山本七平の天皇制理解について8――
「近代の超克」をめざした尊皇思想はなぜ独善的・排他的になったか

2011年12月14日 (水)

 前回は、「日本人を大量『転向』させた尊皇思想に基づく国体思想とはどんな思想だったか?」ということを、昭和12年に文部省が出した『国体の本義』に見てみました。これは次の三つの主張から構成されていました。第一の「大日本国体」は、尊皇思想に基ずく国体観念と臣民の道徳について。第二の「国史に於ける国体の顕現」は、この思想がどのように生まれてきたか、また、そのあるべき政治・経済・軍事のあり方について。第三の「結語」は、そうした日本の「国体」を、西欧や支那やインドのそれと比較する中で、その優位性を主張すると共に、これらの文化を摂取醇化する大切さに言及したものでした。

この三つの主張の内、第一、第二は、いわゆる尊皇思想を江戸時代に形成された皇国史観に基づいて述べたものです。これは、徳川幕府が「体制の学」として導入した朱子学が日本的に変容していく過程で生まれたものです。しかし皮肉なことに、それが逆に、幕府を倒して天皇中心の中央集権国家を作る明治維新の革命のエトスに転化しました。また、こうして明治維新が成功し新政府が樹立されると、この思想が掲げていた攘夷は実行されず、さらに、それが理想としていた天皇親政は採用されず、実質的に明治憲法下の立憲君主制として運用されることになりました。

また、三番目の「結語」では、こうして西欧の個人主義・自由主義が日本に流入することとなり、資本主義経済や政党政治が導入されたこと。そのため、個人の価値が偏重され、伝統的な奉仕の精神や和の精神が損なわれて利己主義が蔓延し、貧富の差が拡大し、党派や階級間の争いが常態化するようになったこと。そして、これらの弊害を除去するためには、かっての尊皇思想が主張し結果的に挫折した天皇親政が回復されなければならないことが述べられています。といっても、それがいたずらに排外主義的になることを戒めてはいますが・・・。

ここで注意すべき事は、そうした西欧化の弊害を除去する方策として、天皇親政の回復が主張されてはいますが、それは多分に、統帥権の独立を主張する軍の思惑を反映するものだったということです。といっても、明治以降の近代化の流れの中で、日本人の自己抑制的な規範意識が低下した事は事実です。また、第一次世界大戦後の戦後不況やそれに引き続く世界恐慌、さらに冷害による農村疲弊等が重なって発生した難問に、普通選挙(昭和3年に第一回選挙が行われた)実施後の日本の政党政治が、適切に対応できなかったことも事実です。

これが、満州事変以降、日本国民が政治家よりも軍人を支持するようになった理由ですが、国体明徴運動以降、こうした難問を思想的に解決するとして復活したのが、この尊皇思想だったわけです。というのは、この思想は、万世一系の天皇を宗主とし一君万民平等を基本理念とする家族主義的国家観を持っていて、この伝統思想こそが、先に述べたような日本の近代化に伴う難問を解消する上で有効であると考えられたのです。この思想は、昭和7年以降、平泉澄を通して次第に軍部に浸透し、盧溝橋事変以降日本が戦時体制に突入する中で、次第に国民の間に浸透していきました。

以上述べたように、尊皇思想は、国家社会を家族関係に同定し、君臣関係を親子関係になぞらえることで、いわゆる「忠孝一致」を説いていました。また、こうした日本「国体」の有り様は、日本神話における神々の「国生み」以来、万世一系の皇統によって支えられてきたもので、万邦無比であるとされ、ついには、これを世界的に拡張して天皇を中心とする「八紘一宇」の家族的世界観を唱えるに至りました。その結果、国民には「忠孝一致」から「殉忠報国」さらには「滅私奉公」が求められるようになったのです。

また、そうした家族的国家観に基づく統治観念は、天皇親政という言葉に象徴されるように、天皇の「大御心」による一君万民平等の直接統治を理想としていました。そのため、幕府政治はその正統から逸脱した「変態」であるとされました。そこで、天皇親政の復活を企図した建武の中興の後醍醐天皇が理想化され、その後醍醐天皇を助けた河内の土豪楠木正成が忠臣とされ、後に、後後醍醐天皇の親政に反対して反旗を翻し、南朝に対する北朝を樹立した足利尊氏が「大逆無道」の逆臣とされたのです。

もちろん、こうした歴史観は、徳川幕府が「体制の学」として導入した朱子学が日本的に変容する過程で生まれたもので、日本の歴史を正しく反映するものではありません。いうまでもなく日本の歴史の独自性は、武家が樹立した幕府政治によって形造られたもので、天皇制のあり方もそれに伴って変容したものです。それは、建武の中興が失敗して以降、幕府権力から分立して非政治的・文化的象徴天皇制へと変化しました。それが先に述べたような事情で、徳川幕府政権下、天皇による直接統治が正統とされるようになったのです。

しかし、こうした天皇による直接統治の正統性の主張は、当初は朱子学の正統論によっていましたが、これに対する反発が生じるようになると、その正統性の根拠を、記紀神話に由来する万世一系の天皇制に求めるようになりました。これを文献学的に裏付けたものが国学でした。といっても、国学は、天皇による祭政一致の政治を称揚しつつも、幕府を天皇の征夷大将軍任命下に位置づけることで認めました。一方、朱子学の正統論を引き継ぐ崎門学からは、天皇への絶対忠誠をエトス化する思想が生み出されました。

その結果、国学の天皇を中心とする祭政一致の政治観と、崎門学系統の浅見絅斎らによる天皇への絶対忠誠を求める思想とが結びつくことで、朱子学の正統論から出発した水戸学が後期水戸学へと変容していったのです。この後期水戸学が生んだ国家観が、先に述べた万世一系の天皇を宗主とする家族的国家観だったのです。それが、幕末の攘夷思想と結びついて尊王攘夷論となり、さらに幕府が開国策をとったことを契機として、水戸学の範疇を超えた尊皇倒幕論へと発展していったのです。

つまり、以上のような歴史的経緯を経て生まれた日本の「国体」観と、そこにおける天皇による直接統治の正統性を歴史的に証明しようとしたのが、先に述べたような尊皇思想の歴史観だったのです。こうした歴史観はまず水戸学で説かれ、それが後期水戸学において家族的国家論となり、さらに平田篤胤の「復古神道」によって、国学の「祖先神」的神概念が「絶対神」化された結果、「天皇は絶対神の直系、従って日本は絶対」という超国家主義への危険性を孕むことになりました。

「元来神道には、体系的・普遍的要素がなく、従って外来の宗教混交思想の受容が可能であったわけだが、これが絶対神という概念と結合して絶対化すると、普遍主義的思想ではないため、極端な拝外思想になって不思議ではない。そのためこれ以降の『日本神国論』は、この平田神学の発想を基に、廃仏・廃儒・廃キリスト教・廃西欧、日本絶対という形に進んでも不思議ではないのである。」(『受容と排除の軌跡』P167)いわば日本の伝統思想が状況倫理に陥りやすいことが、一方で、全体主義的への傾斜を強めることにもなっているわけですね。昭和の「現人神天皇制」もその現れです。

その点、『国体の本義』では、この「現人神」の定義について、それは西欧の絶対神という意味ではないとして、次のような注釈を施しています。

「かくて天皇は皇祖皇宗の御心のまにまにわが国を統治し給う現御神(あきつかみ)」であらせられる。この現御神(明神)あるいは現人神と申し奉るのは、いわゆる絶対神とか全知全能とかいうが如き意味の神とは異なり、皇祖皇宗がその神裔であらせられる天皇に現れまし、天皇は皇祖皇宗と御一体であらせられ、永久に臣民・国土の生成発展の本源にましまし、限りなく尊く畏き御方であることを示すのである。」

また、この尊皇思想がいたずらに排外主義的な性格を持つことを警戒して、『国体の本義』の「総括」では、

「今や我が国民の使命は、国体を基として西洋文化を摂取醇化し、以て新しき日本文化を創造し、進んで世界文化の進展に貢献するにある。我が国は夙に支那・印度の文化を輸入し、而もよく独自な創造と発展とをなし遂げた。これ正に我が国体の深遠宏大の致すところであつて、これを承け継ぐ国民の歴史的使命はまことに重大である。」

「現下国体明徴の声は極めて高いのであるが、それは必ず西洋の思想・文化の醇化を契機としてなさるべきであつて、これなくしては国体の明徴は現実と遊離する抽象的のものとなり易い。即ち西洋思想の摂取醇化と国体の明徴とは相離るべからざる関係にある。」「世界文化に対する過去の日本人の態度は、自主的にして而も包容的であつた。我等が世界に貢献することは、たゞ日本人たるの道を弥々発揮することによつてのみなされる。」
と、述べられています。

この「総括」を見ると、この時期の日本が、なんとかして明治以来の「西洋崇拝」の弊害を克服し、独自の思想的・文化的基盤を確立しようともがいていたことが分かります。そして、これを達成するための思想的・文化的淵源となるものとして支持されるようになったものが、平田篤胤流の復古神道(神道と基督教を習合させたような日本神話の創造神的解釈)をベースとする、絶対的・排外主義的尊皇思想であったわけです。

そのため、こうした「総括」の抑制的書きぶりにも拘わらず、第一の「大日本国体」や第二の「国史に於ける国体の顕現」で説かれた国体思想は、次第に排他的・独善的性格を強めることになりました。さらに、その統治主体とされた天皇は神格化され、その「国体」は万邦無比となり、世界はこの天皇の下に「八紘一宇」の世界家族共同体を形成すべき、とされるようになったのです。

また、こうして神格化された天皇や万邦無比の「国体」に対して、国民の忠君愛国・滅私奉公・生死一如の忠誠が求められるようになりました。また、政治制度としては天皇親政が当然とされるようになり、明治憲法に基づく立憲君主制下の政党政治が否定され、全政党が自主的に解散することになりました。さらに、三権分立の権力の相互牽制機関である議会や裁判所も、天皇親政を補翼する機関とされるようになりました。

あるいは、こうした全体主義的な政治体制の編成は、総力戦下の国家総動員体制の有り様としては有効に機能した部分もあったかも知れません。しかし、以上のような「独善的・排外主義的」尊皇思想に基づくこうした政治体制の編成は、結局、意味不明な日中戦争を防止することも、また中止することもできず、それどころか、加えて英米との全面戦争に突入するという無謀を、あえて選択したのです。

ここでは明らかに、日本の国益をリアル・ポリティクスに基づいて冷静に追求すべき政治家の責任が閑却されていました。それは、「支那事変は自己の利害を超越したる道義戦」などといった空疎な言葉によって”粉飾”され、その実態を見る事ができなくなっていたのです。この事実を指摘したのが衆議院議員斉藤隆夫で、彼が大東亜戦争開始直前に書いた『日本はどうなるか』には、次のようなことが記されています。

「望むところは領土や償金や資金にはあらずして、東亜の新秩序である。而してその新秩序の内容は何んであるかと思えば、共同防共と善隣友好と経済提携と、この三原則の外には出でないというのである。ここに於て国民の頭に浮び出づる最初の疑は、それならば何も戦争をやらなくとも、戦争以外の方法に依りて彼我共に此の目的を達する手段があるではないか。」(『評伝 斉藤隆夫』松本健一p354)

これは政治家として当然の指摘です。こうした見方は、もし当時の政治家が軍におもねるようなことがなければ、当然にできたはずなのですが・・・。斉藤は続けて次のように言っています。

「仮に、支那事変なくして今回ヨーロッパ戦争(第二次大戦)が始まったとするならば、我が国は如何なる立場に在るであろうか。

国力を内に貯え、倣然として世界に臨めば、英と言わず米と言わずソ連と言わず其の他世界各国は、競って我が国の脚下に膝まづきて我が国の歓心を求むべく、我が国に於ける富の増進は第一次ヨーロッパ戦争(第一次大戦)に比して十倍に上るは無論のこと、之に依りて国力の強化は言うに及ばず、世界の指導権を獲得して東亜新秩序の建設や共栄圏確立の如きは労せずして手に握ることを得るは、鏡の懸けて見るが如きものである。

然るに、誤って支那事変を惹起しえに向って国力を傾倒せねばならぬのみならず、事変の前途は暗浩として全く見透しが付かない。其の上、是が原因となりて我が国の周囲に敵性国家が現われ、経済封鎖を断行し、対日包囲陣を形成して、じりヽと我が国を圧迫せんとするのが、今日の現状である。」(上掲書p355)

これも上記の指摘と同様、政治家としては当然の指摘です。ところが、こうした斉藤の、観念論を排してリアル・ポリティクスに徹すべしとするの主張は、当時もそうでしたが、今日においても、一般的にはなかなか理解されないのが実情です。

そのため、斉藤が二・二六事件直後の2月28日になした「粛軍演説」については、これを高く評価するものは多いのですが、昭和15年2月2日に行った米内光政内閣に対する「支那事変処理に関する質問演説」については、この中で斉藤が、国家間の競争を「道理の競争でも正邪曲直の競争」ではなく、あくまでも「優勝劣敗、適者生存」であると主張したことについて、この事実を無視するものが多いとのことです。

しかし、私は、こうした「リアル・ポリティクスを徹底すべし」とする斉藤の主張は、昭和12年の「粛軍演説」とセットで理解すべきものであり、それはあくまで、国家競争が戦争に発展した段階における理論として理解すべきものであると思います。こう考えれば、「昭和の悲劇」をもたらしたその最大要因は、斉藤が指摘した通り、国家競争及び戦争の論理をリアルに認識できず、これを道義的・空想的言辞で説明した尊皇思想のリアリズムの欠如にあった、ということがいえると思います。

この点、昭和における超国家主義イデオローグの巨頭とされた北一輝や大川周明の場合は、こうしたリアリズムの欠如した尊皇思想には全く囚われておらず、それぞれ独自のよりリアルな日本歴史認識をもっていて、「総括」に述べられたような難問の解決にあたっていました。それ故に、両者共、日中間の戦争はもちろん対米英戦争を(北一輝は理論上、大川周明は外交上)なんとしてでも阻止しようとしたのです。なお石原完爾の場合は、彼が信じた田中智学の「神道・日蓮宗」習合的な国体観が、平田篤胤の「神道・基督教」習合的な国体観と極めて似ていたために、自ずとその外交政策は、独善的・排他的(排欧的)なものになりました。

従って、このような彼等の日本歴史観を点検するのも大切になってくるのですが、それは後日を期すこととして、次は、このように軍人だけでなく全日本人を巻き込むことになった尊皇思想がどのような思想史的系譜の中で生まれてきたのかを、より詳しく見てみたいと思います。その目的は、現代の私たちをも無意識的に呪縛しているように見える「尊皇思想」から自由になること。そして、歴史的事実に根ざしたよりリアルな後期天皇制についての理解を、より一層深めるためです。