「百人斬り競争」裁判はこの事件の「ヤラセ」の基本構造を見えなくした(3)

2014年3月20日 (木)

これまでの説明で、「百人斬り競争」裁判がこの事件の「ヤラセ」の基本構造が見えなくした、その事情がおわかりいただけたと思います。しかし、このために、冒頭に紹介したような、「百人斬り競争」についての理解が生まれているとしたら問題です。

いうまでもなく、この「百人斬り競争」の新聞記事は、前稿で説明した通り、記者による戦意高揚のための「ヤラセ」記事だったわけで、それが現実にはあり得ない荒唐無稽な武勇記事であったために、それが戦闘行為ではなく非戦闘員殺害と見なされ、両少尉は戦争犯罪人として裁かれ、死刑に処せられたのです。

つまり、両少尉に「ヤラセ」をさせて、彼らを死刑に追い込んだ新聞記者や、その記事を掲載した新聞社の責任は全く問われず、記者の甘言に載せられた二少尉だけが、南京大虐殺の非戦闘員殺害の汚名を着せられ、あまつさえ、その虚報記事作成の責任まで、一身に負わされている、ということです。

裁判では、この記者が所属した東京日日新聞の親会社=毎日新聞は、”取材は適切だった”と主張しました。つまり、記者は「両少尉の話したまま」を記事にした、といっているのです。しかし、こんな荒唐無稽な講談調の記事が「事実」であるはずがなく、それが見抜けなければ「事実」を報道する記者とも新聞社ともいえません。

もともと、その「事実」を追求する姿勢が新聞社にあれば、南京裁判の審理過程においても、何らかの「事実確認」作業をしたはずです。だが、それをした形跡は一切ありません。それに止まらず、現在も、”取材は適切だった”というのですから、開いた口がふさがりません。

それよりももっと不可解なのは、本多記者や朝日新聞です。本多記者が中国で聞いたという「殺人ゲーム」の話は、東日の「百人斬り競争」の新聞記事がそのもとネタです。かつ、その記事は、戦意高揚のための「ヤラセ」記事だったことが明らかになったのです。つまり、「殺人ゲーム」は、戦時中の日本の新聞社の戦意高揚の虚報記事が生んだもので、それが日本軍の残虐宣伝に利用されているのです。

ところが、本多記者及び朝日新聞はこれを反省するどころか逆の行動に出ました。裁判では、東日の新聞記事は、「両少尉が昭和12年当時話したことを記事にしたもの」であり、「主要な事実としての『百人斬り競争』及び『捕虜や非武装者の殺害』については真実であることが明らか」としました。そして、その証拠として、東日、大毎の記事の他、当時の鹿児島新聞の関連の記事、志々目証言及び望月証言などを提出しました。

東日及び大毎の記事の分析は、前稿で行った通りですが、新たに提出された鹿児島新聞等の記事も、志々目証言も東日の「百人斬り競争」記事が生んだもの、特に後者は、郷土で英雄視された野田少尉の小学生相手の「お話」の「追憶」で、むしろ「百人斬り競争」など戦場ではあり得ないことを述べたものです。望月本の記述については後述しますが、これは、昭和52年の本多氏の『ペンの陰謀』(「百人斬り競争」=「捕虜や非武装者の殺害」説を主張したもの)が出版された8年後の、昭和60年に刊行された私家本です。

もっとも、望月証言を裏付ける一次資料があれば別ですが、この「百人斬り競争」=「捕虜や非武装者の殺害」説を裏付ける一次資料は他に全くありません。むしろ本多氏の所説に沿った作話が疑われます。また、本多氏は鵜野晋太郎という人物の捕虜殺害体験談を持ち出していますが、異常な人物はどの社会にもどの時代にもいるもので、こんな人物が日本軍にいたからといって、両少尉が殺人鬼だったことを証明する証拠にはなりません。

では、本多氏及び朝日新聞は、こうした主張をすることで、一体何をしようとしているのでしょうか。実は、本多氏とイザヤ・ベンダサンの間で「殺人ゲーム」を巡る論争が始まった時、ベンダサンは、氏の所説=「日本人は、『語られた事実』と『事実』を区別できない」を立証するため、本多氏に「殺人ゲーム」を使ったある誘導をしました。つまり、本多氏に”「殺人ゲーム」はフィクションである”と言えば、もし本多氏に中国に対する迎合があれば、必ず、「殺人ゲーム」を「事実」とする証拠を出してくるはずだと・・・。

その本多氏の出してくる証拠が、”日本人は「語られた事実」と「事実」を区別できない”を立証するものであれば、ジャーナリストではない他の日本人も同じということになる。結果は、本多氏は、「殺人ゲーム」を事実とする証拠として、東日の「百人斬り競争」記事を出してきたのです。しかし、この記事と「殺人ゲーム」は、場所も時間も情景描写もまるで違う。本来なら、この両者の矛盾から「事実」に迫るべきだが、本多氏には中国に対する迎合があるため、新聞記事は「殺人ゲーム」の証拠になると強弁した。

これに対して、この「殺人ゲーム」と新聞記事の矛盾から、この事件の「事実」に迫ったのが、鈴木明や山本七平氏らであって、その成果が、前稿で紹介したような「百人斬り競争」の、その「ヤラセ」構造の解明に繋がったのです。しかし、本多氏らは、「百人斬り競争」裁判でも、ベンダサンによる指摘を無視して同じことを繰り返しました。つまり、この記事は記者による創作ではなく、記者は両少尉の話をそのまま記事にしただけで、これは日本軍兵士の残虐性を示す証拠であるとしたのです。

これは、ベンダサンが指摘した通り、「語られた事実」と「事実」を峻別できない、ということが日本の大新聞にもできないことを示すものです。また、本多氏や朝日新聞には、「日本人の残虐性を宣伝したい」中国に対する迎合があります。そのため、この中国の主張と一致する「語られた事実」のみを「事実」とし、それと矛盾する「語られた事実」は排除する。さらに、自らの主張と一致する「語られた事実」を量的に積み上げることで、その証明を完璧にすることができると考える(鹿児島新聞記事などはその類のもの)。

その結果、戦前の日本のマスコミが生み出した戦意高揚のための虚報記事が、戦後のマスコミによって、日本軍の残虐性を証明する証拠とされるという、誠に倒錯した自虐的現象が生まれたのです。ここで問題は、その自虐の対象とされた日本人が、告発する側と告発される側に二分されることで、これは占領政策の反映ですが、朝日は前者の先頭に立ったのです。さらに恐るべきは、こうした論法に裁判所も嵌っていることです。こうなると人ごとでは済まされません。(以上下線部挿入3/24)

以下、前前稿で言及した「雲の下論」について説明しておきます。

これは、「雲表上に現れた峰にすぎない」ものの信憑性が、仮に自白の任意性または信憑性の欠如から否定されても、「雲の下が立証されている限り・・・立証方法としては十分である」とする考え方です。これを「百人斬り競争」に当てはめると、百人斬りの「実行行為という事実」(つまり「雲の下」)が否定されない限り、「殺人ゲーム」と「百人斬り競争」の新聞記事の間の矛盾を指摘して、「殺人ゲーム」がなかったということはできない、となります。

「百人斬り競争」裁判では、百人斬りの「実行行為という事実」が「全くの虚偽」であることの証明が求められたわけですが、これが「事実」の解明と無縁であることはいうまでもありません。つまり、その「実行行為という事実」は実は誰も知らない。分かっているのは「百人斬り」という犯罪の「語られた事実」だけ。その「語られた」だけの「犯罪行為という事実」を「事実」としてしまっては、複数の「語られた事実」の相互の矛盾から「事実に迫る」ことができなくなる。」(『日本教について』イザヤ・ベンダサンより)

本多記者や朝日新聞は、この「犯罪行為という事実」の証明が、「百人斬り競争」の新聞記事及び同類の新聞記事、志々目証言、中帰連の中心メンバーであった鵜野晋太郎の捕虜殺害体験談、望月五三郎の私家本『私の支那事変』などで可能としました。しかし、この中で一次資料として評価できるものは一つもありません。裁判では、朝日新聞側の弁護人は、特に、望月の『私の支那事変』の下記の一節を”鬼の首を取ったように”読み上げたといいます。

では次に、その望月本の記述の信憑性をチェックして見たいと思います。

実は、そのチェック方法は、先ほどの「雲の下論」を展開したベンダサンが、松川事件裁判における弘津和郎の弁論から抽出したもので、次の四原則からなっています。①情景の描写または記述が明瞭に脳裏に再現できること。②それが出来ないのに部分的な記述が異常に細かいものはさらに信憑性がない。③これらによって極めて信憑性が疑わしいのに供述が整然としているのはさらに信憑性が薄い。④現地で実際に供述通りに行動する。出来なければ信憑性ゼロ。

(望月証言)
「おい望月あこにいる支那人をつれてこい」命令のままに支那人をひっぱって来た。助けてくれと哀願するが、やがてあきらめて前に座る。少尉の振り上げた軍刀を背にして振り返り、憎しみ丸出しの笑いをこめて、軍刀をにらみつける。一刀のもとに首がとんで胴体が、がっくりと前に倒れる。首からふき出した血の勢で小石がころころ動いている。目を背けたい気持ちも、少尉の手前じっとこらえる。その行為は、支那人を見つければ、向井少尉と奪い合う程、エスカレートしてきた。」

さて、この情景を明確に自分の脳裏に再現できますか。むちゃくちゃな残虐命令を自分の部下でもない兵士に命令する少尉、聞く必要もない命令に唯々諾々と従う兵士、その兵士に易々と引っ張られてくる支那人。周りには誰もいなかったのか、支那人も日本兵も? また、こんな非道な仕打ちにすぐあきらめ、憎しみの笑いをこめて軍刀をにらみつける腹の据わった?支那人。一刀のもとに首が飛んで胴体ががっくりと前に倒れる、首から噴き出した血の勢いで石ころがころころ動く、と、やけに生々しく細かな描写。これを見てじっとこらえる小心な兵士。さらに、こんな非道が一回だけでなく、向井少尉との間で、無錫から南京まで支那人を奪い合うように繰り返された・・・。

この望月本の記述を、先の四原則に沿って、その中の一人の人物を自分で演じて見る。それが自分にも自然に演じられるなら、信憑性があることになるが、これを自然に脳裏に再現でき、その中の一人を自分が自然に演じることのできる人は、私はいないと思います。それができないのに、描写が異常に細かく生々しい、かつ残酷で、いかにも「捕虜(据えもの)百人斬り競争」説に合うような記述になっている。信憑性はこうした日本後の特性を考慮した判定法によればほとんどゼロです。

この望月証言について、東京地裁の判決書は「その真偽は定かでないというほかないが、これを直ちに虚偽であるとする客観的資料は存しない」としています。しかし、他の一次資料との関連で言えば、一次資料である向井少尉の直属部下である田中金平の証言では、「向井少尉が刀を抜いたのを見たことがない」のですから、ここでも、この望月証言の信憑性はゼロということになります。

以上