日向神話の歴史的意義に関する一考察(3)
崇神天皇に祟った天照大神の「鏡」と大国主の「八坂瓊」
こうして、伊波礼毘古が、長髄彦を打ち破り橿原の地に大和王権を樹立(301年)した後、綏靖天皇から開化天皇まで八代が続く。しかし、これらの天皇については、系図に関する記述の他、事跡らしいものがほとんど書かれておらず、それらは、天皇記の年代を過去に引き延ばすために挿入された架空天皇ではないかとする意見が根強い。
宮崎氏の場合は、神武=崇神とし、橿原に大和王権の基礎を築くまでを神武、三輪への勢力拡大や四道将軍派遣をするまでを崇神とし、両者を「初国知らし天皇」として同一人物と見ている。しかし、その後の天皇の治世を、広開土王碑に記録された神宮皇后の新羅侵攻(391年)から逆算した場合、その間の4代の天皇の治世が長くなり過ぎるという難点がある。
崇神天皇は、邇芸速日より磐余彦に献上された天照大神の「鏡」と大国主の倭大国魂(やまとおおくにたま)「八(や)坂(さ)瓊(かに)」の二神を宮中に祭った。しかし、疫病が流行ったり百姓が逃亡したりしたので、天皇は二神の神威(祟り)を畏れるようになり、宮中に祀っていた「鏡」と「八(や)坂(さ)瓊(かに)」(現在大和神社のご神体となっており、宮中の八尺瓊勾玉とは別)を宮中の外で祀ることにした。
天照大神の「鏡」は、豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)に託して笠縫邑(かさぬいむら)(現在の檜原神社)に祀らせたが、その後宇陀、近江、美濃と周った末、最終的には、垂神天皇の時、皇女倭姫(やまとひめ)が伊勢に祀ることで落ち着いた。一方、倭大国魂(やまとおおくにみたま)は渟名城入姫命(ぬなきいりひめのみこと)に預けて祀らせたが、髪が落ち、体が痩せて祀ることができなかったので、太田田根子(おおたたねこ)(大物主の子孫)を探して三輪山に祀らせることで落ち着いた。
①ここで、崇神天皇が、邇芸速日より献上された天照大神の「鏡」と倭大国魂の「八坂瓊」の二神を宮中祀ったが、疫病等の後、この二神の神威を畏れるようになったのはなぜか。
その理由は、実は、この両方とも邇芸速日(実際はその子の宇摩志麻遅命(うましまじのみこと))が自ら進んで献上したものではなく、大和王権への帰順の証として神武天皇に奪われたものだということ。邇芸速日の宗家はこの時断絶したらしく、また、倭大国魂の元の持ち主である大国主の宗家も、天照大神一族による「出雲の国譲り」際に断絶したとされる。
この両者の形代が、宮中に祀られた二神であったわけだが、崇神天皇はこの時、この「鏡」(卑弥呼が魏の皇帝より下賜された長宜子孫銘のある鏡)のレプリカ(銘のない内行花文鏡)を作って宮中に祀り、本物の「鏡」は最終的には伊勢神宮に祀った。一方の「八坂瓊」は大物主=事代主(大国主の子)の神託を受けて、太田田根子に祀らせた。つまり、崇神天皇は二神の祟りを怖れ、それを鎮めるために必要な措置をとったのである。
②では、往事の大和王権(神武天皇から仲哀天皇までの狗奴国王統)にとって、「卑弥呼の鏡」を主題とする天照大神神話を取り入れることには、どんなメリットがあったか。
このことについて宮崎氏は、「第一に仇敵の邪馬台国女王を実名で祀らなくても良い。第二に降伏させた邪馬台国末裔に対して、彼らの象徴である「日の化身」(=卑弥呼)を皇祖天照大神として王権が祀ることで慰撫できたからだという。
また、後世、応神天皇が邪馬台国王統を再興したとき、なぜ、天照大神を「卑弥呼大御神」といったように卑弥呼に冠した「神」に名称変更しなかったか、については、卑弥呼を殺害したのは彼らの遠祖である。心情的に卑弥呼を再降臨させることはできなかったと思われる、としている。(『三角縁神獣鏡が映す大和王権』p184)
景行天皇の熊襲征討と小碓命の川上梟帥征討
その後、景行天皇の時、熊襲征討がなされ、天皇は、熊襲が背いて貢ぎ物を差し出さなかったので、大分から日向に入り、高屋に行(あん)宮(ぐう)を建て住まいとし熊襲を平定した。高屋の宮に居ること6年、日向に美人の聞こえ高い御刀媛(みはかしひめ)を召して妃とした。妃は日向国造(くにのみやつこ)の始祖である豊国別(とよくにわけ)皇子を産んだ。この縁で後に応神天皇の妃となった日向国の諸県君の娘髪(かみ)長(なが)姫(ひめ)が出る。
その後、景行天皇は、今の児湯郡である子湯県の丹(に)裳(も)小野で遊び、東方を望んで左右の者に言った。「この国はただちに日の出る方に向かっている」。それでこの国を日向(ひむか)と呼ぶようになったという。また、夷守(ひなもり)に至り、諸県君泉媛の接待を受けた。また、その後熊襲が再叛すると、小碓尊(おうすのみこと)を遣わして川上梟帥(たける)を討たせた。(日本書紀がこの両者の話を記す。古事記は後者のみ)
小碓命は髪を結い衣装を着て、少女の姿で宴に忍び込み、宴たけなわの頃にまず兄建(たける)を斬り、続いて弟建に刃を突き立てた。誅伐された弟建は死に臨み、「西の国に我ら二人より強い者はいない。しかし大倭国には我ら二人より強い男がいた」と武勇を嘆賞し、自らを倭男具那(やまとおぐな)と名乗る小碓命に名を譲って倭建の号を献じたという。
①ここで、熊襲とは、児湯あるいは諸県以南ということになるが、このように日向が熊襲征伐の基地とされたのはなぜか。
②また、川上梟帥が小碓尊に「倭建の号を献じた」というのは、熊襲と天皇家の皇子との関係において疑問とされるがなぜか
①について、宮崎氏は次のように説明する。
海幸彦が、山幸彦との宗家争いに負けた後どのようにして隼人族と関係を持ったかだが、旧南那珂郡(現日南市)北郷町に潮嶽(うしおたけ)神社がある。この神社は海幸彦を祀る唯一の神社で「海幸彦が、磐(いわ)船(ふね)に乗って此の地に逃れ、此の地をりっぱに治め、隼人族の祖となった」という伝承が残る。西方の谷間地区にある王塚古墳は海幸彦の陵墓と伝わる。
この南那珂郡は「景行天皇の御世に隼人と同祖の初小(そお)平定」とあり、この初小は景行期にある「襲国(そこく)」であり児湯県より南の広域をさす。つまり南那珂郡に隼人の拠点があったと考えることができる。海幸彦はここで隼人の女と結婚して隼人族の魁師(ひとごのかみ)となり、その子孫が隼人の魁師となり、天武11年展覧相撲の褒美として阿多君(あたきみ)に叙任されたのだろう。
一方、宗家争いに勝った山幸彦の孫(子?)である伊波礼毘古は、日本書紀では「日向国吾田邑で吾(あ)平(い)津(ら)媛(つ)を娶り、妃となす」とある。この吾平津媛は伊波礼毘古と御子の手研耳命(たぎしみみのみこと)が東征に出た後、日向に残った。また、海幸彦を「吾田君小(お)橋(ばし)等の本祖」としており、この小橋君一族は、父あるいは祖父の海幸彦の後を追って旧南那珂郡に移ったと思われる。
旧南那珂郡吾田邑戸高(現日南市戸高)に、吾平津姫と手研耳命を祀る吾(あが)田(た)神社(伝和銅2年創建)があり、この神社の位置が「小橋」とされている。小橋一族はこの地域を故郷を偲んで吾田と呼んだ。吾田神社の西北丘陵に吾平津媛の御陵伝説地が在り、陵の遙拝地に、後世、吾田神社が建てられたのだろう。近くの油津には吾平津姫を祀る神社がある。
このように、伊波礼毘古の東征後、「日向の地に残留した狗奴国や奴国の民は、さらに南の沖積平野部に進出して大いに人口を増やして栄えた。襲国の熊襲梟帥を討つために、景行天皇とその皇軍が児湯縣(児湯郡と西都市あたり)に高屋宮を建てて約6年にわたり滞在できたのも、地元住民に狗奴国の裔が多くいたためと思われる」。
②については、海幸の裔孫が隼人族の魁師として、「日向国曽於郡から川内平野に移住して熊襲梟帥(川上梟帥)となっていたこと。このことが「瓊瓊杵尊の天下り譚」として後世に伝わったのではないかと宮崎氏は言う。その一部の裔孫が薩摩半島南部にまで達し、瓊瓊杵尊との木花咲耶姫の話を伝えたのではないかという。
このように、川上梟帥が海幸彦の裔孫であるとすることができれば、日本武尊条で謎とされる、「川上梟帥が日本童男(小碓命)に日本武尊(倭建)の尊号を奉る」理由が、明らかとなる。川上梟帥が海幸彦の裔であれば、小碓命は山幸彦の裔であるので、二人は対等か、考え方によっては川上梟帥の方が上位にあたるともいえる」からである。
神功皇后と竹内宿禰による邪馬台国王統の樹立
成(せい)務(む)天皇は、景行天皇の第四子であるが、第二子の小碓命が若くして死んだため即位し、武内宿禰(たけうちすくね)を大臣とした。諸国に令して、行政区画として国郡(くにこおり)・県邑(あがたむら)を定め、それぞれに造長(みやっこおさ)・稲置(いなぎ)等を任命して、山河を隔(さかい)にして国県を分かち、阡陌(南北東西の道)に随って邑里(むら)を定め、地方行政機構の整備を図った。ここにおいて、人民は安住し、天下太平であったという。
仲哀天皇は日本武尊の第2子である。母は活目(いくめ)天皇(垂仁天皇)の皇女・両道(ふたじり)入姫命。気長足姫(おkながたらしひめ)尊を皇后とした(=神功皇后)。仲哀天皇は、これより前に妃としていた従妹の大(おお)中(なか)津(つ)姫(ひめ)命との間に香(こう)坂(さか)皇子(のみこ)、忍熊皇子(おしくまのみこ)を得ていた。
仲哀天皇は、再叛した熊襲を討つため皇后とともに筑紫に赴き、神懸りした皇后から託宣を受けた。それは「熊襲の痩せた国を攻めても意味はない、神に田と船を捧げて海を渡れば金銀財宝のある新羅を戦わずして得るだろう」という内容だった。しかし高い丘に登って大海を望んでも国など見えないため、この神は偽物ではないかと疑った。祖先のあらゆる神を祀っていたはずであり、未だ祀ってない神はいないはずでもあった。神は再度、皇后に神がかり「おまえは国を手に入れられず、妊娠した皇后が生む皇子が得るだろう」と託宣した。(wiki「仲哀天皇」要約)
①仲哀天皇は、「託宣」を無視して構わず熊襲を攻めたものの空しく敗走。翌年2月に急死し「神の怒りに触れた」とされた。熊襲の矢に当たったともされるが、「皇后への託宣」でもありその死は謎とされる。
②神功皇后は、仲哀天皇の遺志を継ぎ熊襲征伐を達成。その後、海を越えて新羅へ攻め込み百済、高麗をも服属させた(三韓征伐)。神功皇后は仲哀天皇の遺児である誉田別尊(ほむたわけのみこと)を出産。渡海の際は、「則ち石を取りて腰に挿みて」筑紫に帰ってきたとき生まれるようにと祈って出産を遅らせたというが、これも不思議な話。
翌年、誉田別尊の異母兄である香坂皇子(かごさかのみこ)、忍熊皇子(おしくまのみこ)を退けて凱旋帰国。神功は皇太后摂政となり、誉田別尊を太子とした。誉田別尊が即位するまで政事を執り行い聖母(しょうも)とも呼ばれた。神功皇后は、明治時代までは一部史書で第15代天皇、初の女帝(女性天皇)とされていた(大正15に皇統譜より正式に歴代天皇から外された)。
①②の謎について、神宮皇后への託宣の審神者が竹内宿禰であり、託宣主は、天照大神荒魂、つまり三輪山の事代主神などの託宣であったこと。神宮皇后、竹内宿禰共に邪馬台国の邇芸速日の後裔であったことなど考え合わせると、神功皇后は、竹内宿禰と組んで狗奴国王統から邪馬台国王統への権力奪還を謀ったとも考えられる。生まれた子供(誉田別尊)が仲哀天皇の遺児であったかどうかは、その後の経過から見て疑わしいといわざるを得ない。
天武天皇の記紀編纂と隼人の関係
「乙(いっ)巳(し)の変で中大兄皇子(天智天皇)は蘇我入鹿を暗殺する。 これに憤慨した蘇我蝦夷は大邸宅に火をかけ自害した。 この時に朝廷の歴史書を保管していた書庫までもが炎上する。 『天皇記』など数多くの歴史書はこの時に失われた・・・既に諸家の帝紀及本辭(旧辞)には虚実が加えられ始めていた。
そのために『天皇記』や焼けて欠けてしまった「国記」に代わる『古事記』や『日本書紀』の編纂が、天智天皇の弟である天武天皇の命により行われた。まずは28歳の稗田阿礼の記憶と帝紀及本辭(旧辞)など数多くの文献を元に、『古事記』が編纂された。その後に、焼けて欠けた歴史書や朝廷の書庫以外に存在した歴史書や伝聞を元に、さらに『日本書紀』が(舎人親王等の手によって)編纂された。」 (wiki「日本書紀」)
宮崎氏によれば、この『記紀』編纂を命じた天武天皇こそ、応神天皇以降天智天皇まで続いた邪馬台国王統を倒し、狗奴国王統を再興した狗奴国の後裔であるという。舎人親王は天武天皇の子である。通説では天武天皇は天智天皇の弟とされるが、宮崎氏によると、実はその始祖は、瓊瓊杵尊と共に日向に天下った天忍日(あめのおしひ)であるという。
自らの出自を知った天武天皇は、『記紀』編纂において、狗奴国王統が日向から東征し大和王権を開いたという歴史的事実を後世に伝えるため、天照大神の出雲への天下りに瓊瓊杵尊の日向への天降りを接続し、天照大神の神勅「この豊(とよ)葦(あし)原(はら)水(みず)穂(ほ)国(ぐに)は、汝知らさむ国ぞと言依(ことよ)さしたまふ」)をもって天照大神に続く狗奴国王統の正統性を確立しようとした。
また、天武天皇の治世時、多くの隼人が宮殿に来て貢ぎ物を奉ったり、隼人を宮殿に召して相撲を取らせたりしている。天武天皇は、隼人の魁師が海幸彦の後裔であることを知ってこれを優遇した。天武の死去に際しては隼人が「誄(しのびごと)」を奉ったという。その狗奴国王統はこの後第48代称徳天皇まで続き、次の光仁天皇から邪馬台国王統となり今日に続く。
①本郷和人氏によると、歴代天皇による伊勢神宮参拝は、実は、持統天皇の後、明治天皇直前の孝明天皇までの約千年間行われなかったという。
②また、天皇家の菩提寺である泉涌寺には、天武天皇から称徳天皇までの、宮崎氏がいうところの狗奴国王統の天皇の位牌は祀られていないという。この事実は一体何を物語るか。
①本郷氏は、この間の天皇は、神道より仏教をより篤く信仰していたことをその理由としているが、『記紀』編纂の過程で、「卑弥呼=天照大神」であり、卑弥呼は邪馬台国の人々に殺害されたが故に「日の化身=神」として祀られた事実が明らかになったことが、その本当の理由なのではないだろうか。
②また、仏教信仰が盛んになるのは大化の改新以降であるが、泉涌寺に位牌が置かれている最初の天皇は天智天皇である。その後、天武天皇以降称徳天皇まで七代の天皇の位牌がないということは、称徳天皇で天武天皇の血筋が断絶していることから、宮崎氏の「狗奴国王統vs邪馬台国王統論」の正しさを示しているように見える。、
おわりに 宮崎氏の著作は『日向国の神々の聖跡巡礼』の他に、『三角縁神獣鏡が映す大和王権』、web版『狗奴国私考』、『女王卑弥呼が都した邪馬台国に至る』がある。これらを読み通すことは一般的には必ずしも容易ではないので、従来、「古事記」「日本書紀」で謎とされている点について、宮崎氏の説がどのような解答を示しているかを見ることにした。
宮崎氏の説は、日本のアカデミズムが、歴史資料としてはほとんど無視する「記紀神話」について、可能な限り、その背後にある「歴史的事件」を、理系学者としての知識を駆使して読み取ろうとするものである。そこで基軸となった視点が、日本古代史を、委奴国を同祖とする狗奴国王統と邪馬台国王統の競合関係で見ることである。
言うまでもなく、この視点は、宮崎氏固有の感性・理性に基づくもので仮説の一つに過ぎない。しかし、本稿で示したように、それは、従来の日本古代史をめぐる議論の中で、収拾がつかなくなっている『記紀』のもつ謎の数々について、トータルかつ合理的な解答を示している点で、唯一の論考ではないかと私は思う。
日向神話における個々の物語は説話であって歴史ではない。当時の人々の「社会及び思想」を読み取るべき、というのはその通りだが、「天孫」と称する一団が九州北部の小国家群のせめぎ合いの中で日向にやってきて、何代か後に伊波礼毘古という英雄的人物に率いられて大和に王権を樹立したことは、以上の論考から、どうやら事実のように思われる。
これは、私が延岡人であることとは別に、『記紀』に根ざす日本の天皇制の歴史をもっと明らかしたいという、長い間、日本人の比較文化論的研究に注力してきた者の願いでもある。戦後アカデミズムは、「日向神話」に関心をもたず、それをフィクションとする。その迷妄に果敢に挑戦し、日本古代史に光を当てたのが、理系学者、宮崎照雄氏ではないだろうか。
おわり |