山本七平の不思議5

2007年5月 3日 (木)

 『日本人とユダヤ人』の書き手の中に、戦時中のアメリカの対日諜報機関による日本研究に関わった人物がいることは、そのテキストとしてつかわれたという『日暮硯』に関する次の記述でも明らかです。

 これは、日本の歴史における「朝廷・幕府併存」という政治体制について、これを統治における祭儀権と行政権を分立した一種の二権分立ととらえ、「日本人が、二権分立というユダヤ人が夢見て果たせなかった制度を、なんの予習もせずいとも簡単にやってのけた」ことを「政治天才」と評価する中で言及しているものです。

 「宗教・祭儀・行政・司法・軍事・内廷・後宮生活というカオスの中から、政治すなわち行政・司法を独立させた日本人が、その後どのような政治思想を基にして、現実の政治を運営していったのか。その特徴をもっともよく表しているのは『日暮硯』であろう。この本は、私にとって実になつかしい思い出がある。戦争中、アメリカのある機関で、日本研究のため徹底的に研究されたのがこの本であり、私は今でも、これが「日本人的政治哲学研究」のもっともよいテキストだと考えている。」(山本書店版p59)

 「私は今でも記念に、昭和十五年の古い本をそのままもっているが、日米開戦の数ヶ月前に本書を多量に購入してアメリカに送った、当時のアメリカの要路の当局者に、ある意味で敬意を払わざるを得ない。」(同上p60)(著者略歴によれば、大正七年に神戸で生まれ、昭和一六年に渡米、移住し、昭和二〇年に再び来日したことになっている。)

 「私は、日本人以上に(?)日本語ができるということで、この翻訳を命ぜられ、できる限り詳細な註と解説をほどこしたテキストを委員会に提出し、委員たちの質問に答えるよう命ぜられた。私は、この日のことを永久に忘れないであろう。驚いた顔、あきれた顔、全く不可解という顔、何をどれから質問してよいのか、みな本当にとまどっていたのである。」(同p71)

 「私は日本に生まれ育ったので、あまり抵抗もなくこの書を訳しただけに、委員たちの質問には、全く、しどろもどろになってしまった。・・・問題の焦点をつき、ある意味で私に助け船を出してくれたのはツィビであった。(恩田)木工をみなが賛嘆するのは、全ての人が支持する「基本的律法」にのっとっているはずだという考え方である。この基本的律法はなんなのか。もちろんモーセ流の神の律法ではない。木工が基本にしているのは「人間相互の信頼関係の回復」ということなのだ。そのためにはまず自分の姿勢を正し(略)相手に対する絶対的信頼を披瀝する(低姿勢で)。この底には、「人間とは、こうすれば、相手も必ずこうするものだ」という確固たる信仰が相互にある。これがなければ一切は成立しない。ということは、「人間教乃至は経済教」ともいうべき一つの宗規が、意識されるにしろ、されないにせよ、「理外の理」として確立していることにほかならない。・・・ここには、日本人が絶えず口にする「人間」「人間的」「人間味あふるる」といった意味の人間という言葉を基準にした一つの律法があるはずで、日本人とはこの宗教を奉ずる一宗団なのだ。(略)義時はすでにその律法を知り、それにより明確に二権を分立した。」(同p73)

 つまり、「日本教」の発見は、こうした戦時中のアメリカにおける対日諜報機関による日本研究の中から生まれたものだといっているのです。

 この点、山本七平がこの「日本教」の発見にどうかかわっていたのかということが問題になりますが、おそらく、氏自身も、その三代目クリスチャンとしての生い立ちや軍隊生活での経験を通して、「『日本人』には、特定の宗教はないって言われているけども、非常に厳格な”受容と排除”の基準がある」という発想をもっていたことは間違いないと思います。(『父と息子の往復書簡』p217)実際、氏はその探求のために、戦後「紙くず同然」となった尊皇思想家の文献を読み漁ったといっています。

 もちろん、戦前のアメリカの対日諜報を目的とした日本研究の視点と、こうした三代目クリスチャン(それも縁戚に大逆事件で処刑された大石誠之助がいる)のその執念ともいうべき日本探求の視点とは異なっており、従って、そこから得られた処方箋に違いがあることは当然で、その点『日本人とユダヤ人』はあくまで前者の視点で書かれたものであること、そのことを山本七平は「私は著作権を持っていない」といういい方で言い表していたのだと思います。

 「私は、『日本人とユダヤ人』において、エディターであることも、ある意味においてコンポーザーであることも否定したことはない。ただ、私は著作権を持っていないという事実は最初からはっきりいっている。事実だからそういっているだけであって、そのほかのことを何も否定したことはない。」(『特別企画 山本七平の知恵』実業の日本「ベンダサン氏と山本七平氏」)氏は、その後も、幾度となくこの点を問いただされていますが、終生こうした基本的立場を崩すことはありませんでした。

 ただ、一般的に見て、「『百姓嚢(ぶくろ)』や『日暮硯(ひぐらしすずり)』といった、特殊な”文献”を自在に引用する「ユダヤ系日本人」が、それまで全く無名であったなどということは、常識的に考えにくい。」(『戦後日本の論点』高澤秀次p44)わけで、その結果、イザヤ・ベンダサン=山本七平とする意見が大勢を占めることになっているのですが、私は、山本七平は決して偽りをいっているのではないと思います。

 むしろ、ここで注目すべきは、戦時中のアメリカの諜報機関による日本研究が当時どれだけの水準に達していたかということではないでしょうか。
このことは、一九四六年に出版されたルース・ベネディクトの『菊と刀』を見ても判りますが、この時期、アメリカには、パールハーバーの衝撃を契機にOSS(戦略局)という強大な諜報機関ができており、「専門のスパイだけでなく、心理学、地理学、語学、化学、歴史学、人類学等々の学者や、各大企業や経済団体の専門家、作家、ジャーナリスト、技術者、牧師、しまいにはペテン師ヤスリ師にいたるまで参加していた」ということです。(『イザヤ・ベンダサン その顔に謀略の影が』三田英彬)

 また、三田英彬氏(推理小説家)はこのエッセイで、イザヤ・ベンダサンの正体に関わって次のような興味深い推理を行っています。
「この暗い谷間の時代(昭和一〇年代)、各大学、旧制高校等のマルキストないしそのシンパサイザー(マルクスの『ユダヤ人問題』がその入門書だった)は、日共そのものが弾圧につぐ弾圧で壊滅状態にあったときだが、それぞれケルンを組織し、非合法下に研究会を続けている。当時、略称SS(社会科学研究会)とは、こうしたケルンの連合体であったが、なんと恩田木工の『日暮硯』をテキストに用いていた事実があった。(中略)
昭和一〇年夏、第七回世界大会で、コミンテルンが、反ファッショ・人民テーゼ」を呼びかけたとき、労農派どころか、民主主義者、自由主義者まで、これの温床素地をなすと、大量に検挙されている。こうして、逼塞を強いられる状態の強まっていくばかりの日本から、脱出をはかったマルクス主義者の学生も少なくなかった。
この国外脱出には、イワクロ機関なる組織が一役買い、昭和一六年、この機関の手で脱出した左翼学生が何人もいた。彼らのなかには、今日では、別に国籍も取得、学者として、あるいは評論家として活躍しているものもいる。海外生活の過程で、思想的に転向した例だってむろんある。
こうした事実を並べた上で、推理するとき、ベンダサン氏は『ユダヤ人問題』で、マルキシズムに強い関心を抱き、参加したSSで、あるいはSSの周辺にいて、恩田木工の『日暮硯』を知った。なぜなら、氏はすでに、戦時中、アメリカにあって、命ぜられて翻訳し、注と解説を付し、質問にも答えていると語っている。(中略)
以上によって、逆にベ氏を、マルクスによって『ユダヤ人問題』に目を開かされた日本人と見ることも可能である。たとえば、「日本人の口の軽さ」云々以下については、戦時下の、一億総ヒステリー状況を考えれば、碧眼紅毛、いや、ただ肌の色が変わっていただけにしろ、日本人の庶民、大衆が、ガイ人に、そんな調子でものを言うことなどは、ほとんど考えられないだろう。・・・ベイカー氏ともども、日系か日本人かと疑いたくなる。」

 これは、その後、『日本人とユダヤ人』を書いたもう一人のイザヤ・ベンダサンの分身が遂に姿を現さなかった、その背景の事情を窺わせるに足る推理といえると思います。このことについて山本七平は、『日本人とユダヤ人』は山本七平と二人のユダヤ人(ジョン・ジョセフ・ローラーと彼の友人ミンシャ・ホーレンスキー)の会話からなったものだといい、その後のベンダサン名の著作(『日本教について』ほか)はホーレンスキーとの合作だといっていますので、私はそのまま受け取るべきだと思います。

 いずれにしても、わたしたちは、このイザヤ・ベンダサン名の著作を通して、アメリカ人あるいはユダヤ人など欧米人の日本理解の水準がどれだけのものであるか想像してみる必要があると思います。こうした感慨は、敗戦直後ルース・ベネディクトの『菊と刀』を読んだときにも感じたことですが、あらためて、その必要を痛感します。

 山本七平もこのことについて、『日本教養全集18 菊と刀 日本人とユダヤ人 さくらと沈黙』の解説の中で次のようにいっています。
「まず、何よりも驚かされるのは、この三人の著作における驚くべき量の『資料』とその活用を物語っているその『引用』である。三人の『引用』の仕方にはそれぞれ特色があるが、いずれにしても、これだけの引用を自由自在になしえ、しかもそれぞれがその文脈に実に的確にはめ込まれているの見るとき、われわれは‐否少なくとも私自身は‐彼らの努力と持続力と一種のねばり強さ、というよりわれわれから見れば異常とすら思われる一種の執拗さに、少々驚かされる。(中略)
それだけしてなお三人とも、・・・現状を断定しかつ未来まで断定するような態度はとっていない。しかし一方、その対象に対して、将来可能なことと不可能なこと、ありうることとありえないことは、この三人が三人とも、はっきりと自信を持って判別し言明しているのである。理解とは、おそらくこういうことを言うのであろう。そしておそらくこれが、われわれが学ぶべき基本的態度であろう。」