日向神話の歴史的意義に関する一考察(2)

2020年5月5日 (火)

「記紀神話」における「天孫降臨」の謎

 こうした、宮崎氏の思い切った「記紀神話」解釈の妥当性については、これが、以下のような「記紀神話」をめぐる謎を、それがどれだけ合理的に説明できるかにかかっていると言える。
①なぜ出雲への天降りの話が、突然日向への天降りとなったか。
②なぜ僻遠の地日向への天降りとなったか。
③天降りに際して天照大神から渡されたはずの三種の神器の話が、降臨後の日向神話に出てこないのはなぜか。また、天降りに際して随伴した神々は誰か。
④天降りに際して原住民(猿田毘古(さるたひこ)や大山津見神(おおやまつみのかみ)、塩老翁(しおつちのおじ)=事勝国勝長狭(ことかつくにかつながさ)(紀))との争いはなく、むしろ迎えられているのはなぜか。
⑤降臨後に出てくる話は、男女関係、夫婦関係、兄弟関係など私的な話ばかりで、国作りなど公の話がないのはなぜか。
 これらの疑問が、アカデミズムにおいて日向神話をフィクションとする根拠になっているわけである。そして、瓊瓊杵尊の長男火照命(ほでりのみこと)(海幸彦)が、次(三?)男火遠理命(ほおりのみこと)(山幸彦)との後継争いに負けて後、古事記に「隼人阿多君(あたきみ)の祖」と注記されていることを以て、そうした作話の動機を「隼人の服属の起源を神話時代にさかのぼって示す」ためとしているのである。
 一方、宮崎氏は、これらの謎を解く鍵として、日向に天降りした一族は、天照大神(=邪馬台国系)の一族ではなく、素戔嗚尊(=狗奴国系)の一族であったとする。この天照系と狗奴国系は、委奴国から分立した同根の種族であるが、先述した通り、中国との外交関係をめぐって、分裂・融和・対立を繰り返した。
 その後、卑弥呼は、邪馬台国の女王に共立され、魏より「親魏倭王」に叙任され、そのためこの「同盟」に反対する狗奴国と戦争になった。時はあたかも中国史の三国時代であり、魏、呉、蜀が覇権を争っており、日本がいつその戦争に巻き込まれるか判らなかった。そこで魏(あるいは呉)の侵攻を怖れた狗奴国は、その王族の一部を、高千穂から日向へと避難させた、それが瓊瓊杵尊の「天孫降臨」であると。
 『記紀』が編纂されたのは、その後約500年後のことであるが、これは、日本が663年白村江(はくすきえ)の戦いに敗れ、唐・新羅連合の脅威に直面するという国家的危機の中で、日本国の独立と天皇家の統治の正統性を内外に示さんとしたものである。その際、従来の氏姓制度に代わる、天皇による律令的・中央集権的統治の正統性の根拠を、卑弥呼(日の巫女)以来の神祀りの伝統に求めることになった。
 これを実行に移したのが、狗奴国王統に属する天武天皇で、天皇は自らの祖先が日向から大和に東征し大和王権を樹立したことを知り、太陽神であり皇祖神とされる天照大神の出雲(葦原の中つ国)への天降りの話に、瓊瓊杵尊(=狗古智卑狗)の日向への「天降り」を接続した。これが①②の疑問に対する宮崎氏の答えである。
③については、当然のことながら、狗奴国人である瓊瓊杵尊は天照大神のレガリア(宝器)である三種の神器は継承していない。また、天孫降臨の時に随伴した神々で降臨後に顔を出すのは天宇受賣命(あめのうずめ)(猿女君)と、神武東征で活躍する天忍日(あめのおしひ)命(大伴連等の祖)や天津久米(あまつくめ)命(久米直等の祖)だけである。久米兵士は「黥利目(さけるとめ)」(いれずみ)をしていたというから安曇氏の一族かもしれない。
④⑤の謎については、実は狗奴国人の南方への移住は、倭国大乱以降始まっていて、日向への移住も、瓊瓊杵尊の「天降り」に先立って行われていたとする。瓊瓊杵尊は日向の高千穂之久士布流多気(くじふるたけ)に天降った後、「此地は韓国に向ひ、笠紗の御前(みさき)に真来(まき)通りて、朝日の直刺(たださ)す国、夕日の日照(ほて)る国なり。故、此地は甚吉(いとよ)き地(ところ)」(古事記)といった。
 ここで韓国は、日本書紀では空国(からくに)(一書第四)となっていて人口が少ないということ。その後、「笠紗の御前」に到ったが、この地には、大山津見(おおやまつみ)神や事勝国勝長狭(ことかつくにかつながさ)(塩土の老翁)らが先住していた。日本書紀では、事勝国勝長狭が瓊瓊杵尊に「国在りや」と問われ、長狭は「勅(みこと)の随(まにまに)に奉(まつ)らむ」(紀「神代下」第九段一書第四)と答えている。つまり、人口が少なく、土地争いがなく平和な土地だったということである。
 その後、日向神話は、海幸彦の山幸彦いじめ→山幸彦の綿(わた)津(つ)見(み)の神の宮訪問→豊(とよ)玉(たま)姫との結婚→故郷への帰還→海幸彦との宗家争い→山幸彦勝利し、海幸彦は山幸彦の守護人となることを約束→豊玉姫が鵜草葺不合命(うがやふきあえずのみこと)を出産→山幸彦と豊玉姫と離別→鵜草葺不合命と玉依(たまより)姫の結婚→五瀬命(いつせのみこと)、稲氷命(いなひのみこと)、御毛沼命(みけぬのみこと)、神倭伊波礼毘古(かむやまといわれびこ)の誕生→神武東征となる。(宮崎氏は鵜草葺不合命の存在を疑問視し、玉依姫と結婚したのは山幸彦と見る)

海幸彦と隼人の関係をめぐる謎
①まず、山幸彦の綿(わた)津(つ)見(み)の神の宮(海神宮)訪問という「おとぎ話」は何を意味するか、
②火照命(海幸)が古事記に「隼人阿多君(あたきみ)の祖」、日本書紀に「是隼人等が始祖なり」などと注記されているのはなぜか。
①についての宮崎氏の見解は、これは「おとぎ話」ではなく、日向の吾田(延岡)に瓊瓊杵尊が天降る前に先住していた狗奴国人の事勝国勝長狭(塩老翁)が、瓊瓊杵尊の宗家争いにおいて、山幸彦を後継者としてふさわしいと判断し、狗奴国の本貫である奴国(現在の福岡市付近にあったとされる)に留学させたものとする。
この奴国は、金印「漢委奴国王」が福岡市志賀島から出土したことから判るように朝鮮や中国への航海を支えた海神族(安曇氏)をその一族としていた。安曇氏一族は山幸彦の出自を知ってこれを歓迎し、娘の豊玉姫と結婚させた。そして海神族ならではの天候や海況(津波の知識など)を読む力を教えて日向に「一尋和邇(ひとひろわに)」(小型船?)で帰した。(伊波礼毘古が神武東征の途中岡田宮に立ち寄ったのもそのため)
②海幸彦と山幸彦の宗家争いにおいて、『記紀』では、海幸彦は頑固で意地悪、一方、山幸彦は正直で優しい人物に描かれている。いじめられて泣く山幸彦に塩老翁が声をかけ綿津見神のもとに送り多くの知恵を学ばせた結果、山幸彦は海幸彦との宗家争いに勝利する。海幸彦は「弟の神(あや)しき徳有(いきおいま)すことを知りて、遂にその弟に伏事(したが)ふ」(紀「神代下」第十段一書第二)。
その後、海幸彦は南に下り隼人と縁を結んだ。日本書紀には「火(ひ)酢(ず)芹(せり)命(みこと)(海幸彦)の苗裔、諸の隼人等、今に到るまでに天皇の宮墻(みかき)の傍(もと)を離れずして、代(よよ)に吠ゆる狗(いぬ)して奉事(つかえまつ)る者なり」(同上)とある。これは、「隼人等の祖先が海幸彦」という意味ではなく、「海幸彦が山幸彦との宗家争いに負けて南下し隼人と縁を結んだ」ということ。
これらについてのアカデミズムの解釈は、「隼人の服属の起源を神話の時代に遡って示す」というものだが、隼人にしてみれば、こんな惨めな起源譚に満足できたであろうか。また、この話が「作り話」とすれば、いかに「次男の後継」を正当化するためとはいえ、熊襲と呼ばれ曰佐(通訳)が必要とされた隼人の祖を「天孫」(海幸彦)とするはずがない。
つまり、この海幸彦の話は「作り話」ではないのである。天武天皇の治世時、多くの隼人が宮殿に来て貢ぎ物を奉ったり、宮殿に召されて相撲を取ったりしている。天武天皇は、隼人の魁師(ひとごのかみ)(首長)が海幸彦の後裔であることを知り、「阿多君」に叙すると共に、「記紀編纂」に際して、この事実を「事実として」神代の物語に記したのである。

伊波礼毘古の「神武東征」をめぐる謎

①古事記には「即ち日向(ひむか)より発たして」とあるのみ。日本書紀では「天皇、親ら諸の皇子(みこたち)・舟師(ふねいくさ)を帥(ひき)いて東に征(う)ちたまふ」とあるがどの港から出立したかは明かでない。鹿児島や宮崎にいくつかの伝承があるだけである。
②古事記では「豊国の宇狭をへて、筑紫の岡(おか)田宮(だのみや)に1年、安芸の多祁理宮(たけりのみや)に7年、吉備の高(たか)嶋(しまの)宮(みや)に8年、浪(なみ)早渡(はやのわたり)を経て青雲の白肩津に泊(は)てたまいき」とする。一方、日本書紀では経路は同じだが、「安芸にほぼ一ヶ月、吉備の高嶋宮に3年」(「狗奴国私考」)となっている。この両者の滞在期間の違いもさることながら、それぞれの寄留地で一体何をしていたのか判然としない。また、わざわざ逆行して岡田宮に入ったことも謎とされる。
①については、宮崎では美々津が有名だが、鹿児島では、瓊瓊杵尊が天孫降臨して過ごした笠狭を薩摩半島南部の加世田、「笠狭碕」を野間半島に比定し、神武東征の出発地を志布志湾岸としている。こうした治定の経緯は『日向神話の本舞台』に詳しい。鹿児島は明治以降、維新政府の威信を背景に、急速に「神蹟の我田引水的な付会」を行ったと宮崎氏はいう。(『日向国の神々の聖跡巡礼』p112)
といっても、日向神話の神蹟の比定に、このように日向と薩摩とで齟齬が生じたのは、先述した古事記や日本書紀の注記の他に、古事記では瓊瓊杵尊の妃を「神阿多都比賣」(別名木花咲耶姫)などとしているためでもある。古事記より後に編纂された日本書紀では「神吾田津姫」とするなど「吾田」と「阿多」に表記上の混乱はない。
宮崎氏は、吉田東伍(1964~1918)が「大日本地名辞書」で「吾田」は「阿多」の古語とし、吾田国(つまり阿多)は薩摩国の旧名称である」としていることについて、その根拠となったのは薩摩国風土記の「閼駝」を「吾田」としたためではないかという。また、古事記が「神阿多都姫」としたのはのは、「隼人阿多君(あたきみ)の祖」としていたためではないかと。
②については、紀には、神武天皇の述懐として、「我、東を征(う)ちしより茲に六年」という言葉があるが、この間、寄留地において、伊波礼毘古に先立ってこれらの地に東遷したと思われる勢力や、在地豪族との戦いは記録されておらず、その間、伊波礼毘古が兵力を増強することに成功したらしいことは、誠に不思議と言わざるを得ない。
そのため、日向からの東遷を疑問視する向きも多い。仮に、日向からの「お船出」であったとしても大軍勢であったとは思われず、途中で船や武器・食料等を調達する必要があった。そのために、河内に上陸するまで長い月日を要したのであろうが、それにしても、この大事業を初心貫徹した伊波礼毘古なる人物のカリスマ性とはどのようなものであったろうか。
なお、岡田宮に関門海峡を逆行して入ったことについては、伊波礼毘古は狗奴国人であり、その狗奴国は奴国より分立したものであって狗奴国の本貫である。従って、伊波礼毘古は、その東征に際して、奴国東方遠賀川河口の岡田宮(不弥国領域で邪馬台国東遷に従軍し空家化していた?)に立ち寄り、船軍や武器食料等を調達したとする。

隠された邇芸速日命等の天降り

ところで、神武東征といえば「日向」であるが、『記紀』には、この他に、天照大神一族の葦原中国(出雲)への東征、さらには、それとは別の流れで、天照大神の孫にあたる「邇芸速日命」による畿内への天降りがある。
その邇芸速日の畿内への天降りが出てくるのは、日本書紀に、伊波礼毘古の東征の動機として「東に美(よ)き地(くに)有り。青山四周(あおやまよもに)れり。其の中に亦、天磐船(あまのいはふね)に乗りて飛び降る者有り」と塩老翁に聞いた。その地は「大業(あまつひつぎ)を恢き弘(ひらきの)べるに十分な六合(くに)」の中心だと思った。その飛び降りる者は「是邇芸速日と謂うか」というところ。
また、磐余彦と長髄彦の戦いの最終段階において、長髄彦が、「昔、天つ神の御子で邇芸速日が天降り、わが娘三炊屋姫(みかしやひめ)を娶って可美眞手命(うましまじのみこと)を生んだ。以て邇芸速日に仕えているが、天神の子が二種あるというなら、その証拠である天羽羽矢(あめのははや)や歩靫(かちゆき)を見せよ」といったところにも出てくる。
これに対して磐余彦は、その証拠として長髄彦が示したものと同じ天羽羽矢や歩靫を見せるが、長髄彦は戦いを止めない。邇芸速日は、それを見て長髄彦を裏切って殺し、「天つ神の御子天降り坐(ま)しつと聞きしかば、追いて参降(まいりくだ)り来つ、とまおして、即ち天(あま)津(つ)瑞(しるし)を(磐余彦に)献(たてまつ)りて仕え奉(まつ)りき」といった。(古事記中巻)。
①では、なぜ『記紀』は、この邇芸速日の天降り(東征)にほとんど触れず、磐余彦の東征だけ詳細に記したのか。
②また、邇芸速日が、長髄彦の娘を嫁にもらい子供をなしておきながら、最終的に長髄彦を裏切ったのはなぜか。
①は言うまでもなく、磐余彦と邇芸速日が、王権をめぐって狗奴国王統vs邪馬台国王統のライバル関係にあり、『記紀』はあくまで磐余彦の立場で書かれたということであろう。しかし、このライバル関係は、畿内への「天孫族の天降り」という意味では敵対関係ではないとされていることが注目される。
②日本書紀には「邇芸速日命、本より天神慇懃(ねむごろに)したまわくは、唯天孫のみかといふことを知れり。且夫の長髄彦の稟性(ひととなり)愎(いすかし)恨(もと)りて、教うるに天人の際(あいだ)を以てすべからざることを見て、乃ち殺しつ。其の衆を帥(ひき)て帰順(まつろ)ふ。天皇、素より邇芸速日命は、是天より降れりということを聞しめせり。而して今果して忠効(ただしきまこと)を立つ。則ち褒めて寵(めぐ)みたまふ。此物部氏の遠祖(とおつおや)なり」(紀「神武天皇」)とある。
つまり、邇芸速日は初めから、同じ天孫である磐余彦と手を組もうと思っていて、品性が劣り教え甲斐のない長髄彦を殺して磐余彦に帰順した。天皇(磐余彦)は邇芸速日も天孫であると聞き、今自分に忠孝を立てたところを見て褒めてやり褒美を与えた。こうして邇芸速日は物部氏の遠祖となった、ということ。要するに磐余彦は邇芸速日と同じ天孫であり、邇芸速日は日向から東征してきた磐余彦に自ら進んで帰順したと言うことを強調しているのである。