山本七平の天皇制理解について3――
津田左右吉の天皇制論は、なぜ戦後思想界に受け入れられなかったか

2011年11月 5日 (土)

 本稿2で、丸山真男が批判の対象とした天皇制は、昭和の軍部が自らの権力行使を絶対化するために、天皇を「現人神」化することで、国民の軍に対する絶対的忠誠を確保しようとしたものであること。つまり、こうした軍の宣伝による天皇制は、日本の伝統的な天皇制――政治の実権を有せず、文化的権威のみによって、日本国の統合の象徴として存続してきた――とは異質のものであること。丸山真男は、この天皇制を日本の伝統的な天皇制と誤解したために、これからの脱却が、日本の民主的国家形成のためには必要だと考えた、ということを説明しました。

 津田左右吉は、なぜこのような誤解が生じたかについて、丸山らは、「その年齢から、超国家主義の宣伝せられ、または政策の上にそれが実現せられていた時代の、体験のみをもっているために、おのずから」こうした軍部の宣伝した天皇制を、日本の伝統的な天皇制と誤解した。また、丸山自身「ヨーロッパで行われた色々の改革や革命と同じ性質のことがわが国にもあったように、或はなければならなかったように」考え、「ヨーロッパの政治や宗教に関する知識にあてはめてわが国ものこと解しよう」としたために、こうした誤解が生じた、といっています。

 このあたりをもう少し分かりやすく説明すると、丸山の念頭には、社会の近代化に向けた流れとして、封建制から絶対主義革命を経て、中世の自然法的支配から解放された、社会秩序の「作為者」としての絶対君主が登場すること。次いで、市民革命を経て、市民が絶対君主に代わる社会秩序の「作為者」として登場する。その結果、市民を政治的主権者とする民主国家が成立する、という西欧的な政治制度の発展段階図式があった、ということです。

 この図式に照らして日本の天皇制を見た場合、それは皇祖皇宗の縦軸の伝統的(自然的)権威に依存するものであり、天皇は国家運営の主体的な統治責任を負う絶対君主とはならない。それは、天皇を中心に同心円状に広がる階層的権威に秩序づけられるものであり、必然的に政治的「無責任体制」となる、と丸山は考えたのです。つまり、日本の天皇制が西欧的な絶対君主制とはなりえないことが問題だというわけで、そこで、天皇制ファシズムも”矮小化されたファシズム”だといったのです。

 こうした丸山の天皇制理解は、実は、丸山の戦前の著作である『日本政治思想史研究』所収の論文にも貫徹されていました。そこで丸山は、荻生徂徠の思想を、「自然」に基底された朱子学的社会秩序を覆す「作為の契機」が見られるとして高く評価しました。そして、その社会秩序の主体的形成者とされた「先王=聖人」を、先に説明した西欧的な絶対君主に同定し、その政治思想としての近代性を評価したのです。

 しかし、残念なことに、それは民主国家形成の前段階とされる絶対主義革命にはつながらりませんでした。なぜなら、徂徠の生きた時代(元禄期)の商業資本の発達は未成熟で、封建的支配者に寄生するだけのものだったから、というのです。で、その結果どうなったか。い実は、徂徠が、社会秩序の形成を「先王=聖人」の作為による(禮楽・刑制)としたことは、一方で、そうして形成される政治的秩序の外にある、人間の「内面的心情の世界」の不可侵生を宣言することになりました。

 その結果、その「内面的心情の世界」の「政治的作為の世界」に対する優位性が主張されるようになり、こうして、一切のイデーを廃する「内面的心情=まごころ、もののあわれの世界」を認識の基底に置く本居宣長らの国学思想が生まれることになった。その結果、こうした内面的心情の世界を絶対視する思想は、政治秩序を作為する方向には向かわず、「皇祖皇宗の縦軸の伝統的(自然的)権威に依存する」天皇制無責任体制へと、「不気味な発酵」(『日本政治思想史研究』p274)を開始することになった、というのです。

 もちろん、このような、尊皇思想を昭和期の「現人神天皇制」に直結させる考え方は、尊皇思想によって明治維新が遂行された――これが幕末期の攘夷思想と結びついて尊皇攘夷運動となり、さらに、幕府の開国政策に対する反発から尊皇討幕運動へと発展し、明治維新に結びついた――という歴史的事実を閑却するものです。なにより、明治新政府が導入した立憲君主(=天皇)制は”作為”されたものであって、問題は、それを裏付ける思想的な根拠を明確にできなかった、ということにあったのです。

 といっても、明治維新をもたらした政治思想が「尊皇思想」だったことは間違いありません。となると、それと立憲君主(=天皇)制とを思想的にどう整合性をつけるか、ということが問題だったわけです。従って、もしここで、「政治の実権を有せず、文化的権威のみによって、日本国の統合の象徴として存続してきた」日本の伝統的天皇制と、天皇の政治的責任を国務大臣の補弼責任の下に置くことで、それを「無答責」とした明治憲法下の「立憲君主(=天皇)制」との思想的整合性がとれていたら、丸山が批判したような「現人神天皇制」が生まれることはなかったのかも知れません。

 実は、こうした日本の伝統的な天皇制と「立憲君主(=天皇)制」の思想的整合性の取り方は、その「上代日本の社会及び思想」研究が、「日本精神東洋文化」を抹殺するものだとして、蓑田胸喜ら右翼の激しい攻撃を受けた津田左右吉の天皇制理解と同じでした。津田は、戦後、「建国の事情と万世一系の思想」という論文を発表し、「天皇制は時勢の変化に応じて変化しており、民主主義と天皇制は矛盾しない」として、天皇制維持論を展開しました。

 次に、その津田がなした「民主主義と天皇制は矛盾しない」という主張を見てみたいと思います。この論文は、終戦直後の昭和21年1月に書かれたものであることを念頭に、お読みいただきたいと思います。

 「ところが、最近に至って、いわゆる天皇制に関する論議が起ったので、それは皇室のこの永久性に対する疑惑が国民の一部に生じたことを示すもののように見える。これは、軍部及びそれに附随した官僚が、国民の皇室に対する敬愛の情と憲法上の規定とを利用し、また国史の曲解によってそれをうらづけ、そうすることによって、政治は天皇の親政であるべきことを主張し、もしくは現にそうであることを宣伝するのみならず、天皇は専制君主としての権威をもたれねばならぬとし、あるいは現にもっていられる如くいいなし、それによって、軍部の恣(ほしいまま)なしわざを天皇の命によったもののように見せかけようとしたところに、主なる由来かある。

 アメリカ及びイギリスに対する戦争を起そうとしてから後は、軍部のこの態度はますます甚しくなり、戦争及びそれに関するあらゆることはみな天皇の御意志から出たものであり、国民がその生命をも財産をもすてるのはすべて天皇のおんためである、ということを、ことばを加え方法を加えて断えまなく宣伝した。そうしてこの宣伝には、天皇を神としてそれを神秘化すると共に、そこに国体の本質であるように考える頑冥固陋にして現代人の知性に適合しない思想が伴っていた。

 しかるに戦争の結果は、現に国民が遭遇したようなありさまとなったので、軍部の宣伝が宣伝であって事実ではなく、その宣伝はかれらの私意を蔽うためであったことを、明かに見やぶることのできない人々の間に、この敗戦もそれに伴うさまざまの恥辱も国家が窮境に陥ったことも社会の混乱も、また国民が多くその生命を失ったことも一般の生活の困苦も、すべてが天皇の故である、という考がそこから生れて来たのである。

 むかしからの歴史的事実として天皇の親政ということが殆どなかったこと、皇室の永久性の観念の発達がこの事実と深い関係のあったことを考えると、軍部の上にいったような宣伝が戦争の責任を天皇に嫁することになるのは、自然のなりゆきともいわれよう。こういう情勢の下において、特殊の思想的傾向をもっている一部の人々は、その思想の一つの展開として、いわゆる天皇制を論じ、その廃止を主張するものがその間に生ずるようにもなったのであるが、これには、神秘的な国体論に対する知性の反抗もてつだっているようである。

 またこれから後の日本の政治の方向として一般に承認せられ、国民がその実現のために努力している民主主義の主張も、それを助け、またはそれと混合せられてもいるので、天皇の存在は民主主義の政治と相容れぬものであるということが、こういう方面で論ぜられてもいる。

 このような天皇制廃止論の主張には、その根拠にも、その立論のみちすじにも、幾多の肯いがたきところがあるが、それに反対して天皇制の維持を主張するものの言議にも、また何故に皇室の永久性の観念が生じまた発達したかの真の理由を理解せず、なおその根拠として説かれていることが歴史的事実に背いている点もある上に、天皇制維持の名の下に民主主義の政治の実現を阻止しようとする思想的傾向の隠されているがごとき感じを人に与えることさえもないではない。もしそうならば、その根底にはやはり民主主義の政治と天皇の存在とは一致しないという考えかたが存在する。が、これは実は民主主義をも天皇の本質をも理解せざるものである。

 日本の皇室は日本民族の内部から起って日本民族を統一し、日本の国家を形成してその統治者となられた。過去の時代の思想においては、統治者の地位はおのずから民衆と相対するものであった。しかし事実としては、皇室は高いところから民衆を見おろして、また権力を以て、それを圧服しようとせられたことは、長い歴史の上において一度もなかった。いいかえると、実際政治の上では皇室と民衆とは対立するものではなかった。

 ところが、現代においては、国家の政治は国民みすがらの責任を以てみずがらすべきものとせられているので、いわゆる民主主義の政治思想がそれである。この思想と国家の統治者としての皇室の地位とは、皇室が国民と対立する地位にあって外部から国民に臨まれるのではなく、国民の内部にあって国民の意志を体現せられることにより、統治をかくの如き意義において行われることによって、調和せられる。

 国民の側からいうと、民主主義を徹底させることによってそれができる。国民が国家のすべてを主宰することになれば、皇室はおのずから国民の内にあって国民と一体であられることになる。具体的にいうと、国民的結合の中心であり国民的精神の生きた象徴であられるところに、皇室の存在の意義があるることになる。そうして、国民の内部にあられるが故に、皇室は国民と共に永久であり、国民が父祖子孫相承けて無窮に継続すると同じく、その国民と共に万世一系なのである。

 民族の内部から起って民族を統一せられた国家形成の情勢と、事実において民衆と対立的関係に立たれなかった皇室の地位とは、おのずからかくの如き考えかたに適応するところのあるものである。また過去の歴史において、時勢の変化に順応してその時々の政治形態に適合した地位にいられた皇室の態度は、やがて現代においては現代の国家の精神としての民主政治を体現せられることになるのである。上代の部族組織、令の制度の下における生活形態、中世にはじまった封建的な経済機構、それらがいかに変遷して来ても、その変遷に順応せられた皇室は、これから後にいかなる社会組織や経済機構が形づくられても、よくそれと調和する地位に居られることになろう。

 ただ多数の国民がまだ現代国家の上記の精神を体得するに至らず、従ってそれを現実の政治の上に貫徹させることができなかったために、頑冥な思想を矯正し横暴または無気力なる為政者を排除しまた職責を忘れたる議会を改造して、現代政治の正しき道をとる正しき政治をうち立てることができず、邪路に走った為政者に国家を委ねて、遂にかれらをして、国家を窮地に陥れると共に、大なる累を皇室に及ぼさせるに至ったのは、国民みずから省みてその責を負うところがあるべきである。

 国民みずから国家のすべてを主宰すべき現代においては、皇室は国民の皇室であり、天皇は「われらの天皇」であられる。「われらの天皇」はわれらが愛されねばならぬ。国民の皇室は国民がその懐にそれを抱くべきである。二千年の歴史を国民と共にせられた皇室を、現代の国家、現代の国民生活に適応する地位に置き、それを美しくし、それを安泰にし、そうしてその永久性を確実にするのは、国民みずからの愛の力である。

 国民は皇室を愛する。愛するところにこそ民主主義の徹底した姿がある。国民はいかなることをもなし得る能力を具え、またそれを成し遂げるところに、民主政治の本質があるからである。そうしてまたかくのごとく皇室を愛することは、おのずから世界に通ずる人道的精神の大なる発露でもある。」(『津田左右吉歴史論集』所収)

 残念ながら、こうした津田の主張は、戦後の天皇制廃止論者たちからは「津田は戦前の思想から変節した」と批判されることになりました。実際は、津田は少しも変節などしていなかったのですが、丸山的な伝統的な日本の天皇制と、昭和軍部によって天皇制理解が戦後の言論界を支配するなかで、その、日本の伝統的な天皇制を近代的な立憲君主(=天皇)制に発展させようとする津田の思想的努力は、当時の国民の十分な理解を得ることができなかったのです。

 ではなぜ、こうした津田の主張が、戦後の日本人とりわけ思想界に受け入れられなかったか、ということですが、それはやはり、津田の論理に不足していたものがあったからだと思います。それは、昭和の「現人神天皇制」が、なぜ、当時の日本人――知識階級に属する人たちも含めて、大多数の日本人を巻き込み熱狂させたか、ということについて、それを軍部の宣伝によるものとするだけでは、十分な説明とはならなかった、ということだと思います。

 それを、説明した当時の唯一の理論が、丸山の「超国家主義の論理と真理」以下の論文だった、というわけです。その結果、日本の天皇制の誤った理解に基づく、いわゆる「自虐史観」が風靡することになり、それが、戦後の日本歴史の事実に基づく理解を大きく歪めることになったのです。そうした丸山真男の天皇制理解の誤りを指摘し、「現人神天皇制」がどうして生まれたかを、独自の視点から解明したのが山本七平でした。小室直樹はこうした山本の仕事について次のようにいっています。

 「近代日本の天皇システムの基礎を築いたのは浅見絅斎です。その基礎に崎門の学,即ち山崎闇斎の学問があります。このことは丸山真男先生が強調なさることですけども,丸山先生の弟子共は無能怠慢で研究しておりません。これほど難しいことをおやりになったのは,山本七平先生です」と。といっても、それは「現人神の創作者たち」の解明に止まり、その「育成者」「完成者」までには至っていませんので、立花隆氏の『天皇と東大』等も参考に、次回以降、その全体像の把握に努めてみたいと思います。

注:タイトルを「津田左右吉の天皇制論は、なぜ戦後の日本人に理解されなかったか」を「津田左右吉の天皇制論は、なぜ戦後思想界に受け入れられなかったか」に訂正しました。(11/7 1:15)