洋の文明主義を比較してみるに、東洋になきものは、有形において数理学と、無形において独立心と、この二点である。」これなしには「さしむき国を開いて西洋諸強国と肩を並べることはできそうにもない。」というわけで、その私塾においては、数理学と一方においては独立主義を教育方針としたといっています。(以上『福翁自伝』より)