教育委員会制度と学校事務

「教育委員会制もう一つの攻防」補説 -小川正人氏の疑問に答えて- 

私は教育行政『独立論』者ではない

 これに対する私の第一の反論は、まず、氏が私の「論法」とされた「教育行政専門職の確立=教育委員会の『独立』と権限の強化=教育行政専門事務職員の確保」という整理の仕方が必ずしも正確ではないという点にある。というのは、私は、前回の「教育委員会制もう一つの攻防」と題する論文においては、その副題にも示すとおり、あくまで地方における専門的教育行政機関であるところの教育委員会の、一般行政に対する「自律性」の如何を問題にしたのであって、その「独立」を主張したのではない。

 そのことは、私が、市川昭午氏の『教育行政の理論と構造』より引用した、氏のこの問題に対する見解―教育が社会発展にとって不可分の要素となり、総合的な行財政計画の一環たることを免れない今日、教育行財政の独立という主張はおよそ時代に逆行するものといえよう―をうけて、次のように主張していることでも明らかである。「問題は、この総合行政化の方向と教育行政の一体性の確保という、少なくとも過去において矛盾対立関係に陥りがちであったこの二つの課題を、共に満足させる制度的工夫があるや否やということで、学校事務職員の苦労も実はここに存していたのである」(『学校事務』1995.8月号p61)

 少なくとも私は先の論文における論考の出発点をここにおいていた。そしてその認識に至る前段として、戦後の教育行政改革における「教育行政の独立論」を田中耕太郎氏の論を中心に紹介したのである。それはなによりも、戦後の教育行政改革において教育行政と学校教育とが「対立的」ではなく「一体的」に捉えられていたという事実を紹介するためであって、そうした事実をふまえれば、学校事務と教育行政をことさらに区別する「論調」の非歴史性が明らかになると思ったからである。

 そういう意味では、私は、教育行政「独立」論者とはいえないので、この点については誤解なきよう訂正方お願いしておきたい。ところで、この教育行政「独立」論については、木田宏氏の紹介するところによれば、かの田中耕太郎氏でさえ、昭和32年頃には次のように述懐するに至ったとのことである。

「教育委員会が設けられたからといって教育権の独立が保証されるとは限らない。・・・それは、教育委員さらにそれを選挙する人々が教育を理解してこの制度を運用するかどうかにかかっている。そうした従来の経験に徴すれば、教育に対する理解は教育畑の者において優っており、それ以外の者において劣っているといいきれないものがある」(「司法権の独立と教育権の独立」ジュリスト1957.1.1)

 ここには、氏が、戦後、文部省学校教育局長の職にあったとき、教育の自主独立を強く求め、「地方における教育を知事の権限から引きはなし、教育行政を独立せしめ、教育者の自治に任せる」ことを推進したこのについての反省が語られている。つまり、ここにおいて、氏は、昭和25年の都道府県の教育委員選挙において三分の一を占めた教職員出身者の「教育に対する理解」力やその後の地方の教育界における「教育者の自治能力」に対する深刻な疑問を投げかけているのである。

 そして、こうした疑問が、私の先の論文において紹介したような、氏の、「教育行政は官僚的、政党的、組合的その他あらゆる不当な支配に服してはならないのであるが、それだからといって教育も法的秩序の枠内において行わなければならず、アナキーに陥ってはならない。制度上教育行政に関して責任を負う者の権限の行使に対して、教育者の自由や教育権の独立の名を以て反抗したり阻止したりすることは、教育者の地位を乱用するものである」という批判につながっていくのである。

 重ねて申し上げるが、私の、教育委員会の教育行政機関としての専門的自律性を向上すべしとの論は、以上のような認識の上に立って展開しているのであって、単純にその行財政上の一般行政からの「独立」を主張したり、また、教職員の自治能力に過度の期待をよせるものではないのである。従って、先の論文のおいて、私は、以前にはよく使った「教育事務職員」という言葉を、そうした誤解を避けるねらいもあってあえて使わなかった。