平家物語の「施恩の権利を主張しない、受恩の義務を拒否しない」という「恩の哲学」について

2011年9月26日 (月)

前エントリーに対する物語研究所「夢前案内人」さんのTBへの私の応答です。「夢前案内人」さんのblogコメントに加筆しました。

狂人と賢者を分ける線

夢前案内人さん、専門的TBありがとうございます。
以下、私の感想を述べさせていただきます。

〈「自己義認(自己を絶対善(無謬性)と規定)」を発端とし、これを社会に拡張する正当性を担保するため「無謬性存在 = 神、」を設定し、それを「寄託先」とする存在として自己を再定義するというマインドというか信条様式は統合失調症者のそれと非常にそっくり〉

 統合失調症を上記のようなものと解釈するなら、

「統合失調症の起こる素地というもの自体は我々人間の脳内にその機能(というよりはアルゴリズム)の一環として普通に付置されているもので特段異常なものとは言い難い」と言い得ると思います。

 また、「社会の或る集団、或る組織、或るムーブメントを一個の生命体であると捉えた場合に、そのアルゴリズムは異常な結果に出力されるものにだけ使われるのではなく正常と言える建設的なものへ出力されるものとしても使われているではないか?」とも言えると思います。その社会の未来イメージが明快でメンバー間に共有されている場合は大変能率的ということですね。

 問題は、その未来イメージが不明な場合、どういう手順でそれを創り上げ実行に移していくか、ということですが、お説の統合失調症では対応が難しいのではないかと思われます。(私がおっしゃっていることをよく理解していないのかも知れませんが)

 ただ、イノベーションの意味を「企業者が行う生産諸要素の新結合」とするなら、まあ「何を作るか」は分かっているわけで、その品質や、生産方法、販路、原材料調達、組織づくりなどにおいて革新的改善を加える、ということですから、確かにそれは先に述べたように能率的に行えると思います。で、ここに異常な結果を生み出すことになる閾値があるとすれば・・・という問いですが、生産活動ではなく政治活動を対象とするなら、前エントリーで述べたような閾値?は存在するとは思いますが・・・?

 なお、「夢前案内人」さんの前エントリー「“個” の思想は欧米礼賛なのか」も読まさせていただきました。お説については私も同意見です。ただ、「プロテスタント病」の定義についてですが、本来、プロテスタンティズムとは「信仰義認」であって「自己義認」ではない、つまり、「義人なし」が基本で「人が義とされるのは信仰のみ」ということです。といっても、現実には「この主張により自己義認の連鎖が打ち破れるのは、カトリックとの緊張関係がある場合に限られる」とのことで、そういった緊張関係を失いやすい環境に置かれた場合は、「プロテスタント病」といわれるような症状が出ることになるのです。

 まして、それが近代化と共に東アジアの儒教圏にきた場合、特に日本の場合は「生まれながらにして本性=人間性が備わっている」と考える、つまり「義人のみ」の世界ですから、「プロテスタント病」に対する免疫がない。それ故に、伝統的に「去私」が自己修養の目標とされてきたわけで、大正デモクラシー期のように西洋思想が一般大衆に強い影響力を持った時代には、「声の大きな者」「力の強い者」「強引な者」「多くを丸め込む権謀術数に長けている者」が社会の主導権を握るようになるのです。これに対する反動が、昭和なのですね。

 で、「そうならない社会を目指すためには、真の意味での「“個” の思想」を各人が身に付ける」必要があるのですが、「義人のみ」の世界ではたしてこれが可能か、ということになると、難しいということになる。しかし、ここで参考までに申し上げますと、山本七平によれば、平家物語における倫理規定は「施恩の権利を主張しない、受恩の義務を拒否しない」という「施恩・受恩の倫理」だったらしく、おそらくこれは、現代においても、日本人の倫理感を無意識的に支えているものではないかと思われます。(『日本教徒』参照)

 といっても、キリスト教も結局、「律法の全体は、「自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ」というこの一句に尽きる」(ガラ5:14) のですから、日本人が「人間性を信じる」のは決して悪くない。むしろ有利と言えるかも知れません。実際、上記の「恩の哲学」は「汝の隣人を愛せよ」に昇華する機縁を持つような気もします。といっても、これは共同体における個人倫理であって、利益社会における秩序原理は、契約(=法)と、その下における権利・義務関係であり、日本の組織に求められているのは、身内の談合よりコンプライアンスを重視する、ということだと思います。これは、少しずつ身についているようですね。 

 最後に、「“個” の思想」を身につけるためにはどうしたらいいか、ということで、「C・G・ユングが生涯主張、啓蒙し続けた「意識化」「個性化」のプロセス」が大切、ということですが、私もその通りだろうと思います。しかし、その場合、何を意識化するか、が問題になると思いますが、おそらくそれは、「自分を無意識に支配しているものの「意識化」だと思いますが、案外それは、先の「施恩・受恩の倫理」かもしれませんね。

 また、「”個”の思想」がなんらかの「権利の主張」を意味するものであるとすれば、一見、この世界には「権利はなく義務だけが存在する」ように見えます。しかし、もう一歩進んで考えると、「受恩の義務を拒否しない」は「受恩の義務を果たす」ことだから、これは、「受恩の義務を行使する権利」とも考えられます。とすると、この「恩」を対人関係から「天」との関係において捉えることができるようになれば、なんだか”すっきり”してくるような気もしますね。(これが即ち明治の「敬天愛人」か)

 といっても、それが「神人一体」ではなく、対立関係を基本とする神との「契約関係」(その契約書が”聖書の言葉”、だからその契約書をもとに神と議論することも権利として許される)になるかというと、それは難しいと思いますが・・・と言いつつ、日本人は神に一方的に要求ばかりというか”おねだり”ばかりしていますから、神としても、その内最低限の「契約書」は作りたくなるかも知れませんね。

 まあ、江戸時代においては、その「契約書」の内容が「勤勉」とされたことによって、「日本資本主義の精神」が準備されることになったわけですが・・・。(『勤勉の哲学』山本七平 参照)