教育委員会制度と学校事務

「教育委員会制もう一つの攻防」補説 -小川正人氏の疑問に答えて- 

教育委員会と学校の組織的分離論の誤り

 以上で、「教育行政の総合行政化」という観点については、小川氏と私とにそれほど大きな認識の違いはないことが判っていただけたと思う。だが、問題は、小川氏が、地方における教育行政の政策立案能力の向上は、「地方行政の総合化とその総合的政策立案能力の向上」によって初めて可能になるとしている点で、これは、行政組織論的にいえば、戦後の教育委員会制度そのものに疑問を投げかけるものとも思われ、また、職員制度論的には教育行政職員を学校事務職員と切り離し、その完全な一般行政職員化をめざすものと受け取れる点にある。

 こうした小川氏の主張は、実は、地域における学校の経営管理機関たる教育委員会の権能の内、その行政管理機能のみを教育委員会に担当させることによってそれを一般行政に一体化させる一方、その学校経営機能を学校に大幅に委譲することを求めたものと理解することができる。うがった見方をすれば、それによって、学校の組織の「特殊性」(官僚制組織と異なる「ゆるやかに結合された」組織)を守り、その教育行政機関からの「独立性」を確保する事をねらったのではないかと見ることもできるのである。

 それというのも、小川氏のいわれるような、政策決定・執行の基礎単位としての学校を重視して、学校に多くの権限(教職員人事、教育課程編成、予算編成)を委譲して個々の学校に大幅な経営機能を担わせるという、欧米先進国の学校経営の改革動向―もちろん私は、学校に、その効率的運営のため必要なできるだけ多くの権限が委譲されるべきという見解について異論をさしはさむものではない―が、はたして、それが、今日の「日本の地方行政の現実の中でどこまで可能性のある提言」となりうるか疑問に感じざるを得ないからである。

 黒崎勲氏は、アメリカにおける教育改革の社会文化的背景として次のような点を指摘している。

 「アメリカ社会では、居住地域が厳しく経済的に階層化され」ていることによる社会対立の存在や、「そこでは英語を母国語としない子どもたちの教育活動に多くの時間を割かれること」「加えて、連邦からの特別教育補助金でさえ、その多くを人件費に費やしてしまうような、官僚化された膨大な教育行政機構と圧倒的な政治力を持って教職員の利益にのみ奉仕すると非難されることが多い労働組合が獲得している労働協約による制約、大学の最底辺にランクされる教員養成プログラムと教職への極めて低い社会的評価、その結果、とくに大都市おける慢性的な教職員不足」等々・・・。(『学校選択と学校参加』黒崎勲p10)

 おそらく、小川氏のいわれるような「欧米先進国の教育行政の改革動向」は、以上のアメリカの例に見るとおり、それぞれの国のそれぞれに固有な社会文化的条件を背景として生じていることであり、それを以て直ちにわが国の教育改革の方向と見なすことはできないのではないかと思う。少なくとも私には、今日の日本における教育改革のあり様を論ずるについて、教育委員会と学校とを組織論的に切り離し、学校をトータルの学校経営機関として教育委員会から独立させようという論理の必然性が理解できない。そもそも、そうした学校の経営機能を安定的に維持するためにも、相当規模の教育行政機関=市町村教育委員会による調整が必須なのではないか。

 私たち公立小中学校の事務職員がその制度創設以来悩んできたことも、実は、この事実と関係している。つまり、本来的には学校に対してこうした調整機能を果たすべき教育委員会が適切かつ効果的な権限行使をしないという問題である。学校へ所要の財務権限を委譲することや事務職員の職務内容を明確にすることなど、事務職員が教育委員会に要望してきたことは数多いが、その成否は一に教育委員会事務局の学校経営管理機関としての主体性如何にかかわっていたのである。小川氏も力説されるとおり、教育行政の「総合行政化」が必然とされる今日の日本においてこそ、こうした学校と教育行政とを一体的にとらえる視点が必要とされるのではないだろうか。

 このような私たちの関心に照らして小川氏の提案を吟味した時、氏の提案は、教育委員会と学校を組織論的に分離し、前者は一般行政組織と一体化し、後者は経営体として行政機関から独立した権能を持つべきとしているのであるから、結局、学校と教育行政とを従来のような相互に疎外された関係に固定化することを企図していると受け取られるのである。氏はまた、「文部省→教育委員会の教育行政ルート」の階層的秩序が学校組織に浸透することを防止するためにも、学校事務職員を「教育行政職員ととらえて教育委員会事務局と学校を同列の任用、人事交流の場ととらえ」ることに危惧の念を表明している。

 だが、氏が主張されるような教育委員会と学校との組織論的、職員制度論的分離を前提とした、学校への経営権(教職員人事、教育課程編成、学校予算編成)の大幅委譲などといったことが現実に可能であろうか。例えば、中野区のフレーム予算にしてからが、これは小川氏も指摘されているとおり、中野区の教育委員準公選制の実現により、教育委員会が「教育予算編成の面で委員会の独自性と自主的判断を生かさせるよう配慮された」結果実現したことであって、決して、地方行政の総合化という流れの中で、教育委員会がその「教育行政の質や機能」を必然的に高めた結果ではないのである。

 もし、教育行政の「総合的な政策立案能力の向上」ということが、小川氏がいわれるように地方行政の総合化の過程の中で必然的に起こってくるものなら、中野区で起こったようなことは、中野区にではなくて、すでに「総合行政化」が進行している他の自治体において起こっているはずである。しかし、事実はそうではないのであるから、教育行政の「政策立案能力の向上」ということは、やはり、教育委員会の専門的自律性が、ほかならぬ地方行政の長によっても承認されることがまず必要なのである。

 重ねていうが、私たち学校事務職員の体験は、こうした事実を裏書きしている。私たち学校事務職員は、教育現場で働く人間として、教師の教育実践から生まれる諸種の教育条件整備の要求を、教育委員会に伝えそれを教育行政施策に反映すべく努力してきた。しかし、こうした努力の果てに私たちが行きついた結論は、自治体は、学校のこうした要望をふまえて事業の立案をしたり制度(各種の事務処理上の規則、規程、要領等)をいじったりすることには極めて消極的だということである。その成否は一に教育委員会の学校経営管理機関としての自律性についての自覚如何にかかっていたのである。

 殊に、中野区のフレーム予算などの、長の権限である予算編成権の一部を教育委員会に委任するというようなことは、中野区の「準公選制」(先頃、その中野の準公選制も廃止されたらしいが)によって初めて可能になったのである。また、このフレーム予算自体、学校に直接、長の予算編成権を委任したというものではなく、あくまで、「教育委員会にその予算編成上の調整を委ねたもの」であって、この教育委員会の調整する「枠内予算」の枠内において、教育委員会が学校に配分した枠配分予算編成上の裁量権を学校長に委ねたというものである。

 また、小川氏は、学校事務職員の職能形成のあり方について、今後は、教育行政との一体化をめざすより、学校における「『専門職』スタッフとして活力を引き出していく方が、学校-教職員の実践に対するアカウンタビリティーに答える学校経営を実現していく上においてより適切ではないか」と提言している。だが、この提言についても私は、こうした学校経営に関わる政策決定は、それを行政と呼ぶにしろ経営と呼ぶにしろ、それは学校と教育委員会が密接に連携・協力する中で推進していかざるをえないものであって、学校事務職員がこうした職務を専門的に担当するものである以上、教育行政機関との交流を否定的にとらえなければならない理由はないと考える。

 学校事務の仕事を、小川氏のように、教育委員会の教育行政機能と切り離して教員の仕事と同列のものととらえその職能成長を構想することは、私の長年の職務経験に照らし、それは決して、教職員による学校事務職員に対する真の尊敬と信頼をかち得る道とはならないと思う。そうではなくて、学校事務職員は、教員とは違った専門性の獲得をこそめざすべきであり、そうすることが、総合行政化の流れの中で教育行政あるいは学校経営の専門的自律性を確立することにつながるわけで、事務職員はいわば教育界の総合職として地位の確立をめざすべきであると思う。

 この意味において、私は、教育界の総合職としての事務職員の職能成長をはかるためには、教育現場における教育実践者たる教員との協働体験を基礎としながらも、その職務経験は小中学校のみでなく県立学校や他の教育行政部局にも、必要とあらば一般部局に出向してでも幅広く求めるべきであると思う。こうした学校事務職員の職能成長のあり様については、小川氏自身も、『学校事務』に連載中の「地方自治体の教育財政」-政策(科学的)研究と財務・政策立案能力向上の必要-と題する論考の末尾において、次のように積極的な評価をしているのである。

 「国と地方自治体の双方における財政規模の拡大が期待できない今日の状況において、教育費の優先的確保とか教育財政の固有性・独立性といった『観念的』発想はますますその意味と力を喪失してきているといえ、代わって、上記のような教育財政研究と、関係者の政策立案・財務能力の質的向上を強く要請してきていると考える。その意味で、現場の実務者であり、一般行財政と教育行財政の双方に精通している学校事務職員の自治体-学校における政策立案に果たす役割は大きいと言わざるを得ない。」(『学校事務』1995.12)

 ところが、こういいつつも、氏は、地域の学校経営機能を高めるためには、教育委員会の学校経営機能を高めることより、「学校の権限拡大=専門職スタッフとしての教職員の確保を図る」ことの方がベターではないかいうのである。また、事務職員の教育委員会との人事交流についても、あくまで、そうした原則をふまえた上での職能形成という意味では否定さるべきではない、としながらも、その主張の本旨において、それが教育行政職員の専門職化=官僚化を進めるものであるとして警戒する姿勢を崩していない。