教育委員会制度と学校事務

教育委員会制」もう一つの攻防(その1)

(『学校事務』1995.5掲載)

はじめに

 学校事務をめぐる最近の話題に「全人連任用部会」の報告がある。本誌の2月号(1995年)でもこの報告書をめぐる特集が組まれているし、3月号では、姫路工大の清原正義氏が「学校事務改革と任用制度」と題する一文を発表し、報告書にまとめられた統計資料をベースにしながら、学校事務のこれからの進むべき方向についてきわめて有意義かつ率直な提言を試みておられる。

 こうした「全人達」の活動については、宮崎では、本県人事委員会がその「任用部会」の部会長を務めたという経緯もあり、すでに1992年9月24日の「宮教組」と宮崎県人事委員会と交渉の中でその事が明らかにされていた。

 それは、当時の人事委員会事務局長の一一-あくまで私見であると断った上でのものだったが一事務職員が”学校だけで一生を終えるのがよいのかどうか疑問をもっている。小中学校から県立学校へそれから事務局へというふうに交流がさかんになり、開かれた学校事務というものが望ましい”とする彼自身の問題意識の文脈の中で言及されたものであり、私は、こうした動きを、国庫負担問題の展開ともにらみあわせながら、興味深く.その推移を見守ってきたのである。

 この「全人連任用部会」の報告書は、昨年(1994年)7月の日教組の九プロ事務研究集会の折にそのコピーを読ませていただいた。読後、私はそれが「学校事務」という職業について、周到な注意力をもってその全体像に迫りえてりることに少なからぬ感銘を覚えた。

 この点については、控えめではあるが、日教組事務職員部の見解にも、人事委員会という公平機関が正面きって学校事務職員問題を取り上げたことに対する評価が述べられている だが、人事委貝合の報告書としては当然のことといえるが、報告書の中では、特に、F人事管理上問題がある」とされる公立小中学校の学校事務については、では、なぜ、そのように問題が深刻化しているのがということについてのつっこんだ分析検討はなされていない。

 また、「配置先を限定した職種により試験を実施している」ことが「問題を深刻化している」と指摘しつつも、では、「教育委員会あるいは知事部局等とも人事交流の可能な職種による採用試験を実施」すれば、それで問題が解決するのかといったことについても、そうした団体からは「問題点の指摘はなかった」と報告するのみで、それ以上の言及はない。

 本誌1995年2月号に特集された感想文の多くは、学校事務職員の立場から、こうした観点からする疑問を繰り返しており、私自身、これらの疑問に的確に答え得ない限り、つまり、私の関心に照らしていえば、今日の日本における教育行政制度全休の歴史的パースペクティブの中でその問題の所在を明らかにすることに成功しない限り、公立学校における学校事務という職業のその機能、役割を正しく定位することはできないのではないかと思っているのである。

 本稿では、こうした問題意識に立ち、折良く 「全人連任用部会報告」によって論争の中心に躍りでた学校事務職員の任用問題、すなわち、学校事務という職業と教育行政との関わりの問題、そしてつまるところ、そもそも教育行政は、一般行政に対して「自律性」を主張し得るや否やの問題について、戦後、教育委貝合制の導入の時点に遡って再検討を加える中で、そのあるべき解決の方向を探ってみたいと思う。

「地教委」は日教組勢力掣肘の奇策として生まれた

 私は先に「国庫負担問題は定数問題である」と題する論文①の中で、昭和27年に全国の市町村に義務設置されることとなった「地教委」制度の発足の由来についてふれ、次のように指摘した。それは、当時、政権与党であった自由党が、府県レベルでの勢力伸張の著しかった日教組勢力を市町村レベルに分断掣肘せんとして、突然に強行導入したものだという歴史的事実についてである。この時の「教育委員会法」では、市町村立学校の教職員の任免権は市町村におかれることになっていた)。

 この事実は、昭和31年の「地教行法」以降の「地教委」制度の相対的安定のためにわかりにくくなっているが、いわゆる「55体制」崩壊によって保守対革新のイデオロギー対立がほぼ消滅し、文部省と日教組の関係修復がはかられようとしている今日、この「地教委」制度の出生の由来は、あらためて、今後の地方教育行政制度のあり方をめぐる論議の中で再検討を迫られることになると思う。

 だが、このことを理解するためには、まず、「地教行法」下の教育委員会制度が、その制度発足当時、学会、教育界をあげた反対運動に直面し、国会史上未曾有の混乱の中で採決されたにもかかわらず、その後、不思議な制度的安定を維持したそのメカニズムについて知っておく必要がある。というのは、ここにこそ、「地教委」制度の根本的矛盾を解くカギが隠されていると思うからである。

 では、次に、昭和27年の「地教委」全面設置による混乱が、4年後の「地教行法」によって収拾されるまでの歴史的経緯について全般的な整理を試みてみようにの間の歴史的経緯についての研究書、としては、長田三男、尾形利雄共著による「わが国における教育委員会制度の研究』があり、本稿の引用の多くはこれによっている)。

 まず、昭和27年7月、文部省が、第13国会に「教育委員合法等の一部を改正する法律案」にれは、教育委員会の全面設置をさらに1年間延期することを内容とするものであった)を提出した時点では、教育委員会制度の改革をめぐる論議において、「著しく異なる潮流が併存し、錯綜していた」(教育委員会の設置単位及びその発足の時期、教育委員立候補者の身分、教育委其の報酬、教育委員会と教育長の関係等)にもかかわらず、その設置単位については、関係者の見解がほぽ一致していたという事実を指摘しておかなければならない。

 つまり、政府関係の諸諮問機関(地方行政調査委員会議、制令改正諮問委員会、教育委員会制度協議会)の答申や勧告、また、文部省、大蔵省、自治庁の見解においても、また、地方公共団体(都道府県及び市町村)さらに日教組の見解においても、全国の市町村に教育委員会を義務設置とすることについては、ほぼ一致して反対の意志が表明されていたのである。

 また、この場合、教育委員会をどのような単位で設置するかについては、都道府県及び市を必置とし町村を任意とする案、都道府県のほか人口15万以上の市に設置する案、都道府県及び5大市を除く市町村を任意とする案などがあったが、これらは、昭和25年8月の第2次アメリカ教育使節団の報告書に述べられた「教育区」のおり方に関する次のような見解に照応するものであった。
「教育区はできるだけ自然的な地域を中心としてつくられるべきである。これはときにいくつかの市町村などを含むことになる。新教育制度と、充実拡充された教育計画に対して、施設と活動とを提供するに足るだけの人口と税源と領域のあることが大切である」

 また、ここでは、教育委員会の管轄に関して次のような興味深い見解も述べられていた。

 「われわれは、……すべての小学校・中学校・高等学校は1つの教育委員会のもとに運営されることを勧告する。そのためには日本の学区組織全体の研究が必要となる。同一地域内の同種の学校を運営する2つの異なった当局が存在すべきではない。それは学校計画の混乱、むだ、及び関連の欠如をもたらすものである」

 つまり、「充実拡充された教育計画」を実現する上からも、また、学校管理運営の能率化という観点からも、教育委員会を全国の市町村に全面設置することは無理という認識で関係者の見解は一致していたのである。にもかかわらず、昭和27年8月26日、与党自由党が、文部省が国会提案した「教育委員会全面設置延期法案」を衆院文部委員会で突如否決して審議未了とし、さらに、昭和27年8月26日に召集された第14回国会が閉会。3日目の28日にいわゆる「抜き打ち解散」された結果、地教委は、当時の現行法に基づいて、昭和27年11月1日より全国の市町村に義務設置されることとなった。

 これは、当時、東西のイデオロギー対立が一層深刻化する中で、日教組の都道府県レベルでの勢力伸張(都道府県教育委員会の教育委員の半ばは日教組系委員により占めちれていた)に恐れをなした自由党が、「教育行政の地方分権を自党の勢力維持強化のために、逆用しよう」としたものであり、その組織単位を都道府県から市町村に分断するとともに、市町村の保守層をその監視役として利用せんとしたものに他ならなかった。

 「こうして、本来、教育の政治的中立と民主化とを使命とする地方教育委員会制度は、皮肉にも、きわめて露骨な政治的、党派的意図を媒介として、発足し」また、こうした地教委の基本的性格は、昭和31年以降の「地教行法」下においても、したたかに温存されてきたのである。そして、今日では、それが国会史上例を見ない未曾有の混乱のうち成立したという事実さえもほとんど忘却され、また、その形骸化が周知の事実となっているにも関わらず、その改革を正面から提起する者はいない。

「地教行法」下の「地教委」制度を支えたもの

 では次に、その制度発足当時、ほとんど四面楚歌といっても過言ではないほどの反対運動に直面した市町村教育委員会制度が、「地教行法」下において、何故に安定したのかについて検討を進めたい。だが、その前に、当時、地教委制度廃止の急先鋒をつとめた地方自治体が一体どういう理由でその全面設置に反対したのかについて見ておきたい。

 まず、この昭和27年11月の地方教育委員会全面設置に対する地方自治体の反応を紹介する。「教育行政は、自治行政の基本的な問題であり、他の一般行政と密接不可分な関連を持つものであるから、これを分離して教育委員会をして行わしめることは、自治行政全体に甚だしく総合性と均衡姓を失わせるものである。よって、教育については、その行政と財政とを分離するような甚だしい非効率の愚は速やかに改め、これを自治体首長の責任に統一すべきである」(全国知事会「地方制度改革に関する意見」)

 「地方公共団体の行政をー元化し、能率的な運営をはかるため、地方公共団体における行政委員会はこれを廃止すべきであるが、特に地方教育委員会は設置後既に九ケ月、本会が夙に憂慮せる町村行政二元化の傾向顕著にして、町村行政の総合的運営を阻害し」ている。そこで、「一、教育委員会はこれを廃止する。二、義務教育の運営管理は市町村がこれを行う」(全国町村会臨時総会決議)

 これが、当時の地方自治体の、発足直後の教育委貝合制度に対する率直な見解であった。おそらく、こうした考えは、今日においても変わらず温存されているものと思われるが、しかしながら、戦後間もない当時の社会情勢下においては、戦前の内務行政の―環としての教育行政への反省から、民主的教育行政を担保するはずの独立教育委員会に対する世論への期待も大きく、また、政府も、先述した自由党の日教組対策の意図を受けてその「育成策」を主張してゆずらなかった。

 結局、この地方自治体と与党自由党との利害の対立を最終的に調整したものが昭和31年の 「地教行法」であったわけだが、この時の調整のポイントは、一つは、教育委員会の予算原案送付権及び収支命令権を削除すること、もう一つが、教育委員の公選制をやめ長が議会の同意を得て任命する(市町村の教育長は市町村教育委員会が当該市町村の委員のうちから選ぶ)ということであった。

 つまり、教育委員会の財政権及び教育委員及び教育長の任命権を実質的に長の権限下におくことによって、地方自治体からの行政2元化の批判を棚上げにしたのである。

 一方、政府はレ昭和27年の「義務教育費国庫負担法の成立以降、地方の教育費負担を国として支援すべく、各種の国庫負担金や補助金をその対象費目を次々に拡大していく。また、こうした地方教育に対する国の財政支援の増大とともに、文部省の地方教育に対する各種基準の設定が行なわれることとなり、こうして、地方教育行政はその教育施策の計画と実施において国に対する依存度をますます高めていくのである。

 ところで、昭和27年の地教委制度発足に際して強烈な反対運動を展開したもう一つの団体に日教組かある。

 これは、先述した通り、地教委制度そのものが与党自由党の日教組馴肘策として導入されものであれば当然の行動であり、昭和27年7月24日には、地方自治体、地方議会の代表者を日比谷に集め、「市町村」教育委員会設置反対教育防衛国民大会」を開き「教育を守り、地方財政擁護の立場からあくまで教育委員会の市町村設置に強く反対する」方針を満場ー致で採択している。

 ところが、この日教組は、昭和30年10月、「文部省が、地方教育委員会の改廃・教育委員の公選廃止を重点に、教育委貝合制度を改正しようとしていた矢先、これまで原則的には五大市を除く地方教育委員会の廃止を唱えてきたj方針をエ80度転換し「地方教育委員会は引き続き存続すべきであるとの主張を打ち出し、文部省と真向から対決する態度を明らかにした」。

 その理由は、「政府(=文部省)の企図する教育委員会制度改正の方向は、教育委員の公選制を任命制に改めるなど、教育委員会制度そのものを根本的に破壊して教育行政の中央集権化をめざすものである」とする情勢判断があったからである。

 ここにおいて、日教組は、地方自治体と政府 胎文部省)とが利害関係の調整を進める中で、孤立し、政府に対するイデオロギー的対決姿勢を硬化させていくのである。

 また、これ以降、地方自治体との関係修復を羞実に進める政府自由民主党(昭和30年11月に自由党と民主党か保守合同して結党)の、地方議会や教育委員会と連携した日教組抑圧策も「地教行法」以降着実に効果を現し始める。これは「地紋行法」第52条の文部大臣の地方公共団体の長及び教育委員会に対する「措置要求権」を根拠として、「状況によって文部大臣は教育長の進退について事実上の措置をとる」との「脅迫」を伴っていた(自民党文教対策委員会「日教組対策の具体的方針」)。

 また、昭和32年8月には「東京都教育父母会議」が結成され、この年の年末から昭和33年にかけて、高知、和歌山、群馬、大阪をはじめ多くの府県において、日教組の勤評反対闘争を契機とする、地域の有力者や父母と日教組組合員とのトラブルが頻発し始める。日教組は教育行政の中央集権化を阻止するという理論的要請から地教委擁護を主張していたが、こうした紛争を経て次第に地教委とも対決姿勢を強めていった。

 こうした経緯を経て、日教組は、教育委員会との対立関係を理論的に説明するものとして、教育委員会の機能をあくまで外的条件たる教育条件整備のみに限定し、教育内容に関する決定権は教師集団にゆだねられているという、いわゆる教育行政の「オフリミッツ」論を展開するに至る。

 ここに至って、学校経営及び教育行政に関する組織論的関心は失われ、代わって教育基本法第10条を根拠とする教師の「教育権」に依拠した「教育課程の自主編成」という一種の「主体性論争」が展開されるようになるのである。

 だが、すでに明らかなように、教育委員会制をめぐる日教組と与党自由党の争いのそもそもの発端は、地方教育行政におけるヘゲモ二ー争いということにあったのであって、その意味ではまさに、その争点ははしめから政治的たらざるを得ないものだった。

 そして、自民党のほうは、この争いにおいて、地教委制度を巧みに形骸化することによって地方自治体を懐柔するとともに、「地教行法」及び国庫負担制度をてことして教育行政組織を実質的に中央集権化する一方、日教組悪玉論の情根城を展開して世論を味方につけ、その勢力伸張を撃肘してきたわけである。

 一方、日教組のほうは、この戦いを、終始「観念的」にしか戦い得ず、以上に述べたような政府自民党の対日教組戦略の全体構図をほとんど見抜けぬままに、ただ、主観的に教師の「教育権」を唱えるだけの運動に追いつめられることとなった。

 また、教師にしてみれば、自分の仕事を制約する教育委員会の存在など「主観的」にはうとましいだけのものだから、その意味でも地教委の形骸化はむしろ歓迎すべきことであったわけで、その合理的再編のための論議を提起する余裕などなかったというべきかもしれない。

 読者は、ここにきてようやく、本節のテーマである「地教行法」下の教育委員会制度の安定のメカニズムについて、そのおおよそのイメージをつかめたのではないかと思う。

 つまり、この「地教行法」下の教育委員会制度の安定を支えたものは、まず、長部局が、教育委員会に対して財政権と教育委員及び教育長の人事権を保証され、かつ、国庫負担制度の拡充による教育費にかかる財源保証措置がどられたことにより、一応総合行政の観点からする教育委員金剛攻撃の矛先を納めたということ。

 次に、政権与党である自民党は、「地教委」を日教組勢力の摯肘策として温存するとともに地方教育委員会に対する文部大臣の「指揮権」を確保し、あわせて国庫負担制度や補助制度をてことして教育内容及び教育条件を政府の統制下におくことに成功したということ。

 そして最後に日教組は、不慣れな政治闘争に執心するより、自らの専門領域に依拠して自己主張することのほうが運動論としても自然であり、その意味において日常的には教育委員会の存在など眼中になく、また、人確法により待遇の改善も約束されたことによって次第に保守化していかざるを得なかったこと、等々、関係者の利害が一致する中で、巧妙に維持されてきたものなのである。

 ところで私は先に、昭和27年の地教委全面設置以前の教育委員会制の設置単位をめぐる議論において、アメリカ教育使節団の第2次報告書を引用し、新しい「教育区」は、充実拡充した教育計画と、無駄のない能率的な学校運営を可能にする程度の人口、財政、領域(小中高)規模が必要であるという認識に収斂されつつあったことを指摘した。

 しかし、それ以降、こうした議論は発展させられることはなく、先述したとおりの「地教行法」下の教育委員会制の安定の中で棚上げにされたままになっているのである。

 では、はたして今日の教育委員会制度の安定は本物なのか。それとも、「55年体制」の終焉を迎えて日教組のイデオロギー体質が改善される一方、その専門性の向上に向けて初任研の導入や免許基準の引き上げがなされている今日、あらためて、教育委員会の、学校及び教徴員の経営管理機関としての役割が再検討され始めるのか、はたまた、「地教行法」によりとりあえずの妥協を強いられた地方自治体が、教育費の国庫負担適用除外にともなう一般財源化を契機に、その一元行政の復活を企図して、最終的に教育委員会の行政委員会としての「自律性」を否定せんとするのか、教育委員会をめぐる情勢はにわかに緊迫の度を高めているのである。(つづく)

(参考文献)

『学校事務』1993年1月号「国庫負担問題は定数問題である」渡辺斉己

『わが国における教育委員会制度の研究』p47長田三男、尾形利雄共著(大空社一昭和61年)

『第二次米国教育視察団報告書』「教育区組織の指導原理」

『日教組10年史』P684

『日教組20年史』P518