「百人斬り競争」裁判、東京高裁の事実認定2

2007年10月12日 (金)

〈 〉で囲んだ部分が判決文(斜体部分が地裁判決文のうち高裁判決で修正された部分)、*部分がそれに対する私のコメントです。判決文中の記号については「東京高裁判決文」参照 

〈以上によれば,少なくとも,本件日日記事は,両少尉が浅海記者ら新聞記者に「百人斬り競争」の話をしたことが契機となって連載されたものであり,その報道後,野田少尉が「百人斬り競争」を認める発言を行っていたことも窺われるのであるから,連載記事の行軍経路や殺人競争の具体的内容については,虚偽,誇張が含まれている可能性が全くないとはいえないものの,両少尉が「百人斬り競争」を行ったこと自体が,何ら事実に基づかない新聞記者の創作によるものであるとまで認めることは困難である。

 また,原告らは,被告本多において両少尉が捕虜を'惨殺したことの論拠とする志々目彰らの著述内容等が信用できず,本件摘示事実における捕虜斬殺の点が虚偽である旨主張する。
そこで検討するに,前記2(1)ナ(エ)で認定したとおり,志々目彰は,小学校時代に野田少尉の講演を聞き,その中で,野田少尉が,「百人斬り競争」について,そのほとんどが白兵戦ではなく捕虜を斬ったものである旨語ったところを聞いたとして,野田少尉による「百人斬り」のほとんどが捕虜の斬殺であった旨を月刊誌において述べていることが認められるが,そもそも,志々目彰が野田少尉の話を聞いたというのが小学生時であり,その後月刊誌にその話を掲載したのが30余年を経過した時点であることに照らすと,果たしてその記憶が正確なのか問題がないわけではない。

 また,前記2)ナ(オ)で認定したとおり,志々目彰と同じ小学校で野田少尉の話を聞いたとするBは,百人斬ったという話や捕虜を斬ったという話を聞いたことがない旨陳述しており,その他,別機会に野田少尉の話を聞いたことがあるとする複数の者から,志々目彰の著述内容を弾劾する陳述内容の書証が複数提出されているところである。

しかし,他方,前記2(1)ナ(オ)で認定したとおり,志々目彰の大阪陸軍幼年学校の同期生であるKも,志々目彰と一緒の機会に,野田少尉から,百人という多人数ではないが,逃走する捕虜をみせしめ処罰のために斬殺したという話を聞いた旨述べていることも認められ,Aが野田少尉を擁護する立場でそのような内容を述べていることにかんがみれば,殊更虚偽を述べたものとも考え難く,少なくとも,当時,野田少尉が,志々目彰やAの在校する小学校において,捕虜を斬ったという話をしたという限度においては,両名の記憶が一致しているといえる。

また,当時野田少尉を教官として同少尉と一緒に従軍していたという望月五三郎は,前記2(1)ナ(コ)のとおり,その著作物において,野田少尉と向井少尉の百人斬り競争がエスカレートして,奪い合いをしながら農民を斬殺した状況を述べており,その真偽は定かでないというほかないが,これを直ちに虚偽であるとする客観的資料は存しないのである。

これらの点にかんがみると,志々目彰の上記著述内容を一概に虚偽であるということはできない。

なお,被告本多は,「南京への道」及び「南京大虐殺否定論13のウソ」においては,本件摘示事実の推論根拠として,昭和12年12月ころ,○(さんずいに栗)水において,日本軍将校により,14人の中国人男性が見せしめとして処刑された場面に遭遇した旨の襲其甫の話や,日本刀で自ら「捕虜据えもの斬り」を行ったとする鵜野晋太郎の手記を引用している。これらの話も,客観的資料に裏付けられているものではなく,その真偽のほどは定かではないというほかないが,自身の実体験に基づく話として具体性,迫真性を有するものといえ,これらを直ちに虚偽であるとまではいうことはできない。
さらに,「百人斬り競争」の話の真否に関しては,前記2(1)トで認定したものも含めて,現在に至るまで,肯定,否定の見解が交錯し,様々な著述がなされており,その歴史的事実としての評価は,未だ,定まっていない状況にあると考えられる。
以上の諸点に照らすと,本件摘示事実が,一見して明白に虚偽であるとまでは認めるに足りない。 〉

* ここでいう「本件摘示事実」というのは、「百人斬り競争」の新聞記事そのものではなくて、その記事の素材となった何らかの実行行為(本多勝一氏等はこれを非戦闘員に対する「据えもの斬り競争」とする)を指していると思われるが、しかし、それを証拠立てるものは、望月証言以外すべて伝聞であり、鵜野晋太郎の証言に至っては、ご本人の(看過すべからざる)犯罪事実を告白するものではあっても、向井、野田少尉の行為とは何ら関係のないものである。(志々目証言については先述の通り)

 そこで望月証言についてだが、これは、本多氏らの主張する「百人斬り競争」=「据えもの斬り競争」を立証する唯一の史料といえるものである。ただし、これは同時代の記録ではなく、「百人斬り競争」=「据えもの斬り競争」が公然と唱えられるようになって以降、昭和60年に書かれた自家出版の回想記(『私の支那事変』)であり、明らかな間違い(あるいは作り話)も多く、史料というより「読み物」と称すべき代物である。とはいえ、ここにおける「百人斬り」の記述は、望月氏自身が体験した(?)、両少尉による、まさに絵に描いたような支那人(=農民)虐殺競争であり、それだけに、これが原告側に与えた衝撃は相当のものであったろうと思われる。

 私は、この史料の「南京攻略作戦」部分しか見ていないので確言はできないが、しかし、その45ページに渡る南京攻略、南京占領に関する記述中、日本兵による残虐行為と思われる叙述は「百人斬り」以外皆無であり(いわゆる「南京大虐殺」はなかったということか)、その主たる著作目的は、下級兵士間の友情・苦労話である。一方、士官学校出の将校に対する不信感は極めて強い。あるいはこうした将校に対する反感が「百人斬り」の記述に反映したかとも推測されるが、その前後の記述とも読み合わせてみると、「百人斬り」の記述がいかにも唐突で、不可解の念を禁じ得ない。

 というのは、ここに描かれた二少尉による「百人斬り」の実像は、全く何の罪のない農民を殺すことをゲームのように楽しみ、両者のうちどちらが早く百人を斬るか競争し、それを周囲の兵士も上官も黙認し、あまつさえ、そうした残虐行為を武勇伝に作り変えて新聞で報道・宣伝し、国民の戦意をあおった、とするものである。望月氏はこれを「世界戦争史の中に一大汚点を残したもの」と断罪しているが、もしこれが真実であるとすれば、これはまさに、残虐、無法、無情、卑怯、卑劣極まる残虐行為ということになる。ところが、不思議なことに、この「百人斬り」の章の直前の章の末尾には、これとは全く対照的な良質な日本兵士像が描かれている。(『私の支那事変』p42)

 「これだけ厳しい抗日思想をたたき込まれた、支那の子供達が日本兵に対してはあまりにも好意的ではないか(否定ではなく、肯定の意味=筆者)、教えられたことに反して、自国支那兵より日本兵の方が質が良いではないか、と子供の判定は清く正確である」。つまり、支那の子供たちは、その清い目で見るので、支那人による厳しい抗日思想教育にもかかわらず、自国支那兵より日本兵の方が質がよいと正確に判断している、と言っているのである。

 さらに続けて、現代の師弟教育のあり方について次のような自説を開陳している。

 「そこで今私は現在の子弟教育方針に対し、一言意見がある。現日教祖(ママ)の教育方針は文部省を手こずらし、PTAのPを心配させている。日本の子供たちは恵まれた環境に育ってすくすくとのびている。本当の心の教育は親にまかせて、あなたたちは、教材通りの国語、地理、数学を教えてくれるだけで良い、情操教育は教育勅語を基本に行ふべきであると思ふ、教育勅語の中で“朕”がいけないと云ふ、天皇は“私”といっておられる“義勇奉公”が軍国主義に通ずると云ふ、現今の国際的経済戦争場裡にたって、義を重んじないで、勇気なくして、公に奉仕せずして、勝てるであろうか、どうか子供達を曲がった方向に進めさせないでほしい。」

 このように、支那兵より日本兵の方が質がよかったと自負する人が、さらに、日本の子弟の教育方針、とりわけ、情操教育のあり方について、教育勅語にある”義勇奉公”を重んじる人が、前述のような卑劣きわまりない両少尉による「百人斬り競争」=「農民虐殺競争」を証言しているのである。

 また、さらに不思議なことに、先に述べた望月氏による「百人斬り」の目撃証言に続いて、著者は、辻政信の著書『潜行三千里』(著者は敗戦後戦犯を恐れて逃亡し、その後国民党軍に共産軍に対処する戦略等をアドバイスするなどして支那重臣の庇護を受け、昭和23年5月帰国。昭和25年その間の消息を回想した本書を出版)の一節を引用し、戦後連合軍が両少尉をどう扱ったかを紹介している。

 「野田・向井両少佐(少尉の間違い=筆者)が南京虐殺の下手人として連行されてきた。この二人は、一たん巣鴨に収容されたが、取調べの結果証據不十分で釈放されたものであるが、両少佐は某紙の100人斬りニュースのお陰で、どんなに弁明しても採上げられず、ただ新聞と小説を証據として断罪にされた。永い間の戦争で、中、小隊長として戦ってきた人に罪は絶無である(注1)ことは勿論であるが、証據をただ古新聞や小説だけに求められたのでは何とも云えぬ。両少佐の遺書には一様に”私達の死によって、支那民族のうらみが解消されるならば、喜んで捨石になろう”との意味が支那の新聞にさえ掲げられていた。年も迫る霜白い雨華台に立った、両少佐はゆうゆうと最后の煙草をふかし、そろって”天皇陛下万才”を唱えながら笑って死についた。おのおの二、三弾を受けて最后の息を引きとった。
◎やれ打つな 蝿が手をする足をする(一茶)」(この俳句は望月氏が付したもの)

注1 『潜行三千里』(s25)では、「罪は絶無である」ではなく「罪は絶無でない」となっている。これは、両少尉に対する嫌疑を否定するための改変であろうか。

 これらの記述・引用・改変と、先の両少尉の残虐行為を批判する記述とは矛盾していないか。一体、どちらが著者の真意であるか、不可解というほかないが、全文を見ているわけではないので、ここでは以上の疑問を提示するに止めておく。

 そこで、本裁判における東京高裁の結論であるが、それは、「「百人斬り競争」の話の真否に関しては,前記2(1)トで認定したものも含めて,現在に至るまで,肯定,否定の見解が交錯し,様々な著述がなされており,その歴史的事実としての評価は,未だ,定まっていない状況にあると考えられる。」ということである。また、本件摘示事実(本多勝一氏等の主張した「百人斬り競争」=「据えもの斬り競争」)の主張については、未だ、これを「一見して明白に虚偽である」と認めるまでには至っていない、としている。

 実際のところ、本稿で紹介した山本七平やイザヤ・ベンダサンの見解と、今回の裁判における原告の主張には、「百人斬り競争」の新聞記事中、どの程度、両少尉の発言が含まれているかをめぐって食い違いが生じている。また、平成19年1月に出版された東中野修道氏の著書『南京「百人斬り競争」の真実』では、冨山部隊本隊と向井少尉の歩兵砲小隊が丹陽東方で別れて別ルートで南京に向かったとする一方、両少尉が浅海記者と初めての会合をもった場所を常州とするなど、「百人斬り競争」報道を虚報と考える人々の間でも見解が分かれている。

 私自身は、山本七平やイザヤ・ベンダサンの論理や分析結果をふまえ、その後発掘された資料や研究成果等も含めて総合的に検討し、「百人斬り競争」新聞記事を、浅海記者をプロデューサーとする向井少尉主演、野田少尉脇役の戦意高揚のための創作記事と見ているわけである。一方、「百人斬り競争」=「据えもの斬り競争」とする見解については、私は、それが成立するためには「日本人残虐民族説」にでも立たない限り不可能だと思っている。それだけに『私の支那事変』における思想的混乱は興味深いし、その史料批判も含めて、あらためて「百人斬り競争」論争が展開されるべきであろうと思っている。