山本七平学を極める / 【山本七平学のすすめ】
向井少尉、野田少尉の進撃経路の検証
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十一月十三日。白茄口付近に上陸した第十六師団(長中島今朝吾15期中将)は退却する中国軍を追って西進、十一
月二十五日払暁、東亭鎮(無錫東方約六j)の拠点を占領、引き続き追撃隊(「草場支隊」)を以て無錫-常州道を丹
陽へ向かい急進した。十二月三日夕追撃隊主力は白兎鎮に進出し、師団主力は丹陽付近に集結した。同夕、師団は上
海派遣軍から句容攻撃の命令を受け、翌四日草場支隊は歩九の復帰を得て午後六時一斉に行動を開始した。途中同支
隊の一部は湯水鎮進撃の命を受けたため、歩二〇主力と歩九主力の二縦隊となって、湯山拠点南北の敵外周陣地に向
かい進撃した。(『南京戦史』偕行社) |
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*『南京「百人斬り競争」の眞実』東中野修道より
次の表1と2をご覧いただきたい。第十六師団(表1)並びに第九連隊(表2)の編成表である。野田少尉、向井少尉は太字にした部隊に所属していた。野田少尉は京都第九連隊の第三大隊(大隊長富山武雄少佐)の副官であった。従って常に富山少佐とともに大隊本部にあった。向井少尉は第三大隊の歩兵砲小隊(第三歩兵砲小隊)の小隊長であった。
師団の編成図からも明らかなように、歩兵一個師団は歩兵二個旅団から成り、歩兵一個旅団は歩兵二個連隊から成り立っていた。従って歩兵一個師団は歩兵四個連隊から成り立
っていた。
京都の第十六師団は福知山、京都、奈良、久居(三重県)の各連隊から構成され、これに騎兵、野砲兵、工兵、幅重兵(輸送兵)の各連隊と、師団通信隊、衛生隊、野戦病院が加わる。こうして京都第十六師団の兵力はおよそ二万五千となった。
昭和十二年に出た『歩兵陣中便覧』によれば、中隊が「戦闘単位」(四四頁)であった。つまり約二一○名から二三〇名から成る中隊が一塊となって行動したのである。その中隊の戦闘を強力に援護するのが、各大隊の機関銃中隊と歩兵砲小隊であった。この四個中隊と機関銃中隊と歩兵砲小隊が、一つの戦闘を勝ち取るための「戦術単位」(一九二頁)として約一三〇〇名の一個大隊となった。
なお先の図表には書かなかったが、各大隊の頭脳として「大隊本部」があり、大隊長(第三大隊の場合は富山武雄少佐)が大隊副官(同じく野田少尉)を通じて中隊と大隊砲小隊(すなわち歩兵砲小隊)に命令を下達していた。
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*表2で、第三大隊副官が野田毅少尉、第三大隊-歩兵砲小隊(第三)長が向井利明少尉、第三大隊-第九中隊-第一小隊長が大野俊治少尉で、本稿における戦闘日誌を残した。野田少尉及び向井少尉はいわば「後方」であるが、大野少尉は歩兵小隊長であり最前線での戦闘を行う職務であった。 |
無錫における向井少尉及び野田少尉と記者(浅海一男)との「談合」はあったか? |
*歩兵第九連隊第三大隊第九中隊第一小隊 小隊長大野俊治少尉の陣中日記『大野日記』より(原文は漢字カタカナ混じり文であるが、カタカナを平仮名に直して引用している。著者傍点省略)
《26日 金 ~27日 土 大隊は右追撃隊となり、午前六時出発、一路無錫方向に追ひ、追撃にうつる。自分は斥候となり、左方向の進出路を偵察するも、鉄道前より前進出来ず、部隊に追及す。約一里程にて猛烈なる交戦中の部隊に着し、ヒタ押しに逃ぐる敵を追ひ、無錫に入城す。セイ惨なりき。敵約二百を倒す。逃ぐる敵と平行し、更に追突し、鉄道を前進す。無錫より約三里の地点にて露営す。最前線なり。
・・・一睡をする間もなく午前五時出発。約二里にて敵と交戦、□□右第一線小隊となり、猛烈なる攻撃を開始するも、敵弾の集中を受け、前進困難なるも更に攻撃、左小隊は前進おくれ、連絡出来ず。夕方、小隊の左第一線の部落を焼かれ、大変に危険を感じたり。・・・敗惨(残)兵の数多く、盛に殺せり。奥村負傷し、三小隊の八木上ト(等)兵戦死す。(横林鎮)》
《28日 日 午前6時出発、常州へ向って前進。常州の塔が目の前に見える。街も家も。然れども敵は後退の様子なし。大隊は約一里前の無名部落に露営せんとするとき前方クリークより砲、弾薬、車を積んだ船が下って来るのを発見。11中隊が捕獲す。其の為か、夜間食事中、敵に襲れ殆ど夜を明す。永谷一等兵、足に負傷す。敵は死体一及び弾薬を残し退却す》
《29日 月 砲を船よりクリークに沈め、それにて渡河前進、常州に入城す。おそらく一番乗ならん。永谷を三里後方の衛生隊へ運ぶ為、後方へ行く時、大毎、東日等の記者が盛に自分をとらへて、状況をききに来るも、多忙の為、常州へ行ってもらつた。後では写真班も来て、写して行った想である。自分等は十一師団の衛生隊に永谷を頼み、常州へ帰へつたのは十一時(午後二時半より)なりき。宿営す。(宿営地は常州城外にある新豊街)》
《「30日 火 正後(午)頃、急に出発命令ありて、丹陽に向つて前進す。奔牛の一里ばかり手前にて、敵と会い、攻撃。・・・奔牛のクリークの北約一粁の地点にて露営す。迫撃砲二発を受くるも損害なし。28日の苦い経験により、警戒を厳重にする》 |
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*大野少尉の11月26日から30日までの「戦闘日誌」によると、無錫では戦闘が激しく一息ついたのは常州に入ってからで、そこで「大毎、東日等の記者が盛に自分をとらへて、状況をききに来る」とある。そこで、向井、野田少尉と記者の第一回の会見(談合)が行われたのは無錫ではなく常州ではないかと東中野氏は推測している。いずれにしても、重要なことは、常州で浅海一男記者の依頼で佐藤振寿カメラマンが、常州城東門の内側で二少尉の写真を撮る以前に、二少尉と浅海記者の間で「百人斬り競争」の「談合」が行われたことは間違いないと思われる。
ここで「談合」が行われた証拠の一つが大阪毎日12月1日の記事の末尾にある。それは「記者らが”この記事が新聞に出るとお嫁さんの口が一度にどっと来ますよ”と水を向けると何と八十幾人斬りの両勇士、ヒゲずらをほんのり赤めて照れること照れること」という文があること。これは両少尉が無錫での「談合」の際に記者が語った言葉として度々言及し、また野田少尉の最後の遺書「新聞記事の真相」にも出てくるものである。南京裁判の判決では「所謂殺人競争の如き兇暴惨忍なる獣行を以て、女性の歓心を博し以て、花嫁募集の広告となすと云うが如きは、現代の人類史上未だ曽て聞きたることなし」
と厳しく断罪している。しかし、山本七平はこの事について次のような指摘をしている。《「天晴れ勇士」で手柄意識をくすぐられ、その上さらに「花嫁候補はいくらでも集る」で女性をつきつけられる――見方によっては、全く残酷な誘惑だ。これだけで彼は無抵抗であろうが、さらに大きな誘惑の追いうちがかかる。彼が口にした「花嫁を世話してくれないか」という冗談には、普通の人が考えるよりももっと広い意味があるのである。(p283)(中略)
珍しくも民間人に会った。そのことが彼に、復員後の生活を連想させ、軍隊語でいえば「里心」を起させたのであろう。里心――これは、ある情況下で、戦場の人間を襲う発作的なホームシックである。戦場における全く原因不明の逃亡は、ほとんどがこの発作的ホームシックが原因だったと私は思う。
これがどんなに強烈で抵抗しがたいものか、それを思うと、私か彼の立場にいたら、やはり同じ運命をたどったのではないかと、一種、肌寒くなる思いである。(p287)》 | >
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*この写真は、東日の佐藤振寿カメラマンが常州城東門の内側から二少尉をで撮影した写真で、大阪毎日の第三報及び東日の第4報に掲載された。南京裁判では、この写真のキャプションに「”百人斬り競争”の両将校」とあることから、判決に大きな影響を及ぼしたとされる。この写真は常州が陥落した11月29日の夕方撮影されたものとして扱われているが、影の向きから11月30日の午前中とする見解もある。(『南京「百人斬り競争」虚構の証明』野田毅、溝口郁夫著)
両少尉は、この常州での記者との会見を認めておらず、従って、この第一報の会話も認めていないが、佐藤振寿氏の証言により会見が行われたことは事実である。会話については、これも記者の創作であるとする説があるが、佐藤振寿カメラマンの証言では、二少尉が「百人斬り競争」について語り、審判は互いの当番兵をもって充てる等の発言をしたとあることから、常州で両少尉の会話は否定できない。山本七平の分析によると、この会話は、それ以前に行われた記者との「談合」にそって行われた”やらせ”発言であるとしている。
また、この講談武勇伝の主人公は向井少尉(本職の軍人ではなく幹部候補生上がりの民間出身の臨時的将校だった)で、野田少尉(陸士出身の本職軍人)は、それを”茶化しつつ”付き合ったとしている。私もこの説に賛成である。なぜ、両少尉が第一報及び第4報の会話部分を否定したかについては、裁判では自分に不利な証言をする必要はなかったからと考えられる。一方、記者の方は両少尉に”やらせ”発言をさせそれを取材したと見せかけることで、虚報の責任を巧妙に回避したと考えられる。 |
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*常州城の平面図であるが、二少尉を撮影した場所は常州城東門の内側で撮影日は11月29夕方とされる。しかし、影の向きから判断して太陽の位置は本図の右下にあったと考えられるので、これは南京城が陥落した29日の夕方ではなく翌30日の朝ではないかと『南京「百人斬り競争」虚構の証明』は推測しているのである。
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第三大隊(Aグループ)から、向井少尉の第三歩兵砲小隊、大野少尉の第一小隊、工兵第16連隊の工兵一個小隊(Bグループ)が離ればなれになる。(『南京百人斬り競争の眞実』東中野修道著より)
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十二月一日 張村
十二月二日 丹陽の停車場を占領
新豊駅裏の高地で一晩中交戦
《2日 木 午前7時出発、中隊は陵口より右側衛となり、小隊は尖兵、一挙に丹陽の停車場を占領、午後1時45分なり。更に追撃、新豊の駅裏の高地にて敵と遇い、一晩中交戦す。小隊は左の高地を取り、有利に陣地を占領せり》(傍点筆者)
*(向井少尉の負傷はそこで「一晩中交戦」したときのものであろう)
十二月三日 伊家村東北約一粁の村落
《「3日 金 午前7時、大隊は出撃す。敵影なし。伊家村東北約一粁の村落を小隊は占領し、最前線にあり。一夜を明す》
十二月四日 白兎鎮
《4日 土 急に命令変り、旅団は句容の攻撃となり、左後方に大隊は大移動す。連隊も草場追撃隊に入る。大隊は今日迄の労に依り?追撃隊の予備隊となれり。白兎鎮に於て大休止、夕食をなす。時に南京追撃の師団命令あり。出発す、夜中なり》
十二月五日 白許崗
殷巷
買相里(注/正しくは買岡里)
《5日 日 午前3時白許尚に大休止、午前8時出発。殷巷に至る。自分は二十連隊の右第一線と連絡に出るも、二十連隊の前進急にて、遂(に)帰へる。大隊は買相里(注/正しくは買岡里)に進出しあり泊す)》
十二月二日、Bグループは午後一時四十五分「丹陽の停車場」を一気に占領していた。そのころAグループ(第三大隊本部)は「丹陽」東端の「鉄道線路以北」を進撃中であった。そのことが、十二月二日午後二時三十分に発令された福知山第二十連隊第四中隊の『第四中隊陣中日誌』の「中隊(坂中隊)命令」のなかに記されている
《一、敵ハ丹陽東端部落ノ既設陣地二拠リ、尚其ノー部ハ部落東方堆土ノ線ニアリ。(細部ハ別紙要図第一ノ如シ)歩兵第九連隊第三大隊ハ鉄道線路以北ヲ遠ク敵ノ左側背ニ向ヒ攻撃中ニシテ、我が大隊(福知山第二十連隊の第一大隊)ハ連隊大隊砲ノ火カヲ発揚シタル後、当面ノ敵ヲ突破シテ丹陽西北側ニ向ヒ進出ス》
このとき福知山第二十連隊の第四中隊は、「丹陽」東端の平坦地で午前十一時から中国軍と対峙していた。そして『第四中隊陣中日誌』は、歩兵第九連隊第三大隊のことに触れ、右の傍点のように(歩兵第九連隊第三大隊ハ鉄道線路以北ヲ遠ク敵ノ左側背ニ向ヒ攻撃中)と記していた。第三大隊のAグループ(第三大隊本部)は「丹陽」東端の鉄道線路附近にいたのである。
そして、さらに坂清中隊長の『第四中隊陣中日誌』は次のように記している。
《六、此ノ頃ヨリ(第四中隊の)第一小隊ハ果敢ナル正面攻撃ト、第三小隊ノ側背攻撃ニヨリ、前方堆土ノ線ニアリシー部ノ敵ハ、逐次、部落東端ノ陣地ニ後退ヲ開始ス。同時、敵ノ迫撃砲弾ノ落下、殊ニ甚ダシク、中ニハ「クリーク」或ハ湿地二落達シ、破裂セルモノアリ。右方、第九連隊第三大隊方面ヲ望メバ、当面ノ敵ヲ避ケテ遠ク西北方ニ迂回シ、我部隊ノ攻撃ニハ些ノ影響ヲ与エズ》
「丹陽」の手前(上海側)に、中国軍の既設陣地があったのだ。そこから砲撃は《愈々熾烈》となり、《弾丸雨霞ト飛ビ来ル)なか、《右方、第九連隊第三大隊方面ヲ望メバ、当面ノ敵ヲ避ケテ遠ク西北方二迂回シ)》ていると記されている。
ちなみに、第四中隊(坂中隊)は友軍の機関銃と擲弾筒の援護射撃を受けて、ようやく午後五時四十分に中国軍を撃退している。中国軍が「遺棄死体約三十名」を残して後退したのち、さらに坂中隊は進撃して十二月二日午後十時に「丹陽城東門」を占領した。
この「中隊命令」の「六」が二日午後二時三十分に発令されていたことから、そのころ、第三大隊のAグループ(第三大隊本部)は鉄道線路以北から(遠ク西北方二迂回》していたことになる。一方、Bグループはその約四十五分前に(すでに見てきたように)「丹陽城」東方(城外)にある「丹陽駅」を占領していた。そしてさらに北上して、「丹陽」の北およそ七キロの「新豊駅」に向かっていた。明らかに第三大隊のA、B両グループは離れ離れだったのである。
第三大隊のA、B両グループが離れ離れであったことを裏付けるもう一つの史料は、中島師団長の『陣中日記』(二〇五頁)である。本書三四頁の編成表を見ていただきたい。京都第十六師団(師団長は中島今朝吾中将)座下の第十九旅団(旅団長は草場辰巳少将)は、京都第九連隊と福知山第二十連隊の二個連隊から編成されていた。
その、いわゆる草場旅団は十二月五日に「丹陽」と「南京」の中間に位置する「句容」を攻撃するはずであった。ところが、「句容」を攻撃しないで、《句容ノ敵ノ側背ニ迂回》していた。中島師団長は、十二月五日「丹陽」を出発し、その日のうちに「句容」に入城する予定であったが、そのため「句容」には入城できなかった。これにたいする不満に近い言葉が中島師団長の『陣中日記』(二〇五頁)に出てくるのだが、そのときA、B両グループが一つになって行動していないことにも言及している。
《十二月五日 晴天 丹陽→祝家辺(中略)
(1)草場部隊ハ正面二歩兵一中隊ト砲兵ヲ残置シテ他ヲ以テ右マハリ句容-湯水道方面、句容ノ敵ノ側背二迂回セリ。之が為句容二入ル能ハズシテ祝家辺ニ止ル》
《7日 火 午前5時、中隊来る。小隊は尖兵となり、西庄に前進す。暗夜にて道路不明なるも遂に西庄を占領す。本部の来るを待ち、更に丁水村に進み、前面の高地に向ふ時、中腹にて敵の射撃を受け、夜に至る迄交戦す。午後8時命令により、西庄迄後退一服す》
傍点の記述から、大野小隊や歩兵砲小隊などからなる第三大隊の一隊(Bグループ)が大隊《本部の来る》のを待ちに待っていたことが窺える。この日、Bクループは中国軍の猛撃を受けて《夜に至る迄交戦す。午後8時命令により、西庄迄後退》するほどの苦戦を強いられている。待ちに待った「大隊本部が来る」のは、それから二日後の十二月九日であった。
《9日 木 黄泥鎮出発に際し、小隊の宿舎の入口に火事を□され、消火の時傷を受け杉原軍医に三針ぬつてもらひ、部隊を追及せしも追及出来ず。草場旅団と行動を共にし、山を二つ越え、洽波鎮(注/正しくは蒼波門ないしは蒼波鎮)に出る。旅団は右後方の向尚村(注/正しくは向上村)に至る。大隊本部来る。九中隊は敵と会ひ、二小隊に負傷者一人ありと聞く。更に右後方の無名部落にて本部と共に宿す。(□隊は隣部落にあり)》
傍点を付したように、BグループはAグループの「第三大隊本部」を追っていたが、なかなか追いつけなかった。そこへ、「第三大隊本部」が現れた。その安堵感が《大隊本部来る》という簡潔な一語となっている。十二月一日いらい離れ離れになっていたBグループ(大野少尉の第一小隊や第三歩兵砲小隊)は、九日になって、ようやくAグループ(京都第九連隊の「第三大隊本部」とその他の中隊)と合流できた。《無名部落にて本部と共に宿す》という短い言葉から、これでやっと「本部」と一緒になれたという、はぐれていた部隊の安堵感が漂ってくる。なお、A、B両グループの進んだ道筋は、八六頁の右下の図のようになる。
以上のことをまとめてみると、第三大隊のBクループが十二月二日「午後一時四十五分後の「午後二時三十分」にAグループは「丹陽」の手前の鉄道線路にいた。その後、Bグループは「丹陽駅」から「北上」して「新豊駅」に達し、そこで「一晩中交戦」していた。一方、Aグループは「午後二時三十分過ぎ」に「丹陽」の手前の鉄道線路から遠く「西北方」に迂回して進撃していた。「丹陽」を過ぎてからも、「丹陽」と「南京」の中間地点の「句容」において、Bグループは第三大隊本隊のAグループに合流できないでいた。
前掲の「被告(注/野田)行動経過概要要図」は、両少尉が獄中で資料もないまま十年前の記憶をたどりながら記した、大雑把な地図である。それは、A、B両グループが離れ離れであったことを本章で検証してきたことと一致している。一九四七(昭翌年の「南京裁判」における野田少尉の証言、すなわち《丹陽東方二於テ向井敏明ト別レタ》は、紛うことなく正しかったのである。 |
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*浅海記者は第二報で、「両少尉が丹陽北方の敵陣に飛び込んでは斬りに斬った」「向井少尉が丹陽中正門の一番乗りを決行した」と書いているが、もちろん、両少尉は副官と砲兵であって前線に出て斬り込みをするようなことはない。また、両少尉は丹陽城には入っておらず、野田少尉の属する第三大隊は、丹陽北方の線路上を進撃中、大隊本部を含むAグループと向井少尉の歩兵砲小隊や第一小隊等を含むBグループに分かれたまま湯水に向かった。そのため、両グループとも句容の戦闘には参加せずその北方を通過したことが明らかとなった。向井少尉は12月2日の丹陽での戦闘で負傷し、湯水まで担送されるなどその間の戦闘には参加しておらず、従って、第三報における句容での戦闘記事は記者の創作であることは明白である。 |
紫金山山麓における向井少尉、野田少尉と記者との会見はあったか否か(『南京百人斬り競争の眞実』東中野修道著より)
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両少尉の属する第三大隊の十二月十日と十一日の戦場を見てみよう。『大野日記』は次のように記していた。
《10日 金 午前6時出発、中隊は向尚村(注/正しくは向上村)に至り旅団の予備となる。一日中、向尚村にあり。連隊は左第一線となる。(草場追撃隊は昨夜の命令にて解除となり、陣地攻撃の部署につく)。大隊は連隊の左第一線なり》(括弧内原文、注と傍点ともに筆者)
(11日 土 午前6時出発、文化会館に旅団と共に行き、連隊へ上陸以来初めて復帰す。霊谷寺より記念塔へ至り、山腹に至る。迫撃砲にて盛に射撃を受く。後、中隊は大隊の左一線となり、南方の稜線に至る。一夜中、壕中にて、益々敵の射撃猛烈なり》(傍点筆者)
その戦場をもう少し詳しく見るため、福知山第二十連隊の坂中隊の『第四中隊陣中
日誌』から見てみたい。
(十二月十二日 晴 日 於八四・六高地
一、黎明時、敵ハ更二本戦場ノ要点タル西山高地ノ奪回ヲ企図シ、執拗ニモ我左側背ヨリ約五十名ノ敵ハ猛烈ナル射撃ヲ浴セツヽ逆襲シ来ル。……本戦闘二於テ高倉准尉、及福島伍長、並二大隊砲小隊長梅川曹長ハ、格闘中、敵弾二倒レ、壮烈ナル最後ヲ遂グ。
二、……我大隊ハ茲二於テ完全二西山高地上ノ敵ヲ撃退シ得タルモ、敵ハ遺族学校南北ノ陣地ヨリ終日猛烈二高地上二射撃ヲ集中シ、且又紫金山方向ヨリ猛烈ナル砲撃ヲ受ケ、多数ノ死傷者ヲ生ジタリ。……敵ハ夜二人ルモ頑強二抵抗シ、我中隊二於テモ敵砲弾ノ為、中隊長以下数名ノ負傷者ヲ出スニ至レリ。……》
十二月十二日は夜明けの「黎明」から夜になっても、「終日」中国軍は紫金山方向から頑強に抵抗し、猛烈な射撃が第四中隊に集中していた。 |
第4報では、両少尉は紫金山山麓で浅海記者及び鈴木記者と会い、向井少尉が12月10日に行った106対105の戦果報告及びドロンゲームになったいきさつと、改めて150人斬りを目指すことになったことの外「一人を鉄兜もろともに唐竹割りにした」などの壮語を記者に語ったことが報じられた。
この紫金山山麓での記者会見については、両少尉とも十二月十日、十一日は紫金山に入っていないとしてこれを否定し、記事は全て記者の創作と主張した。日本で行われた「百人斬り競争」裁判でも原告側はこれと同様の主張を行っている。
しかし、山本七平は、紫金山山麓での向井少尉の壮語については、兵士の心理がよく現れているとしてこれは事実とした。しかし、十二月十日の向井の「てんまつ」談については、「100人斬り」という時間を争う競技を、それが戦場では不可能なことに気づき、区間を決めて数を争う競技に切り替えた」ことをもって記者の創作とした。
だが、私は、その後、野田少尉の「新聞記事の真相」が発見され、そこに記者との「談合」の段階で「無錫から南京までの間の戦闘では、向井野田共に100人以上と云うことにしたら。おい、野田どう考えるか。小説だが」という会話があることから、向井の十二月十日の会話も「やらせ」のシナリオ通りではないかと思う。
ただ、問題は、この記事自体が現実にはあり得ないことであって、それを両少尉の戦場心理をくすぐって武勇伝の「やらせ」をさせ、その現場を他の記者に見せてアリバイを作りをし、自分はあくまで「見たまま聞いたまま」を記事にしたと言う逃げ道を作った上で、世論受けする戦場の特ダネ記事を書いたということ。
こうしたマスコミの在り方自体を問題にすべきであると思う。さらに、両少尉がこの新聞記事を証拠として南京裁判で「死刑判決」を受けた時、記者は「新聞記事の真相」を語らず、あくまで「見たまま聞いたまま」を記事にしたという証言をした。この「ことの真相」が、朝日新聞の記事「中国の旅」「競う二人の少尉」を契機に、鈴木明や山本七平によって明らかになったにもかかわらず、
戦後の「百人斬り競争」裁判では、毎日新聞は「正当な取材だった」と言い張り、朝日新聞は、それを「捕虜据えもの斬り」とする新たな創作記事を書いた。この、戦前、戦後変わらぬ日本のマスコミの、卑劣で非人道的な体質こそ問題とすべきではないか。 |