山本七平の天皇制理解について5――
日本を破滅から救ったのは「国民と共にある」ことを基本とする伝統的天皇制だった

2011年11月18日 (金)

 前回、学理的には誠にばかげた天皇機関説問題が政治問題化し国体明徴運動に発展した結果、「現人神天皇制」が現出することになった、ということを申しました。そもそも、この天皇機関説の主唱者であった美濃部達吉が軍部や右翼に付け狙われるようになったのは、統帥権干犯問題で、美濃部が「東京朝日新聞」に「海軍条約の成立と統帥権の限界」と題する論説を書き、海軍の見解を批判し政府見解を支持したためです。原理日本社の蓑田胸喜が昭和8年に美濃部の天皇機関説を問題にしはじめたのもその延長でした。

 一方、この問題は、昭和9年2月、蓑田と手を組んだ貴族院議員菊池武夫らが第66議会で天皇機関説は反国体学説であるとして批判したことから政治問題化しました。一説には、この背後には平沼騏一郎(枢密院副議長)がいて、その狙いは「美濃部の追落しを、天皇機関説遵奉者と目されている一木喜徳郎枢府議長と金森徳次郎法制局長官の失脚に及ぼし、これによって平沼自身が枢府議長に昇格し、その勢力を宮廷、重臣間に伸ばそうというにあった。狙いの二は、法制局長官辞職の責任により岡田内閣を倒すにあった」とされます。( 松本清張 「昭和史発掘7」p180)

 平沼については、その前年(昭和8年)に「帝人事件」をでっち上げ斉藤内閣を潰したことから「司法ファッショ」というレッテルが貼られるに至っており、そのため後継首相は平沼ではなく岡田啓介が奏請されました。そこで、平沼は、首相を天皇に奏請する重臣会議の構成メンバー(西園寺、牧野、一木、斉藤でいずれも平沼の右翼的体質を嫌い首相に推さなかった)の一人一木喜徳郎(美濃部の天皇機関説の師)を追い落とすために、美濃部の機関説を攻撃対象とした、つまり、機関説問題は、平沼によるいわば「敵本主義」の現れだったともいいます。

  
もっとも、この機関説問題が何を意味しているのか、当時の一般庶民にはとんと見当がつかず、しかし、先に述べた帝人事件の記憶もあって、これは平沼の「王手(一木)飛車(美濃部)取り」だろうという世評を生んだというのです(『昭和東京物語(Ⅱ)』山本七平)。ところが、政友会が岡田内閣をゆさぶろうとしてこの「天皇機関説排撃」に便乗し、これに民政党・国民同盟が加わって「国体明澄決議案」が三党共同で出されることになりました。政府はそれに押される形で「国体明徴に関する声明」を出すことになったのです。

 この辺りの事情について、当時、岡田首相は次のような話をしていたとのことです。

 ――先刻林陸軍大臣が来て、「もうとても自分は続かない。今こうやってこのままでうっちゃっていると、何が起こるか判らない。現にもう若い将校が千人ぐらい団結して、なにかやろうとしているらしい。それで天皇機関説について、もう少しなんとかして政府は処置がとれないかしら」ということであった。・・・「川島にも内々自分に代わってくれるように話したところ、川島は、もう時すでに遅い、何が起こるか判らない、というような話をしていた」

 ・・・閣議の前に大隅海軍大臣が来て、やはりしきりに「声明を出してくれ。声明をしてくれないと何が起こるかわからん。・・・霞ヶ浦の航空隊の奴なんか、いつ何時何をするか判らん。」・・・「陸軍大臣から『どうしても所謂国体明徴の声明をしてくれ』というので、この際、陸軍大臣が部内の統制に腐心している時であるから、これもまたやむをえないということで」ついに政府は国体明徴に関する声明を発表した。

 ここに革新派軍人(皇道派=筆者)は「国体の本義」を手中におさめることによって、権威を確立した。旧体制(明治憲法に規定された立憲君主制)は悪の烙印を押された。機関説的天皇はますます影がうすくなり、代わって統帥権的天皇(というより天皇親政的天皇と言うべき=筆者)が君臨する緒がひらけた。美濃部博士に同情していた司法当局も、その著書を絶版にした。――(『昭和の精神史』p68~69)

 つまり、ここでは、軍首脳は天皇機関説の扱いについて「団結した若い将校ら」の暴発を恐れていて、政府に「国体明徴声明」を出してくれるよう頼み、政府はやむなく国体明徴声明を出した、ということが語られているのです。では、なぜ、軍首脳は「団結した若い将校ら」をそれほど怖れたかというと、当時、軍の若手将校らの間では「国体明徴」にいう「国体論」(=尊皇思想に基づく天皇親政的国家論)が主流となっていて、天皇機関説問題を契機に、これが皇道派青年将校による統制派に対する攻撃へと転化しつつあった、ということなのです。

 その具体的な現れが、その皇道派青年将校の一人である相沢三郎中佐による永田鉄山軍務局長の斬殺事件であり、その公判中に起こったのが、二・二六事件でした。しかし、後者のクーデターは、直接統制派の幕僚将校を狙わず、先ず重臣らを血祭りに上げた上で軍首脳に昭和維新を迫るという形で行われたために、天皇の怒りを買うことになり、彼等は叛乱軍として鎮圧され、その首謀者らは処刑されました。

 これによって、軍内の皇道派勢力は一掃されることになったのですが、問題は、この「国体明徴」運動で主唱された「国体論」そのものは、軍のみならず国民に対しても、その教化が図られるようになったということです。ではなぜそのようなことになったかというと、「国体明徴」運動は、もともと皇道派青年将校による統制派の幕僚攻撃という性格を持っていて、それが二・二六事件で皇道派が一掃されたことにより、その危険性がなくなったということ。また、丁度、日中戦争が勃発して戦時体制に入ったこともあって、「国体論」の説く「天皇への絶対的忠誠」が全国民に求められるようになった、ということです。

 もちろん、この前提としては、こうした「国体論」を説く平泉澄の尊皇思想が、昭和7年以降軍内で人気を博していたことがあります。昭和9年には、平泉は、当時士官学校の幹事をしていた東条英機少将に招かれ、海軍大学校や陸軍士官学校で講義を重ねています。また、士官学校の国史教程を平泉が編纂し、その弟子が士官学校の教官となるなど、平泉の精神で陸軍士官学校は全部立て直された、というほどになっていました。(『天皇と東大(下)』p221、p270)

 こうして、「昭和13年頃に国論は完全に一致した。裏の世論(機関説的天皇制=筆者)はすっかり終熄してしまい、表には聖戦完遂と国家体制革新(天皇親政的天皇制=筆者)と新しいモラルが声高く華やかに高唱された。(といってもなお、これは一般国民の心からの確信にはならなかった。国民の気持ちに内的生命がふきこまれたのは、真珠湾のあとしばらくだった)

 そして、遠くではあいつづくナチスの光栄・・・。

 ひさしい混乱をつづけ、客観的な判断の材料を与えられず、異常な緊迫にあがいて、ついに日本人の頭脳は、ある架空の領域の中で奇怪な回転をはじめた。浮ついた空理空論が揺るぎない現実の力となった。誰も彼もがつよい酒に酔ったように、『矢でも鉄砲でももってきやがれ』というふうだった。」(『昭和の精神史』p125)

 このように「現人神天皇制」のもとにおける「国体論」が風靡する中で、天皇に対する滅私奉公、東亜新秩序の建設、八紘一宇などの言葉が国民の間に踊るようになったのですが、それは、たかだか昭和13年以降のことなのです。

 「私がおぼえているところでは、元来日本人はファッショが嫌いだった・・・満州事変に対しても、インテリは疚しい沈黙を守るか無関心だった。一般人は感激していた(対外抗争が起こった時の自然現象、また純潔な軍に対する期待のため=筆者)。やがて、相つづくテロや軍の無理押しやあてのない戦争になって人びとは倦んで・・・戦争そのものを否定する声はほとんどな(かったが)、陰では多くの人が軍人の悪口を言っていた。盧溝橋事件が起こると、インテリといえども国民感情からこれを支持する気持ちになった人が多かった。」(前掲書p124)

 また、この間の学校教育の様子については、山本七平が、氏が通った青山師範附属小学校の授業を紹介しつつ、次のように語っています。

 「大正末から昭和初期にかけてはアメリカの教育法(ダルトン・プラン)が新しく導入されていたのである。そして生徒にとって先ず最も大きな変化は、「甲・乙・丙・丁」と記した「通信簿」なるものがなくなったことであった。これは・・・大正12年に始まり、・・・満州事変後の昭和七年か八年までつづき、そこでまた通信簿が復活したように思う。」ではこういう全くアメリカ流の教育をして周囲の圧迫といったものはなかったかというと、学校は自由に研究し報告する義務があっただけだった。

 こうした教育がいつごろから変わり出したかというと、昭和8年頃、『愛国美談』という本が配られた。その内容は満州事変と上海事件の子供向けの戦記もので、柳条溝の鉄道爆破や爆弾三勇士が載っていた。ただそれをそのまま『軍国主義教育』というのは正しくなく、むしろ「時局教育」といった段階で、やがてこの「時局」に即応する形で教育の内容が変わっていった。その「時局」はやがて「非常時」になった。こうして大正自由主義の痕跡が消されていったのだが、それは昭和13年頃からで、所謂軍国主義教育の期間は、わずか7年ぐらいと思っている。(『昭和東京物語(Ⅰ)』p292)

 私の周囲の戦中派に属する人たちの中には、戦前の日本は明治以来ずっと皇国史観に基づく軍国主義教育がなされてきたと思い込んでいる人が多いのですが、実際は、それは昭和13年から敗戦までの約7年間の出来事だったのです。もちろん、この時代は急に来たわけではなくて、それは第一次世界大戦後に組織された猶存社(大川周明や満川亀太郎、北一輝らが組織した右翼団体)の日本国家改造運動に端を発しています。そこで彼等の唱えた日本主義が軍に浸透した結果、3月事件、満州事変、10月事件が引き起こされることになったのです。

 しかし、これらは幕僚青年将校に軍首脳も関与したクーデター事件であったため、隊付き青年将校らの反発を招くことになりました。その結果、軍内の「日本主義」運動は「天皇への絶対忠誠」を求める、より純化された、一君万民平等の天皇親政を理想とする尊皇思想へと発展していきました。この皇国史観に基づく尊皇思想の主唱者が平泉澄で、昭和7年以降この思想が次第に軍内に浸透していきました。これが二・二六事件を経て、その思想から皇道派による軍の統制破壊的要素が除かれた結果、また、日支事変那が勃発したこともあって、この思想が国民の間に浸透していくことになったのです。

 では、この異常な時代を、当時の知識人たちはどのように見ていたのでしょうか。この間の事情を最も赤裸々に表白しているのが、戦後『近代の超克』という優れた論文を書いた竹内好です。氏は、対米英戦争が開始された時の感激を次のように語っています。

 「不敏を恥ず、われらは、いわゆる聖戦の意義を没却した。わが日本は、東亜建設の美名に隠れて弱いものいじめをするのではないかと今の今まで疑ってきたのである。
わが日本は、強者を怖れたのではなかった。すべては秋霜の行為の発露がこれを証かしている。国民の一人として、この上の喜びがあろうか。今こそ一切が白日の下にあるのだ。我らの疑惑は霧消した。(中略)この世界史の変革の壮挙の前には、思えば支那事変は一個の犠牲として堪え得られる底のものであった。」

 つまり、竹内は、日本はそれまで、東亜建設という美名に隠れて、中国を相手とする弱い者いじめの戦争をしてきたのではないかという疑念を持っていた。しかし、日本が米英という強者に対して戦いを挑んだことによって、そうした疑念は雲散霧消した。また、これによって、それまでの中国との戦争が、西洋の覇権主義的な近代社会を超克する上で世界史的な意義を持っていることに気がつき感動した、といっているのです。中国との戦争は、そうした大義に捧げられるべき、一つの犠牲にすぎないのではないかと・・・。

 こうした感想は当時の知識人に一般的に見られたものでしたが、しかし、その結果は惨憺たる日本の敗戦でした。そこで戦後、彼等は、このように自分たちが昭和の日本の戦争を正当化したことについて、深刻な反省をすることになりました。その反省の弁の中で最も興味深いものが、亀井勝一郎によって提出されています。

 「いまかえりみて、そこに重大な空白のあったことを思い出す。満州事変以来すでに数年経っているにも拘わらず『中国』に対しては殆んど無知無関心で過ごしてきたことである。『中国』だけではない、例えばアジア全体に対する連帯感情といったものは私にはまるでなかった。日清日露戦争から、大正の第一次大戦を通じて養われてきた日本民族の『優越感』は、私の内部にも深く根を下ろしていたらしい。」(『近代の超克』p304)

 「当時の私は、満州事変――日華事変が、日本のいのちとりになるとはどうしても考えられなかった。・・・当時の気持ちに即して言えば、中国に対しては、高をくくっていたと云える。・・・同時に『民族主義』の復活を背景として、私の日本古典や古寺の研究はすすんでいたが、それまでの『西洋一辺倒』への反撃とも結びついていた。私たちが受け入れた『ヨーロッパ近代』と称するものへの疑惑と、その超克の意思である。」(同上)

 「昭和17年私たちは『近代の超克』という座談会を催した・・・唯ひとつ、今ふりかえって自分でも驚くことは、『中国』がいかなる意味でも問題にされていないということである。」(上掲書p305)

 この座談会には、当時の日本の知識人を代表する人たち(小林秀雄、三好達治、亀井勝一郎、川上哲太郎林房雄、中村光夫他)が参加していたわけですが、不思議なことに、その会話の中では”『中国』がいかなる意味でも問題にされていなかった”というのです。それは、亀井がいうように日清日露戦争以来の日本民族の「優越感」の現れであったかもしれません。しかし、それだけでは十分な説明とはならない。実は、その背後には「西欧一辺倒」への反動としての「日本思想」の想起という問題があったのです。

 そして、その時想起された「日本思想」は、実は、明治維新期の尊皇攘夷思想と深く結びついていたということ。そしてこの時(昭和)は、その「尊皇」思想の適用範囲が日本だけでなく中国さらにはアジアへと拡大されていたということ。また、その「攘夷」の対象は「ヨーロッパ近代」に向けられ、それと戦い「ヨーロッパ近代」を超克することが、日本が盟主となって主導すべき王道文明の使命と考えられていた、ということです。つまり、無意識のうちに中国をその王道文明の「身内」と見なしていたために、「中国」がいかなる意味でも問題にならなかったのです。

 このように、中国を「身内」と見る見方や、「ヨーロッパ近代」との戦いに日本の「世界史的意義」を認める考え方は、実は、日本固有の「尊皇思想」の反映であって、現実の中国やヨーロッパとは何の関係もなかったのです。早い話が、日本は自分たちの勝手な「思い込み」を中国に押しつけようとしていたわけです。それだけでなく、「ヨーロッパ近代」を覇道文明と勝手に決めつけ、それとの最終戦争に勝利することを自らの歴史的使命と考え、そうした戦争観を中国やアジア諸国に押しつけようとしていたのです。

 このあたりのことについて、竹内好は戦後次のような総括を行っています。

 「近代の超克」は、いわば日本近代史のアポリア(難関)であった。復古と維新、尊皇と攘夷、鎖国と開国、国粋と文明開化、東洋と西洋という伝統の基本軸における対抗関係が、総力戦の段階で、永久戦争(昭和になってずっと戦争がつづいていること=筆者)の理念の解釈をせまられる思想課題を前にして、一挙に問題として爆発したのが「近代の超克」論議であった。だから問題の提出はこの時点では正しかった・・・しかし、これらのアポリアがアポリアとして認識の対象にされなかったために、せっかくのアポリアは雲散霧消して、公の戦争思想の解説に止まった、と。

 つまり、大東亜戦争の意義について、確かに「近代の超克」という看板は掲げられ、上記のようなアポリアの提示はなされた。しかし、それは看板を掛けただけで、実際の思想闘争は行われなかった。そこから思想の創造作用は起こるはずがない。従って、もし、そうしたアポリアを解き新しい思想を創造しようとするなら、もう一度これらのアポリアを課題として据え直さなければならない、というのです。このことを前回指摘した大川周明の思想に即していうならば、「東西文明対立史観」をいかに克服するかということ。明治維新以来日本人を無意識のうちに呪縛してきた「尊皇思想」について、その思想的系譜を明らかにし対象化することでその呪縛を解く必要があるということです。

 それができなかったために、戦前の日本の知識人は、大正時代中期以降、次第に東西文明対立史観に捕らわれるようになった。そこでは、東洋文明は王道文明、西洋文明は覇道文明と規定され、両文明の最終的な衝突が予測された。そこで、その最終闘争に備えるためには、同じ王道文明国である中国と連携し資源を共有する必要がある。しかし、中国はこうした日本の世界史的役割を認識せず、日本に協力しないばかりか日本を中国から追い出そうとした。そこでやむなく、日本は満州国という王道国家を作り範を示したが、中国はそれを認めようとしないので、目を覚まさせるため膺懲した・・・。

 これが、多くの日本人にとっての満州事変及び支那事変の意味の解釈でした。そのどこが間違っていたかというと、先ず第一に、東洋を王道文明、西洋を覇道文明と決めつけ、前者が後者より優れているとした文明論。第二に、中国と日本を同じ王道文明の国と規定し、中国は日本と協同して西洋の覇権文明に対抗すべきとした最終戦争論。これらは、実は、日本人の尊皇思想に基づく国家観や世界観に基づくものであって、中国人にとっては、それは日本人の勝手な思想の押しつけ以外の何物でもなかった、ということです。

 日本人は、戦前、このように自己中心的な思想を中国人に押しつけようとしていたことに気づかなかったのです。その結果、中国の主権国家としてのリアルな姿が見えなくなり、またワシントン体制下の世界秩序が見えなくなっていたのです。それが結果的に、中国に抗日持久戦争を決意させることになった。さらに意外なことに、その中国を覇権国家であるはずの英米が軍事的に中国を支援することになった。そこで、これに対抗するためにヒトラーと同盟したが、それは日本をファシズム陣営に追い込むことになり、英米との全面戦争を余儀なくされた・・・。

 こうした絶望的な戦争の推移の中で、昭和13年以降、日本の「国体」思想は政治的なリアリズムを完全に見失って「神がかり」となり、天皇に対する絶対忠誠、尽忠報国が説かれ、八紘一宇という誇大妄想的なスローガンのもと、中国との戦争に加え英米を相手とする大東亜戦争をはじめることになったのです。その結果、一億玉砕の集団自殺さえ厭わない聖戦思想に支配されることになったのです。

 ではなぜ、日本人は、このように政治のリアリズムを見失ない、虚構の聖戦思想に身を委ねることになったか。その根本原因は、先ほど述べた「尊皇思想」にあったわけですが、もし、これから脱却するすべがあったとしたら・・・。一つは、こうした思想運動の担い手となった軍人の軍縮下の不満をしっかり認識できていれば・・・。マスコミがセンセーショナリズムに陥らず、より正確な事実に基づく報道ができていれば・・・。政治家が党利党略に走らず、軍人を政治に巻き込むようなバカなまねはしなければ・・・等々が考えられます。

 だが、実際には、このいずれも当時の日本人にはできませんでした。そのため、ワシントン会議以降の国際政治の変化を読み切れず、いたずらに対支強攻策をとった結果、中国に抗日持久戦争を決意させることになったのです。こうした意図せぬ結果を日本にもたらした思想が、実は明治維新の志士たちに革命的エトスを注入した尊皇攘夷思想であり、これが昭和期に復活したために、「昭和の悲劇」がもたらされることになったのです。しかし、その破滅を究極において救ったのが、「国民と共にある」ことをその存在の基本様態とする伝統的天皇制の姿でした。

 そこで、この日本の伝統的な天皇制の姿と、昭和13年以降、日本の精神世界を支配した「現人神天皇制」とは、どのような関係にあるのか、後者の天皇制はどのようにして生まれてきたのかを、山本七平の日本思想史研究に見てみたいと思います。

 以上、前置きが随分長くなりましたが、なぜ山本七平がこうした思想史的研究に取り組むことになったのかを理解してもらうためには、こうした前段の説明が不可欠だと思ったのです。ご了解いただきたいと思います。

最終校正 11/19 14:30