山本七平の天皇制理解について6――
後期天皇制の要諦は、武家=帝権が公家=教権を分立させそれを支えることにあった

2011年11月29日 (金)

 前回のエントリー、「日本を破滅から救ったのは『国民と共にある』ことを基本とする伝統的天皇制だった」について、少し補足説明をしておきます。本当は、前回のエントリーは「昭和の悲劇は、明治維新の尊皇攘夷思想が『王道文明vs覇道文明』となった結果起こった」とすべきだったかもしれません。しかし、昭和の悲劇が、日本民族の破滅に至らなかったのは、尊皇思想以前の「伝統的天皇制」のおかげではないか、と強く思われましたので、この「伝統的天皇制」のあり方をあらためて想起する意味で、このような表題にしました。

 こうした日本の「伝統的天皇制」の明治以降のあり方については、本稿3「津田左右吉の天皇制論は、なぜ戦後思想界に受け入れられなかったか」で紹介しました。また、本稿4「軍内の派閥争いが国体明徴運動を経て平泉尊皇思想に行き着いたワケ」で紹介した美濃部達吉も、戦後、この「伝統的天皇制」の意味について、次のように語っています。

 「・・・すべて国家には国民の国家的団結心を構成する中心(国民統合の象徴)がなければならず、しかして我が国においては、有史以来、常に万世一系の天皇が国民団結の中心に御在しまし、それに依って始めて国家の統一が保たれているからである。

 それは久しい間の武家政治の時代にあってもかつて動揺しなかったもので、明治維新の如き国政の根本的な大改革が流血の惨を見ず平和の裡に断行せられたのも、この国家中心の御在しますがためであり、近く無条件降伏、陸海軍の解消というような古来未曾有の屈辱的な変動が、さしたる混乱もなく遂行せられたのも、一に衆心の饗(むか)うべき所を指示したもう聖旨が有ったればこそであることは、さらに疑いをいれないところである。

 もし万一にもこの中心が失われたとすれば、そこにはただ動乱あるのみで、その動乱を制圧して再び国家の統一を得るためには、前に挙げたナポレオンの帝政や、ヒトラーの指導者政治や、またはレーニン・スターリン・蒋介石などの例に依っても知られ得る如く、民主政治の名の下に、その実は専制的な独裁政治を現出することが、必至の趨勢と見るべきであろう」
(『民主主義と我が議会制度』)」

 美濃部達吉はここで、「無条件降伏、陸海軍の解消というような古来未曾有の屈辱的な変動が、さしたる混乱もなく遂行せられたのも、一に衆心の饗(むか)うべき所を指示したもう聖旨が有ったればこそ」と言っています。山本七平は、この美濃部達吉や津田左右吉の天皇制の存続に関する言葉を、昭和の受難者であった彼等の「激動の昭和からの『平成への遺訓』」だと言っています。(『裕仁天皇の昭和史』p355)

 では、その「一に衆心の饗(むか)うべき所を指示したもう聖旨」とはいかなるものであったか、ここに、日本民族の生き残りをかけた昭和天皇の日本国の国家統合の象徴としての比類なき覚悟が示されているわけです。これを軍人のそれと比較して見ると、両者の違いが分かります。次は、終戦に向けて発せられた昭和天皇の二回目の聖断の内容です。

八月一四日 御前会議 《機関銃下の首相官邸二九二~二九三頁》
○反対論の趣旨はよく聞いたが、私の考えは、この前いったことに変わりはない。私は、国内の事情と世界の現状をじゅうぶん考えて、これ以上戦争を継続することは無理と考える。国体問題についていろいろ危惧もあるということであるが、先方の回答文は悪意をもって書かれたものとは思えないし、要は、国民全体の信念と覚悟の問題であると思うから、この際先方の回答を、そのまま、受諾してよろしいと考える。

 陸海軍の将兵にとって、武装解除や保障占領ということは堪えがたいことであることもよくわかる。国民が玉砕して君国に殉ぜんとする心持もよくわかるが、しかし、わたし自身はいかになろうとも、わたしは国民の生命を助けたいと思う。この上戦争をつづけては、結局、わが国が全く焦土となり、国民にこれ以上苦痛をなめさせることは、わたしとして忍びない。この際和平の手段に出ても、もとより先方のやり方に全幅の信頼を置きがたいことは当然であるが、日本が全くなくなるという結果に較べて、少しでも種子が残りさえすれば、さらにまた復興という光明も考えられる。

 わたしは、明治天皇が三国干渉のときの苦しいお心持を偲び、堪えがたきを耐え、忍びがたきを忍び、将来の回復に期待したいと思う。これからは日本は平和な国として再建するのであるが、これはむずかしいことであり、また時も長くかかることと思うが、国民が心を合わせ、協力一致して努力すれば、必ずできると思う。わたしも国民とともに努力する。

 今日まで戦場にあって、戦死し、あるいは、内地にいて非命にたおれたものやその遺族のことを思えば、悲嘆に堪えないし、戦傷を負い、戦災を蒙り、家業を失ったものの今後の生活については、わたしは心配に堪えない。この際、わたしのできることはなんでもする。国民はいまなにも知らないでいるのだから定めて動揺すると思うが、わたしが国民に呼びかけることがよければいつでもマイクの前にも立つ。陸海軍将兵は特に動揺も大きく、陸海軍大臣は、その心持をなだめるのに、相当困難を感ずるであろうが、必要があれば、わたしはどこへでも出かけて親しく説きさとしてもよい。内閣では、至急に終戦に関する詔書を用意してほしい。(『昭和天皇発言記録集成(下)』)

 こうして、「無条件降伏、陸海軍の解消というような古来未曾有の屈辱的な変動が、さしたる混乱もなく遂行せられた」のです。この時の昭和天皇の「わたし自身はいかになろうとも、わたしは国民の生命を助けたいと思う。・・・もとより先方のやり方に全幅の信頼を置きがたいことは当然であるが、日本が全くなくなるという結果に較べて、少しでも種子が残りさえすれば、さらにまた復興という光明も考えられる」ということ言葉にこそ、後期天皇制の真髄は示されていると思います。それ故に、ご詔勅への全閣僚の副署も得られたのです。

 といっても、8月9日の御前会議における終戦の決定を聞いた陸軍軍人の衝撃と動揺は大きく、終戦当時の陸軍参謀次長であった河邊虎四郎中将は、米国戦略爆撃調査団による調査に対して次のような証言をしています。

 「參謀次長として、私は最後まで戦ひ抜くといふ意見を堅持していました。今でもなほ、われわれは最後まで戦ふべきであったといふ信念に変わりはありません。・・・私は、たとへわれわれが上陸軍に痛撃を与えたりすることができないにしても、いな戦局がもっと悪化して重要地点を上陸軍に占領されても、第二のドイツになる犠牲を彿はうとも、とにかく戦争を績けるべきであると考へていました。

 問――最後まで、とにかく抗戦するといふことが、陸軍全般としての態度なり意見だったと言はれるのですか。それとも、それは上級指導部の考へ方だったのですか。     答 ――それは大体全陸軍を通じての考へ方であったといへると思ひます。・・・私はあの時やめたのが正しかったのか徹底的に抗戦した方が正しかったのかは分りません。しがし、私自身に関する限りは、あくまで最後まで戦ったでせう。――」

 この点、この終戦の聖断が下された日が8月10日であるということには重要な意味があります。それは、広島(8月6日)と長崎(8月9日)への原爆投下、さらにソ連参戦(8月9日)という報を受けた直後のタイミングでなされたものだということです。これは、「陸軍が自信を喪失するまでは終戦をはかることはできない。うっかりそれをくわだてれば逆効果となって、平和のくわだてそのものが一掃されてしまう」(米内海相の言)との判断があって選ばれたタイミングだった、ということです。

 戦後になって、このように終戦の聖断ができたのなら、なぜ開戦阻止の聖断は出せなかったのかとか、原爆が落とされる前に終戦の聖断は出せなかったのか、とかの疑問が提出されました。しかし、開戦時は、政府及び陸・海軍が開戦で一致しており天皇としてはそれを裁可するほかありませんでした。これに対して終戦時は、米内海相が終戦論を堅持し、最高戦争指導会議では賛否同数(3対3)となり、鈴木首相が天皇に聖断を仰いだ結果、終戦となったのです。それも、前述したように陸軍の敗北感が決定的となるまでは不可能だったのです。

この点について竹山道雄は、次のように評しています。

 「戦争がはじまった後に、戦闘の場面で軍人が最後まで死力をつくす決心をもってたたかったことは当然であ」る。「戦争を否定するからとてその誉れまで認めないといふことはない。また、敗戦の最後の段階にいたっても、降服をいさぎよしとしなかった人々の気持も、それだけをとりあげるなら分ることである。しかし、軍人の中にはその最上層(すなはち国全体の運命が観点の中にあるべき地位の人)にすら、軍人精紳の激情から眼中に軍事的観点のみあって国の存立を忘れた人々がすくなくはなかった」

 「このやうな熱情を抱きながらも、この将軍(先に紹介した河邊虎四郎のこと)は国策の終戦決定には従ってそれ以上の妄動はしなかったのだから、武人としての進退に非難されるところはないと思ふ。しかし、軍人が団体としては、その狭い職業的激情によって終始して国をあやまった方向に引きずったことは否定できなかった。もし軍人がはじめから、このやうな武人精紳はいだきながらも、しかもなほそれが守るべき限界を守っていたらどんなによかったらうに、と残念である。」(『昭和の精神史』p100)

 そして、このように軍がその「狭い職業的激情によって終始して国をあやまった方向に引きずった」ために引き起こされた戦争を、一億玉砕へと向かうその寸前で止めたものが、「わたし自身はいかになろうとも、わたしは国民の生命を助けたいと思う」という昭和天皇の言葉だったのです。つまり、こうした局面において「国民のために身を捨てる」覚悟をなされた昭和天皇のとられた行動ににこそ、後期天皇制における天皇の真の姿が示されていたのです。

 では、このような後期天皇制が生まれたのは何時のことかというと、山本七平は、それは、建武の中興がその契機となっていて、それは武家より政権を奪取しようとした後醍醐天皇の前の天皇、花園天皇の北朝イデオロギーとでもいうべき考え方に現れている、といっています。つまり、花園天皇は後醍醐天皇による建武の中興を批判しているわけで、そうした時代の変化の中で、新たな「天皇の位置と役割と任務と将来のあり方を求めたのであり、それを記したのが『太子を誡むるの書』である。

 というのも、彼には朝廷が武力によって政権を保持すべきであるという後醍醐天皇のような考え方は全くなく、乱国に立つためにこそ学問が必要で「これ朕が強いて学を勧むる所以なり」と考えた。すなわち、南北朝の争乱を前にしてこれにいかに対処すべきか。「恩賞で武士団を味方に付けるか、乱世に備えて公家の武家化を計るか、否、そうではない。そういう方法では、何も解決しない。それは目前の政争の処理に過ぎず、むしろ『一日屈を受くるも、百年の栄を保たば猶忍ずべし』の道を選ぶべきである。」として次のようにいっています。

 「私自身は、生来、拙であって智も浅いが、それでもほぼ典籍を学び、徳義を成して、王道を興そうとしたのは何故であったか。これはただ宗廟の祀を絶たないがためであった。宗廟の祀を絶たないのは、ただに太子の徳にあるのである。他にない。徳を廃して修めなければ、学の所の道もまた用いることができない。これでは「胸を撃て哭泣し、天を呼んで大息する所」となる。最大の不幸は、その代に祀を絶つことである。
なぜそうなってはならないか、「学功立ち徳義成らば、ただに帝業の当年を盈(みた)すのみならず、亦即ち美名を来葉に貽(のこ)し、上は大孝を累祖に致し、下は厚徳を百姓(万民)に加えん」となるからである。それは人民のためである。従って、常に「慎まざるべけんや、懼れざるべけんや」である。そしてそうなれば「高うして而して危からず、満て而して溢れず」である。

 そしてまた世に、これほど楽しいことがあろうか。すなわち書中で聖賢とまじわり、一窓を出でずして千里を見、寸陰を過ぎずして万古を経」。楽の最大なるもの、これ以上のものがあるはずがない。「道を楽むと乱に遇うと」はまさに憂と喜の大きな差である。これは自らの決断において選択すべきことであるから、「よろしく、審に思うべき而已」である。

 山本七平は、これが北朝の基本的な考え方、いわば憲法であり、「一言にしていえば『天皇=日本教の大祭司職』と宣言し、それに天皇の正当性をおいた文書と言える。これは頼朝の三原則(注1)、泰時の明恵上人への告白(注2)と共に、日本の形成にあたって、最も影響を与えた重要な文書の一つであると私は考える」

 「従って、後期天皇制(注3)の祖は彼であると言えるかも知れない。そして高氏はこの皇太子すなわち光厳上皇を奉じて京都に入り、次いで光明天皇が即位し・・・後醍醐天皇はこの天皇に神器を渡し、高氏は幕府を開いて建武式目を定め、十二月に後醍醐天皇が密かに吉野に移り、ここに北朝すなわち後期天皇制はほぼ確立したわけである」といっています。(『山本七平の日本の歴史(上)』p243~245)

 もちろん、この後期天皇制のあとに、徳川幕府が体制の学として導入した朱子学の正統論に触発された尊皇思想が生まれることになります。そして、これが幕末の攘夷論と結びついて尊皇攘夷論となり、さらには尊皇倒幕論となって、ここに天皇を中心とする中央集権国家体制が樹立されることになったのです。しかし、この時明治新政府を作った元勲らの構想した天皇制は、必ずしも尊皇思想にいう天皇親政ではなく、後期天皇制の伝統を引き継くものだったのです。それ故にこそ、明治憲法において立憲君主制が採用されたのです。

  こうした明治憲法下の立憲君主制下の政治体制が、どのような事情で否定され天皇親政が理想とされるに至ったかについては、いままでも縷々説明してきました。ただ、なぜそのような非合理的な「現人神天皇制」下の天皇親政イメージが、軍人のみでなく多くの日本人の心を捕らえるに至ったかについては、上述した後期天皇制との絡み合いも含めてより詳細に検討する必要があります。次回は、後期天皇制の天皇がなぜ「現人神」とされるに至ったか、その思想的系譜を説明したいと思います。

注1 頼朝は、当時の朝廷の中から「政治」といいうる要素だけを、非常に巧みに抽出してきて、それだけを把握してしまった。そして朝廷の非政治的要素はそのまま朝廷に残して、これを巧みに、文字通り「敬遠」した。・・・その結果は彼は、当時の世界では全く創造できない「純政治的政府」を作り上げてしまった。すなわち最も簡素で、最も能率的、最も安価な政府である。

 そして、その時彼が朝廷に対して示した「三か条」には、まさに「政治」というものの基本的要素が要約されている。彼はいわば「公家権=朝廷権」「寺社権」「武家権」といういうべき権利を承認している。いわば既存の権利の承認である。同時にその権利者の諸権利、特にその権利の基本である所有権は、政権の交代により侵害されることはないという保障である。そして彼自身が持つ権限は、この権利への保護権と監督権、および権利者間の争いへの裁定権である。この「三か条」は幕府政権の「マグナ・カルタ」というべきものであろう。

注2 こうした幕府政治の基本的性格をさらに徹底させ、日本人の政治哲学の根本を作り上げたのが北条泰時であった。彼は、後鳥羽上皇が正当な理由なく摂津の長江と倉橋二庄の地頭職を停止した上何らかの処置をするよう幕府に命じたことに対して、これを拒否した。それは頼朝の定めた三原則に違反するものであったからである。しかし、朝廷側にしてみれば大化以来、原則として所有権というものを認めない。「一朝の万物はことごとく国王の物に非ずということなし」である。

 そこで後鳥羽上皇は北条義時追討の宣旨を発することとなって、ここに承久の変が引き起こされた。この時泰時は、「王難」という言葉で、「天皇が、民生の安定という彼の義務の遂行を阻害したから、これを排除せざるを得ない」といい、三上皇を遠島にし、後堀河院を立てた。ただし、出発に際し八幡大菩薩と三島明神に誓約し、もし自分の京都進撃が道理に背いているなら、直ちにいま自分の命を絶ってほしい。

 もしこれが天下の人々を助け、人民を安んじ、仏神を興すことになるならば愛隣を垂れてほしい。そしてこれが成功したら、その後は政治に全く私心をはさまず、万民を安らかにすべく、いわば「即民去私」の生涯を送ると誓った。これが幕府政治ひいては日本の政治思想の基本を形成することになり、この幕府思想が今度は逆に、花園院に見られるような学功と徳義を統治の基本におく「後期天皇制」のあり方を規定していった。

注3 天皇制をいわば前期と後期に分けた最初の人は新井白石である。彼によれば、前期天皇制は神話時代から後亀山院さらに高福院までであって、その最後の天皇は後醍醐天皇である。後期天皇制とは北条高時の擁立した光厳院に始まり、白石に時代までで、この前期・後期に併存期間がほぼ南北朝時代でこの期間を彼は120年とする。彼の考え方に従えば、難聴の終わりで前期天皇制は終わり、光厳院に遡りうる北朝の創設で別の天皇制が始まっているのである。

 そしてこの後期天皇制は、武家のために武家が立てたものであるから、武家はこれを大切にしなければならない――天皇家が栄えることは武家が栄えることなのだから、天皇家を大切にするのは当然の義務だ、という考え方が基になっているのである。と同時に彼は、公家と武家は、はっきり別の物と考え、この二つを一種の「教権」と「帝権(政権)」の分立というような形で捕え、両者は相互に干渉してはならないものと考えている。