「百人斬り競争」裁判はこの事件の「ヤラセ」の基本構造を見えなくした(2)
次に、「百人斬り競争」裁判以前、イザヤ・ベンダサン、鈴木明・山本七平らによって解明された、東京日々新聞「百人斬り競争」の基本構造について紹介します。(それ以後に明らかとなった見解も含む) (無錫における三者談合) この三者談合については、これを受けて書かれた第一報――記事は東京日日新聞の外に、同系列の大阪毎日にも掲載され、その末尾には「記者らが『この記事が新聞に出るとお嫁さんの口が一度にどっと来ますよ』と水を向けるとなんと八十幾人斬りの両勇士、ひげ面をほんのり赤めて照れること照れること」という一文が付されている。原稿は大阪から東京に転送されたらしく、東日はこの部分を削除して記事掲載した。これにより、常州以前の三者談合の存在は明らかである。 (常州における三者談合のカムフラージュ) ところが、東京日日新聞記事第1報(昭和12年11月30日朝刊)には「百人斬り競争!両少尉、早くも八十人[常州にて廿九日浅海、光本、安田特派員発] 常熟、無錫間の四十キロを六日間で踏破した○○部隊の快速はこれと同一の距離の無錫、常州間をたつた三日間で突破した、まさに神速、快進撃、その第一線に立つ片桐部隊に「百人斬り競争」を企てた二名の青年将校がある。無錫出発後早くも一人は五十六人斬り、一人は廿五人斬りを果たしたといふ」となっているのである。 11月29日の二少尉と佐藤カメラマンとの会話では、「なんとここから南京入城までに,どちらが先に中国兵百人を斬るかというすごい話題である」となっており、佐藤カメラマンは「百人斬り」は常州から始まると理解しているのに、翌日の新聞には、「無錫出発後早くも一人は五十六人斬り、一人は廿五人斬りを果たしたといふ」となっているのである。両少尉はまさか翌日の新聞にそんなことが書かれるとは思ってもいなかったのだろう。 (第一報における両少尉の会話は「ヤラセ」) (記者は野田少尉の「副官」を○官に修正) (第一報の会話以外の記述は記者の創作) (第二報の向井の会話に見られる矛盾) (記者は句容での戦果を誰に確認したか?) (10日紫金山での両少尉の会見は記者の創作) これは百人斬りが百五十人斬りになった経緯を説明したものだが、野田少尉が麒麟門東方で記者と会った時の記者の会話には、「今までも幾回か打電しましたが、百人斬競争は日本で大評判らしいですよ。二人とも百人以上突破したことに」(「新聞記事の真相」)とある。ということは、浅海記者は、この「ドロンゲームの顛末」を、紫金山以前の麒麟門東方ですでに知っていたことになる。第二報の大毎の記事にもこの延長戦に関する言及がある。ということは「延長戦」も記者の創作? にもかかわらず、第四報では、11日の紫金山での会見の冒頭、向井少尉が、前日10日の、野田少尉との話し合いで決まった「ドロンゲームの顛末」を両記者(浅海記者と「取材」をカムフラージュのため呼ばれた鈴木記者)に語ったことになっている。あくまで、「ドロンゲーム」の責任を、両少尉に負わせようとするためか?しかし、この「延長戦」については、上述した通り、浅海記者は第二報ですでに念頭に置いていたのであり、あえてこのような細工をした意図は何か。 (10日の会見は「百人斬り競争」のルール変更のための創作) なぜこういう聞き方をしたか――この部分の論理的解明はイザヤ・ベンダサンの指摘によるものだが――おそらく、記者は、第一報を送った後、「百人をどちらが先に斬るか」という、数を決めてその到達時間を争う競技は、戦場では不可能なことに気づいた。そこで、これを、一定区間で数を争う競争であったかのように見せかけるため、10日の両少尉の会話を創作した。これによって、このルール変更の責任を両少尉に負わせると共に、記事の信憑性を維持しようとした。(山本七平の説) (11日の会見に野田少尉が出てこない理由) 「知らぬうちに両方で百人を超えていたのは愉快ぢゃ、おれの関の孫六が刃こぼれしたのは一人を鉄兜もろともに唐竹割にしたからぢゃ、戦い済んだらこの日本刀は貴社に寄贈すると約束したよ十一日の午前三時友軍の珍戦術紫金山残敵あぶり出しには俺もあぶり出されて弾雨の中を「えいまゝよ」と刀をかついで棒立ちになっていたが一つもあたらずさこれもこの孫六のおかげだ」 冒頭の「両方で百を超えていたのは愉快ぢゃ」は、記者のレクチャーによるものか。しかし、向井少尉には「ルール変更」の自覚はない。問題は、この11日の会見には、鈴木記者の証言によると向井少尉、野田少尉、浅海記者、鈴木記者の4人がいたことになるが、記事中には野田少尉は見えないことである。これは、紫金山での戦闘中に、職務の異なる二少尉が、10日と11日の二日続けて、自らの職務を放擲して会見する不自然さを回避しようとしたものと思われる。 (11日の向井少尉の会話は本人のもの) 以上のように、山本は、「百人斬り競争」の記事中に出てくる両少尉の会話は、”全て記者による創作”ではなく、記者が両少尉に「ヤラセ」をさせた会話が含まれるとしたのです。そして、それを第三者の前で演じさせ、浅海記者はそれを取材しているかのように見せかけ、こうして得られた?記事素材を、「百人斬り競争」のシナリオに沿って編集・創作し、戦意高揚の武勇記事に仕立てた、と見たのです。 これが、「百人斬り競争」裁判以前の、「百人斬り競争」についての一般的イメージでした。 ところが、「百人斬り競争裁判」では、前回述べたように、原告側弁護人は、こうした論争の経過を無視し、”新聞記事の全てを記者の創作”とし、両少尉は常州以外その記事に示された会見場所には行っていないという「事実の摘示」を行ったのです。これが実証的検証に耐えないのは当然で、このため、この事件の、以上説明したような「ヤラセ」の基本構造が見えなくなってしまったのです。 |