山本七平の天皇制理解について2――
丸山真男の「天皇制無責任体制」論がもたらした自虐史観

2011年10月15日 (土)

 前回紹介しましたが、本多勝一氏の天皇制理解は次のようなものでした。

 「(天皇制)、世界に稀有なこの大迷信によって、戦争中の私たちは、あんなにもだまされ、あんなにもひどいめにあった。・・・この世界で最もおくれた野蛮な風習を平気で支持している日本人。侵略の口実とした天皇をそのまま「あがめたてまつって」いる日本人。・・・こんな民族は、世界一恥ずべき最低民族なのであろう・・・」

 このような、戦前の昭和における日本の失敗を、全て「天皇制」のせいにして、それを「世界で最も遅れた野蛮な風習」として断罪する論法は、おそらく、その多くは丸山真男の戦後の著作「超国家主義の論理と心理」「日本ファシズムの思想と運動」「軍国支配者の精神形態」などに依拠していたのではないかと思われます。

 丸山真男は、これらの著作によって日本の天皇制を次のように論じていました。

 幕末に日本に来た外国人は殆ど一様に、この国が精神的君主たるミカドと政治的実権者たる大君(将軍)殿二重統治の下に立っていると指摘しているが、維新以後の主権国家は、後者及びその他の封建的権力の多元的支配を前者に向かって一元化し集中化することに於いて成立した。・・・宗教や道徳をも内にふくみ、さらには芸出や学問さえも、いや、ひょっとすると自然まで内にふくんでなりたつ、巨大な共同世界であった。

 この、明治以降の日本の一元的天皇制の下においては、日本国民は自由なる市民としての主体的意識を持たなかった。つまり、「行動の制約を自らの良心のうちに持たず、その権威を上級の者に依存した結果、上級から下級への抑圧委譲の体系ができあがった。」この価値体系の中心に位置したのが天皇で、この結果、近代国家のナショナリズムをより露骨に主張する「超国家主義」国家体制が誕生した。

 さらに、この中心に位置する天皇は、「無よりの価値の創造者」ではなく、あくまで、万世一系の皇統を承け、皇祖皇宗の遺訓によって統治する。この天皇を中心にそれを万民が翼賛する体制を同心円で表現するならば、その中心は点ではなく、これを垂直に貫く一つの縦軸である。こうして、この中心からの価値の無限の流出が、縦軸の無限性(天壌無窮の皇運)によって担保される。

 ここにおいて天皇は「主体的自由の所有者」ではないし、秩序の「作為者」でもない。それは「人間や人格ではないものとして、いうならば一つの場、あるいは一つの空間・時間体としてとらえるべきだ。いいかえれば、天皇は、人間的存在ないし人格的存在ではなく、構造的存在なのだ。日本ファシズムはそういう天皇を必要」とした。つまり、そうした構造的存在としての「天皇制」が問題なのである。

 丸山は、これらの「超国家主義」論文によって、「頂点の天皇までをも支配する日本社会の病理」を、天皇制の構造的問題と捉えたのです。そして、そこでは政治的秩序形成における「作為の契機」が働かないこと。天皇自身はもちろん、この天皇の権威を背景に実質的に政治権力を行使する文武官僚も、下僚の下剋上に引き回されてロボット化し、結果的に、「匿名の無責任な非合理的爆発」に支配された。

 では、なぜこのようなことになったのか、というと、上述したような「抑圧委譲原理が行われている世界ではヒエラルヒーの最下位に位置する民衆の不満はもはや委譲すべき場所がないから必然に外に向けられる。・・・日常の生活的な不満までが挙げて排外主義と戦争待望の気分の中に注ぎ込まれる。かくして支配層は不満の逆流を防止するために自らそうした傾向を煽りながら、かえって危機的段階において、そうした無責任な『世論』に屈従して政策決定の自主性を失ってしまうのである」。つまり、「下剋上は抑圧委譲の盾の半面であり、抑圧委譲の病理現象」だというのです。(「軍国支配者の精神形態」)

 丸山は、こうした「天皇制無責任体制」から脱却し、日本に民主的な政治体制を確立するためには、各人が「純粋な内面的な倫理」を確立し、「自由なる主体的意識」をもつことが必要だと考えました。これを近代的政治意識の確立という観点からいえば、まず、公的=政治的領域からの私的領域の分離。前者は法規範、後者は道徳規範による。さらに法規範の作為性の認識。そして、権力の民主的コントロール=民主的政治体制の確立、ということになります。

 こうした丸山の、天皇制を一種の社会的病理現象を生み出す構造体とみる見方は、多分に彼が経験した軍隊生活に基づいており、その「抑圧委譲の病理現象」というような認識の仕方は、ここにおける屈辱的体験から生まれていたようです。

 氏は「東京帝国大学法学部助教授でありながら、陸軍二等兵として教育召集を受けた。大卒者は召集後でも幹部候補生に志願すれば将校になる道が開かれていたが、「軍隊に加わったのは自己の意思ではない」と二等兵のまま朝鮮半島の平壌へ送られた。その後、脚気のため除隊になり、東京に戻った。4ヶ月後の1945年3月に再召集を受け、広島市宇品の陸軍船舶司令部へ二等兵として配属された。8月6日、司令部から5キロメートルの地点に原子爆弾が投下され、被爆。1945年8月15日に終戦を迎え、9月に復員した。」(wiki「丸山真男」)

 この間、丸山が経験した兵営生活は次のようなものでした。

 「中学にも進んでいない一等兵が、大学出の二等兵に劣等感を抱きながら、それ故に執拗にいじめ抜く。丸山は「おーい、大学生」と呼ばれていた。・・・下士官や上等兵からも始終殴られ、例えば点呼のさい、「朝鮮軍司令官板垣征四郎閣下」とよどみなく叫べるか否かまで、きびしく咎められる。・・・しかも場所は帝国日本の植民地、朝鮮である。「最も意地の悪い」仕打ちを加えてきたのは、陸軍兵志願者訓練所で徹底した「皇民化」教育を受けて入営した、朝鮮兵の一等兵だった」(『丸山真男―リベラリストの肖像p108』)

 確かに、近代社会における民主的政治体制を確立するためには、「公的=政治的領域から私的領域の分離。前者は法規範、後者は道徳規範による。さらに法規範の作為性の認識。そして、権力の民主的コントロール=民主的政治体制の確立」というプロセスを経ることが必要でしょう。また、そのためには「各人が「純粋な内面的な倫理」を確立し、「自由なる主体的意識」をもつことが必要」だといえます。ただし、そうした政治の近代化・民主化と天皇制とが構造的に相容れないとする見方が正しいかどうかは、大いに疑問です。

 こうした丸山の見方に対して最初に異議を表明したのは、津田左右吉でした。氏は、次のように、明治維新後の天皇制を、昭和の「現人神天皇制」と同一視する見方を次のように厳しく批判しました。

 「近年に至って生じたいわゆる超国家主義者の言説に現れているような思想が、明治時代から世を支配していたものであるが如く思い、それによって維新の性質を推測しようとしたものもあるようであるが、さらにそれを上代以来の過去の歴史の全体に及ぼし、わが国の国家及び政治の本質がそこにあるように考える考え方さえもあるらしく解せられる。」

 この前段は、以上紹介したような丸山真男の天皇制の理解の仕方、つまり、いわゆる超国家主義者の唱えたような「現人神」天皇思想が、明治維新以来支配的であったかのように見る見方に対する批判です。後段は、それを明治維新以後どころか、上代以来の歴史に遡って、日本の歴史全体を支配した思想であったかのように見る見方に対する批判です。これが本多勝一氏の天皇制理解にも通じているわけですね。

 「近年のことで維新を推測し、上代を推測することは、今、言論界にはたらいている人たちが、その年齢の上から、超国家主義の宣伝せられ、または政策の上にそれが実現せられていた時代の、体験のみをもっているために、おのずからこうなったのであろう。なおそれを助ける事情としては、ヨーロッパで行われた色々の改革や革命と同じ性質のことがわが国にもあったように、或はなければならなかったように、考えること、ヨーロッパの政治や宗教に関する知識にあてはめてわが国ものこと解しようとすること、などもあるようである。」

 この前段は、丸山の天皇制理解が「その年齢から、超国家主義の宣伝せられ、または政策の上にそれが実現せられていた時代の、体験のみをもっているために、おのずからこうなった」こと。また、後段は、それが「ヨーロッパで行われた色々の改革や革命と同じ性質のことがわが国にもあったように、或はなければならなかったように」考え、また、「ヨーロッパの政治や宗教に関する知識にあてはめてわが国ものこと解しよう」としたため生じた誤解であることを指摘するものです。

 「政治上または社会上の特殊な主張をもっているために過去の歴史がゆがんだ形で目に映ずるということも、少なくないらしい。新しい思想により新しい観点から、たえず歴史に新解釈を加えていくことは、もとより必要であるが、そういう解釈は、何処までも事実にもとづかねばならぬ。事実に背き事実を無視することは許されない。何が事実であるは見るものの眼によってちがう、ということは、もとより考えられるが動かすべからざる事実を求めねばならぬこと、また如何なる眼から見ても事実をしなければならぬもののあることも、明らかである。それが無ければ史学というものの成りたちようが無い。」(『世界』第22号昭和22年10月号)

 ここで津田がいう日本の天皇制に関する「動かすべからざる事実」とは、津田にとっては次のようなものでした。

 「また昨年に天皇みづからその神性を否定せられるまでは日本人に信仰の自由の地盤が無く、従って国家を超越した道徳の基礎が無かったようにもいわれているが、天皇に神性があるという上代の知識人がもっていた思想は、もともと現代人の考えるような宗教的意義のことでは無く、また明治時代になってからは、そういうようなことは、公式に宣言せられたことはもとよりなく、また一般の常識あるものの思想に存在したのでもない。

 のみならず、中世以後にはそういう考えは全体になくなっていた。儒教思想の行われるようになってからは、天皇は堯舜の如き聖人とせられたのである。ただ、皇祖を神と称することがあるために、天皇は神の子孫であられるということのいわれている場合はあるが、それは神を人とみてのことである。だから陛下が今さら神ではないと仰せられるには及ばなかったと、私は考えている。

 ただ近年になって、いわゆる超国家主義者軍国主義者が、天皇を神秘化しようとして様々の荒唐無稽な言説を立てたために、そこから天皇の神性ということがいわれるようになったかと思われるが、それは一般に承認せられたことではなく、また明治時代からのことでもない。神性についてのみならず、天皇を絶対価値の体現とするものの如く解せられるような言説があったとすれば、それもまたこれと同じである。」

 もちろん、丸山真男には、先に紹介した「超国家主義者の論理と心理」など、天皇制ファシズムへと向かう日本の近代化を全面的に否定した現代政治論とは別に、儒教(朱子学)の日本的受容に「作為の契機」を探った『日本政治思想史研究』、福沢の独立自尊の精神と「多事争論」を評価した『文明論の概略を読む』、中世武士団の独立精神と個人主義を探った『忠誠と反逆』などがあります。

 これらを通読すれば、丸山なりの日本政治思想史研究における「動かすべからざる事実の探求」を見て取ることができます。しかし、一般の読者にとっては、氏が「超国家主義の論理と心理」で見せた、天皇制に対する上述したような強烈な否定の論理が、圧倒的な影響力をもったことは間違いいと思います。本多勝一氏の天皇観などはその典型ではないかと思われます。

 そこで次回は、なぜ天皇制は、昭和において「超国家主義・現人神天皇制」となったかについて、山本七平の天皇制研究の成果を、丸山真男の日本政治思想史研究とも対比しつつ、できるだけ分かりやすく紹介したいと思います。