山本七平の天皇制理解について1――
「朝幕・併存=二権分立」の後期天皇制こそ、日本の伝統的天皇制

2011年10月 6日 (木)

*タイトル名を「山本七平の日本思想史」から「山本七平の天皇制理解について」に変更します。

 山本七平が、いわゆる「自虐史観」の元祖と目される本多勝一氏などから執拗な攻撃を受けるようになったのは、氏の天皇制の理解の仕方が、「天皇制を擁護し侵略軍の論理を擁護する反動」と見なされたからでした。これは、イザヤ・ベンダサンが昭和47年1月号の『諸君』に「朝日新聞のゴメンナサイ」を書き、いわゆる「百人切り競争」をフィクションと断定したことをめぐって、本多勝一氏との間で論争になったことが契機となっています。(『日本教について』イザヤ・ベンダサン著、所収)

 その時、明らかにされた本多勝一氏の天皇制についての理解の仕方は次のようなものでした。

 「天皇制などと言うものは、シャーマニズムから来ている未開野蛮なしろものだと言うことは、ニューギニア高知人だって、こんな未開な制度を見たら大笑いするであろうことも知っている。・・・世界に稀有なこの大迷信によって、戦争中の私たちは、あんなにもだまされ、あんなにもひどいめにあった。・・・この世界で最もおくれた野蛮な風習を平気で支持している日本人。侵略の口実とした天皇をそのまま「あがめたてまつって」いる日本人。・・・こんな民族は、世界一恥ずべき最低民族なのであろうが、私もまたその一人なのだ。」

 こうした本多勝一氏の天皇制の理解の仕方に対して、ベンダサンは、『日本人とユダヤ人』において、次のような評価を下していました。

 「朝廷・幕府の併存とは、一種の二権分立といえる。朝廷が持つのは祭儀・律令権とも言うべきもので、幕府がもつのは行政・司法権ともいうべきものであろう。統治には、宗教的な祭儀が不可欠であることは、古今東西を問わぬ事実である。無宗教の共産圏でも、たとえば、レーニンの屍体をミイラにして一種のピラミッドに安置し、その屋上に指導者が並んで人民の行進を閲するのは、まさにファラオの時代を思わせる祭儀である。・・・このような祭儀行為とこの祭儀を主催する権限とは、常に最高の統治権者が把持してきた、非常に重要な権限」である。

 「だが、祭儀権と行政権は分立させねば独裁者が出てくる。この危険を避けるため両者を別々の機関に掌握させ、この二機関を平和裏に併存させるのが良い、と考えた最初の人間は、ユダヤ人の預言者ゼカリヤであった。近代的な三権分立の前に、まず、二権の分立があらねばならない。二権の分立がない処で、形式的に三権を分立させても無意味である。・・・西欧の中世において、このことを早くから主張したのはダンテである。・・・だがダンテの夢は夢で終わった。彼が、日本の朝廷・幕府制度のことを知ったら、羨望の余り、ため息をついたであろう。」

 ここで、イザヤ・ベンダサンと山本七平の関係についての私の考えを述べておきます。山本七平は、後に、イザヤ・ベンダサンという著者名は、自分と二人のユダヤ人(ジョン・ジョセフ・ロウラー、ミンシャ・ホーレンスキー)との合作につけたペンネームだと説明していました。といっても、それらの著作の執筆・編集において山本が中心的役割を担ったことは間違いなく、山本が他の二人のユダヤ人の意見を参考にしつつ(それがどの程度のもだったかはよくわからない)、イザヤ・ベンダサンという別人格をもって書いた、というのが真相なのではないかと思います。

 この「別人格をもって書いた」というのが、日本人である私たちにはよくわからないわけですが、山本自身の説明によると、ペンネームを使用するということの本来の意味は、作者とその作品の人格を区別するためだそうです。そうしないと、作者がその作品によって規定されてしまい、自由な創作活動ができなくなるからといいます。だから、そうした事態を避けるためにペンネームを使う・・・要するに、その作品を「作品」として読めば良いわけで、作者の素性を詮索する必要はないということです。

 では、山本は、イザヤ・ベンダサンというペンネームで何を語ろうとしたのか。『日本人とユダヤ人』では、日本におけるキリスト教理解の根本的問題点を指摘すること。『日本教について』では、「日本教」そのものの問題点を明らかにすること。『日本教徒』では「日本教」の倫理基準のルーツを平家物語の「恩の哲学」に見ること。『日本の商人』では江戸時代の商人の「商道徳」を紹介すること。『日本人と中国人』では、日中戦争の不思議を解明すること。『イザヤ・ベンダサンの日本歴史』では、武士の作った後期天皇制の意義を明らかにすること、だったのではないかと私は思っています。

 これらは、そのいずれも「在野の人物」による全く独創的な仕事でしたので、それだけに、イザヤ・ベンダサンという別人格に語らせることで、その真価を世に問う気持ちもあったのではないかと思います。また、予測不可能な危険から身を守る意味もあったと思います。特に後者については、冒頭に紹介した本多勝一氏とのその後の論争経過や、キリスト教左派に属するという浅見定雄氏による、およそキリスト者によるものとは思われない”悪意に満ちた”攻撃を見ても判ります。なお、松岡正剛氏によると、こうした山本の仕事は、今日もなお、アカデミズムの世界から無視され続けているとのことです。

 話をもとに戻しますが、冒頭に紹介した、本多勝一氏とイザヤ・ベンダサンの天皇制についての論争において、ベンダサンは「本多勝一様への返書」で次のように反論しています。

 「私は『日本人とユダヤ人』で、例えレーニンの屍体をミイラにしても、そのことは野蛮とは関係がないと書きました。「シャーマニズムから来ているから野蛮だ」とはいえませんし、従って「野蛮だからきえてなくならねばならぬもの」とはいえません。・・・私の考えでは、自分の考え方を最も進んだものと勝手に自己規定し、それに適合せぬものを「消えてなくなれねばならぬ」と一方的に断定する本多ナチズムこそ野蛮です。ナチズムはシャーマニズムよりはるかに新しいものですから、「新しい・古い」は野蛮の基準にはなりません。」

 これに対して本多氏は、「私は天皇制を「未開野蛮なしろもの」「世界で最も遅れた野蛮な風習」とはかきましたが「古い」とは、ひとこともいっておりません。・・・天皇制軍国主義がなぜ野蛮か。・・・侵略の口実とした天皇。迷信だろうがオマジナイだろうが、私たちが何千万人もの単位で殺される力につながらないのであれば、何も問題はない。・・・結局あなたは、・・・なにをされたのでしょうか。もはや読者にはあきらかなように、自称ユダヤ人が結果的に天皇制を、「天皇陛下万歳」と、必死で、擁護して下さったのであります。」(「雑音でいじめられる側の目」上掲書所収)

 ここで問題となるのは、「天皇制」という言葉の定義が、本多勝一氏とベンダサンで違っているということです。ベンダサンは、鎌倉時代以降の「朝廷・幕府の併存という一種の二権分立」を評価しているように、天皇制をいくつかの歴史段階に区分して理解しています。南北朝時代を併存期間として、それ以前を「前期天皇制」、それ以後を「後期天皇制」と呼んでいます。そして後者を「武家が武家のために作った天皇制」ではあるが、武家はあくまでこれを「即天皇去私」の基本姿勢で、それを一種の文化的象徴的権威として維持しようとした、といっています。(『山本七平の 日本の歴史』参照)

 この後期天皇制の後に来るものが、尊皇思想に基づくいわゆる「皇国史観天皇制」で、神代に続く天皇の万世一系をその正統性の根拠とし、忠孝一致の家族的国家観に基づく天皇親政を理想としました。実は、この「皇国史観天皇制」イデオロギーが、尊皇攘夷運動から尊皇倒幕へと発展した結果、明治維新につながったのです。こうして、天皇を中心とする一元的国家体制が樹立されたわけですが、明治新政府は、攘夷ではなく一転して開国政策をとり、富国強兵、殖産興業を合い言葉に近代化国家建設へと突き進むことになりました。

 だが、このことは、「明治維新によって徳川時代から続いてきた尊皇思想に基づく理想主義が実行に移されたはず」と期待していた岩倉具視らにとっては、こうした新政府の欧化政策は、「朝廷の罪なり」であり、「大衆を欺くものである」と言わざるを得ないものでした。また、「維新を機に実質的に一つの体制をつくろうとした隆盛のような人にとっては、これはまたとんでもない方向違いであり、「死んだ人には誠に相済まぬ」ということになりました。

 実際、西郷隆盛は、維新以降、尊皇思想に基づく理想主義をある程度実行しようとしました。その「最初が明治二年二月で、彼は薩摩の参政となって改革を行いますが、この改革が非常に面白い。かつて島津というのは非常に複雑な機構になっていたのですが、その全部に統一的に地頭を置き、この地頭が軍事、警察、司法、行政の一切を行う。また、村の役場は軍務方といい、すべてを戦時状態に置きます。一切が軍隊のようになるわけですが、その下に共同体的な一種の体制を樹立しようと試みたのではないか、と思われる点が彼にはあります。

 論理的に、つまり徳川時代からの延長で考えますと、天皇親政で、その下に一種の班田制のようなものをつくるというのは、一番正直なやり方です。・・・彼にとって維新というのは、あくまでも全国で行うことだったはずですが、それは実行されなかった。『西郷南洲遺訓』を読みますと、自分はそれを非常に後悔しているという言葉が出てまいりまして、彼は、「そのために死んだ人に対して面目がない。こんな欧化主義の政府をつくるというようなことは、自分は全然考えてなかった」と言っております。(「日本の正統と理想主義」『現人神の創作者たち』山本七平ライブラリー所収)

 このような、西郷が理想とした尊皇思想に基づく国家のあり方は、徳川時代を通じて成長してきた朱子学の正統論に基づく理想主義と、日本の国学思想が生んだ日本独特の万世一系の国体観念とが重なったものでした。これが、明治維新の成功と同時に消えてしまい、今度は中国ではなく、ヨーロッパを理想とする近代化の道を歩むことになったのです。問題は、この時、明治維新をもたらした尊皇思想を、思想史的に清算しなかった・・・このことが、昭和になって大きな問題を引き起こすことになるのです。

 「つまり、(昭和になって)天皇機関説というのが、なぜあれほど非難されたのかということですが、(尊皇思想を生んだ)朱子学から見れば、これはもってのほかなんです。ただ、非難している人間がはたしてこれを「朱子学から見れば・・・」というふうに意識していたかどうか、それはわかりません。(だが)ヨーロッパの発想からすれば、天皇機関説は当然であるわけです」が、この問題を、誰も日本の思想史上の問題として論じることができなかった。そのため、その有効な解決策を国民に提示することが出来なかったのです。(上掲書参照)

 そうなれば、借り物の西欧の政治思想より、伝統的な日本の政治思想の方が強いのは当たり前です。まして、この日本の伝統思想である尊皇思想は、明治維新という偉業を達成した思想ですから、これを否定することはできない。また、この「皇国史観天皇制」は、日本の歴史を神代から貫く万世一系の天皇制を正統とすることによって、先に紹介した「朝廷・幕府併存」の後期天皇制を「誤り」とし、この後期天皇制を創出した足利尊氏を「逆臣」と規定していました。

 ということは、天皇制を「シャーマニズムから来ている未開野蛮なしろもの」であり、かつ「ニューギニア高知人だって、こんな未開な制度を見たら大笑いする」とした本多勝一氏は、この「皇国史観天皇制」を「万世一貫」の天皇制と理解していたことになります。それは、いわば「裏返し皇国史観」とでもいうべきものです。もちろん、これは間違いで、そうした間違った理解を根拠に、自分の意見と合わない意見を「天皇制を擁護し侵略軍の論理を擁護する反動」と決めつけたわけで、これではベンダサンに「ナチスの論理」と批判されても仕方ありませんね。

 そこで次回は、その皇国史観に基づく万世一系の天皇制が、どのような歴史的・思想的系譜を経て生まれてきたかということについて、山本七平の独創的な見解を紹介したいと思います。