日本古代史研究のアポリアを紐解く理系学者宮崎照雄氏の視点(2019-04-06 15:38:11 掲載)
はじめに
日本人の頭を悩ませ続けてきた記紀神話の世界、とりわけ「日向神話」。その謎を、理系学者の視点で見事に解明し、日本古代史の全体像を蘇らせたのが、宮崎照雄氏の『日向神話の神々の聖跡巡礼』及び『狗奴国私考』(webβ版)である。
驚くべきは、氏の語る「日向神話の主要舞台が延岡であり、ここを起点に、神話の舞台が日向一円さらには薩摩隼人の地へと展開したとしていることである。延岡は、西臼杵の高千穂が天孫降臨の聖地とされる一方、笠沙の岬、可愛の山稜他多くの史跡を持ちながら、日向神話街道ルートからも外されている。
こうした迷妄を一擲し、中国との外交関係をめぐる邪馬台国と狗奴国のせめぎ合いを軸に、日向神話の史実性を一挙に高めたのが、宮崎照雄氏の研究の魅力といえる。それが従来の説とどう異なり、また、謎とされてきた数々の疑問点をどう解明しているかを、日本古代史研究の歴史を概観する中でその解説を試みたのが本稿である。
1『宮崎県史』の「日向神話」理解
『宮崎県史』通史編古代2(p105~106)には、次のような「日向神話」の起源についての解説がなされている。
「日向神話は高天原の神々の営みを受けて、以下に展開される天皇統治の時代を導き、両者を連続的に結ぶよう置かれている。日向神話の持つ二つの重要な意義としては」、第一、天皇権力基盤を打ち立てること。第二、隼人の服属の起源を説くことと考えられている。
「日向神話」は、高天原が「葦原中国」に加えて海原を手中におさめると言う話の展開になっているが、そこで物語られた説話は「日向地方の伝承や信仰とは全く関係なく、神話の構成上の舞台として地名を借りたに過ぎないとする見解は妥当であると考えられる」(シンポジウム『日本の神話』(吉井・岡田・大林)の一節を引用したもの)。
では、なぜ「日向神話」の舞台が日向の地でなければならなかったのか。その最大の理由は上述した意義の第二であり、ニニギの降臨の地が、政府の支配地と隼人の地の境界の峰(日向襲高千穂=霧島)とすることに意味があったとている。
要するに、「日向神話」の舞台を日向の地としたのは、”まつろわぬ”隼人を服属させるために、大和朝廷が、天皇家の祖先は隼人の祖先と同じとする神話――天孫が日向高千穂(=霧島)に天下りした――を創作したといっているのである。(そんなバナナ!)
2宮崎県『史跡調査報告』の結論
明治以後の近代史学では、「歴史の再構成は古文書、日記等の同時代史料によるべきであって、他の史料を史料批判なしに使ってはならない」という原則が、広く受け入れられつつあった。
ただし、同様の原則を古代史に適用することは、直接皇室の歴史を疑うことにつながるゆえに、禁忌とされてきた(wiki「津田左右吉」)。こうした時代背景の中で、『記紀」』神話をもとに、いわゆる「高千穂論争」が盛んに行われた。宮崎県「史跡調査報告」(大正13年)もその一つで、天孫瓊瓊杵尊の高千穂への天下りを所与として、その地が西臼杵か霧島かを論じた。
『調査報告』の結論としては、「源平盛衰記」が書かれた当時、霧島には未だ高千穂の呼称はなく、西臼杵の高千穂のみで、その経路は、遺跡や遺物の発見とも相関連して、阿蘇→高千穂→吾田の長屋の笠狭崎(愛宕山)であること疑いなし、とした。
3津田左右吉の『記紀』神話理解
こうした中で、明治以降の近代実証主義を日本古代史にも当てはめ、記紀の成立過程について合理的な説明を行ったのが津田左右吉である。
津田は、記紀の神代は観念上の所産であり、歴史的事実を記したものではないとして、次のような主張を行った。
一、「神武東征」否定
大和朝廷は大和で発生した。それを日向からの東征としたのは、神代観念)と歴史時 代をつなぐ「かけ橋」を必要としたからである。
二、「日向神話」否定
なぜ、日向のような僻陬(へきすう)の地が皇室発祥の地となったか。それは政治的 統治者としての皇室の由来を「日の神」につなぎ神性を持たせるためである。
三、「現人神」否定
高天原の神々の能力や行動は、神的であるより童話的であり、宗教的性質はない。死 もある。つまり人間である。(「神武天皇東遷の物語」及び「神代氏の性質およびそ の精神」津田左右吉参照)
4戦後、幻と消えた「高千穂論争」
こうした津田の主張は、s15年に関連著書の発禁、早稲田大学教授辞職に追い込まれただけでなく、「皇室の尊厳を冒涜した」として起訴され有罪判決を受けるに至った(s19年時効により免訴)。しかし、津田の所説は、第二次大戦後の懐疑的な風潮の中でよみがえり、わが国史学会で圧倒的な勢力を占めるようになった。ただし、津田自身は、マルクス主義の立場からの天皇制否定には批判的で、「天皇制は時勢の変化に応じて変化しており、民主主義と天皇制は矛盾しない」とする立場を堅持した。
戦後は、天孫降臨を前提とした「高千穂論争」はほとんど行われなくなり、代わって「邪馬台国論争」が盛んに論じられるようになった。そこでは、津田左右吉流の文献批判が主流となり、「端的に言えば、神代や古代天皇の話は、いわば机上で作られた虚構であり、事実を記した歴史ではない、ただ、それを伝えた古代人の精神や思想をうかがうものとしては重要な意味を持つ」とされた。(安本美典『邪馬台国はその後どうなったか』(p17)
5安本美典氏の「記紀」神話解釈
こうした戦後の歴史学会の論調に対して、安本美典氏は次のような所説を展開している。(以下「前掲書」)
「戦前のわが国の歴史学のすべてが皇国史観によっておおわれていたわけではない。津田史学の盛行は、皇国史観を否定するとともに、津田史学と相いれない面を持つ、多くの理性的・科学的成果をも顧みない傾向をもたらした。私は、「天孫降臨伝承」や「高千穂伝承」は、かってこの地上で起きた史的事実を伝えている部分があると考える。
私は、北九州の甘木市付近にあった邪馬台国の一部、または主要な勢力が、卑弥呼(天照大神)の死後、三世紀後半に、南九州へ移動した事実があったであろうと考える。これが「天孫降臨」という形で伝承化したと考える。南九州の邪馬台国勢力は、さらに東にうつり、大和朝廷をうちたてたと考える。それは三世紀末のこととみられる。すなわち私は、邪馬台国東遷の史実が「神武東遷」という形で伝えられたと考える。」
6大和朝廷の力の源泉はどこから?
では、そうした日本古代史を推進した天皇家の力の源泉は何であったかというと、氏は、主に二つあったという。(「前掲書」要約)
一つは、伝統からくる力である。中国の魏によって承認された、日本を代表する邪馬台国の後継勢力であり、宗教的・政治的な伝統を持つことからくる力。もう一つは、「魏志倭人伝」に倭人は「租賦を納む」とあるが、租税をとることによって国家ははじめて部族国家の域を脱する。兵士を雇い、最新式の武器を持ち、組織的訓練を受けた兵士に一般の人は勝てない。
なお、日本書紀でさえ「膂宍の空国」(荒れてやせた不毛の地)と記されている南九州から、大和朝廷の起源となる勢力が勃興することがあるであろうかとする疑問については、「私は、歴史を考えるばあいに、「歴史の必然性」や「可能性」以外に「英雄性」なども考慮しなければならないと考えている。元の勃興がジンギス汗という個人の「英雄性」に負うところが大きい」のと同様である。(*辺境から英雄が出る!)
7邪馬台国が降臨した高千穂は何処
安本氏は、こうした議論を経て、天孫降臨の高千穂の地が西臼杵であるか霧島であるかについて、次のように言う。(「前掲書」要約)
私は、邪馬台国を伝承的に伝えた「高天原」は北九州の甘木市付近と考える。北九州と都城付近と大和の地名の類似は、天孫降臨や神武東征の伝承と関係するであろうと考える。
魏志倭人伝に「水行十日、陸行一月」とあるのは、邪馬台国の勢力が北九州から南九州に移ったという伝承(「天孫降臨」)が混乱し、(それが)邪馬台国までとなったのではないか。
いずれにしても、瓊瓊杵尊らが北九州から南九州に至ったことは確かであり、経路としては、私は、西臼杵の高千穂を通り、霧島の高千穂に至ったとする本居宣長の折衷説を支持する。ただし、神代三山稜の比定地から見ても、日向三代の都(高千穂の宮=宮崎神宮)の伝承地から見ても、高千穂の峰は霧島山とする説の方が、西臼杵説より有利と考える。
8安本美典氏の説に対する私の疑問
こうした安本氏の議論の中で、特に問題となるのは、高千穂論争の考察において、延岡方面には、可愛(え)の山稜があるだけで、「瓊瓊杵尊が至ったとされる笠沙に当たる地は求めにくい」としている点である。(「前掲書」p244)
延岡には、このほか、祝子川とホオリ、五ヶ瀬川とイツセという名称の一致や、西階地区が古来高天原と言われていたこと。吉野や三輪など大和と一致する地名が残されていること。さらには、近隣の門川や日向に、伊勢地方の地名と一致する五十鈴川や伊勢が浜があることなどの事実が無視されている。
また、論理的な問題としては、「魏によって承認された伝統的な力を持ち、租税をとる脱部族国家」であるはずの邪馬台国が、なにゆえに、生産性の低い九州南部に降臨しなければならなかったか、についての説明が不十分であように思われる(辺境から英雄が出るはよしとしても)。いずれにしても、こうした論理的な疑問は、津田左右吉が提出したものでもあり、安本説はこうした疑問に十分答えているとは言えない。
9石川恒太郎『延岡市史』の日向神話
ここで、昭和25年に、個人で『延岡市史』を書きあげた石川 恒太郎(いしかわ つねたろう、1900年8月25日 - 1990年10月30日)の、日向神話についての所説を見ておきたい。氏の経歴は次の通り。
「宮崎県日向市生まれ。宮崎県立延岡中学校、専修大学卒業。「日州新聞」「大阪毎日新聞」などの記者を経て1940年、宮崎県立上代日向研究所特別委員となる。戦後は宮崎県文化財専門委員として考古学や地方史研究に携わる。歴史研究のかたわらラジオ番組で郷土史の講義を行う。1960年宮崎県文化賞を受賞」(wiki「石川恒太郎」)
この『延岡市史』は、昭和14年に延岡市の紀元二千六百年記念事業として計画され、石川氏がその編纂を委嘱され、昭和19年に原稿が出来上がったが、戦災で焼失。戦後は、市や市議会の制度が変わったため、石川氏の個人出版として出版を続け、昭和25年までに三巻を出版したものである。
(1)日向神話の史実性は考古学が決する
この『延岡市史』では、日向神話は、第二章(付録一)「高千穂の伝説について」として、約20ページが充てられている。
ここで石川氏は、戦後の風潮も反映したのだろうが、「伝承上の「筑紫の日向」は必ずしも現実の日向国とは限らない。それはあくまで説話上の日向であったと思う」と言いつつ、「ただ然し、日本民族の古い伝承が、全然事実を伝えるものではなく、空想的なものであると断言することもできないであろう。何故ならば、『古事記』や『日本書紀』が大和朝廷の淵源を説明するために編纂されたのに、尚ほその朝廷の初源地を大和国と言わずして、日向国と書いていることは、日本民族の古い伝承の上では、日向国として伝えられていたためであると考えられる。」「従って、この皇祖の日向降臨の伝説が事実を伝えるものであるか否かは、今後に於ける考古学の研究の進歩によって、決する以外に方法はないのである」(「上掲書」p312)と但し書きしている。
(2)石川恒太郎の『邪馬台国と日向』
石川氏には、この他に、昭和47年発行の『邪馬台国と日向』という著書がある。石川氏はここで、「古代日本の国家形成との関係においては、邪馬台国と対立していた狗奴国の研究が最も重要である」として、魏志倭人伝に書かれた邪馬台国、狗奴国と、日向の位置関係を確定することの重要性を説いている。
氏は、冒頭「今から152年前の文政元年に、現在の宮崎県串間市今町で、中国の前漢の時代のものと思われる「穀璧」(こくへき)が発掘されたこと、同じ穀璧が福岡県の怡土郡(奴国)でも出たことを述べ、これは串間市に「漢と交わりを結んでいた国があったことを証明するもの」としている。その上で、魏志倭人伝の帯方郡から倭国への道程について、榎和夫氏の説を採り、邪馬台国を筑紫国の山門郡にとり、他の国は九州の県郡を充てるべきとしている。この中に「奴国」が二つあるが、後の「奴国」を日向の那珂郡に比定し、その南に、邪馬台国と対立した狗奴国=隼人があったとしている。
(3)狗奴国が東遷し大和朝廷を建てた
その説を要約すると、その奴国の南にあった狗奴国の領域=宮崎郡は、日向のほぼ南半分の海岸を占める地域で、海洋による生活によって、大隅や薩摩をむすぶ男王卑弥弓呼を中心とする大連合をつくり、邪馬台国の卑弥呼と対立していた。
瓊瓊杵尊の妃木花開耶姫は、神吾田(阿多)津姫であり、神武天皇は「阿多之小橋君」の妹「阿比(姶)良津姫」を娶っていることから、大和朝廷を開いた皇室の御祖先である氏族と隼人とは兄弟関係にあったと知れる。
卑弥呼は魏に朝貢(239年)、243年にふたたび朝貢、魏王は使者の難升米に黄幢(こうどう=軍旗)を授けた。これは、女王国が、かねて仲の良くなかった男王の狗奴国と戦争始めたことを意味する。戦争中の248年に卑弥呼は死んだ。
女王国では、卑弥呼に代わって男王を立てたが大乱となり、卑弥呼の長女壱与という13歳の少女を立ててようやく国が収まった。魏は265年に倒れ西晋の時代となった。翌266年、倭人が朝貢しているがこの倭人は女王国とは記されていない。
これは倭国に異変が起こったということで、女王国は狗奴国に滅ぼされたのであろう。戦争の原因は、その当時は、弥生時代の後期で水田耕作が盛んになった時代であるから、邪馬台国の穀倉地帯をめぐる戦いであったと推測される。
狗奴国すなわち隼人は、女王壱与の邪馬台国を滅ぼし、第二邪馬台国と称し、都を肥後の菊池郡に移したが、熊襲に叛かれて短時日にして滅んだ。その後、その後裔が日向に入り、3世紀末に東遷し大和朝廷を立てた。
10戦いに敗れた狗奴国の東遷は無理
これが、石川恒太郎氏の狗奴国東遷説だが、あえてここで氏の説を紹介したのは、これが、先に提出した「なにゆえに、邪馬台国が、生産性の低い九州南部に移住したか」という疑問に答えており、これから紹介する宮崎照雄氏の「狗奴国が大和朝廷をたてた」とする説に似ているからである。
ただ、石川氏の説で問題となるのは、邪馬台国=熊襲、狗奴国=隼人としていること。狗奴国が邪馬台国を滅ぼして菊池郡に移り第二邪馬台国と称したが、熊襲に叛かれて短命に終わり、その後日向に移った後、一転して、後裔が大和に東遷し大和朝廷を建てた、とする筋立てに無理があることである。
この無理は、「女王国と狗奴国が不仲だった」「魏の滅亡と同時に女王国が消えた」「大和朝廷を開いた皇室の御祖先である氏族と隼人とは兄弟関係にあった」とする認識と、天照大神の孫である瓊瓊杵尊一行が西臼杵の高千穂に天下りし、その後東征したとする伝承との整合性をはかるため生じたものだろう。
11天孫降臨の史実性の鍵は日向神話
ここで、『記紀』神話で史実性が問われている「天岩戸隠れ」「天孫降臨」「神武東征」について、今までに交わされてきた議論を整理しておく。
一、天岩戸隠れ
天照大神を卑弥呼とすれば、魏志倭人伝の倭国に関する記述と大筋で一致する。247年と248年の日食と関連付けることができればなおさらである。
二、天孫降臨
なぜ、天孫は日向のような僻陬(へきすう)の地に降臨したか、については、先に紹介した『宮崎県史』や石川氏の解釈には無理があると思う。また、安本氏の「英雄説」もいまいち。
三、神武東征
今日、邪馬台国が九州にあったとする説が有力であり、出発地が日向であるかどうかを別にすれば、九州勢力が大和に東遷した可能性が高い。従って、一の天照大神=卑弥呼とすれば三の可能性も高いわけで、従って、もし、二の史実性を説得的に説明できるなら、三の出発地の問題も解決でき、『記紀』神話の「史実性」が一挙に高まるわけである。
12日向神話の史実性を毀損する疑問
つまり、日向神話が『記紀』神話の史実性を疑わせる根本原因となっているわけである。それは、①なぜ、天孫が僻陬の地日向に天下ったか?に始まり、②三種の神器をもって天下りしたのに、その後、このことが全く言及されていないこと。③日向まで猿田彦が瓊瓊杵尊一行を先導したり、吾田(延岡)で大山津見神や事勝国勝長狭が瓊瓊杵尊を迎えているのはなぜか?④高千穂が二か所あるのはなぜか?⑤海神宮は何処にあったか?海新宮訪問の目的はなにか?⑥ 海幸彦はどうして隼人の祖となったか?⑦東征した勢力はどれ程?⑧なぜ、直接瀬戸内海に入らず福岡の岡田に立ち寄ったか?等々、疑問が尽きないのである。
13宮崎照雄氏の大胆な記紀神話解釈
こうした疑問の数々を、独創的な視点で包括的に解いたのが、理系学者である宮崎照雄氏である。以下、その大胆な仮説の概要を紹介する。
氏は、魚の病理学を専門とする学者である。もちろんフィールドワークを多くこなしてきた。そして、そこで得られた研究手法や理科学知見を総動員して、「記紀神話の古史書だけでなく、考古遺物や華夏の史書をとり上げて総合的に論考し、今一度古代の神々の事績を正しく理解」しようと努めた。
氏の最初の著作は『三角縁神獣鏡が映す大和王権』であるが、氏は、倭人の権力者が欲した「鏡」の研究を通して、鏡の原点ともいえる天照大神を作り出し伝承したのはだれか?なぜ天照大神(鏡)は、崇神天皇により改鋳されねばならなかったか?なぜ天照大神(鏡)は宮中から出され、伊勢神宮に祭られねばならなかったのか?だれが三角縁神獣鏡を作ったか?なぜ三角縁神獣鏡は古墳に埋納されたか、等々の疑問をどう解くか悩んだ。
(1)「人の情念」を主体に歴史を考察
そして、これらの疑問を解くためには、客観性の保証が難しいが、あえて、その時代を生きた「人々の情念」を主体において歴史を考察する必要があると考えた。そこで見えてきたのが、先学と全く異なる新たな歴史観だった。その概要は次の通り。(『日本国の神々の聖跡巡礼』『狗奴国私考』「神武は鯨を見たか」等参照)
一、邪馬台国(連合)は九州北部にあり、邪馬台国の卑弥呼は、魏の明帝から下賜された「長宜子孫」連弧文鏡を「卑弥呼の鏡」として祭っていた。
二、卑弥呼は248年の日食の日に、狗奴国との戦争の敗北の責任を責められ、邪馬台国の人々の手で殺害された。その卑弥呼の跡を襲ったのが壹與( 「臺與=登与」)で、壹與の時代に邪馬台国(連合)の豪族たちは東遷して近畿、中国、山陰地方に移住し、そこを領有して開発した。
三、邪馬台国(連合)と交戦後、いったん南九州に移住した狗奴国後継が、その地で武力を蓄え、崇神=神武の時代に「うまし土地」を求めて東征し、先住の邪馬台国後継氏族を降して、その開発した三輪の地を占領した。
四、東征において、崇神=神邪馬台国後継が持っていた王統の象徴の「卑弥呼の鏡」を譲り受け(簒奪?)し、大和王権を創造した。
五、その後、邪馬台国後継は百済など漢半島からの帰化人の助力を受けて勢力を盛り返し、応神天皇を即位させて、邪馬台国王統を再興した。
このように「時空を超えた邪馬台国(連合)と狗奴国の対立関係を軸に歴史を見ると、古代の歴史的事象が矛盾なく理解できることが分かった」(『三角縁神獣鏡が映す大和王権』)というのである。そこで捉えられた、日本古代史の全体像は以下の通り
伊弉諾尊とは、紀元57年に後漢王朝に朝貢し金印を得た委奴(伊那)国王を神格化した神で、その子孫が瓊瓊杵尊の天下りの前に日向の国の吾田邑にいた。その後、伊那国の倭国王叙任に反発した伊都国の首長との間で権力闘争が起こり、奴国と伊都国に分裂、戦いに敗れた伊那国王は、金印を志賀島に秘匿して遠所(日向?)に逃れ済んだ。
(2)狗奴国と伊都国の戦いと卑弥呼共立
この分裂を記紀神話に当てはめて考えると、伊弉諾の禊から生まれた天照大神は伊都国を象徴し、月夜見尊は伊都国の後塵を拝する奴国に見える。その後、奴国の王となった伊都国は、107年に後漢に朝貢して叙任を求めた。この時160人の生口(技術者)を献上したことに奴国の民は激怒し、多くの不満分子が熊本県の菊池川流域に移住し狗奴国を起こした。その後国力をつけた狗奴国は倭国の覇権をかけて伊都国と戦った。これが倭国大乱で、この乱を終わらせるため、卑弥呼が邪馬台国の女王として共立された。
この情景を記紀神話は、天照大神(卑弥呼)と素戔嗚尊(卑弥弓呼)の誓約と素戔嗚尊の乱暴狼藉として著している。時は魏蜀呉三国鼎立時代。呉の孫権は230年徴兵のため夷州(台湾?)の住民数千人、山越(ベトナム?)から6万人を拉致、倭が呉の属領にされれば、何万人の倭人が軍役に駆り出される恐れがあった。狗奴国の卑弥弓呼は卑弥呼が魏の柵封体制に入ったことに反発したのである。
(3)卑弥呼の死と狗奴国の日向移住
卑弥呼は239年再び魏に朝貢し、「親魏倭王」の金印を得、魏と同盟関係に入った。このことに反発した狗奴国は、卑弥呼の邪馬台国と248年頃まで、倭国の覇権をかけて戦争を続けた。この戦争で、邪馬台国と狗奴国はともに人的に消耗し、狗奴国の卑弥弓呼は有明海からの呉の侵攻を恐れ、一族を高千穂を経て日向国に移住させた。
この時、稲穂を持って高千穂に入った卑弥弓呼の子狗古智彦一行の様子が、瓊瓊杵尊の天下りとして記紀に物語られた。これが何時かというと、『日向風土記』逸文に「天暗冥く、夜昼別かず・・・天開晴り、日月照り光きき」と、日食を思わせる文があり、これは248年9月5日朝の日食と思われる。一方、248年には、邪馬台国の卑弥呼が死に(殺された?)、宗女の台与が新女王に推戴された。これが天照大神の岩戸隠れと天照大神の再臨の物語となった。
(4)瓊瓊杵尊は天照大神の孫ではない
ここで問題となるのが、瓊瓊杵尊は天照大神の孫ということになっているが、天照の宗女台与はこの時13才であり「結婚をして子をなし、その子が青年になっていたとはあり得ない。それ故、瓊瓊杵尊は天照大神の孫(天孫)ではありえない。」
また、天孫降臨した一族が後に東征し大和王権を立てたが、『後漢書』倭伝(范曄432年上梓)に「女王国より東、海を渡ること千余里、狗奴国に至る、皆倭種といえども女王に属さず」とある。魏志倭人伝では狗奴国の位置は邪馬台国の南となっていたのに、この時は「東、海を渡ること千余里」となっているのは、狗奴国が河内・大和国に東遷したと読み取れるのではないか。
瓊瓊杵尊一行を先導したのは猿田彦(始原奴国の一族)で、阿蘇→高千穂を経て五ヶ瀬川を下り吾田邑の天下に至った。問題は、天孫が葦原中国、つまり日本全土を統べるべく天下りしたはずなのに、瓊瓊杵尊が天下りした地は筑紫の日向国だった。ではなぜこの矛盾が放置されたか。天武天皇が狗奴国系だったからではないか。
(5)吾田邑には伊那国の一族が先に
ところで、「大国主が国譲りした葦原の中国、すなわち河内・大和に天下りした天照大神(卑弥呼)の孫は実在した。」それが饒速日尊(天日明命)で、臺(台)与の子だが、『記紀』ではこの天下り説話は葬られた。狗奴国系の天武天皇には不都合だったからである。
高千穂に天下りした瓊瓊杵尊は吾田長屋の笠狭之御碕(かささのみさき)に至った。この地の国主、事勝国勝長狭(遠所に逃れた伊那国の一族)が「ここは住む人の少ない土地(空国)である。「請はくは任意に遊せ」といった。
瓊瓊杵尊は、ここに高千穂の宮を建て、大山祇神の子で美人の木花咲耶姫と出逢って結婚し、ホデリ(海幸彦)、ホスセリ、ホオリ(山幸彦)を生んだ。大山祇神とは、五ヶ瀬川支流の山間部で金や銀を採取する山の民で、移住してきた伊那国一族と縁を結んでいたと考えられる。
このように、伊那国または狗奴国の移住者が次第に南の方に居住域を拡大したことで、宮崎の伊弉諾から神武に至る様々な伝承が生まれることになったと考えられる。
(6)海幸彦の出自は隼人族ではない
瓊瓊杵尊が天下りに随伴した天鈿女命は猿女君となり、猿田彦に請われて「伊勢の狭長田の五十鈴川の上」に同行した。「上」とは南であり、五十鈴川は門川、その南に日向市の伊勢ケ浜、その間の「あまり広くない湿地帯」が狭長田であった。
ここで猿女君とは、巫女ではなく、文字がない時代に「誦と舞」で、それぞれの国の歴史を伝承する職能集団だった。そして、「誦」によって伝えられた伝承を『記紀』に集大成した人物こそ天鈿女を祖とする猿女君の稗田阿礼だった。
木花咲耶姫の子ホデリ(海幸彦)について『記紀』は、「是隼人の始祖なり」としている。これを根拠に、木花咲耶姫を隼人族の女神とし、神武天皇を高祖とする皇族を隼人族の血統とする通説が生まれ、さらに拡大されて、瓊瓊杵尊の天下り先が霧島連山の高千穂峯とする通説が生まれた。これは山幸彦との後継者争いに負けた海幸彦が、宮崎の南方に逃れ、隼人族と結婚し魁師となったことから生まれたものである。
(7)山幸が訪問した海神宮は福岡の奴国
海幸彦と山幸彦の後継者争いで問題となるのが、山幸彦の海神之宮訪問だが、塩土老翁(=事勝国勝長狭)は弓矢と人柄で山幸を後継者に選び、自分の出身地である「橘の小戸」(福岡市那珂川流域にあった奴国の領域)の海神之宮に行くことを勧めた。
山幸彦は奴国の海人安曇氏の王の館に遊学し、海人の知識(田の作り方、天候の見分け方、津波の知識など)を学ぶとともに諸々の情報を入手した。饒速日の大和国への東遷の情報もそこでつかみ、それが後に磐余彦尊の東征の契機になったと思われる。
海神宮で三年過ごした山幸彦は帰国し、兄の海幸との後継争いに勝利する。そこに臨月の豊玉姫が妹の玉依姫に付き添われてやってくるが、豊玉姫は生まれた我が子を残して海神宮に帰ってしまった。そこで、妹の玉依姫が生まれた鵜葺草葺不合を養育した。
ところで、この鵜葺草葺不合は事績を全く持たない。その子供とされる磐余彦は山幸彦の本名彦火火出見を持つので、鵜葺草葺不合は長じて五瀬となったと見た方が合理的である。
(8)天武天皇が小橋君を優遇したわけ
また、『紀』は海幸彦を「吾田君小橋等之本祖」としている。『記』では「阿多」となっているが吾田が正しい。つまり、海幸彦は吾田村で吾平出身の女(小橋君)と結婚し、磐余彦はその妹吾平津姫と結婚した。小橋氏は神武東征後、海幸彦のいる南那珂郡に移ったと見ることができる。日南には吾田村があり、吾田神社もあり、この神社の位置は小橋とされている。日南の油津に吾平津神社があるのもそのためであろう。
磐余彦は小橋君の妹吾平津姫と結婚し、手研耳命と岐須美美命を生んだが、手研耳は、神武東征後の神武の後妻(事代主の娘媛蹈鞴五十鈴媛)の子神八井耳命と神渟名川耳との皇位争いで殺され、岐須美美が小橋氏の裔となったことから、磐余彦(神武)の流れをくむ天武天皇が隼人族の魁師を優遇したものと思われる。
45歳になった磐余彦は吾田邑の高千穂宮で、五瀬命らと、日向は西の辺境なので、葦原中国を治めるためには、塩土老翁から聞いた「東の美き地」に行って都を作ろうと提案し賛同を得た。
(9)神武東征と残留組の宮崎方面進出
中国(中つ国)を目指して東征に出るには船軍が必要である。そこで造船所を築き木材を得るに適した美々津(奴国出身や地元の海人がいた)を選んだ。『記紀』にはその場所を記さないが、地元では神立山から楠材を切り出し匠河原で造船したと伝わる。
「磐余彦尊の東征の船軍には、吾田邑、伊勢ケ浜や美々津の海人が多数参加した。日向の地に残留した狗奴国や奴国の民は、さらに南の沖積平野部に進出して大いに人口を増やして栄えた。一ツ瀬川から大淀川流域には、奴国ゆかりの地名が移植され、それにちなむ住吉神社、江田神社、小戸神社が建てられた。
西都原古墳には男狭穂塚と女狭穂塚があり、瓊瓊杵尊と木花咲耶姫と伝わるが、これらは狗奴国系の崇神、景行天皇陵と類似する前方後円墳(5世紀)であり、景行天皇、応神、仁徳天皇などの妃となった御刀姫、髪長姫、その父牛諸井らの墓と見た方がよいのではないか。
(10)磐余彦はなぜ筑紫岡田宮に寄港した
磐余彦の船軍は、美々津の民を乗せ美々津を出港した。船軍は細島(鉾島)に立ち寄り、イワレヒコが鯨退治を行ったと伝わる。その後、五ヶ瀬川河口の吾田津に入り、磐余彦の母の玉依姫を乗船させた。また、東征に用いる鉄製武器も船に積み込んだ。磐余彦の兄の御毛沼命は参軍せず、高千穂に残ったのではないか。(鬼八退治の伝説)
磐余彦の船軍は、吾田津を出港した後、宇佐に寄港し、なぜか関門海峡を通って古遠賀潟に入り筑紫国の岡田宮で1年滞在している。この旅程の目的を『記紀』は記さないが、五瀬が母の豊玉姫に別れを告げ、磐余彦は母玉依姫を奴国に送り届けるためと、奴国の技術者を用いて多くの軍船を建造するとともに、日向の吾田村からの軍衆の到着を待つためだったと考える。大和で戦った久米兵士は黥利目(入れ墨目)をしており、奴国の安曇目をした安曇氏の一族であったとしたい。
東征軍はそこから、安岐国の多祁理宮に立ち寄り(『紀』では1月) 、吉備国の高島宮で船の修理と兵糧を獲得し(『紀』では3年)、難波の岬を通って河内国の草香邑の白肩津に着いた。そこから、奈良盆地侵入を試みた。
(11)奈良侵入ルートは『記』が正しい
最初は信貴山南麓の竜田越えを試みたが道が険しくて断念、次に胆駒山の北を超えて侵攻しようとするが地元の豪族長髄彦に阻まれ敗退した。この戦いで五瀬命は矢傷を負い、紀伊国の男之水門で亡くなり、紀ノ川の河口竈山に遺体を葬った。
東征軍は熊野(『紀』では、この熊野を三重県の熊野とし上陸し紀伊山脈(1500~1900m)を越えて宇陀に入ったとするが無理)に至った後、八咫烏(カラスではない)の案内で紀ノ川から吉野川に沿って進軍した。途中、多くの荒ぶる神を避け、また、地元の豪族を味方につけつつ、吉野を経て奈良盆地の東の宇陀(後に吾田邑の海人が入植してつけた名?)に至った。吉野川の流域には吾田邑の入植の跡が色濃く残っている。(熊野はイヤと読み紀伊半島西北部を指した)
この奈良盆地で、長髄彦と最後の決戦をし長髄彦を討って兄五瀬の敵をとった。その後、磯城の豪族兄師木と弟師木を討った。その後、磐余彦より早く大和に天下った饒速日命が磐余彦に天璽(あまつしるし)を献上して帰順し、磐余彦が橿原の地に大和王権を築き初代神武天皇となった。
14見たことも聞いたこともない日本古代史
以上、瓊瓊杵尊が日向に降臨するに至った前段の事情の解明から、東征し大和に王権を打ち立てるまでの、宮崎照雄氏の独創的見解を見てきた。まさに、氏自身の言う通り「これまで見たことも聞いたこともない日本の古代史に遭遇した」という思いに打たれたのは私だけであろうか。
この論文について氏は、「先行論文は読むが引用せず、オリジナルの史料のみを参照し、日本古代史の謎を解く、全体的な「合理的ストーリー」を展開した」と言っている。冒頭紹介した通り、戦後の日本古代史研究におけるアカデミズムは、日本神話の史実性を全く認めていない。そんな中で、宮崎氏は、それは「日本に文字がない時代に猿女の君によって誦習され伝えられた歴史の記録」であるとして、そこから「人の情念で作られる」史実を解き明かそうとしたという。
氏の論文「神武は鯨を見たか」は、平成27年度「邪馬台国全国大会in福岡」の論文募集において最優秀賞を獲得しているが、アカデミズムは今なお無視しているかに見える。
15宮崎氏の卑弥呼の鏡についての疑問に対する宮崎氏の答え(1)
なお、NO13で紹介した、宮崎氏の卑弥呼の鏡ついての疑問に対する、氏自身の答を見ておく。(『三角縁神獣鏡が映す大和政権』)
一、鏡の原点ともいえる天照大神を作り出し伝承したのはだれか?
卑弥呼を殺した邪馬台国後継が卑弥呼を日の神とする天照神話を創った。神武が邪馬台国王統の饒速日を倒し卑弥呼の鏡(天照神話)を簒奪し大和政権の守り神とした。邪馬台国末裔を慰撫する必要もあった。これを正当化するため、瓊瓊杵尊の天下りの際に天照大神が鏡・玉・剣の神器を授けたとする神話を創作した。
二、なぜ天照大神の鏡は、崇神天皇により改鋳されねばならなかったか?
最初は卑弥呼の鏡である長宜子孫銘のある内行花文神獣鏡を模した大型の「八葉紐座内行花文鏡」(=八咫鏡)が宮中に置かれたが、崇神=神武の時、疫病がはやるなど、鏡の祟りを恐れるようになった。そのため本物は他に移し、宮中には改鋳した鏡を置いた。
三、なぜ天照大神(八咫鏡)は宮中から出され、伊勢神宮に祭られねばならなかったのか?
鏡は宮中から笠縫邑の神籠に移され、その後、宇陀、近江、美濃をめぐり最終的に紀伊半島東端の伊勢神宮に移された。この鏡の移動は大和政権が「長宜子孫」を断念させられた鏡の怨念を恐れていた証左。(式年遷宮?)
四、だれが三角縁神獣鏡を作ったか?
大和政権は饒速日氏族が行ってきた出雲との妥協の産物である銅鐸の製造と祭祀をやめさせた替わりに、三角縁神獣鏡を作らせた。
五、なぜ三角縁神獣鏡は古墳に埋納されたか?
物部氏は饒速日を遠祖とし、宮中の鎮魂祭や大嘗祭にかかわった。三角縁神獣鏡を葬具として陵墓に埋納し死者を供養するアイデアも彼らのものと推測される。 おわりに──“日本人とはなにか”
実を言うと、私も、宮崎説に出会う前は、日向神話について、津田左右吉や吉田敦彦氏が言うように、宗教的というよりむしろ童話的な、今日と変わらない家族の愛憎劇をみるだけで、そこに歴史性というものはあまり感じなかった。
宮崎氏のおかげで、2世紀から5世紀にかけての日本が、近年の「集団的自衛権」をめぐる政争と同様、中国との同盟関係をめぐり激しく対立していたこと。それが日向という僻陬の地への天孫降臨、あるいは邪馬台国の東遷、そして、統一王朝の樹立へと進んでいったことが理解できた。
私は、山本七平の教えを受け、昭和史の研究を通して“日本人とはなにか”を考えてきた。宮崎氏の若いころからの興味も“日本人とは?”だったそうで、それが日本古代史研究に発展したとのことである。
氏の著書を読むと、随所に、「日本人のオリジナリティー」を問う言葉が出てくる。その古代史研究の舞台が延岡というのも、私にとっては、日本古代史を理解する上でまさに僥倖だった。氏の独創的研究によって、日本古代史学会の迷妄が啓かれる日が来ることを願ってやまない。 おわり (延岡史談会第四回講演2018.11.4) |