教育委員会制度と学校事務

「教育委員会制もう一つの攻防」補説 -小川正人氏の疑問に答えて- 

『学校に基礎を置く経営』が成功するためには

 おそらく氏の念頭には、「欧米先進国にみるような専門的教育行政官僚組織」(?)が日本に出現することに対する警戒心があるように思われ、また、これは、かっての教育行政オフリミッツ論を想起させもする。しかし、氏の「学校に基礎を置く経営」が、一方で、「公立学校での教育生産性と『評価』問題が(地域住民や父母による)カウンタビリティ要求の下で本格的に論議されていく」(『学校事務』1995.10月号p123)ことを当然のことして想定するものである以上、これはむしろ、「専門家批判であると同時に中央の官僚批判でもあった」(大田直子「これからの学校事務職員制度を考える」『学校事務』1996.2月号p55)「市場原理」に基づくアメリカやイギリスの教育改革の影響も見て取れるのである。

 だが、そうであるとしても、これらの国における「学校に基礎を置く経営」が成功を収めるためには、あくまで「公教育制度の枠内でそれが行われることが保証され」(上掲書p56)る必要があったのである。大田直子氏は、イギリスやアメリカの経験からこうした教育改革の成功のためには「そこ(学校)で働く人々が、自分たちの持つ教育目標を達成できるような環境を整えさせてくれる、教育長や地方教育当局の存在があって初めて、硬直化した公立学校の危機を克服する道が開かれる」と総括している。(上掲書p58) 

 結局、この「地域の学校経営機能」を高めるために、学校に権限移譲するとはいっても、それはあくまで「教育委員会制度」の枠組みの中で、教育委員会と学校の間でどのように権限配分するかという、いわばそれは”程度の問題”にとどまらざるを得ないのである。このことは、要するに、小川氏がいうように、教育委員会は「行政」、学校は「経営」というふうには簡単には割り切れないということを意味している。教職員人事や教育課程管理あるいは教育予算編成のどれをとっても、この調整のポイントが学校単位で完結するとは思われない。

 黒崎勲氏の紹介するところによると、アメリカ合衆国においてもっともラディカルな学校改革として評価されているシカゴ教育改革法では、この「学校を単位とする経営」を実現するにおいて、市教育委員会の行政権限を大幅に学校に委譲したという。そして、学校委員会(最も小さい教育委員会)を学校単位に設置し、そこに、①校長の交代・選任の決定 ②総額だけが決められてくる学校予算の具体的な支出内容の決定・承認 ③学校改善計画の策定・承認 という権限を持たせ、また、校長には、教職員の採用に関して強力な権限が認められた。

 そして、ここでの実験によって明らかになったことは、教育行政の官僚主義の打破をめざして「学校単位の学校経営」の実現した結果、学校に教育行政=教育政治を持ち込むことになり、結果的に、学校委員会の発足は校長に極めて過大な負担を負わせることになったという。「学校の問題の背景を(学校委員会に)説明するために校長は校長としての多くの部分を割かなければならない。これらの時間は本来、生徒の学習指導のために振り向けられるべきものではないか」(『学校経営と学校参加』黒崎勲P145)というような。

 また、この本の中で黒崎氏は、ニューヨークのイーストハーレムの学校選択制度についても併せて紹介している。これは、「学区を単位とし、公立中学校に対象を限定した学校の選択制度」で、「具体的には、コミュニティ学区の中学校を、24のみにスクールに分け、中学校1年生の時点で、父母に学校選択の自由を与え、どの学校に子どもを通学させてもよいとするものである。ミニスクールとは、独自の教育理念をそれぞれ掲げて、教職員がチームを組んで行う教育プログラムである。それらは、互いに一つの建物を共有し、50人から200人ほどの生徒数からなっている。」

 このオールタナティブスクールといわれる学校改革は、まず、小規模の学校における創造的で質の高い多様な教育プログラムの提供を前提として、親に学校選択の自由を認めることによって、この地域の教育関係者に改革に取り組む「企業家精神」を引き起こすことに成功し、めざましい教育成果を上げたとされている。ここにおいて、「教育の民衆統制」と教職員の「専門的指導性」の調和という、従来、教育委員会制度のもとでしばしばジレンマに陥りがちであった課題について、「学校選択の理念」がこの二つの原理を調和させる鍵となったと評価されているのである。

 なお、このように、「学校選択の自由」が、いわば「触媒」として学校改革のためのメカニズムとして機能するためには、次のような条件がそろう必要があると黒崎氏は指摘している。「それは、新しいタイプの教育活動を熱心に、献身的に行おうとする教職員の存在、そうした新しい試みを見守り、支持を与える親の理解、そしてなによりも地域の公立学校の意義を追求する教育委員会などの指導者の責任などといったもの」であると。そして、このような条件がそろったとき、はじめて学校選択の理念は専門家教職員に改革のための指導性を発揮させる条件を与えるものとなる」(上掲書p167)

 私の印象としては、このイーストハーレムの学校改革の方がシカゴのそれよりもより成熟したものであるように思れる。特にこの学区の学校選択制度を支えている教育行政の原理とされている次のような考え方には共感を持つ。

「第一に、高い質と多様な教育が存在してはじめて学校選択が意味を持つ。

 第二に、学校とは建物のことではなくて教育の思想とビジョンのことである。夢、ビジョンそして使命の明確な自覚のないところには学校は存在しない。

 第三に、教授と学習は一体のものであって、学習のないところに教育活動はない。

 第四に、生徒はそれにふさわしく扱われたときに、はじめてよく学習する。

 第五に、小さい学校ほど生徒にとってはよい学校である。そのような学校では生徒は疎外感をもたない。

 第六に、生徒、親、教職員に自分の学校という意識を助長すること。」

    (同p101)

 そこで、こうした学校改革の実験から日本が学ぶべきものがあるとすれば(日本人が単一民族であって平等主義的価値観を持つ点を考慮しつつ)、私は、まず、第二に述べられた教育行政原理に特に関心を払いたいと思う。そしてこの場合、教職員については、任されれば自らの夢やビジョンのもとにミニスクールでも作ろうという者は多いことと思うが、問題は、こうした教職員の挑戦と親の学校選択の自由とを見守りつつ、かつ適切な調整機能を果たしうる「教育の思想とビジョン」をもった教育委員会あるいは教育長がはたして存在するか否かということである。

 私は、こうした教育委員会や教育長の存在なしには、このようなシステムの安定的な維持は不可能であると思う。従って、私は、とりたてて教育委員会の教育行政機能と学校の経営機能とを分離し、前者は官僚的、後者は同僚的などと価値対立的にとらえる必要はないと思う。むしろ、両者は「教育サービスを提供する側」として一体的に捉えるべきであり、とりわけ、先に紹介したような「教育の思想とビジョン」という価値意識においては、両者にこうした理念の共有ができてはじめて、それぞれの学校における個性的な教育実践が可能となると思うのである。