『日本国記』の「古代史」及び「現代史」を検証する(1)

2019年8月29日 (木)

はじめに

 百田尚樹氏の『日本国記』が、ベストセラーとなったということもあり賛否両論の議論が交わされている。私も、遅ればせながら同書に目を通してみた。全体的な感想としては、通史といいながら、著者の視点は、主に近現代史の従来の解釈の見直しに置かれていて、特に、「古代史」は、いろんな説を紹介しているものの、全体的に主張に一貫性がないように思われた。

 この本に対する具体的な批評は、八幡和郎氏が『日本国記は世紀の名著かトンデモ本か』でかなり綿密に行っている。これに百田氏は感情的な反発を示しているようだが、この本の表題は確かに揶揄的だが、内容は真摯なもので、他に通史的な著作を多くものしている八幡氏には当然の批評かと思われた。

 そこで、まず、『日本国記』の「古代史」を検証する。それから、これに対する八幡和郎氏の批判を項目毎に紹介する。その上で、これらを、私が現在、最も興味深いと思っている宮崎照雄氏の説に照らすとどうなるかを述べる。これによって、現代日本の「日本古代史研究」の現在位置がわかるし、宮崎説の妥当性を検証することにもなるからである。

『日本国記』の論点

 百田氏は、日本古代史について、弥生時代の日本について書かれた最も重要な歴史書は、いわゆる『魏志倭人伝』であると言っている。ただし、「3世紀から6世紀にかけての日本の王朝のことは、今のところよくわかっていないのが実情である」と言い、その時代の出来事を物語る『記紀』の記述に対しては、かなり懐疑的な見方を示し、次のような自説を展開している。

1.邪馬台国は九州にあったのではないか。
2.卑弥呼は「日の巫女」であるなら大いに納得できる。
3.井沢元彦氏は、卑弥呼は天変地異(日食)の責任を取らされて殺された可能性があると言う説を唱えているが大いに納得できる説である。
4.古事記の天照大神の「天の岩戸隠れ」は日食の暗喩だという人もいるが、「卑弥呼=天照大神」と言う説には賛同しない。
5.邪馬台国が大和朝廷になったのではない。なぜなら記紀には卑弥呼のことも邪馬台国のことも書かれていないから。大和朝廷は九州から畿内に移り住んだ一族が作ったのではないか。いわゆる「神武東征」は真実であったのではないか。つまり、邪馬台国と戦った狗奴国が邪馬台国を滅ぼし東征したのではないか。
6.天照大神が大国主命から「葦原の中つ国」を譲られる話は、大和朝廷が出雲地方を征服した話ではないか。
7.神武天皇と崇神天皇は実は同一人物ではないかという説も根強い。
8.日本は369年に新羅と戦い、百済を服属させた。そして弁韓を任那と名付けた。391年から404年にかけては、百済と新羅の連合軍を破り、さらには高句麗とも戦い、つまり日本の国力が相当大きかったと考えられ、当時の日本にとって朝鮮半島の一部が非常に重要な地位であったと考えられる。日本書紀には、神宮皇后の時代に大和朝廷が朝鮮半島に進出し、新羅を屈服させて百済を直轄地としたという記述があるが、はたしてこれが広開土王碑に記されている391年の出来事であったかどうかは不明である。
9.歴史研究家の中には、この時に王朝が入れ替わったのではないかと言う説を唱える人が少なくないが、仲哀天皇は熊襲との戦いで戦死し、代わって熊襲が大和朝廷を滅ぼして権力を掌握したという「王朝交代説」は説得力がある。
10.仲哀天皇が死んだのが平時ではなく、九州での戦の途中であったことからも、戦死であった可能性が窺える。
11.古事記によると、応神天皇は父の仲哀天皇の死後十五ヶ月後、日本書紀では十月十日後に出産したことになっており、実子であるかどうか疑わしい。
12.いわゆる「倭の五王」について、讃、珍、済、興、武を履中天皇から雄略天皇に充てる説が定説になっているが、『記紀』にはこれらの天皇が朝貢したという記述はなく、古田武彦氏は、倭の五王は九州王朝の王とする説を述べている。
13.4~6世紀は「大和朝廷時代」と呼ばれてきたが、近年の研究でこの時代は大和朝廷が日本を統一したわけではないという見解が一般的で、「古墳時代」と呼ぶようになり、その王朝は「ヤマト王権」と呼ばれる事が多い。
14.仁徳天皇陵などの巨大な古墳は、その王朝がかなりの国力を持っていたことの証であり、同時にその王の権力の強大さがうかがえる。同じような前方後円墳が日本各地に作られていることから、大和王権の権力はほぼ全国にわたっていたと考えられる。
15.6世紀後半になると大規模古墳は作られなくなった。それは「朝鮮半島を支配した騎馬民族が海を渡ってやってきて新たな王朝を立てたため」とする、いわゆる「騎馬民族説」は、今日では荒唐無稽な説として否定されている。
16.継体天皇は謎の多い人物で、第25代武烈天皇が崩御したとき皇位継承者がおらず、応神天皇の五世孫の継体天皇が58歳で即位した。武烈天皇が残虐であったとの記述もあり、この時、皇位簒奪があったとする説は、私も十中八九そうであろうと思う。

『日本国記』に対する八幡和郎氏の批判と意見

 こうした百田氏の見解に対して、八幡和郎氏は、項目毎の論点に対し、次のような批判ないし自説を述べている。

 まず、『記紀』の内容は、古代の王者たちの長過ぎる寿命を別にすれば、系図も事績もさほど不自然なところはなく信頼性は高く、中国や韓国の史書や「好太王碑」とも符合し、考古学的見地からも特に矛盾はないと考える」と言う。その上で、

1~4についてはほぼ同じ見解
5→私は、「万世一系」を肯定している。日向からやってきた武人が大和南西部に作ったクニが発展して日本国家となり、その王者は男系男子で現在の皇室まで継続しているということは荒唐無稽でないと思うからだ。

 神武東征とか大和国の畝傍山麓での建国というのは、記紀にも書いておらず、中世以降成立した伝説である。神武天皇は多人数の軍隊と一緒に東征したわけでもないし、大和で建てたクニは日本国家ではなく、せいぜい現在の橿原市と御所市あたりだけを領域とするだけだったというのが『記紀』に書かれている出来事であって、リアリティも高いと思う。

  後に神武天皇と呼ばれる男は、何らかの事情で家族を残して出奔した可能性が強い。一行は、安芸などを経て吉備に三年留まっているが、こうした武装集団が見知らぬ土地で居場所を見つけられるのは、用心棒か傭兵として雇われるとか、特殊な技術でも持っているときで、おそらく彼らは、そこの土着勢力に雇われて定着し、少しばかりの手下を得たのではないか。

  神武天皇と呼ばれることになる人物は、並外れた武芸の達人かよほどカリスマ的魅力もあったに違いない。長髄彦の妹婿だった物部氏の祖先である速日もこの侵入者と手を組み、長髄彦に勝って畝傍山の麓に小さな王国を建国した。

  神武天皇は大国主の命の孫娘を皇后とし、綏靖天皇の皇后も母親の姉妹を皇后としたとあるから、天皇家がやってくる前の大和の支配者たちが出雲と縁のある人々だった可能性が高い。(百田氏の狗奴国東征説には反対。一方、百田氏は神武東征は認めるが日向からとは言わない。大和では、旧勢力の征服ではなく縁組みによる融和である。)

6→十代目の崇神天皇が大和国を統一し、さらに吉備や出雲を服属させ、その曾孫のヤマトタケルらが関東や九州の一部に勢力を広げた。
出雲では天照大神の子孫でも皇室とは別系統の者が支配者となっていたが、崇神天皇のときに服属したというのが、大和と出雲の関係だというわけだ。

7→『日本国記』は神武天皇と崇神天皇同一人物説に理解を示しているが、そうなると、九州出身の崇神天皇は九州から吉備などを通過して大和を征服し、その後、かって通過してきた吉備や、そこから近い出雲の制圧に乗り出したことになり、なんとも不自然なのである。
日本書紀に書いている景行天皇やヤマトタケルの活躍は、細部はともかくとして、ストーリーとしては無理がない。崇神天皇が吉備や出雲まで支配下に置いたのを、九州まで勢力を広げ、東国でも関東地方をほぼ制圧したと言うことだ。
また、倭の五王の一人雄略天皇だとされる「武」は「自分の先祖は畿内から出発して、西日本と東日本にそれぞれほぼ均等に勢力を伸ばしたと中国の南朝への上表文で語ってをり、この「先祖」が崇神天皇なら判るが、九州からやってきた神武天皇とするとおかしくなる。
(欠史八代と言われる諸天皇は実在したと考える。従って神武=崇神はない)

8→仲哀天皇の死後、神宮皇后は大陸から半島に渡り、戦わずして新羅を降伏させ、高麗や百済も自然と従うことになった。これ以降、これらの国は朝貢するようになってその後三世紀にわたって継続した。
皇太后は、仲哀天皇の死後になって生まれた子(後の応神天皇)をつれて畿内に凱旋した。現在の皇統譜では仲哀天皇の後は応神天皇になっているが、これは大正十五年になってそう定められたのであって、『日本書紀』もその後の朝廷の公式見解でも、神宮皇太后が女帝であったとしていた。(日本書紀の記述を信用すべし)

9→百田氏は、万世一系を世界に誇るべき事としながら、応神天皇は熊襲だとか継体天皇は簒奪者だとかいう可能性を、さほどの根拠なく主張して一貫性がない。
仲哀天皇が熊襲の反乱を聞いて筑紫に入った。筑紫との間に戦争がなかったのは、北九州にあった邪馬台国が滅亡した後小国に分裂していたらしい九州が、熊襲の圧力からの防衛や大陸で勢力を広げるために、軍事大国だった大和の宗主権を認め後ろ盾にしたと考えてよい。(応神天皇を熊襲の王というなら、熊襲が大和を征服したことをもって建国史とすればよいではないか)

10→熊襲を攻めるより大陸の新羅を討つべしとの神功皇后に現れた「お告げ」に反対した仲哀天皇の死は、暗殺の可能性が強く感じられる。

11→継体天皇の継承の時にむしろ第一候補だったのが、仲哀天皇の子孫だった倭彦命だったことを見れば、仲哀天皇と応神天皇の父子関係を否定するのは理屈に合わない。

12→仁徳天皇の後の履中天皇から雄略天皇までは、中国の南北朝時代の南朝と宋王朝と交流したと中国の正史に詳細に記載されている。日本人の任那領有を認めながら、その主体は大和朝廷でなく九州王朝かも知れなどと書いて曖昧にしてしまっている。

13→第十代崇神天皇に至って、纏向遺跡などがあって大和で最も栄えた三輪地方を支配下に収めて大和を統一した。さらに、畿内全域、そして出雲や吉備当たりまで支配下に置いたというのが日本書紀に書いてあることだ。

14,15は同様の見解

16→五世紀後半に武烈天皇に近い血縁の男子がなく、応神天皇の子孫で越前にいた継体天皇を招聘したが、その経緯に不自然なところはない。
継体天皇は、遠縁と言ってもかなりメジャーな皇族だった。なにしろ、父の従姉妹姉が允恭天皇の皇后であり、雄略天皇の母なのである。また歴史の編纂は推古天皇のときに始まっており、推古天皇の父は継体天皇の末っ子である欽明天皇であり、いい加減 なことは書けないはずである。

八幡説の推定する「日本古代史」の実年代

 八幡氏は、以上の自説について、「もちろん『日本書紀』の記述はそのままでは史実としてはあり得ないが、同書の系図と事跡は、①少なくとも荒唐無稽ではないし、②ウソを書いたという動機も説明できておらず、③ほぼそのまま信頼できると結論づけた」と言い、その上で、古代天皇の実年代について次のような見解を述べる。

ア倭王武と雄略天皇が同一人物であることはほぼ間違いなく、『日本書紀』の実年代を推定する上で、基準点の一つになると考えている(宋への朝貢478年)。
いずれにせよ、大事なことは、『日本書紀』に書かれている系図とか歴代天皇の事跡が真実だとしたら、中国や韓国の史書や、好太王碑の内容、さらには、考古学的知見とひどく矛盾するようなことはないということが大切なのだ。

イ倭の五王以前の出来事の実年代については、ヤマトタケルが活躍して大和朝廷の勢力が九州の一部や関東にまで広がり始めたのは四世紀初頭であり、その景行天皇の祖父にあたる崇神天皇の全盛期は三世紀の中頃にあたる。卑弥呼の宋女である壹與と同年代だろう。

ウそこから大和朝廷の統一過程を推定すれば、大和統一が240年、吉備や出雲を支配下に置いたのが260年、ヤマトタケルの活躍が310年前後、仲哀天皇の筑紫進出と列島統一と応神天皇の誕生が340年あたりだ。

エ卑弥呼が九州で活躍(二世後半の倭国大乱の後に邪馬台国の女王に共立)していたとすれば、同じ時期の大和では統一王権は成立しておらず、壹與の時代になって崇神天皇による大和統一と中国地方などへの進出が始まったということだ。

オ邪馬台国の位置は、私は九州中部とみるのが最も自然で、具体的には筑後、次いで宇佐などが有力だと思う。

カまた『記紀』には、畿内の大和朝廷が九州を征服したと書いているし、倭王武の上表文も同じだ。九州国家が畿内を征服したなどと言うのは、何の根拠もない奇説なのである。『日本国記』では、卑弥呼の死とか天の岩戸伝説が日食に触発されたものと言いつつ、そこから天照大神と卑弥呼が同一人物とかいう無理な推論をしていないのはいいことだ。

キ『日本国記』は、邪馬台国と対立していた狗奴国の誰かが東征したものではないかとしているが、それなら、卑弥呼より後の時代の人物ということになる。それが、大和を征服して大和朝廷を建国した後、逆コースで西に戻って、吉備や出雲に勢力を伸ばし、仲哀天皇のときに九州に再び登場して邪馬台国や狗奴国の故知にやってきたことになるのが不自然だ。

『日本国記』の論点に対する宮崎照雄氏の見解

 それでは最後に、以上のような『日本国記』とそれに対する八幡氏の批判ないし見解に対して、宮崎照雄氏説ではどうであるか見てみる。

 宮崎氏は、魚の病理学を専門とする学者である。もちろんフィールドワークを多くこなしてきた。そして、そこで得られた研究手法や理系科学知識を総動員して、「記紀神話の古史書だけでなく、考古遺物や華夏の史書をとり上げて総合的に論考し、今一度古代の神々の事績を正しく理解」しようと努めたと言う。

 氏は『記紀』の位置づけについて「記紀は一部改竄を含む。しかしながら、高名な文系の歴史学者が主張するような「歴史の捏造」があったとは、私は思わない。日本人は日本の歴史を正当に伝えているのである」と言う。

 その上で、「天鈿女以来、長い日本の歴史を誦と舞で伝承してきた猿女君が伝えてきた歴史の記憶」である『記紀』を、より正確に理解するためには、「客観性の保証が難しい」が、あえて、その時代を生きた「人の息吹が感じられる合理的なストーリー」の構築に努めた、と言う。以下、『日本国記』の論点に即して宮崎説を述べる。

1.邪馬台国の位置については、魏志倭人伝の里程のついての宮崎氏独自の見解から、北九州の福岡糸島付近にあったとされる「伊都国の南、徒歩一日(倭人伝の「一月」は「一日」の誤植とする)の距離に位置」していたとする。
2.卑弥呼は、180年頃の「倭国大乱」を収めるために共立された邪馬台国の女王である。弥生時代の農耕を左右したのは天候及び人口であり、「日の順行」と「長宜子孫」を祈ることが王としての勤めであった。「卑弥呼」は言うまでもなく中華による卑称であり、倭では「日の巫女」であったと考えられる。(「長宜子孫」は魏より贈られた卑弥呼の鏡の銘文で子孫繁栄という意味)
3.邪馬台国の卑弥呼は、卑弥呼が魏と同盟したことで始まった狗奴国との戦争で敗戦の責任を問われ殺されたと見る。丁度この時(247年3月24日日没前)「皆既日食」が起こった。それが、卑弥呼の「日の順行」「長宜子孫」を祈る霊力の衰えの示すものとされ、殺害に至ったと見る。
4.八幡氏も、百田氏が「卑弥呼=天照大神」説を否定したことに同意し、これを「奇説」とするが、宮崎氏は、天照大神は卑弥呼と登與の二人を神格化したものと見る。
5.「狗奴国が東征し大和王国(朝廷)を作った」という百田氏の見解は、宮崎氏と同じ。ただし、宮崎氏は、邪馬台国は滅ぼされたわけではなく、宇佐に遷都した後、「神武東征」前に、台与の子の速日らを東征させ、速日は土公の長髄彦と縁を結び大和に一定の勢力を得ていたとする。
6.「出雲の国譲り」は、台与(=天照)の時代の邪馬台国の事跡とする(訂正:素戔嗚の事跡としたのは私の間違い)。出雲に続いて、出雲の影響下にあった「葦原中つ国」も、速日と長髄彦の縁組みにより、畿内における国づくりが進んでいた。そこに神武が東征し、速日が長髄彦を見限り神武に帰順することで、神武の大和王権が成立した。
7.幼名を狭野命とする神武が、大和を征服し拠点を築くまでを神武天皇の事跡とし、それ以降大和朝廷の樹立までを崇神天皇の事跡とする(つまり神武=崇神)。八幡氏は「欠史八代」を否定し八代の天皇を置くので神武=崇神とせず、神武を1~2世紀の人物と見る。従って、3世紀半ばの卑弥呼とは無関係となり、卑弥呼を、神武の五世祖である天照大神とする見方を「奇説」として否定する。
8.神宮皇后の「三韓征伐」は、「広開土王碑」に記された通り。「当時の日本にとって朝鮮半島の一部が非常に重要な地位であった」(百田氏は「植民地」とするが、八幡氏は「植民地」ではなく「日本の領土」とすべきと言う。
9.宮崎氏は、日本古代史のダイナミズムを「狗奴国王統」と「邪馬台国王統」の争いと見ており、この場合は、万世一系の断絶を意味する「王朝交代」ではなく「狗奴国王統」の仲哀天皇が暗殺され「邪馬台国王統」である神宮皇后の子応神天皇が即位した「王統交代」と見る。神功皇后とその参謀竹内宿禰は、共に速日につながる「邪馬台国王統」であった。
10.前項に見た通り、仲哀天皇は百田氏がいうような「戦死」ではなく、「邪馬台国王統」の復活を望む竹内宿禰に殺されたと見る。八幡氏は「暗殺の可能性が強く感じられる」としている。
11.宮崎氏は、応神天皇は神功皇后と仲哀天皇の子ではなく、神功皇后と武内宿禰の子と見る。出産が遅れたように見せかけたのはそのため。八幡氏は「仲哀天皇と応神天皇の父子関係を否定するのは理屈に合わない」というが、「父子関係」にあるかのような偽装工作が行われたと見た方が妥当である。
12.宮崎氏は「讃」は応神天皇、「珍」は仁徳天皇、「済」は二人の天皇に充てられているようであり、履中天皇と允恭天皇とする。間の反正天皇は事跡がないので「興」は安康天皇、「武」は雄略天皇とする。もちろん、百田氏のような「倭の五王」九州王朝説はとらない。また、百田氏のいう「記紀にもこれらの天皇が朝貢したという記述がない」については、記紀編纂を命じた天武天皇が、狗奴国の伝統的外交政策である「中国への朝貢」をよしとしなかったため、あえて省いたとしている。八幡氏は、倭の五王は、当然大和朝廷の王であるといい、「讃」を仁徳天皇、「珍」を反正天皇、「済」を允恭天皇、「興」を安康天皇、「武」は雄略天皇に充てる。
13.八幡氏は「第十代崇神天皇にいたって、纏向遺跡などがあって大和で最も栄えた三輪地方を支配下に収めて大和を統一した。さらに、畿内全域、そして出雲や吉備当りまで支配下に置いたというのが日本書紀に書いてあること」であり、「大和王権」ではなく「大和朝廷」と呼ぶべきという。
百田氏の見解は、3世紀から始まる古墳時代には倭国の首長は「王」や「大王」と呼称されていたことをもって、「この時代を「大和」「朝廷」と言う語彙で時代を表すことは必ずしも適切ではない」(wiki「大和王権」)とする1970年代以降の見解を反映したものと思われる。宮崎氏は、先に述べたように、この時代を「王権交代」ではなく「王統交代」と見ており、天皇家による統治は継続しているから、その時代を「大和王権」と呼ぶか「大和朝廷」と呼ぶかには特にこだわりを見せていない。
14.仁徳天皇の事跡としては、河内平野の大規模農地開発のための土木工事、水害防止のための堤防の増築、田地開拓のための灌漑用水を引くなどが行われた。この時代の天皇陵の巨大さは、生産力の増大と共に、それを指揮する政権の巨大さ、強固さを物語るものであることはいうまでもない。
15.騎馬民族説とは、「日本の統一国家である大和朝廷は、4世紀から5世紀に、満州の松花江流域にいた扶余系騎馬民族を起源とし朝鮮半島南部を支配していた騎馬民族の征服によって樹立された」とする説で、天孫降臨説話や神武東征説話を朝鮮半島からの九州征服と畿内進出を表すとする。この説は、昭和23年(1948)に江上波夫が提唱した説で、敗戦直後の日本の自虐的な歴史解釈風潮を反映したものと言える。これは、騎馬に関する考古学的所見に基づくものとされるが、『記紀』の記述にはその痕跡はなく、現在は「奇説」として否定される。
16.継体天皇となる男大迹(おほどのおおきみ)は、応神天皇が13歳の時、武内宿禰に連れられて敦賀に巡幸した時に息長氏の媛のもとに残された落胤の若沼毛二俣王(わかぬけふたまたおう)の四代孫である。息長氏は中央に進出することなく地方豪族として琵琶湖水運と敦賀を拠点とする日本海貿易を支配して栄えた。それ故雄略天皇の粛清の嵐に巻き込まれることはなかったが、詳細な系図は中央には伝わっておらず、それ故に継体天皇の行為の正当性が後々まで疑われることになった。

八幡氏の説に対する私の疑問

 八幡氏は、『日本国記』の古代史に関する記述に疑問を呈し自説を開陳した後、古代天皇の実年代について先に紹介したような見解を述べている。八幡氏は、雄略天皇の「宋への朝貢478年」を起点に、ヤマトタケルが活躍して大和朝廷の勢力が九州の一部や関東にまで広がり始めたのは四世紀初頭であり、その景行天皇の祖父にあたる崇神天皇の全盛期は三世紀の中頃にあたるとする。

 これに対して宮崎氏は、『記』が記す崇神天皇の没年は戊寅318年とし、治世は約20年で崇神朝の始まりを301年としている。また、神武が45歳で東征のため日向祖出発した申寅年を294年とすれば、神武は即位前「45歳で東征のため日向に向かって出発してから6年」と述懐しているので、辛酉年301年が橿原宮に即位した年とすることができるという。*この「神武=崇神」説については、私は疑問に思っている。

 八幡氏は、崇神天皇全盛期を3世紀中頃としているので、宮崎氏の説より60年(六十干支)遡ることになる。それ故に、「台与の時代になって崇神天皇による大和統一と中国地方などへの進出が始まった」とするのである。

 問題は、崇神天皇の前に欠史八代を置き、一代20年×8=160年遡らせて、神武天皇を1~2世紀の人物とするため、神武の五世祖である天照大神と卑弥呼を同一視する見方を奇説として排除していることである。そこで「『日本国記』が「天照大神と卑弥呼が同一人物とかいう無理な推論をしていないのはいいことだ」と褒める。

 また、八幡氏は、邪馬台国が「東征」あるいは「東遷」したとする説を、「記紀には、畿内の大和朝廷が九州を征服したと書いているし、倭王武の上表文も同じだ。九州国家が畿内を征服したなどと言うのは、何の根拠もない奇説なのである」と言う。

 また、「『日本国記』が、「邪馬台国と対立していた狗奴国の誰かが東征したものではないか」としているのに対し、「それなら、卑弥呼より後の時代の人物ということになる。それが、大和を征服して大和朝廷を建国した後、逆コースで西に戻って、吉備や出雲に勢力を伸ばし、仲哀天皇のときに九州に再び登場して邪馬台国や狗奴国の故知にやってきたことになるのが不自然だ」と言っている。

 これが八幡氏の、邪馬台国東征説否定、併せて狗奴国東征説否定の論拠になっているわけだが、邪馬台国が「葦原中つ国」に何度も東征・東遷を繰り返していることは『記紀』に明らかだし、宮崎氏が狗奴国末裔という景行天皇やヤマトタケル、さらには仲哀天皇が故知日向や北九州にやってきて熊襲を討ったことについても、これが大規模な征討でなかったことは、カワカミタケルの謀殺の話を見ても明らかである。

 なぜ隼人が、大和朝廷に反攻したかは、狗奴国の王族である瓊瓊杵尊一行が日向に天下りした後、海幸と山幸の後継争いがあり、長男である海幸が負けて南方に逃げ隼人と縁を結んだことで説明できる。東征した神武は、海幸との後継争いに勝利した山幸の子孫だったからである。

 それにしても、「神武は日向から何やら地元に居れなくなるようなことをしでかして少人数で出奔し、途中、安芸や備中で用心棒に雇われるなどして勢力を増やし、ついには大和を征服し「大和朝廷」を建てた」とする八幡氏の説は、いささか無理筋と言えないか。「天孫が『葦原中つ国』に天下りし全国を支配する」という「使命感」なしに、大和朝廷の樹立が可能であったとは思われない。

 また、神武の出自について八幡氏は何も言っていない。辺境に英雄的人物が生まれることがあり、神武にはそうしたカリスマ的資質が備わっていたとするだけである。これに対して宮崎氏は、神武の祖先は、中国の三国志の時代、邪馬台国が魏と同盟したことに抗して戦った狗奴国の王族であって、魏と対立する呉が有明海から狗奴国に侵攻することを怖れ、一族の後継を高千穂越えで日向に避難させたとしている。

 もちろん、北九州を中心に発展した倭の国々の人々が、日向や球磨・薩摩・大隅に広がり始めたのは、邪馬台国以前の「漢委奴国王」(「親魏倭王」は誤記2019.8.29)の時代からであろう。しかし、それが「葦原の中つ国」ではなく、日向への「天孫降臨」として語り継がれたのは、それが否定しようのない事実であり、それが辺境の地であるが故に、それを「天孫の天下り」として権威づける必要があったのではないだろうか。私が宮崎照雄説に賛同する所以である。