山本七平の不思議3

2007年3月26日 (月)

 山本七平は自らの職業を出版業と見定めていてかたくなにそれを守ろうとしていました。「いままで、何か書いてくれっていわれても、絶対に引き受けなかったんです。・・・私の仕事じゃないからって。そういうことをやる気は全くありませんでした。」という氏の言葉は決しててらいではありませんでした。事実、『日本人とユダヤ人』をはじめ、山本七平名で書かれた本による利益は、山本書店が出版した聖書学関係の書物や論文集の出版費用にあてられていました。(「山本書店主・山本七平氏のこと」中沢洽樹 山本七平追悼文集所収)

 実は、私は大学生時代「自由主義研究会」というサークルに属していて、年に一度講演会を催していたのですが、1973年8月の講演会に山本七平氏に講師依頼をしたことがあります。そのときの返事に「私は自分の本職を出版業と考えておりますので、他のことは少しでも減らしたく・・・」とあり、「今、ギリシャ語と日本語の対訳版聖書の刊行(日本ではじめて)にかかっており・・・これが終わりましたら、少しは余裕もできるかと存じます。どうかこの間はご容赦下さい。」という内容のハガキをいただきました。

 そして、その文面には「もちろん私は、そういう場で話をさせていただくこと自体は、絶対に軽く考えておりますわけでなく」とあり、当時私は、この言葉を社交辞令的に受け取っていたのですが、先生が亡くなって後出版された『静かなる細き声』の次の文章を読んで、それは決して社交辞令の言葉ではなかったのだと知りました。

 「いま、協会から批判されている集団、たとえば神道連盟、自衛隊、天理教、統一協会等々といった団体、こういう団体から聖書の話を聞きたいと言われれば、私は喜んで出かけていく。天理市に泊まり込んで、天理教の本部の講堂で聖書とキリスト教について語ったこともあれば、神主さんの大会でも、聖書の話をした。また自衛隊でも統一教会でも、呼ばれれば、私は出かけていった。

 「誤解されるからやめた方が・・・」といわれることもある。だが私には、なぜそう言われるかが理解できない。いまの教会には、この人たちに招かれたらこう語りたいという、外部への『内心の伝道の言葉』をもう持っておらず、あるのは『内心の批判』だけなのであろうか。」

 おそらく、この言葉に山本七平を理解するためのカギが隠されているように思います。

  「戦争が終わった。言論の自由が来た。堰を切ったように軍部への批判がはじまった。しかし軍部への伝道ははじまらなかった。おそらく蓄積された『内心の伝道』がなかったのであろう。だがそれは他人事ではなく、私自身もその一人であった。批判の時代、一億総批評家の時代がきた。・・・だがそう言った批判は伝道ではない。

 批判とは外部から行うことであり、伝道とはその中に入って、その中の人のわかる言葉で語ることである。・・・相手を批判したところで、達成できることではない。・・・もちろん批判はできる。しかしそれは『内心の伝道』をもっていることでなく、時には逆に、相手と自分の間を遮断してしまうにすぎない。そして、そういう相手にタッチしないことが、なにやら自分の中に、清浄な信仰を保っていることの証拠であるかのように錯覚する。・・・そしてこの『内心の伝道』を失ったとき、それは個人としても宗教団体としても、その生命を失ったときであろうと私は思う。」

 山本七平はその評論においてキリスト教徒臭さをほとんど感じさせなかった、といわれています。それは、おそらく相手にわかる言葉で語ろうとした、そしてそれを語りうるようになるためにこそ、復員以降『日本人とユダヤ人』出版までの23年間の沈黙があったのではないかと思われます。この間、氏は、自分を苦しめた軍部、その中にいる人にわかる言葉で語るために、終戦直後は紙くず同然となった徳川時代の著作や文書、尊皇思想家の全集などを読み続けました。(『静かなる細き声』p118)

 「世の中のことはどうでもよい。世間にどんな思想が流行していようと、それは関係がない。私が関心を持っていることに、世の中もともに関心を持って欲しいとも思わない。まして、私がやっていることを認めてくれとか、評価してくれとかいった気持ちは全くなかった。」(同上p118)その彼が、『日本人とユダヤ人』以降、49才から69才でなくなるまでの20年間に、死後に出版されたものを含め単行本で60巻、共著で101巻、対談60巻、ベンダサン名の単行本5巻を出したのです。

 つい最近(2004・3)も、未刊だった「敗因21箇条」(1975.4~1976.4『野生時代』に連載)が『日本はなぜ敗れるのか』という書名で刊行され、また、2005年3月には、「ベンダサンの日本歴史」(1973・11から22回にわたって『諸君』に連載)が『山本七平の日本歴史』と題して刊行されました。

 後者の解説をされた谷沢栄一氏はこの30年ぶりに刊行された本について次のように語っています。
「普通、すでに物故した著作者の遺稿が刊行されても、そのほとんどは余熱であり但し書きであり言い残しであるから、生前からの愛読者にとっては懐かしくはあるものの、ほとんどは聞き覚えのあるメロディーの再生であった。本好きの玄人ならめったに手を出さない。けれども本書はまったく違う。」

 「いつも温顔で小声のさわやかな七平は、しかし、肝のなかでは、明治以来の膨大な日本人論の全てをくつがえし、これこそまことの日本人なりと、万人を納得させるに足る紙碑を、ひそかに、しかしかっきりと、打ち立て遺すべしと決意していた筈である。彼の全著作をじっくり通覧してみれば、その意志その願望その決意がありありと見てとれる。世に筆を執る者のほとんどは、胸のなかに触れれば火傷する程の、灼熱した磊塊を蔵しているものですよ」(『山本七平の日本歴史』解説)

 谷沢氏らしい評だと思いますが、山本七平自身の感想はおそらく「すべては、用いられる時が来れば用いられるのであろう。人は黙ってその準備をしていればよいのであろう」(同上p119)ということではなかったかと思われます。それにしても不思議なことです。