TPP問題に関連して――
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2011年11月11日 (金) |
健介さんへ
「山本七平の天皇制理解について4――軍内の派閥争いが国体明徴運動を経て平泉尊皇思想に行き着いたワケ」へのコメントに対する私見です。)
tiku 戦前昭和史の悲劇を理解する上において最も重要なポイントは、対支那外交及び満州問題をこじらせたのも、軍の統帥権問題さらには天皇機関説問題を政治問題化したのも、基本的には政治家の責任だったということです。もちろん。この時代を主導したのが軍部だったことは間違いありませんが、政治家が党利党略に走らず、軍におもねらず、国家利益を代表する政治家としての自覚と先見性を持って行動していたら、これらの問題はよりスマートに解決できたはずです。
対支那外交及び満州問題については、幣原の方針の方が正しかったと私は思っています。それは、安易な東西文明対立史観に陥ることなく、アメリカとの関係調整をする方向で進められていたからです。できたら、日英同盟の破棄ではなく、それを日英米同盟に進化させる方向で拡大できていればベストだったわけですが・・・。また、統帥権問題は、政友会の森格等が党略上海軍をたきつけて引き起こしたものであること。天皇機関説問題は貴族院が無責任にも右翼に迎合し、また、政友会がこれを倒閣に利用しようとしたことから政治問題化したものでした。
ところで、天皇機関説問題がなぜ政治問題化したか、ということですが、それは要するに、天皇の位置づけについて、それが法の枠内に止まるものか、それともそれを超えるものかという認識が曖昧だった、ということです。前者は、いうまでもなく明治憲法の規定するところ、後者は教育勅語によるものです。美濃部達吉も検察の取り調べでこのことに気づき、後者は「法を超えたもの」であることを、”汗をふきふき”弁明したといいます(『天皇と東大』参照)。つまり、天皇という存在の「精神的・象徴的」性格と、「法的」性格の違いを、美濃部も思想的・論理的に整理できていなかったのです。
伝統的な天皇制では、前者は政治的独裁者の規定ではなく、日本国民の一種の「無私の精神」を象徴するもの。それ故に国民の尊崇を集めうる(=即民去私)となっていた。後者は、名目は天皇としながら実質的な政治的責任は全て補弼者が負うとするもの。これが伝統的天皇制の日本的二権分立のエッセンスだったわけです。これを、10月事件以降、皇道派が統制派の行動を「天皇大権を私する」ものと非難するようになった。確かにこれはまっとうな批判だったわけです。それと同時に、彼等は軍内の「身分」的人事に強い不満を持っていた。(それが彼等の尊皇思想における「一君万民平等」の意味だった)
そうした主張を実現するのに、彼等は、二・二六事件で、それを「君側の奸」を取り除くということを名目に、政府重臣を暗殺するというクーデター行動に出た。これが理解しにくいところで、つまり、統制派に対する攻撃ということなら、重臣ではなく統制派幕僚を襲うべきだったのに、彼等はリストに上げただけで、ただ片倉衷を偶発的に拳銃で撃っただけだった。そこを石原完爾に乗ぜられ、カウンタークーデターを食らうことになったのです。
また、天皇がどうして皇道派青年将校に同情を寄せなかったか、ということが問題とされますが、天皇にしてみれば、当然のことながら、皇道派が軍の統制を破壊するような行動をエスカレートさせることは認められない。もちろん、それまでの軍の独断行動も苦々しく思っていた。それは統帥権の総覧者としての立場からも当然のことで、また国務の総覧者としての立場からも当然だった。まして、天皇の国務総覧の補弼責任を負う重臣らを暗殺するなどという行為を認めるはずがない。
明治維新の場合は、尊皇派は天皇を”自由”にできたからなんとかなったが、明治憲法下の天皇は統治権を総覧しているのだし、統帥については天皇は彼等の最高指揮官だから、その意思を無視するわけには行かない。このあたりの時代の変化を、皇道派の青年将校たちは全く読めていなかった。北一輝の場合は当然判っていたはずですが、皇道派下級将校の「革命的エネルギー」をバックとしていましたから、彼等を理論通りに動かせなかったのでしょう。その負い目が、彼をして皇道派青年将校に殉じさせる結果になったのだと思います。
つまり、皇道派VS統制派という問題は、まず軍内部の問題としては、実力主義に基づく人材登用ができなかったということにあります。また、幕僚将校らの行動が、特に張作霖爆殺事件、三月事件、満州事変、10月事件において、「天皇大権を私する」ものであったことは事実ですから、これを皇道派が非難するのは決して間違いではありませんでした。統制派はこれを持ち出す皇道派の動きを「利敵行為」であるとして苦々しく思っていましたが、「弱み」でもあったので何とか彼等を懐柔しようとしたのです。
で、なぜ彼等は二・二六事件において、皇道派は統制派を直接の攻撃対象とせず重臣らを襲ったかということですが、その根本的な理由は、その時代認識において統制派と共有するものがあったからです。つまり、政党政治や議会政治否定、「神格化」した天皇の下における、軍主導の一元的国家体制の樹立、資本主義から社会主義的統制経済への移行、自由主義・個人主義の排撃ということでは一致していたということです。だから、資本主義自由主義の現状維持勢力である重臣らを暗殺することで、軍首脳に「取り入ろう」としたのです。
そうした「思惑」のもとで重臣らを暗殺することを、「君側の奸を除く」という思想にもとづいて正当化し、それでも天皇を味方に付けられると思ったところに、彼等の錯誤があったわけです。要するにそういった思想的幻想による自己絶対化に陥ったところに、客観的にものを見る事ができなくなった原因があったのです。
もし、彼等が本当にこうした軍の抱える問題点を解決したかったなら、繰り返しになりますが、重臣暗殺というクーデターに出るべきではなかった。そんな行動にさえ出なければ、彼等の言い分はそれなりの正当性を確保することができたでしょう。あるいは、天皇の同情を買うこともできたかも知れません。といっても、これはいわば「ないもの」ねだりで、先に紹介したような軍内の時代認識を彼等も共有していたことが、彼等の言い分の正当性を全てぶち壊しにしてしまったのです。
>> その結果、4月には、真崎教育総監が、機関説が国体に違背する旨の訓示を発し、内務省は同博士の『逐条憲法精義』他3冊を発禁処分とするなどしました。さらに、本問題は革新(右翼)団体だけでなく、反政府立場にあった政友会が「国体明徴のための徹底運動」を起こすに至り、ついに政府は、8月3日、国体明徴に関する次のような声明書を出すに至りました。こうして、美濃部博士は起訴猶予処分を受け参議院議員を辞することになりました。また、10月15日には、政府は重ねて「国体明徴声明」を出しました。
健 この展開はまるで南朝鮮が従軍慰安婦について、能書きを言い出した経緯とよくにています。
tiku 従軍慰安婦問題と河野洋平氏の関係については、秦郁彦氏が『慰安婦と戦場の性』で次のような指摘を行っています。
河野談話では、「慰安婦の募集については、軍の要請を受けた業者が主としてこれに当たったが、その場合も、甘言、強圧等による等、本人の意思に反して集められた事例が数多くあり、更に、官憲等がこれに加担したこともあったことが明らかになった」と「当時の朝鮮半島はわが国の統治下にあり、その募集、移送、管理等も、甘言、強圧による等、総じて本人たちの意思に反して行われた」とが重複する記述になっており、募集段階で官憲が強制連行したかのような印象を与えるものとなっている。
河野談話の問題は、政府の調査報告書では募集の主体を「業者」と明示しているのに、河野談話では消えている――つまり主語が落ちている点だと、秦氏は指摘しています。
当時官房副長官だった石原信夫氏は、「第一次調査では募集の強制性は見つからず、韓国政府も当初はそれほどこの問題に積極的ではなかったため、これで納まると思った」が、「慰安婦の証言」(真偽不明)があり、「関与を認めただけでは決着しないと思った」「彼女たちの名誉が回復されるということで強制性を認めた」「”総じて”というのは河野さんのご意向が文章になった」「事実よりも外交的判断を優先させた」と語っています。
当時の日本政府は「これでおさまる」と考えたわけですが、やがて日本国内の反体制派と呼応して日本に国家賠償を要求する運動になっていったわけで、そうした政治判断が甘かったわけです。その後「女性のためのアジア平和国民基金」が設けられましたが、「韓国では、見舞金を受け取ることに批判的な世論のため、ほとんどの元慰安婦は見舞金を受け取らず、韓国政府が認定した元慰安婦200人中、受け取ったのは7人に止まったまま」(wiki「アジア平和国民基金」)だそうです。
外交問題では、日本的な「相互懺悔告解方式」は通用しないということです。事実論はあくまで事実論として、論理を貫徹させておかなければならない、ということですね。韓国も日本と儒教的伝統において似たところがあると思いますが、その過剰な「大義名分論」からする攻撃精神は、日本人とは相当に違っているようですね。といっても日本にもそれに似た人たちが随分増えているようですが・・・。
>皇道派、統制派といった見方とは別のものが必要だと見ていますが、気力がありません。
元に何か別なものがあります。
tiku 先に申しました通り、皇道派、統制派というのは実は思想的な対立だったのではなく、士官学校卒業後、陸大に進学し幕僚将校になった者に対する、隊付き将校(陸大を出ない限り出世の道が閉ざされていた)の人事上の不満に端を発する、明治維新の脱藩志士をモデルとした倒「幕僚」運動だったのです。本来なら、軍も学歴に関係なく実力主義に基づく人材登用をすべきだったのです。米国がそれをやったように・・・。当時の軍は極端な学歴主義でその弊害が大きかったのですね。
つまり、先に言及したように、思想的には両者の違いはそれほどなくて、そのことは尊皇思想の理論的指導者であった平泉澄が二・二六事件を全く容認しなかったことでも明白です。平泉はおそらくこのクーデター事件で天皇がそれを支持するとは全く思っていなかったのでしょう。というのは、彼には皇道派青年将校のような統制派に対する被害者意識はありませんでしたから。これが平泉の尊皇思想に対する支持が両派にまたがり得た理由です。といっても、さすがに平泉は二・二六事件後警戒されましたが・・・。
>今年の夏、目黒にある大川周明の墓をお参りしました。複雑でしたね。
tiku 大川周明については、彼が「東西文明対立史観」に陥ったことが、最大の問題だったと思っています。実は、彼は平泉などと違って、日本歴史の解釈ははるかに実態に即していて、観念的な「現人神」尊皇思想にはほとんど陥っていませんでした。この点は北一輝も同じで、大川の『日本二千六百年史』は大変優れているしおもしろいです。この当時の日本の最高知性を以てしても、この「東西文明対立史観」に陥ってしまったのです。次回これについて詳しく論じたいと思っています。
*大川の「東西文明対立史観」を猶存社の宣言文(大正8年)に見ていましたが、大川自身の思想とは必ずしも言えないので、この部分は訂正(削除)します。『米英東亜侵略史』(昭和17)には顕在化していますが。(11/15)
なお、この問題は、現在問題になっているTPP問題にも影を落としているような気がしますね。先の慰安婦問題で述べたように「事実を事実として押し通す」外交交渉力を持たないと言う事もあるのでしょうし、その反動として、いたずらにアメリカ「陰謀史観」に陥るということもあると思います。戦前の場合、こうした史観に陥りさえしなければ、もっと柔軟かつしたたかに支那問題や満州問題を処理できたはずですが、これは、今日の日本の政治家にも至難なのですから、戦前の日本の政治家にこれを期待するのは”野暮”ということなのかもしれませんね。