「百人斬り競争」裁判はこの事件の「ヤラセ」の基本構造を見えなくした(2)

2014年3月20日 (木)

次に、「百人斬り競争」裁判以前、イザヤ・ベンダサン、鈴木明・山本七平らによって解明された、東京日々新聞「百人斬り競争」の基本構造について紹介します。(それ以後に明らかとなった見解も含む)

(無錫における三者談合)
無錫郊外で「百人斬り競争」の三者談合が行われた。これは食後の談笑で、向井少尉が浅海記者に「花嫁の世話をして欲しい」といったところ浅海記者は「あなたをあっぱれ勇士にして花嫁志願させますかね。それから家庭通信はできますかね」といった。つまり、浅海記者は、兵士の里心や手柄意識をくすぐることで、「記事材料がなく特派員として面子なし」と言いつつ、戦意高揚のための「百人斬り競争」の武勇記事の話を持ちかけた。

この三者談合については、これを受けて書かれた第一報――記事は東京日日新聞の外に、同系列の大阪毎日にも掲載され、その末尾には「記者らが『この記事が新聞に出るとお嫁さんの口が一度にどっと来ますよ』と水を向けるとなんと八十幾人斬りの両勇士、ひげ面をほんのり赤めて照れること照れること」という一文が付されている。原稿は大阪から東京に転送されたらしく、東日はこの部分を削除して記事掲載した。これにより、常州以前の三者談合の存在は明らかである。

(常州における三者談合のカムフラージュ)
 浅海記者は無錫におけるこの三者談合をカムフラージュするため、常州で佐藤カメラマンに両少尉の写真を撮らせ、あたかも、氏がはじめて二少尉に会い「百人斬り競争」の取材をしているかのように見せかけた。この時、佐藤カメラマンは、二人が大隊副官と歩兵砲小隊長であることを知った。ということは、浅海記者もそれを知っていたことになる。また、佐藤カメラマンが、どのようにして「百人斬り競争」の数を数えるのかと両少尉に聞いたところ、二人は、お互いの当番兵を交換すると答えた。

    

 ところが、東京日日新聞記事第1報(昭和12年11月30日朝刊)には「百人斬り競争!両少尉、早くも八十人[常州にて廿九日浅海、光本、安田特派員発] 常熟、無錫間の四十キロを六日間で踏破した○○部隊の快速はこれと同一の距離の無錫、常州間をたつた三日間で突破した、まさに神速、快進撃、その第一線に立つ片桐部隊に「百人斬り競争」を企てた二名の青年将校がある。無錫出発後早くも一人は五十六人斬り、一人は廿五人斬りを果たしたといふ」となっているのである。 11月29日の二少尉と佐藤カメラマンとの会話では、「なんとここから南京入城までに,どちらが先に中国兵百人を斬るかというすごい話題である」となっており、佐藤カメラマンは「百人斬り」は常州から始まると理解しているのに、翌日の新聞には、「無錫出発後早くも一人は五十六人斬り、一人は廿五人斬りを果たしたといふ」となっているのである。両少尉はまさか翌日の新聞にそんなことが書かれるとは思ってもいなかったのだろう。

(第一報における両少尉の会話は「ヤラセ」)
第一報における、常州での取材?に基づく両少尉の会話は次の通り。「向井少尉 この分だと南京どころか丹陽で俺の方が百人くらい斬ることになるだろう、野田の敗けだ、俺の刀は五十六人斬って刃こぼれがたった一つしかないぞ 野田少尉 僕らは二人共逃げるのは斬らないことにしています、僕は○官をやっているので成績は上がらないが丹陽までには大記録にしてみせるぞ」。この両少尉の会話は、無錫での三者談合に基づいて「ヤラセ」た会話である。

(記者は野田少尉の「副官」を○官に修正)
この会話における主役は向井少尉、野田少尉はその引き立て役。そのため、野田の会話は半ば向井をからかう言い方になっている。野田の会話の内○官は、実際は副官だが、前後の文脈から野田がこれを○官と言うはずがない。野田も自らが副官であることを隠していない。しかし、記者は、この事実を隠し、両少尉があたかも同一指揮系統下の歩兵小隊長であるかのように描いている。そのため記者は野田の会話の「副官」を○官に修正した。これだけでも記事の創作性は明らか。

(第一報の会話以外の記述は記者の創作)
また、この第一報の会話以外の記述は、両少尉が、上官の命令なしに、私的盟約に基づく「百人斬り競争」を行ったとするものである。野田の場合は単独だが、向井の場合は、「敵陣に部下と共に躍り込み・・・名を斬り伏せた」となっている。これは「私兵を動かした」ことであり、軍隊では絶対に許さない行為で、軍法会議で処刑を宣告されてもおかしくない。従って、両少尉がこうしたことを記者に言うはずがない。向井は”冗談がエライなことになった”といい、この記事に触れらられるのをいやがったという。

(第二報の向井の会話に見られる矛盾)
第二報には、向井少尉が丹陽中正門の一番乗りを決行とある。もちろん、砲兵が攻撃で「一番乗り」をすることはない。その他、野田が右手(実際は左手?)に怪我をしたのに大戦果を挙げたり、向井の刀の「刃こぼれ」が第一報と同じく一カ所というのもおかしい。また、佐藤証言では、人数は両少尉の当番兵を交換して行うとなっているのに、ここでは東日大毎の記者に審判になって貰うとなっている。向井少尉本人の会話とは到底思えない矛盾した記述である。

(記者は句容での戦果を誰に確認したか?)
第三報には、両少尉は「句容入場にも最前線に立って奮戦」と書いてある。繰り返しになるが、副官と砲兵が戦闘の最前線に立つことはない。なお、ここには両少尉の会話はない。一体、記者は誰にその戦果を確認したのか。向井は負傷のため句容の戦闘には参加していないと主張。向井の負傷は直属部下の田中金平の記録にはないが、負傷を証言した部下兵士もいた。また、野田も丹陽東方で北方に迂回し丹陽の戦闘には参加していないと主張。句容での会見はなかったとするのが至当。

(10日紫金山での両少尉の会見は記者の創作)
第四報には、まず10日の紫金山山麓での両少尉の次の会話が出てくる。
「野田 おいおれは百五だが貴様は?」向井 おれは百六だ!」・・・両少尉は”アハハハ”結局いつまでにいづれが先に百人斬ったかこれは不問、結局「ぢゃドロンゲームと致そう、だが改めて百五十人はどうぢゃ」と忽ち意見一致して十一日からいよいよ百五十人斬りがはじまった」

これは百人斬りが百五十人斬りになった経緯を説明したものだが、野田少尉が麒麟門東方で記者と会った時の記者の会話には、「今までも幾回か打電しましたが、百人斬競争は日本で大評判らしいですよ。二人とも百人以上突破したことに」(「新聞記事の真相」)とある。ということは、浅海記者は、この「ドロンゲームの顛末」を、紫金山以前の麒麟門東方ですでに知っていたことになる。第二報の大毎の記事にもこの延長戦に関する言及がある。ということは「延長戦」も記者の創作?

にもかかわらず、第四報では、11日の紫金山での会見の冒頭、向井少尉が、前日10日の、野田少尉との話し合いで決まった「ドロンゲームの顛末」を両記者(浅海記者と「取材」をカムフラージュのため呼ばれた鈴木記者)に語ったことになっている。あくまで、「ドロンゲーム」の責任を、両少尉に負わせようとするためか?しかし、この「延長戦」については、上述した通り、浅海記者は第二報ですでに念頭に置いていたのであり、あえてこのような細工をした意図は何か。

(10日の会見は「百人斬り競争」のルール変更のための創作)
その意図とは・・・10日の会見での両少尉の会話は、「野田 おいおれは百五だが貴様は?」向井 おれは百六だ!」となっている。これは、この競技が、あたかも一定区間(時間)で数を争う競争であったかのような聞き方である。しかし、この競争の当初のルールは、「100人をどちらが先に斬るか」だったはずである。従って、実際に競争をしていれば、当然、最初に、競争相手が「百人斬り」を達成したその時間を聞くはずである。しかし、ここでは人数を聞いている。

なぜこういう聞き方をしたか――この部分の論理的解明はイザヤ・ベンダサンの指摘によるものだが――おそらく、記者は、第一報を送った後、「百人をどちらが先に斬るか」という、数を決めてその到達時間を争う競技は、戦場では不可能なことに気づいた。そこで、これを、一定区間で数を争う競争であったかのように見せかけるため、10日の両少尉の会話を創作した。これによって、このルール変更の責任を両少尉に負わせると共に、記事の信憑性を維持しようとした。(山本七平の説)

(11日の会見に野田少尉が出てこない理由)
この10日の会見の後に、翌11日の中山陵を眼下に見下ろす紫金山での「敗残兵狩り真最中」の向井少尉の次の会話が出てくる。

「知らぬうちに両方で百人を超えていたのは愉快ぢゃ、おれの関の孫六が刃こぼれしたのは一人を鉄兜もろともに唐竹割にしたからぢゃ、戦い済んだらこの日本刀は貴社に寄贈すると約束したよ十一日の午前三時友軍の珍戦術紫金山残敵あぶり出しには俺もあぶり出されて弾雨の中を「えいまゝよ」と刀をかついで棒立ちになっていたが一つもあたらずさこれもこの孫六のおかげだ」

冒頭の「両方で百を超えていたのは愉快ぢゃ」は、記者のレクチャーによるものか。しかし、向井少尉には「ルール変更」の自覚はない。問題は、この11日の会見には、鈴木記者の証言によると向井少尉、野田少尉、浅海記者、鈴木記者の4人がいたことになるが、記事中には野田少尉は見えないことである。これは、紫金山での戦闘中に、職務の異なる二少尉が、10日と11日の二日続けて、自らの職務を放擲して会見する不自然さを回避しようとしたものと思われる。

(11日の向井少尉の会話は本人のもの)
11日の向井少尉の、「友軍の珍戦術紫金山残敵あぶり出しには俺もあぶり出されて弾雨の中を『えいまゝよ』と刀をかついで棒立ちになっていた」という会話は、山本によると、催涙ガスを吸った兵士の心理が現れており、これは向井本人のものという。いささか向井の会話が興奮状態なのは、本人の怪我からの復帰と、直前の戦闘で部下に負傷者がいなかった等によるのではないかと推測している。なお、この会見の場所は、「敗残兵狩り真っ最中」の戦場ではなく、戦闘が終わった後の、紫金山付近の安全地帯(おそらく幽谷寺付近)とした。

以上のように、山本は、「百人斬り競争」の記事中に出てくる両少尉の会話は、”全て記者による創作”ではなく、記者が両少尉に「ヤラセ」をさせた会話が含まれるとしたのです。そして、それを第三者の前で演じさせ、浅海記者はそれを取材しているかのように見せかけ、こうして得られた?記事素材を、「百人斬り競争」のシナリオに沿って編集・創作し、戦意高揚の武勇記事に仕立てた、と見たのです。

これが、「百人斬り競争」裁判以前の、「百人斬り競争」についての一般的イメージでした。

ところが、「百人斬り競争裁判」では、前回述べたように、原告側弁護人は、こうした論争の経過を無視し、”新聞記事の全てを記者の創作”とし、両少尉は常州以外その記事に示された会見場所には行っていないという「事実の摘示」を行ったのです。これが実証的検証に耐えないのは当然で、このため、この事件の、以上説明したような「ヤラセ」の基本構造が見えなくなってしまったのです。