日向神話の歴史的意義に関する一考察(1)

2020年5月5日 (火)

はじめに

 日本という国の面白さは、日本神話の中で語られた神々の子孫とされるものが今もなお天皇(エンペラー)であり続けているということ。神話時代から二十世紀まで、新しい時代と併存し、日本文化の継続性を維持し続けてきたこと。そして、その天皇の正統性の根拠が、日本神話の天照大神の神勅に置かれているということである。
 それは、天壌無窮の神勅とされるもので、「葦原千五百秋(ちいほあき)の瑞穂(みつほ)の国は、是、吾が子孫の王たるべき地なり。爾皇孫(いましすめみま)、就(い)でまして治(しら)らせ。行矣(さきくませ)。宝祚(あまつひつぎ)の隆(さか)えまさむこと、當(まさ)に天壌(あめつち)と窮(きわまり)り無(な)けむ。」(紀「神代下第九段」一書第一)というもの。この神勅が天孫降臨する瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)に下されるところから日向神話が始まるのである。
 この即位の儀式の中でも、とりわけ大(だい)嘗(じょう)祭(さい)は、新たに「大嘗宮」と呼ばれる神殿を建設し、その中の「悠(ゆう)紀(き)殿(でん)」と「主(す)基(き)殿(でん)」において食事をするもので、その際「御衾(おふすま)」なる寝床で横に臥して、また起き上がる」いわゆる「真床追衾(まどこおうふすま)」という天皇家最大の秘儀とされる儀式が行われる。(wiki「大嘗祭」)
 この真床追衾は、民俗学者の折口信夫によれば、天孫降臨の際、瓊瓊杵尊がくるまっていた衾(ふすま)(「絹の布」を重ねた「寝座」で神が休む場所)のことで、つまり、御衾に寝る皇太子は、真床追衾に包まれた瓊瓊杵尊となり、天孫降臨を演じることによって、王権を継承し、新しい天皇として即位するというのが、大嘗祭の本質だという。
 本稿では、このような天皇の即位の儀式に見るような祭祀の伝統が、日向神話の冒頭天孫降臨の物語に由来しているという事実を直視する中で、この神話が一体どうして生まれたのか、それが天皇制とどう関わっているのか、そもそも、この物語の背後にはいかなる歴史的事実が隠されているのかを、宮崎照雄氏の説を紹介する中で考えて見たい。

『宮崎県史』の日向神話解釈

まずはじめに、天皇家においてこのように重要視されている瓊瓊杵尊の天孫降臨の物語が、日本のアカデミズムにおいてどのように扱われているかを、『宮崎県史』の「日向神話」解説に見てみたい。
『記紀』の「天孫降臨」は、「朝鮮から内陸アジアに広く分布している垂直降臨」であり「穀霊神の降臨」であろう。問題は、その降臨の地として、出雲や大和の外に、なぜ僻遠の「空国(からくに)」である日向への降臨がなされたかが問題となるが、「その最大の理由は、隼人の服属の起源を神話の時代に遡(さかのぼ)って示すことにあったと考えられる」(『宮崎県史』p107)
そして、『記紀』の記述を見れば「日向への降臨の地として南九州を求めていたことは明らか」であるとして、西臼杵高千穂説ではなく霧島説をとる。理由は、「隼人の服属の起源を神話時代にさかのぼって示す」ためには、その降臨の地を、「政府の支配に服属している地である日向と隼人の地との境界に位置する峰」の霧島に降臨させる必要があったとする。(同上107)
また、瓊瓊杵尊の降臨に際して、神器の継承が実際になされたかどうかや、随伴する神々の神名が諸書によりまちまちであることなどを指摘。さらに、ホノニニギの原型は幼童の姿で降臨する穀霊神であり、このように種族の祖神が天上から降臨する神話は朝鮮から内陸アジアにかけて広く分布するという。(同上p78~80)
また、日向神話のコノハナサクヤヒメとイワナガヒメの結婚をめぐる説話は、東南アジアからニューギニアにかけて広く分布するバナナタイプの「死の起源神話」に含まれるとする比較神話学に基づく見解を紹介。コノハナサクヤヒメの火中出産の話も、民俗学の成果によれば、東南アジア一帯に広がるマザーロースティングと呼ばれる習俗との関係が深いという。(同上p85)
また、海幸彦と山幸彦の争いについて、この説話には、次の三つのモチーフ、1.失われた釣り針、2.洪水、3.メリュジーヌ・モチーフ(トヨタマヒメが出産シーンを見られて怒る)があるが、その構成要素の分布は、東アジアから東南アジアなどに広く及んでいる。また、ヒコホホデミが海神宮を訪ねる話は、大嘗祭の祭儀神話として機能していた可能性があるとしている。(同上p93)
また、日向三代の山稜については、「もともと神代三代は神話的存在であり実在しなかったわけであるから、神代山稜の所在地が不明であるのは当然のこと」(同上p105)。では何のためにこのような「日向神話」が創作されたかというと、次のような二つの重要な意義があったと考えられるとしている。
「第一に、天皇権力がそれによって支えられている基盤をより確かにかつ広く生産社会の信仰の中に打ち立てること、すなわち始祖天皇である神武が高天原の主神アマテラスの後嗣としてその権威を受け継ぐだけでなく、山の神と海の神の血統を受け継いでその呪能を持つものとして出現することを説くこと。第二に隼人の服属の起源を説くことと考えられる。」
「このように日向神話の中で隼人の服属の説話が後次的なものであることからすれば、神話の舞台として出てくる日向地方の伝承や信仰とは全く関係なく、神話の構成上の舞台として地名を借りただけに過ぎないとする見解は妥当であると考えられる。」(同上p106~107)

『日向神話の本舞台―宮崎県北編』の出版

 以上が『宮崎県史』の「日向神話」解説であるが、延岡では、宮崎照雄氏の『日向国の神々の聖跡巡礼』の出版を契機に、愛宕山がかって笠狭山と呼ばれていたことが新資料で裏付けられるなど注目を集めている。そこで、高千穂、延岡、日向の有志が集まり「日向神話研究会」を立ち上げ、その研究成果として、この度『日向神話の本舞台―宮崎県北編』が出版された。
新資料というのは、『日向国御料発端其外旧記』(徳川幕府直轄地富高陣屋(現日向市)記録1858)で、その中に”皇孫(瓊瓊杵尊)ノ御遊行ハ・・・高千穂ニ御立玉ヒテ御橋ヲ渡リ早日ノ峯ヨリ吾田長屋笠狭ノ御碕(延岡城シタ)ニ至リ玉ウ・・・”という記述があること。これは幕府直轄地富高の史料であり、愛宕山が当時「笠狭ノ御碕」と呼ばれていたことを傍証するものといえる。
また、この本には、高千穂町郷土資料『天孫の神跡地 大高千穂の全貌』(押方宏之著1940)とその付属資料「昭和15年2月の『東京朝日新聞』掲載記事「高千穂の聖跡に就いて」(三編)が紹介されている。ここでは、「日向の襲の高千穂の峰」の「襲」は「山岳重畳の地」の意であって、霧島山の「麓」を、曽於郡の「曽」とする誤りを指摘するなど「霧島高千穂説」に反論している。
また、「美々津(日向市)の故事・伝承・聖蹟について」では、なぜ神武天皇が美々津を「お船出」に選んだかや、それにまつわる様々な故事伝承を紹介。「細島(日向市)に伝わる聖蹟について」では、細島の「米の山」が神武東征に従軍した「大久米命」にちなむことや、伊勢ヶ浜を挟んで立つ「櫛の山」は、瓊瓊杵尊が笠狭碕から「櫛の山」に至り、これより諸方を眺望したことなどが紹介されている。
また、高千穂に関しては、伊波礼毘古の兄の御毛入野(みけいりぬ)命が東征の途中高千穂に帰還し鬼八(きはち)退治をしたこと。その子孫が三田井氏であること。特に面白いのは、神武天皇が東征後出雲系の伊須気余理比売(いすきよりひめ)を妃として生まれた長男の日子八井耳(ひこやいみみ)が、九州阿蘇地方に派遣され、日向・肥後の地を官し、その子孫が阿蘇宮川氏の祖となったこと。
また、神武天皇の次男で神沼河耳(かみぬなかわみみ)命に皇位を譲った神八井耳(かみやいみみ)命の子が「建磐龍命(たけいわたつのみこと)」で、「九州の長官に就任した際、宮崎に立ち寄り、宮崎宮(宮崎市)の旧址に社殿を建てて祖父の神霊を祀ったのが宮崎神宮の始まりであり、その子孫が意富臣(おおのおみ)、大分君(おおきだのきみ)、阿(あ)蘇(そ)君(のきみ)となったことなどを紹介している。
これらは、戦前盛んに行われた「高千穂論争」を継承するもので、先に紹介した『宮崎県史』の比較神話学解釈には触れていない。もちろん、それを無視することはできないが、その前に、とかく我田引水に陥りがちな日向神話の神々の「囲い込み現象」を、せめて高千穂、延岡、日向だけでも克服しようと一致したことが評価される。
といっても、アカデミズムの世界では、先に紹介したように、日向神話の史実性は全く認められていない。では、紀元四世紀以前の日本古代史研究がどこまで進んでいるかというと、実は、未だ邪馬台国が畿内か北九州かも決着していないわけで、つまり、まだ何も判っていないのである。これを解く文献資料として『記紀』の研究をもっと進める必要があると思うのだが。

津田左右吉の「記紀神話」解釈

そこで、こうした戦後アカデミズムの「記紀神話」の文献史学的解釈を基礎づけたとされる津田左右吉が、「記紀神話」に正統性の根拠を置く日本の天皇制を、どのように評価していたかを見てみたい。
津田はまず、これらの神話は確かに「歴史的事件」の記録ではないが、それが生まれた時代の社会及び思想という「歴史的事実」を語っており、これを解明する必要があるという。では、「記紀神話」から読み取れる日本古代史の「歴史的事実」及びそれを生んだ歴史的背景はどのようなものか。要約すると次のようになる。
「日本は島国であって他民族との闘争もなく、同じ人種、同じ言語を使うようになった。そうした生活の座を背景に様々な説話が生まれた。戦争の話が少ないのは平和だったからで、天皇家の国家統一も、戦争より何らかの文化的優位性をもって、他の政治的小勢力を服属していったことが判る。
その文化的優位性とは、言うまでもなくシナ文化の伝播によるものだが、それは武力的征服によって押しつけられたものではなく、日本の土着文化と折り合いをつける中で徐々に浸透していった。このようにして、ゆるやかな文化的統合体としての日本が形成され、日本独自の天皇を中心とする統治体制を形成するに至った。」
山本七平はこれを敷衍して次のようにいう。
「この統治の基本的な形は、邪馬台国の卑弥呼(日の巫女とすれば)の祭祀形態にあり、いわゆる祭祀は卑弥呼が行うが、実際の政治は男弟が行うという祭祀と政治の二元制で、これを維持することが、卑弥呼死後も台与の擁立という形で守られ、律令制導入後も神祇官と太政官の並立という形で守られた。」(『日本人とは何か(上)』p130)
こうした二元制は、平安時代においては摂関制、武士の時代においては幕府制、明治憲法下では解釈に混乱はあったものの立憲君主制、日本国憲法下では象徴天皇制という形で継続している。津田左右吉自身も、こうした皇室の伝統的な有り様は「民主主義とも調和するものであり、国民統合の生きた象徴である」として次のように主張している。
「この二元制下における天皇の有り様は、決して祀られる対象としてではなく、あくまで、その即位の時に執り行われる大嘗祭の儀に象徴されるような「新穀を神々に供え、自身もそれを食する。その意義は、大嘗宮において、国家、国民のために、その安寧、五穀豊穣を皇祖天照大神及び天神地祇に感謝し、また祈念するものである。」(「建国の事情と万世一系の思想」)
こうした天皇の基本的有り様は、神祇官が太政官に上位する形で養老律令(718年)に規定された。唐の律令制には神祇官はなく、皇帝の下に三省(中書省、尚書省、文科省)があるだけである。折しも、712年には古事記、720年には日本書紀が編纂され、こうした日本独自の統治体制が「記紀神話」にその正統性をおく形で規定された。(上掲書p106) 
こうした見方は、「記紀神話」に史実性を求めるものではないが、さりとて、その全てを「後世の作り話」とはしない。津田自身は、大和朝廷は豊沃な後背地を持つ大和に起こったとし、日向への天孫降臨や神武東征を認めていないが、一方で、「この頃の日本は不明な点が多く、今後の研究の成果を待たねばならないだろう」と言っている。

理系学者宮崎照雄氏の「記紀神話」の研究手法

折しも、延岡では、先に紹介した『日向神話の本舞台』が発刊され、その論考の主要な部分で、三重大学名誉教授宮崎照雄氏の『日向国の神々の聖跡巡礼』の見解が紹介された。氏は、魚の病理学を専門とする理系学者で、日本古代史研究の専門家ではないが、中朝の史料と併せて「記紀神話」を読み解くことで、独自の日本古代史論を展開している。
宮崎氏は、『記紀』の神話伝説を『非科学的』・『渡来説話のパクリ』とするのは、日本の文系学者が、理系科学(動物学・植物学・医学・生理学・科学・地学・地理学)の知識に乏しいことにより、「記紀神話」が正しく理解できず、上古の人が「古代の史実として信じた」神話や伝説を、「後世の奈良時代の舎人の作り話」としたためという。
また、理系学者の研究においては、独創性が重要で、多数の先学の論文を読むが、その目的は自分の研究対象を先学がすでに研究しているか否かを確認するためである。従って、研究の過程ではオリジナルの史料のみを参照し、それをもとに、日本古代史の謎を解く「合理的ストーリー」を論考し、オリジナル論文に仕上げるという。
さらにもう一つの特徴は、「歴史を作ったのは『人の情念』である」という考え方である。従って、そのようにして自説を駆使して生まれた「合理的ストーリー」は、「人の息吹が感じられるストーリー」でなければならないという。私自身、そうした「古代に生きる人々の息吹」に触れることで、日本古代史への興味を新たにすることができた。

宮崎照雄氏の独創的な「記紀神話」の謎解き

まず、『記紀』の「神代」に記された物語をどう見るかだが、宮崎氏はそれを、猿女君や語部(出雲神話)が「舞と誦」によって語り継いてきた「伝承」であり、「乙巳の変で帝紀や旧辞など史書が火災で灰燼に帰した後も、八世紀初頭に『記紀』が編纂できたのは、「人の脳」という「記録媒体」があったおかげである」という。
そうした「伝承」や残された記録を整理して、天武天皇の時代に稗田阿礼に誦習させた。それを元明天皇の時代に太安万侶に撰録させたものが古事記。その後、漢文を用いて本格的な国史として編纂されたものが日本書紀である。宮崎氏は、これらの記述は「一部改竄も含むが、『歴史の捏造』があったとは思わない。日本人は日本歴史を正当に伝えている」という。(『狗奴国私考』「飛鳥浄御原宮での天武天皇」(4)『日本書紀』編纂」)
日本古代史には「謎の4世紀」という言葉があるが、先に言及したように、実際には未だ邪馬台国の位置も判っていないわけで、4世紀以前は謎というべきである。宮崎氏はこの間の歴史を、魚の病理学研究の画像診断を生かした「鏡・銅鐸・銅矛」の研究をベースに、中朝の史書や『記紀』を徹底的に読み込み、次のような、古代から『記紀』編纂に至るまでの歴史の「合理的ストーリー」を展開している。(以下、宮崎氏の諸著作を参照)
伊耶那伎と伊耶那美による国生みから実際の国造りが始まるのは、伊耶那伎の禊ぎによる三貴子(天照・月読(つくよみ)・須佐之男)の誕生と分知(役割分担)からである。その後、天照大神と須佐之男命の誓約(うけい)による三女子と五男子の誕生→須佐之男命の乱暴→天照大神の石屋戸こもり→高天原の「祅(わざわい)」→天照の再臨による「祅」の終息と続く。
この間の歴史を、宮崎氏は、紀元57年の「漢(かんの)委(いな)奴(こく)国王(おう)」の委奴(いな)国を起点に、伊都国と奴国の分裂→伊都国優位→107年伊都国が後漢に生口160人を献上→奴国の一部が狗奴国を分立し南方に移住→180年頃「倭国大乱→188年邪馬台国連合が卑弥呼共立→239年卑弥呼が「親魏倭王」の印綬受ける(=魏と同盟)→狗奴国と邪馬台国の戦争→247年邪馬台国敗れ卑弥呼死(殺害?)→248年邪馬台国男王立つも治まらず台与を擁立し混乱終熄」と見る。
その後、『記紀』の物語は、素戔嗚尊の出雲追放に始まる出雲神話となり、大国主の出雲国作り(日本書紀は詳述せず)→天照大神(天孫)への「出雲の国譲り」となる。ところが、いよいよ天孫の「葦原中つ国」への天下りとなると、なんと、その天下り先は、出雲ではなく突然日向高千穂となる。ここから「日向神話」の、次のような多くの謎をはらむ物語が始まるのである。
まず、注意すべきは、宮崎氏は「漢委奴国王」を「漢の倭(わ)の奴の国王」ではなく、あくまで「漢の委奴(いな)国王」としていることである。その委奴国が中国との外交関係をめぐって伊都国と奴国に分裂→伊都国優位の中でさらに奴国から狗奴国が分立し南方(熊本の菊池川流域の玉名、山鹿、菊池郡など)に移住。一部は高千穂を経て日向にも住んだとする。
その後、倭国の緊張関係はさらに高まり倭国大乱となった。『記紀』では、この辺り天照大神と素戔嗚尊の愛憎入り交じった関係や、誓約(うけい)による三女子、五男子の誕生などを記している。宮崎氏は、この間に、伊都国と狗奴国の卑弥呼と卑弥弓子の縁組みによる融和や、邪馬台国連合の編成と卑弥呼共立、狗奴国と邪馬台国の対立激化(卑弥呼と卑弥弓呼の離別)があったとする。