教育委員会制度と学校事務

国庫負担は定数問題である

2007年1月 1日 (月)

私は、平成5年1月号の『学校事務』誌に「国庫負担は定数問題である」という論文を発表した。この論文は、同誌編集長であった山口克夫氏より「名論分」との評価を受け、その後、『学校事務職員の給与費等の国庫負担問題の10年』と題する特別増刊号に収録された。これは、学校事務職員問題を現行教育委員会制度の二重管理構造の中で理解するとともに、その問題の所在を定数問題にあることを指摘したものである。市町村合併が進んでいる今日から見ると、多少の読替を必要とする箇所もあるが、その基本的視点は共同実施による学校事務の組織化が話題になっている今日においても、なおその重要性を失っていないと考える。

はじめに

 八年前、初めて学校事務職員等に対する国庫負担適用除外の問題が起こった年の翌年六〇年三月号の本誌に、私は、「いま学校事務を考える正しい視点を」という一文を書き、この問題が、必然的に、今日の「地歌行法」の下の教育委員会制度の矛盾、とりわけ、学校事務職員の学校管理運営組織上の位置づけの混乱という問題に逢着せざるを得ないであろうことを説き、教育委員会制度改革の展望を提起した上で、次のようにしめくくった。

 「なお、義務教育費国庫負担法の事務職員に対する適用除外の件であるが、教育委員会制が所説の通り変革された場合、その給与負担は自治体(この場合は都道府県)のみになってもかまわないのである。要するに、学校事務職員にとって最も大切なことは、その職務が教育委員会及び学校(経営)組織の中にしっかリ位置づけられるということであって、給与負担の問題は、それが定まれば自ずと落ち着くべき所に落ち着くのである。

 なぜ皆、この国庫負担適用除外を恐れるのか。いうまでもなく、己れの職務の学校経営及び教育行政組織上の位置づけに不安をもつからである。国庫負担というヒモがなくなると、自己の職がなくなるかもしれぬと恐れるからである。つまり、このことからも、学校事務職員にとって最も肝要なことは、国庫負担というヒモにすがることではなく、自己の職の学校経営・管理組織上の位置づけを確かにするということであるとわかるであろうと思う。」

 以来七年が経過した。この間、旅費・教材費、恩給費が一般財源化され、退職年金・退職一時金及び「共済費追加費用」については平成六年度からの一般財源化が予定され、残り共済長期給付費を除くといよいよ事務職員と学校栄養職員の給与費に手をつけざるを得ない状況に立ち至っている。ことに、本年度は、バブル経済崩壊後の景気低迷で四兆八千億に登る税収不足が予測されており、国会の勢力関係の変動もありまったく予断を許さぬ状況どなっている。

 私の学校事務職員としての国庫負担問題に関する考え方は、冒頭述べた七年前のものとほとんど変わっていない。もちろん、私の意見は、「地教行法」下の教育委員会制度の矛盾に端を発する「県費負担事務職員」の任用、定数上の抜本改革を前提とするものであって、そうした条件が満たされないまま、一方的に国庫負担制度から適用除外になることには反対であるから、今日までの中央及び地方における「適用除外阻止」にむけた取り組みには積極的に参加してきた。

 しかし、この間、国庫負担問題を機会に据え直すべき、学校事務職のあり方に関する「正しい視点の確立」という課題については、今なお成熟した一致点は見いだされておらず、むしろ、長年の闘争の疲れから、諦めや厭戦気分の方が強くなっているようであり、また、大蔵省もそうしたスキに乗じて攻勢を強めているようだから、ここで、我々のこの八年間の国庫負担問題をめぐる状況の変化をふまえつつ、新しい職の展望を切り開くための抜本的提案を行ってみたいと思う。

大蔵、自治省はこの七年でどう変わったか

 日教組は本年六月一五日、一九九三年度教育予算増額要求第一次中央行動」を実施し、大蔵省交渉を行ったが、この際、大蔵省の斉藤主計局長は、学校事務職員・栄養職員の国庫負担について次のように回答している。

「義務教育国庫負担は、本来教員給与の負担が基本であろうと思っている。今日、地方財政は豊かであり、自治省が一定保障した上で国から地方負担となった場合に、どこが都合が悪いのか理解できない。」

 ところで、昭和五九年十一月十四日に聞かれた財政制度審議会第一特別部会の席上大蔵省の示した、国庫負担制度から事務職員・栄養職員を適用除外とする理由は次のようなものであった。

 「義務教育に要する経費について国庫負担を行う基本理念は、『教育の機会均等とその水準の維持向上とを図る』ことにある。この基本理念からすれば、教壇に立つ先生の給与について国庫負担を行うことは必要であるとしても、事務職員や学校栄養職員の給与まで国庫負担する必要はないと考えられる。」

 この間七年余の年月が経過している。おそらく、この間に大蔵省に届いたであろう国庫負担法から事務職員・学校栄養職員を適用除外とすることに反対する声は、日教祖や全事研をけじめ、全連小・全中連、都道府県教育長協議会、文部省、さらに地方議会や国会に至るまで、その量とエネルギーには膨大なものがあったであろうと思われる。

 事実、これらの反対があったからこそ、その適用除外は今日まで引き延ばされてきたといえるわけである。しかし、大蔵省は、こうした執拗な反対意見にも拘わらず、その基本的スタンスをまったく変えていない。要するに、「国と地方の役割分担、負担割合を変えるということであり、それで学校事務職只今栄養職員の処遇をどうこうするという問題ではない。」(1990.11.8「教育予算増額要求第三次中央行動)というのである。

 ただ、わずかだが、「大蔵省は、学校事務職員・栄養職員を基幹職員でないと考えていない。(中略)国と地方の負担の割合を変化させる。例えば、地方の負担の割合を多くするなど考えていいと思う」1990.12.17「同上第四回次中央行動)と述べて、妥協の道を探る姿勢はみせている。

 一方、自治省のこの問題に対する最近の考え方は、昨年末一二月九日に行われた日教組の中央行動時の自治省交渉でほぼ明らかになっている。

 「自治省としては、この問題に対しては、義務教育の質を確保し、維持・発展させるための国と地方の費用負担のあり方という考え方でのぞみたい。費用負担だけで議論することには問題かある。義務教育の質と内容を堅持した上で、定数問題など、関係法の問題とセットでないといけない。これらが解決されれば、一般財源化もありうる。」

 こちらの方は、昭和六〇年当初、大蔵省の提案に対して「共済費や恩給費は性格が給与と同じで、地方が全額引き取る理由はなく、地方への押しつけだ。むしろ学校事務職員と栄養職員の人件費国庫負担分約九〇〇億円についてなら、両者は教員ではなく、地方に同化しているとの理由で見直しに応じる。」(『官庁速報』S60.11.11)というものであったが、これが、「学校事務職員・栄養職員、恩給・共済費とも地方財政にとって重要な問題である。自治省としては、同制度について(改悪された六一年以前の)本来の姿として堅持されるべきもので適切に措置されるべきであると考えている。」1988.11.22「第二次中央行勤)と変化した。

 しかし、一九九〇年一一月八日の交渉では、事務職員・学校栄養職員に対する国庫負担制度堅持に同意を示しつつも、一般財源化についての議論としては、『地方の権能が高まるなら検討の余地もある』という言い方もある」と含みを残した発言を行い、これが、一九九一年一二月九日の先に述べた「定数問題が解決すれば」という意見につながるのである。

自治省の変化の先に見えるもの

 これらの大蔵、自治両省の「国庫負担問題」に対する見解の変化を対比的に見てみると、当初は、両省間のコミュニケーションギャップが明らかであり、事務職員・学校栄養職員についての理解も、大蔵省は、「教壇に立つ、立たない」といった皮相な差異法をとったり、自治省は、自治体の立場にのみ傾斜した見解を表明するなど、その後の、反対運動の盛り上がりなどほとんど予測できない程の無知なレベルにとどまっていた。

 しかし、ここにきてようやく両省の合意が成立するかに見える。それは、大蔵省は、国の財政が逼迫しかつ「今日地方財政は豊か」という状況がある限り、引続き、義務教育費国庫負担金の地方交付税化による地方負担を推進する構えであり、自治省は、事務職員・学校栄養職員に対する国庫負担はずしについては、定数確保のためのなんらかの法的措置がとられるなら「一般財源化もありうる」と大蔵省の方針に同調しはじめているのである。

 実は、この大蔵省の「今日地方財政は豊かである」という言い分け、昭和六〇年の最初の提案から明確にでており、このことは、学校事務職員と栄養職員の人件費や共済費、恩給費、児童手当、公務災害保障基金拠出金の二分の一の国庫負担を廃止することの外に、地方交付税不交付団体の同負担金一〇%削減という提案が含まれていたことによっても、容易に分かる。

 私は、宮崎県という典型的な「三割自治」体に勤務するものなので、この「今日地方財政は豊かである」という大蔵省の言い分の意味がピンとこなかったが、考えてみれば、財政力指数が一以上の地方交付税不交付団体である東京都、神奈川県、大阪府、愛知県(平成四年度)等は、限度政令に基づく定員定額制(交付団体は定員実額制)による最高限度額の調整措置がとられる外は、ほぼ二分の一に近い国庫負担を受けているのである。

 従って、これが地方交付税化された場合の、国の財政上のトータルの節減効果は、私たちの予想よりけるかに大きく、過去の類似のデーターから類推した説によると、国の負担分は国庫負担した場合の数割以下にとどまるともいわれている。とすれば、本来、こうした国庫負担外しに最も強く反対すべきは、宮崎などの地方県ではなく東京や大阪などの大都市であるべきだが、何はともあれ大蔵省がこの問題に執心する真の理由が分かろうというものである。

 当然、国の財政状況の如何によっては、教員給与に対する国庫負担についても、まずは不交付団体に対する交付率の削減に始まり、交付率そのものについても二分の一以下とする提案がなされることは必至と見なければならない。いま大蔵省が私たちの国庫負担外しについていっている「自治省が一定保障した上で国から地方負担となった場合に、どこが悪いか理解できない」という言い分は、そのまま教員給与についても当てはまるものだからである。

 だが私は、このことを「だから教員も国庫負担問題を自分の問題として真剣に受け止めるべきだ」というようにいうつもりはない。というのは、教員給与にたいする国庫負担制度をいじることは、大正七年の「市町村義務教育費国庫負担法」(定額)に始まり、昭和一五年の「義務教育費国庫負担法」によって市町村立学校教員の俸給の二分の一国庫負担を定めたわが国の教育財政上の「伝統」に抵触するものであり、文部省自体も義務教育に対する規制力を維持する上からも容易には譲らないであろうと思われるからである。

 ということは、ひるがえってみれば、事務職員・学校栄養職員に村する国庫負担適用除外については、文部省にとって、その基幹職員としての位置づけ方に変わりはないとしても、教員のそれに比べればけるかに気が楽ということになる。もちろん、今日までの文部省の、大蔵省の一方的な言い分に対する義務教育の主管庁としての辛抱強い抵抗は大いに評価すべきだが、どうやらここにきて「三省間合意」ができつつあるとみた方がよいと思うのである。

国庫負担が外された場合

 さて、もし、事務職員に対する国庫負担が外された場合の最大の問題点は、その身分が都道府県あるいは市町村のいずれに帰属することになるかということである。これは、「国庫負担問題」が発生した当初からあり、いや、この問題が自覚されたからこそ「国庫負担法適用除外阻止闘争」が全国的な盛り上がりを見せたともいえるのである。

 というのは、東京や大阪などの特別区は政令都市以外の地方の学校事務職員にとって、その身分が県から市町村に移されるかもしれないという不安は、首切りとか「身分の切下げ」とはいわないまでも、当然、給料ほか勤務条件の切下げにつながりかねないものであり、また、長年の「職務確立しの運動の経過からいっても、そのための手がかりを一挙に失うことにもなりかねないのである。

 ここで、「東京や大阪などの特別区や政令都市以外は」と条件をつけたのは、これらの都市の場合は、地方の市町村の場合と違って、逆に「県費負担教職員制度」が桎梏になっており、つまり、本来区職員や市職員であった方が人事管理上すっきりするのに、たまたま「県費負担教職員」であるために、職務上密接な関係にある区や市の教育委貝合から疎外されるという問題が生じているからである。(特に政令都市の場合は、教職員の給与負担者と任命権者が分離している)

 従って、これらの都市の場合は、むしろ事務職員に村する国庫負担が外されて区、市職員に任用替えになった方がよいわけで、実際、このことは学校事務という職務の円滑な遂行という面からも、また、事務職員自身の精神衛生の面からも、あるいは給与はか勤務条件の面からみてもこの方がよいといえる面が多々あるのである。

 しかし、これらは全国の自治体総数からみればごくわずかであり(平成四年現在で一二都市)、当然のことながら、国庫負担問題についての事務職員の世論を代表しえていない。おそらく、大蔵省の提案自体、先に述べた不交付団体に村する国庫負担制度の特つ矛盾と共に、この学校事務職員の任用上の矛盾を特別区や政令都市に見た結果なのではないかと思われるのだが・・・。

 そこで本論に戻ると、この「国庫負担外し」が「市町村費化」につながることを最初に指摘したのは、「全学労連」の人々である。その論拠は、地方財政法九条の設置者負担主義にあるとし、もし事務職員の給与に村する国庫負担が外されたなら、同法一〇条の設置者負担主義の例外規定「国と地方の利害が関係し、円滑な運営に資するため・・・国が全部又は一部を負担する」に該当しなくなるから、必然的に設置者負担主義の原則にもどり市町村任用となるというものである。

 こうした見解に対し、「都校職組事務研究グループ」の人々は、「国の臨調・行革攻撃との関連で考えれば、国の狙いが教育・福祉を中心とする国庫負担の滅であり、地方への負担耘嫁である。県費負担教職員の位置づけを変更しようとすることを必ずしも狙っているわけではない」といい、「特に、『地教行法』第三七条以下に規定される『県費負担教職員』の枠組みを変更することは、教育の機会均等とその水準の維持向上を目的とし体系化されている以上、妥当性を欠くことになる」として「市町村費化」論を批判し、併せて「県費負担教職員制度の安定」を主張した。

「県費負担教職員制度」の矛盾 

 私も、国庫負担が外れた場合、事務職員は基本的には「県費負担教職員」のまま残ると思う。その理由は、きわめて「実態論的」なもので、現在の「地教行法」下の教育委員会制度のもとでは、「県費負担事務職員」のほかに、学校、地教委、県教委を日常の事務活動を通して連結する者はいないと思うからである。つまり、今日の地方教育行政制度は、県費負担事務職員のこうした努力に支えられて初めて機能しているといえるのである。

 また、こうした状況は、犬前研一氏のいう「道州制」下のコミユニテイ構想でもできない限り、こと公立小中学校の管理運営ということについては、当分、県教委が市町村教委を専門的事項に関する指導、助言や「人材派遣」等を通して、全体的調整を図っていく、という形で推移せざるを得ないであろう。そして、この場合、事務管理面における「人材派遣」がまさに県費負担事務職員ともいえるわけである。

 こうした事務職員の役割は、いわゆる「県費負担教職員制度」によって必然的にもたらされたものである。もともと、この教職員の給与費を県費で負担する制度は、教職員給与費が財政力の弱い市町村の負担となると、給与水準も低くなり、一定水準の教職員の確保が難しくなり、ひいては教育水準の維持向上が困難になることを避ける意味から昭和一五年に導入されたものである。

 事務職員に対する県費負担は、同様の理由から、昭和二三年、「市町村立の小学校及び中学校並びに青年学校職員の俸給その他給与の負担に関する政令」が制定された時に、「地方事務官たる職員」がその対象とされ(昭和二二年四月一日適用)、これが昭和二三年七月には市町村立学校職員給与負担法となり、地方公務員法の制定を待って昭和二六年から「事務職員」が本条の適用職員となった。(この場合の「事務職員」は「地方事務官=官吏」という沿革から「吏員に相当する者」とされた)

 もちろん、「県費負担教職員」という概念自体は、昭和三一年の「地教行法」により採用されたものであるが、その母胎となる県費負担の事務職員の存在そのものは、すでに昭和二三年の「地方事務官」の時代にできあがっていたのである。

 従って、事務職員に対する国庫負担が外された場合、事務職員の給与負担はいずれ市町村となるという見解は、事務職員給与に対する国庫負担は昭和ニ八年に開始されたという事実を指摘するまでもなく、また、今日の市町村財政の現状を見ても妥当性を欠くものといわざるを得ない。

 しかしながら、この「県費負担事務職員制度」になんの矛盾もなく、あたかもこれを公理のごとく使って、学校に固有の職員=学校閉鎖職としての学校事務職員のあり方を演鐸しようとする態度にも、私は到底納得できない。というのも、私は、この「県費負担事務職員制度」の実態の正確な理解こそが、いわゆる「学校事務職員問題」の正しい理解とその有効な解決策をもたらしてくれると考えるからである。そして、この制度の矛盾は、先に述べた通り、特別区や政令都市においてはより鮮明に自覚されているはずである。

 もちろん、これは、現れ方はすこし違うけれども、宮崎のような地方の事務職員にも気づかれていたことであって、私の場合は、学校事務職員として採用され、田舎の教育委員会に配置されることになった瞬間から、任命権者である県教委と赴任することになった勤務先の学校を管理する地教委との関係がどうしても分からず、採用直後の研修会でしつこく担当講師に質問をして、相手を許易させた経験があるのである。

市町村教育委員会設置の歴史的経緯 

 こうした私の疑問は、採用二年目に県の事務研究会で研究発表をすることになったときの資料調べの析りに、旧教育委員合法の第二五条の教育委員会事務局の事務職員を規定する項に、「学校の事務職員」が入っているのを発見して氷解した。つまり、組織論的に言えば、「学校の事務職員」は教育委員会の事務局の事務職員と同様に取り扱われるべき職であったのである。つまり、それがなんらかの理由で切り放され、学校固有の職員のごとく取り扱われるようになったのである。

 こうして、私の、日本の教育委員会制度に関する研究が始まった。次に、その成立史について述べる。

 戦後の日本に「教育委員会制度」を持ち込んだのは、米国教育使節団であるが、これは日本の歴史的文化的土壌にただちにマッチするものではなく、ことにこれを全国の市町村に設置義務とすることは、当時の市町村のおかれた行財政状況のもとにあってははなはだ困難なことであった。このため、「旧教育委員会法」施行後も、教育委員会を設置した一部の市町村(二一市、一六町、九村)を除いて、その設置義務が昭和二五年一一月まで延期され、その設置の日まで、未設置の市町村の教育事務は都道府県教育委員会が所管することとしたのである。

 しかし、その後、「政府は教育委員会設置以来一年間の実情を検討した結果、教育委員会を全国の市町村に設置するには、その規模、組織、権限等について、なお、調査研究する必要があるという見解に達し」、教育委員会の設置期日を昭和二七年一一月まで延期する法案を国会に提出し可決成立させた。そして、それまでの間、各種の教育委員会制度に関する政府諮問会議がもたれ答申がなされたが、これらがほぼ一致した見解をとっていたものが、教育委員会の設置単位の問題であり、そのいずれもが市町村への「全面設置反対」であった。

 こうした答申を受けて文部省は、再び、教育委員会の全面置をさらに一年延期する法律案を昭和二七年第二二国会に提出したが、この法案は衆院文教委員会で、突如、与党自由党によって否決され、同年八月、国会において審議未了となり、この結果、教育委員会は全国の市町村に義務設置されることになった。

 もともとこの法案は、文部省が大蔵自治庁とも協議し、社会党や日教組もこれに同調していたものなので、この法案の不成立は「文部省にとってはまさに晴天の霹靂と称すべきもの」であり、同省は「この意想外の事実に遭遇して、『周章狼狽、なすところを知らない』有様であった」といわれている。

 では、なぜ与党自由党は各種の答申や地方公共団体の大方の意志に反してこれを強行したのだろうか。それは、当時、「日教組は官僚制を廃し教育の自由と教師の自由を保障することを掲げて、教育委員選挙に積極的に取り組み、組織力を使って組合員や推薦者を多数当選させたため、保守勢力は市町村にまで教育委員会を設置して委員に地域の有力者を送りこみ、日教組の監視を図った」ためであるとされている。

 当時、文部省にあって、その衝に当たっていた相良惟一文部省総務課長は、次のように述懐している。「いわずとしれた、それは日教組対策に外ならなかった。日教組の進出に、強い反感と恐怖を持っていた自由党が、日教組勢力の分断を策するために、地教委をいっせいに設け、任命権をそこに移し、日教組の監視役たらしめようという意図をもったのである。」(山本敏夫、伊藤和衛共編・新しい教育委員会制度所収「教育委員会制のためになげく」)

 こうして全国の市町村に教育委員会が設置されることになった。しかし、「必要な諸要件の未整備という客観的に不利な条件のほかに、創置後年月の浅いこの制度の運営に、委員たちが十分習熟しない、というやむを得ない事情もあって」市町村教育委員会は、教員人事や財政活動など実際の運営面において、種々の混乱を引き起こさざるを得なかった。このため、特に、行財政面で教育委員会と密接な関連を有する地方自治体側から地教委廃止の激しい運動が湧き起こってくるのである。

 しかし、政府はこれらの廃止論にたいして、当初は日教組対策の立場からその「育成策」を主張して譲らなかったが、地方財政の窮迫や教員人事の停滞等を理由に強くなる批判的世論に対処するため、この根本的改正の意図を示し始めた。その手はじめが「地財再建法」(S30・2.29公布)及び「地方自治法一部改正法」(S31.6.12公布)で、これにより教育委員会の財政権が大きく制限されることになった。もちろんこれは、地方自治体側の要求に洽ったものであった。

 そして、その総仕上げとして提出されたものが「地方教育行政の組織及び運営に関する法律案」で、その改正要点は第一に、教育委員の公選制を任命制にすること。第二が、教育委員会の予算送付権を廃し、支出命令権を長に移すこと。第三が、教職員の人事権を都道府県教委に移すことと、教育長の任命は、都道府県は文部大臣の、市町村は都道府県教委の承認を得ることなどであった。これによって、教育行政の文部省から地教委に至る安定性と一貫制を確保しようとしたのである。

 この法律案は、国会内外において、与野党、学会、教育界、地方自治体、PTA等を巻き込み、わが国教育史上類を見ない激しい争論に発展していった。しかし、国会における審議は、「対立激化の余り中身のない感情論に終始し」、「制度の建前に関する抽象的な議論ばかりが目立つ」といった有様で、こうした情勢に対し政府与党は、法案の強制突破を策し、四月二〇日、自由党の単独投票で衆院通過し、同日参院に送付された。

 しかし、参院においても十分に審議は行われず膠着状態に陥り、ついに五月三一日の参院本会議では、与野党入り乱れての乱闘となり、衛視六名が重軽傷を負うという惨劇を呈した。そして、六月二日に至り、ついに「警察権導入という国会史上空前の異常な状況下に『地方教育行政の組織及び運営に関する法律案』は、一字一句の修正も加えられることなく、参院で可決成立し、六月三〇日法律第一六二号として公布された」のである。

「地教行法」と学校事務職員

 これが全国の市町村に教育委員会が設置されることになった歴史的経緯である。そして、これを強力に推進した政府与党の主たる意図が日教組対策であったことは先に述べた通りである。しかしながら、それでは、この法律がその後、戦前のような「教育の国家統制」を現出せしめたかというと、意外にこれは杞憂に終わったといわざるを得ない。また、教育委員会の財政権剥奪による教育費圧迫も憂慮されたが、その後の「義務教育費国庫負担制度」の拡充発展もあり、心配されるほどの事態を招致していない。

 もちろん、政府与党及び文部省と日教組の対立はこの後もますます熾烈になる。昭和三一年に始まる「勤評闘争」、昭和三六年に始まる「学テ闘争」、同時期に始まる「教科書」や「教育課程」をめぐる「教育闘争」、昭和四〇年代の「賃金・定員闘争」、昭和五〇年代の「主任手当反対闘争」など枚挙にいとまがないが、しかし、「地教行法」以前に積み残された課題についての議論は、当初の危ぐや懸念の犬きさに比べると意外なほど少ないのである。

 教育委員の公選制、教育委員会の財政権、教育長の承認制の問題、さらに、市町村教育委員会の設置規模の問題などそのいずれも、関係者や世論の関心を引く問題にはなっていない。これは、昭和三〇年代の日教組の「公定理論」となった「民主国民教育論」が、「教師の教有権の独立」を主張し、教育行政の教育内容介入を拒否する立場を取ったため、国民の、教育行政の組織編成のあり方に関する関心が失われたともいえるが、実際上は、これらの問題に起因する関係者の不利益がそれほど問題とならなかったことによると思われる。

 しかし、事務磯貝にとっては事情はまったく異なっていた。というのは、事務職員の職務は、教育委員会の組織や運営のあり方に密接に結び付いている故に、必然的にその矛盾による不利益を披らざるを得なかったからである。学校経営近代化論に端を発した「重層構造VS単層構造」論は、学校の組織編成あるいは教育委員会との機能分担のおり方を問題にするものであったし、それにともなって試みられた膨大な「事務分析」は、事務職員の職務の分類や量の測定、あるいは分担の仕方や権限の配分を論じて、その近代的な組織再編を目指すものであった。

 ところが、このような学校及び教育委員会の組織の再編成につながるはずの研究も、日教組の「教師の教有権の独立」をペースとする理論的制約を容易に脱しきれなかったため十分には発展することができなかった。そのため、教育委員会制度の組織編成やその運営のあり方と関わって、学校事務職員の職務や任用のあり方をトータルに論ずることができず、また、「県費負担事務職員制度」の持つ矛盾についても的確な認識をもつことができなかったのである。

 公立小中学校の事務職員にとって「県費負担事務職員制度」の持つ意昧はなにか。それは、今日の教有委員会制度のもとでは「学校の管理機関と教職員の任命権者が市町村と都道府県に別れるため、学校は一種の二重管理のもとに置かれる。そのため、地方教育行政制度全休の組織運営が複雑になり、特に、管理事務系の職員組織が学校、市町村、都道府県毎分離する傾向があり、学校事務の場合は丁度これら三者の結節点に置かれるため、その組織編成上の矛盾を集中的に受けざるをえない」ということであろう。

 もちろん、こうした認識は、現行教育委員会制度の矛盾を認めながらも、その実際的機能において、それが「さしたる支障もなく」運営されているという事実を一応肯定した上でのものである。ただし、事務職員の目からみれば、これはほとんど事務職員の犠牲によりかろうじて保たれたバランスであって、その犠牲があって初めて、教師も地教委もあるいは都道府県教委も、自らの組織の内部的権衡のバランスを保持し得てきたのである。もちろん、こうしたバランスが、「学校経営機能の確立」という視点に照らして問題をはらむものであることはいうまでもない。

 「国庫負担問題」は、こうした地方教育行政組織における矛盾と、さきに述べたような学校事務職員の置かれた困難な立場について、中央省庁さえまったく無知であるという事実をはしなくもさらけ出すこととなった。そもそも、このような地方教育行政組織における矛盾をしつらえ、義務制学校の事務職員に多大な犠牲を強いた直接の責任者が、ほかでもない政府与党であり、「臨教審」等でも強く改善を指摘された教育委員会の「非活性化」した体質は、その帰結であるにもかかわらず・・・。

大阪の「学校事務センター」の普遍性

 いわゆる「学校事務職員問題」といわれる問題の素因は、この、教育委員会制度下の「県費負担事務職員制度」に胚胎しているのである。また、このことは、言葉を換えていえば、「県費負担教職員」たる事務職員のその職務に対して直接的に責任を負うべき管理主体が消失してしまうことを意味する。もちろん、戦後の教育界が「教育VS行政」という対立図式に支配され、政府の教育行政施策も「日教組対策」に終始したために、肝心の教育委員会制度に関する調査研究がネグられたことがこの混乱の主要因ではあるが。

 私は、こうした観点から教育委員会制度改革の必要を説き、地教委の設置規模を教育事務所レベル(昔の郡単位)に拡大し、そこに学校経営機関としてのトータルな権限を付与し、教職員制度としては、現在の県費負担教職員制度を生かすべきことを主張してきた。しかし、「臨教審」答申を見ても分かる通り、地教委を現在の市町村の行政区割を越えて設置する構想は、まさか、先述した「対策」が生き残っているわけでもあるまいが正面から論議された形跡がない。

 まさに一介の事務職員にはどうしようもないことであるが、だからといって、現行教育委員会制度のもとにおいて公立小中学校の事務職員が披っている不利益をいくらかでも解消する工夫や、その当然担うべき職務のついてのモラル改善の方途を模索する努力は放てきする訳にはいかない。そして、このことを考えるとき最も参考になる事例が、今日、事務職員間で話題を集めている大阪市の「学校事務センター」ある。では、次に、こうした大阪の「学校事務再編」を可能にした制度的条件について考えてみよう。

 大阪市の「学校事務センター」が語られるとき必ず前置きされることは、大阪市の学校事務職員制度の「全国的に例のない状況」についてである。これは、「大阪市の中学校には、国の標準定数法に基づく府費事務職員に加え、設置者負担の市費事務職員が二名配置されてきたこと。採用区分も一般行政職ではなく、学校事務職員として独白に採用され、異動も学校間に限られること。校内での事務分担も府費、市芦の経済負担区分に関係なく、まったく同一であり、組合も、市費事務職員は自治労ではなく、日教組に組織されていた。」等々である。

 だが、多くの場合、こうした「特殊な」状況が語られる時、大阪市の「学校事務センター」に見られるような「学校事務の再編成」は、全国的には決して普遍性を持ち得ないであろうことが暗黙の内に了解されている。多分ここには、当事者の「遠慮」もあろうし、また、こうした思い切った「対案闘争が、慣れ親しんできた「抵抗闘争」に及ぼすインパクトを回避しようとする運動家心理も慟いているのかも知れない。

 しかし、私見によれば、この大阪の「学校事務センター」によって提起された問題は、決して「大阪市に特殊な状況」として説明さるべきものではなく、まさに、全国に共通する「学校浄恪職員問題」の解決の核心をつくものとして再把握さるべき思うのである。要するに、ポイントは教育委員会制度の問題、なかんずく「地教行法」下における教育事務の二重管理の問題であり、公立小中学校の管理運営上の権限が市町村と都道府県に二分されているという問題なのである。

 大阪市は、人口規模は三〇〇万に近いにも関わらず教育委員会は一つしかない。しかも区には教育委員会はない。(東京都の場合、区は特別区であって教育委員会を持つ)また、政令都市であるので通常都道府県が持つ教職員の任命権を持つ。しかも、県費負担教職員の給与事務が市に委託されているため、他県には必ず存在する教育事務所がない。つまり、さきに指摘した学校の管理運営組織の二重管理の問題が実際上生じていないのである。

 大阪市がなぜ「府費・市費一体の体制を堅持」できたかは実はこうした制度的条件によっている。また、その人口規模が地方の県の二倍近くありながら、一つの教育委員会で高校から幼稚園まで五三〇校園を管理運営しなければならないのであるから、その効率的な事務処理を図るためには管理組織の分権化を図らざるを得ない。従前の、区の学務課が学校財務に関する事務を処理する方法は、教育委員会制度の建前からいえば不適切ということになろう。

 つまり、他県には必ずある教育事務の二重管理の問題から大阪市は免れているのである。おそらくこうした状況下におかれるならば、学校事務職員がたとえ形式だけにもせよ府費と市費に二分されることは不自然に思われようし、それをあえて区別しようとすればそちらの方が非常識ということになる。しかし、不可解極まることだが、「県費負担教職員制度」はその分離をあえて強行せずにはおかないのである。

 本誌、九二年五月号の守山禎三氏の伝えるところによると、「府費・市費一体の体制を堅持」しようとする運動の中で、府費事務職員を事務センターに異動させる場合、その身分を「研修生」としなければならず、また府からは「研修生」について「研修であるなら一年もたてば成果もあるだろうから報告してもらいたい」(学校事務センター問題について府教育委員会の回答)との要請をうけているとのことである。

 また、「今後のことであるが、国庫負担との兼ね会いで現在の状況をそのまま続けることは難しいだろう」(同上)とされ、初年度は「ニ八名もの府費職員を『研修』と称して『学校事務センター』に強引に勤務させていた大阪市当局が文部省や大阪府の指摘を受け、さらに、会計検査院の監査対象になるということに恐れをなしてか、一九九〇年度末の人事異動においては、一人の府費職員も転勤させることができなかった」というのである。

 一体、これら一連の関係者の中で誰が「常識」にかなっているのであろうか。大阪市であろうか、それとも大阪府や文部省、会計検査委員であろうか。まさか、大阪府は、「学校事務センター」に文句をつけている訳でもあるまい。では、県費負担教職員たる学校事務職員が市の機関に異動することを阻止せんとしているのか。その理由はなにか。まさか「学校にいてこそ学校事務」を主張している訳でもあるまい。第一、彼らの任命権者は市の教育委員会であり、その身分は文字どおり市町村に置かれているのだから。では、一体なんのために・・・。

 先の大阪府の教育委員会の見解によれば、要するに、府費事務職員が「学校事務センター」に異動できないのは、その給料の半分が国庫負担されているからであるらしいが、国庫負担で給料が倍になるならともかく、格別相違もなければ、多分、異動を阻止された府費事務職員にとって「国庫負担」など疎ましき宿縁としか映るまい。特に、「学校事務センター」で府費事務職員を職制に充てようとするなら、市費事務職員への任用替えが必要になるはずだから、初めから「市費事務職員の方がよい」となるのは見えた道理である。 

政令都市は「市費化」、その他は「県費化」が正解 

 つまり、結論からいうなら、学校事務職員制度の望ましいあり方としては、政令都市の場合は学校事務職員の任用を市費に一本化する方がよいのである。というのは、もともと「地教行法」は教職員の任命権と給与の負担団休とを一致させることにその主要な改正点があったのであり、政令都市の場合は、任命権が市に残ったために、先に述べた大阪市のような場合は例外として、住の政令都市や東京都の特別区の場合は、この任命権者と給与負担者の分離の問題がそのまま残ることになったからである。

 だが、もともと政令都市は人口五〇万以上の大都市(平成四年現在、犬阪、名古屋、京都、横浜、千葉、神戸、北九州、札幌、川崎、福岡、広島、仙台のこI都市)で都道府県に準じる行政単位として扱われるのだから、県費負担事務職員の給与費は「県費負担事務職員制度」が残ったとしても市の方に措置されてもよいのではないだろうか。また、国庫負担が残っても、政令都市の場合は市の方に国庫負担措置をしてもよさそうなものである。(こうした議論は昭和二七年の「義務教育費国庫負担法」の時点からあるそうである)

 また、大阪の場合は、市費事務職員の配置についても、中学校に二名配置されてきたということだが、もともと地方交付税法による基準財政需用額の算定基準に基づく財源保障として、市には、中学校一五学級、小学校一八学級に一名の割で一人当り四六八万円の給与費が措置されることになっているのだから、つまり、ここで設定された基準が「標準的な行政水準」のめやすになっているのだから、市が「標準定教法を越える市費事務職員の削減に本腰を入れ」なければならない理由はないというべきである。

 そこで、政令都市以外の、つまり性の都道府県の場合を考えてみる。この場合は、公立小中学校の教職員の任命権と給与の負推考は都道府県に一致しているが、その教職員の「服務監督権」は市町村教育委員会にあり(東京都の場合は少し違う)、特に、学校の財産管理及び学校運営費にかかる予算執行権が市町村にあるため、学校管理運営上の権限は、任命権者でありかつ給与負担者たる都道府県教育委貝合と、学校管理権を有する市町村教育委員会とに実質的に二分されることになっているのである。

 これが、全国の大多数の公立小中学校事務職員を悩ましている「本来の」二重管理の問題である。ここにおける最大の問題は、学校事務職員の、地方の教育行政組織の中における職務の系統制が曖昧になること、その管理主体の責任感が希薄になるということである。もちろん考え方によっては、そのおかげで公立小中学校事務の自由な雰囲気が保てているといえなくもないが、本質的には、これによって学校事務職が単数配置の現状のまま放置され、結果的にその学校への閉鎖化が定着することになっているのである。

 このことが、どれだけ公立小中学校の事務職員を苦しめてきたかについては、周知のことであるので再論を控えるが、ここでは、今日の教育委員会制度に当分変更のないことを前提に、この中で学校事務職員だけがその矛盾のしわ寄せを受けるという状態をいかに解消するかについてその抜本的方策を提起したいと思う。いうまでもなく、そのポイントは、さきに述べた学校の管理運営組織上の二重管理の問題を現行制度下でいかに克服するかということである。

 さきに政令都市の場合は学校事務職員の制度を「市費化」で統一した方がよいと述べたが、この点では、政令都市以外の学校事務職員の場合は、市町村の事務職員を含めて「県費化」した方がよいのである。つまり、現在「事務補助具」として地方交付税の積算基礎にあげられている職員を県費化し、県費負担教職員として一括して県の条例で定数規定するということである。これによって基本的な「複数配置」を実現し、人事任用制度における尉鎖制をやぶることによって、合理的な組織体制を確立するのである。 

学校事務職員問題は定数問題

 全事研宮崎大会のシンポジウムで、東京の高梨氏が、関東地区の事務職員の研修会に助言者として出席した文部省の係官が、かって、次のようなことをいったと伝えている。「いろいろ進展のない研究をしているが、その(学校事務職員問題)根本の原因は定数の問題だ。これが解決すれば大部分の問が解決する。」実は、私も、学校事務職員問題とは、要するに 「職務の基盤が不安定」ということ、その不安定の根本原因はその定数規定が曖昧なことにあると思う。

 現在の学校事務職員の定数は「義務教育標準法」により定められているが、その水準は、学校教育法に「但し、特別の事情かおるときは、事務職員を置かないことができる」とされていることから、いまだ、「全校配置」が追求されている状況であって、基本的には単数配置の段階にあるといえる。しかし、私の体験に照らしていえば、この「義務教育標準法」の「単数配置」を容認している限り、公立小中学校の学校事務職に未来はないと思う。

 文部省は、ここでいう「特別の事情」というのは主として財政問題と説明しているが、問題は、学校教育法の「事務職員」の中に、地方交付税法の基準財政需用額の積算基礎にあげられている「事務補助員」が含まれるか否かということである。一説によると、文部省は「含まれる」との見解を示したことがあるそうだが、この問題こそ、公立小中学校の事務職員の定数を考える場合最も重要な問題と思うのである。

 というのは、この「事務補助員」というのは、沿革的にいえば、要するに「吏員に相当するもの」以外の事務職員をいうのであるが、昭和三九年度からは義務教育標準法が改正されて「これに(吏員)準ずるもの」の採用が可能となったことから、これと「事務補助員」との「資格上の区別」はほとんどなくなっているのである。ただ違うのは、前者の給与負担者が市町村費負担であり、後者は都道府県負担ということだけである。

 ところが、この「給与負担者の違い」というのは、実際的は天と地ほどの差を生ずるのである。第一、給与負担者が違うということは要するに任命権者が違うということで、つまり、同じ事務室に勤務する事務職員でありながら両者は勤務条件を全く異にし、その職制上の関係もほとんど未確立のまま放置されているということである。第二に、県費負担事務職員の場合は義務教育標準法に定数規定されているが、市町村費事務職員の場合は基準財政需用額の積算基礎に配置基準が示されているのみで、その配置の規制力がほとんどないことである。

 従って、全国的にみて、この県費負担事務職員と市町村費負担事務職員とが事務室の組織的運営のために協力しあい、人間的にも良好な関係を維持している自治体というのは、おそらく「大阪市」のような例外を除いて皆無に近いのではないかと思う。そして、さきにも言及したが、全国唯一、両者の「一体の体制を堅持」している大阪市に対しても、「学校事務センター」との交流問題に関わって、両者を分断しようとする力が働いているのである。

 私は、公立小中学校事務のこの「県費、市町村費混合体制」を、今回の国庫負担問題を契機になんとか統一の方向に持っていかなければならないと思っているのである。というのは、この体制を維持ずる限り、両者の学校事務職員としての職務関係を合理的に編成することは不可能と思うからである。これを放置したままでは、市町村は両者のあつれきを利用してその引き上げの一層の推進をはかるだけだから、「国庫負担後」の定数規定は初めから、「事務補助員」抜きで作られる可能性が高いのである。

 公立高等学校の定数規定は「公立高等学校の設置、適正配置及び教職員定数の標準等に関する法律」に定められており、事務職員の場合は、普通校で六学級から二名、それから九学級増える毎に一名加算、一ハ学級以上になるとさらに一名加算(図書担当)という定数規定になっている。また、標準規模の学校(生徒数六七五名、職員四一名)で「職員B」の区分で四名の職員が地方交付税の積算基礎にあげられている。

 これに比べて、公立小中学校事務職員の場合は、国庫負担適用除外後も、今日の県費負担教職員制度の安定度を見る限り、「県費負担事務職員制度」は残ると思われるが、先に述べた県費と市町村費の事務職員が雑居することによる矛盾とあつれきは一層拡大するであろうから、せっかくの「事務補助員」定数も市町村への引き上げによってその実態がなくなる可能性があるのである。従って、早急にその県費化を図り、少なくとも中学校9学級、小学校11学級程度以上の複数化を実現すべきであると考える。

 要するに、公立小中学校の事務職員にとって「国庫負担問題」をめぐる混乱とは、ただでさえ不安定な職務が、国庫負担が外されるこどによって一層不安定さを増すことであろうことを、直感的に感じ取った結果起こったのではないかと思われるのである。従って、この問題の解決は、国庫負担が残る残らないということよりも、「吏員相当」の事務職員を含む事務室体制は複数制が基本であるというしごく当然のことを堂々と主張し、これを機会に「事務室複数制」を実現することであろうと思う。その意味において、私は、国庫負担問題とはまさに定数問題にほかならないと思うのである。 

定数と職務の関係

 では、最後に、この「事務補助員」の県費化ということの可能性について検討してみたい。「事務補助員」とは「吏員に相当する者」以外の事務職員という意味であって、それは「資格的」には吏員に「準ずる者」と同程度と考えられることについてはすでに述べた。ではなぜ、「事務補助員」が県費化せず市町村費にとどまったかは、「一定水準の教職員を確保することによって教育水準の維持向上を図る」という「給与負担法の趣旨」に照らせば、事務職員の場合は「吏員相当の者」が県費負担の対象となり、それ以外は「設置者としての市町付加必要に応じてこれを置く」とされたからである。

 しかし、こうした区別は昭和39年に「準ずるもの」の採用が可能になった時点から実際上の意味を失っているのである。また、同じ事務室に働く事務職員についてその任命権者及び給与負担者が違うということは、それは勤務条件はじめ福利厚生団体から職員団体の所属関係まで異にすることを意味するわけで、これは、両者の健全な職務関係の育成など初めから諦めているようなものである。従って、公立小中学校の事務室機能の確立を望む限り、両者の任用制度上の一本化は絶対の必要条件であると思う。

 ところで「準ずるもの」の職務規定は、「校長または吏員に相当する事務職員の行う事務を助ける」と政令で定められており、もし、吏員の相当する事務職員がいなくなってしまった場合は「校長の行う事務を助ける」ということになり、いねば校長秘書に近い存在となってしまう。従って、公立小中学校の事務室機能を確立していくためには「吏員に相当する」事務職員の採用はぜひ必要である。このことは、学校事務職がその閉鎖性を脱却していく上からもきわめて重要な課題であるといえる。

 従来、日教組は、学校事務職員の採用を「上級職」とすべきことを主張しているが、これは、公立小中学校事務職の「単数配置」「閉鎖職制」の現実を前提においたものであって、その「複数化」を追求する限り、これは当然「上級職を含む」に改めるべきである。また、当然「複数化」は公立小中学校における「事務長制」導入に道を開くものであり、この場合は「閉鎖職」はあり得ないだろうから、これに付随してその「職階制否定」の方針も改めなければならない。

 この点、公立高等学校「定数標準法」に規定する「事務職員」も「吏員に相当するもの」についてのものであり、調査によると高等学校の事務職員の場合「初級職」採用者が相当に多いことからすると、高等学校には「準ずる者」規定は見あたらないから、実際には、その配置は「定数」のはかに、いわゆる「職員B」群からの採用者が充てられることもあるのかもしれない。(地方交付税の基準財政需用額の積算において職員をどの積算項目に該当させるかは自治体の裁量にまかされている)

 つまり、市町村立学校の事務職員が「国庫負担適用除外」となリ地方交付税化された場合は、公立高等学校の事務職員と何等違いはなくなってしまうのであるから、その定数規定が「義務教育標準法」に残るとしても、定数確保のやり方としては、先に述べた通り、「事務補助員」分を「準ずる者」に含めて一括して県費負担とし、「吏員に相当する者」と併せて、総合的な定数基準の確立を図ることは十分に可能だと思うのである。

 では、なぜこうした事務室体制の確立が必要かといえば、それは、社会の高度情報化が一層進展していく中で学校経営機能の整備充実を図っていくためには、学校経営を担う事務局(室)体制を確立することが、「教員集団」との積極的パートナーシップを育てていく上からも不可欠の課題となっているからである。そして、こうした体制確立の絶対必要条件が、事務室「複数制」を基本とする事務職員定数制の確保であり、その「一体的な職員体制の確立」ということである。

 国庫負担問題は、まさに、公立小中学校の「学校管理運営上の二重管理」の問題に端を発し、「県費負担教職員制度」の矛盾、そして給与負担者が異なる事務職員が雑居することによる「混乱」までを、はっきりと当事者に自覚せしめる効果を持った。その適用除外対象に「学校事務職員」が当初からあげられながら今日まで七年間適用除外ができずにきたのは、この問題が、こうした矛盾を内包するものであるだけに関係者の合意を取り付けることが困難だったためと思われる。

 しかし、どうやらこの「合意」が図られつつあるというのが、今日我々のおかれた状況ではないだろうか。そこにおいて、前述した矛盾に端を発する「事務職員問題」の解決策が周到に用意されているのなら、私は「国庫負担適用除外」も恐るるに足らないと思う。しかし、単に、現在の矛盾を温存したままで地方への負担転嫁が図られるなら、それが今後、地方教育行政における学校管理運営組織上どの様な混乱をもたらすか、担当者にはぜひ「その後」のことを見極めておいてほしいものである。

おわりに

 昭和六〇年一一月号の本誌に掲載された「全国学校事務連絡会議」の人たちの報告によると、国庫負担法をめぐる自治省との交渉で、自治省の担当者は「国庫負担適用除外後の交付税の措置は(整合性の問題としては)市町村分となる」ことを明らかにしたという。仮定の話と断った上でのことだが、私自身、当時、もし県費負担事務職員制度がこのまま改善されることなく残るのなら、いっそのこと市町村へ任用替えした方が、少なくとも事務職員のためにはよいと考えていた。

 実際、私の経験からいっても、公立小中学校における事務職員を取り巻く状況は、「教員」との関係をはじめ、地教委との関係、県教委との関係、はたまた児童生徒や父母との関係に至るまで、まさに「捨てられた」というに等しい程のものであった。率直にいって「よくもまあ、ご無事で」というのが、正直な私自身の感想である。

 しかし、こうやって一七年間学校に勤めてみると、不思議なことに「公立小中学校事務職」というのも″けっこうステキな商売だなあ″と、あらためてその「裁量性」について見直してみたくなるのである。その途端、いままで負担に思えていたそれぞれの関係が、一転して「やりがい」に転化しそうになるのだから、人間というのはほんとうに勝手なものだと思う。

 そこで、こうして経験に照らしていうならば、私は、公立小中学校事務職は、さきに述べた条件整備さえすれば、結構「すてきな商売」として優秀な人材をあつめうると思うのである。特に教育行政職員としての力量を高める上では、公立小中学校の三〇代から四〇代にかけて実質的に事務長として活躍できるポストは、団塊の世代のポスト不足が危惧されている今日では、まさに魅力ある職業としての資格を備えていると思う。

 だが、そのためには、そうした学校事務職のあり方について、まず、任命権者であるところの「都道府県教育委員会の積極的なリーダーシップ」が期待されなければならない。つまり、ここが中心となって市町村教育委員会と学校事務職員との職務上の関係の全体的な調整が図られなければならないのである。というのも、もともと「地教行法」自体が、都道府県教育委員会の市町村教育委員会に対する指導助言と両者の積極的連携に基礎をおいているからである。

 また、このような都道府県教育委員会のリーダーシップを期待する上において、学校事務職員と教育委員会事務局との人事交流は積極的に推進されなければならない。人の交流こそが情報の交流をうみ問題意識の共有を可能にするからである。この意味において、いわゆる「三二年通達」において約束された「事務局との交流促進」は、文部省において再度、地方との間に適切な確認措置がとられるべきであろう。

(注1)「地教行法」
  「地方教育行政の組織及び運営に関する法律」の略称

(注2)「共済費追加費用」
  「地方公務員等共済組合法」の施行(S37.12.1)前の 期間をもつ組合員に係る共済年金(長期給付)支給に係る費用の不足分を補てんするもの

(注3)「県費負担事務職員」
  「義務教育標準法」第二条第三項に規定する事務職員で「吏員に相当するもの及びこれに準ずるもの」をいう。

(注4)「地方の権能が高まるならば・・・」
  財源の使途についてしぼりがなく自治体の権限で自由に使えることを指すものと思われる。

(注5)「地方交付税不交付団体」
  基準財政収入額が基準財政需用額より多いいわゆる財政力指数が一以上の地方公共団体で地方交付税の交付を受けない団体をいう。

(注6)「特別区」
  地方自治法第ニハー条に「都の区は、これを特別区という」とあり、市に属する事務や特別区に属する事務ほかを処理する。「地教行法」第五九条に都に関する特例の定めがある。

(注7)「政令指定都市」
  地方自治法第二五二条の一九第一項に規定する人口五〇万以上の市で政令で指定された市のことをいい、「地教行法」第五八条に指定都市に関する特例の定めがある。

(注8)「県費負担教職員」
  昭和ご二年「地歌行法」の制定とともに、このような名称を定めた。市町村立学校職員給与負担法第一条、二条に規定する職員のことである。

(注9)「道州制」
  現在の行政単位である県、市、町村を廃止し、人ロ一千万規模の道、州とコミユニテイ(市)の二階層の行政単位をつくろうというもの。

(注10)[地方事務官」
  「公立学校官制」(S21.4.1より、公立中学校の「書記」は地方事務官となった。学校教育法の成立をうけて「公立中学校小学校及び幼稚園官制」(S23.1.28)が公布され、義務制学校にも地方事務官が置かれることになった。

(注11)「市町村教育委員会設置の歴史的経緯」
  ここでの引用の多くは「わが国における教育委員会制度の研究」長田三男、尾形利雄共著、大空社(S61年復刻版)による。

(注12)「教育の国家統制」
  回切の教育を全面的に国家が掌握する教育の国家的独占主義」についていう。

(注13)「義務教育費国庫負担制度」の拡充発展
  教職員給与費等の国庫負担について定めた「義務教育費国庫負担法」のみでなく、公立の義務教育諸学校施設の整備について国がその経費の一部を負担することを定めた「義務教育諸学校施設費国庫負担法」等もさす。

(注14)「勤評闘争」
  国家、地方公務員法にある「勤務成績の評定」を公立学校の教員について行った(S31年愛媛県)ことに端を発したもので、教組側はこれを組合運動弾圧ととらえたため全国的な反対闘争となった。

(注15)「学テ闘争」
  昭和31年以降教カ年にわたり文部省は学力調査のための全国的なテストを行った。これが、文部省による教育の国家統制に当たるとして、日教組を中心に強力な反対闘争が展開された。

(注16)「民主国民教育諭」
  「教師の教育権」の独立と権力の教育介入を排除する考え方を中核として唱えられた教育運動論をいう。

(注17)「重層構造VS単層構造」
  学校経営の近代化ということをめぐって、そのための職員組織が職階に基づく重層構造をなしているか、それともなべぶた式の単層構造であるかが論じられた。

(注18)「学校事務分析」
  学校の経営目標達成のための学校事務を細分し、特徴づける要因を観察によってあきらかにする方法で、昭和四〇年代に盛んに行われた。

(注19)教育委員会の「非活性化」した体質
 「臨教審」第四次答申の第六節「教育行財政の改革」には、一部の非活性化してしまっている教育委員会の体質を根本的に改め、その本来の目的と精神に立ち帰るべきことが提言されている。

(注20)大阪の「学校事務センター」
  大阪市で一九九〇年より飴まった学校事務の集中処理方式で、学校と教育委員会そして区の事務の再配分を生み出した。

(注21)「対案闘争」
  当局の提案に対して反対するのみでなく、対案となる政策を配置して闘う運動形態をいう。

(注22)「研修生」
  人事委員会規則に基づき、職員を一定期間他の地方公共団体及び国の機関に派遣して、その公共団体の実務に従事しながら研修を積ませる制度のこと。

(注23)「服務監督権」
  県費負担教職員の任命権者は都道府県の教育委員会であるが、教職員が勤務するのは市町村立学校であり、その身分が属するのも市町村であることから、その服務監督権者は市町村の教育委員会であるとされる。

(注24)「市町村職員引き上げ」
  公立小中学校に勤務する市町村費職員の配置については、基準財政需用額の算定基礎にあげられる外「定数」の定めがなく、市町村が必要に応じて置くこととなっているため、慢性的な引き上げの対象となっている。

(注25)「職員B」群
  一般部局(県立学校を含む)の職員の基準財政需用額算定上の給与費の算定においては、「職員A」と「職員B」という二種類の積算区分が設けられている。