福沢諭吉の儒教批判と武士道

福沢諭吉の儒教批判その1

2006年12月13日 (水)

 福沢諭吉の父は漢学者で、伊藤東涯(伊藤仁斎の子)に私淑し「誠心誠意屋漏に愧じず」(人の見ていないところでも自ら身を戒め恥じることのないようにすること)ということを心がける真実正銘の儒者であった。だから、子供たち(諭吉は5人兄弟の末子)を育てるのも全く儒教主義により、そのため世間一般の風俗からは浮いていたが、「母子むつまじく兄弟喧嘩などただの一度もしたことがなく、かりそめにも俗なことには心を動かされない」という家風の中で育った。

 ただ、漢学の勉強を始めたのは人より遅く14,5歳になってからで、白石という先生についてその後4,5年漢書を学んだ。しかし、天稟、文才もあったらしく、論語、孟子よりはじめ、詩経、書経、左伝、戦国策、老子、荘子、史記、前後漢書、晋書、五代史、元明史略と読み進み、特に左伝は15巻全部を通読およそ11たび読み返しておもしろいところは暗記していたという。

 ある時、何かの漢書に「喜怒色を顕さず」という一句を読んで「これはドウモ金言だ」とはっと悟るものがあり、その後この教えを守って、「誰がなんといって賞めてくれても心中は決して喜ばない。またなんと軽蔑されても決して怒らない。いわんや朋輩同士で喧嘩をしたことはただの一度もない。少年の時分から老年の今日に至るまで、怒りに乗じて人の体に触れたことはない」というほど儒教的修養ができていた。

 また、諭吉の母も、「社会的地位で人を差別するということはなく、出入りの百姓・町人はむろん乞食でもなんでもさっさと近づけて、軽蔑もしなければいやがりもせず、言葉など至極ていねいだった」という。乞食が来ると表の庭に呼び込んで土間の草の上に座らせ、自分は襷がけに身構えをしてシラミ取りをはじめて、諭吉はそれに呼び出され、ひろうように取れるシラミを台石の上に置いて石でつぶしたという。

 また、諭吉は父に対しても愛情深く、封建の門閥制度の中で十分その才能を生かし切れず不遇のうちに一生を終えた父、そうした門閥制度のしがらみからわが子を解放するために諭吉を坊主にしても名をなさしめんと決心した父の心中を思い「私のために門閥制度は親の敵(かたき)でござる」とまでいっている。

 その後、19歳の時、長崎に遊学しオランダ語を学び、20歳で兄の住む大阪に出て緒方洪庵の適塾で蘭学を学んだ。生来の酒好きで随分いたずらもしたというが、塾での勉強ぶりはまことにすさまじい。

 「何時でもかまわぬ、ほとんど昼夜の区別はない、日が暮れたからといって寝ようとも思わず、しきりに書を読んでいる。読書にくたびれ眠くなれば、机の上に突っ伏して寝るか、あるいは床の間の床縁を枕にして寝るか、ついぞ本当に布団を敷いて夜具をかけて枕をして寝るなどということは、ただの一度もしたことがない。」といった具合。

 この緒方塾での勉強の内容だが、オランダ舶来の物理書と医書の原書を写す、それをゾーフという写本の字引を引きながら会読したり、先生の講義を聴いたりする。また、原書を頼りに化学の実験をしたり、電気の実験などに魂を奪われ、また医学の知識も身につけたことから、漢方医学の無学無術を罵倒するようになったという。

 しかし、「空威張りほど見苦しいものはない」という徳は身に付いており、「人に軽蔑されても侮辱されても、その立腹を他に移して他人をはずかしめるということはドウしてもできない。できないどころではない、その反対に私は下の方に向かって大変ていねいにしていました」「また、藩にいて功名心というものはさらにない。」「眼中人もなければ藩もなし、さればとて藩の邪魔をしようとも思わない」といった具合で「安心決定」(一種悟りのような心構え)していた。

 その諭吉が、明治元年に慶應義塾を起こしてから後、次第に儒教主義を批判するようになる。「今の開国の時節に古く腐れた漢説が後進少年の脳中にわだかまってはとても西洋の文明は国にいることはできないと、あくまで信じて疑わず・・・日本国中の漢学者はみんな来い、おれが一人で相手になってやろうというような決心であった。」(以上『福翁自伝』より)この間の事情をもう少し詳しく見ておく必要がある。