「百人斬り競争」裁判、東京高裁の事実認定1

2007年9月30日 (日)

 ここまで「『百人斬り競争』報道の実像に迫る」と題して、山本七平の説を振り返りながら、より真実に近いと思われる事実関係を探ってきました。そこで、以上提示した事実関係と、「百人斬り競争」裁判において、東京高裁が認定した事実関係とを対比して見てみたいと思います。〈 〉で囲んだ部分が判決文(斜体部分が地裁判決文のうち高裁判決で修正された部分)、*部分がそれに対する私のコメントです。(下線部分挿入10/1)

 〈(ア) 本件摘示事実について a 原告らは,そもそもいわゆる「百人斬り競争」を報じた本件日日記事自体が,浅海記者ら新聞記者の創作記事であり,虚偽である旨主張する。そこで,検討するに,本件日日記事は,昭和12年11月30日から同年12月13日までの間に掲載されたものであるところ,南京攻略戦という当時の時代背景や「百人斬り競争」の内容,南京攻略戦における新聞報道の過熱状況,軍部による検閲校正の可能性などにかんがみると,上記一連の記事は,一般論としては,そもそも国民の戦意高揚のため,その内容に,虚偽や誇張を含めて記事として掲載された可能性も十分に考えられるところである。そして,前記認定のとおり,田中金平の行軍記録やより詳細な犬飼総一郎の手記からすれば,冨山大隊は,句容付近までは進軍したものの,句容に入城しなかった可能性もあること,昭和15年から約1年間向井少尉の部下であったという宮村喜代治は,向井少尉が、百人斬り競争の話が冗談であり,それが記事になった旨を言明した旨陳述していること,さらには,南京攻略戦当時の戦闘の実態や冨山大隊における両少尉の軍隊における任務,一本の日本刀の剛性ないし近代戦争における戦闘武器としての有用性に照らしても、本件日日記事にある「百人斬り競争」の実体及びその殺傷数について、同記事の「百人斬り」の戦闘戦果は甚だ疑わしいものと考えるのが合理的である。

 しかしながら、その競争の内実が本件日日記事の内容とは異なるものであったとしても、次の諸点に照らせば、両少尉が南京攻略戦において軍務に服する過程で、当時としては、「百人斬り競争」として新聞報道されることに違和感を持たない競争をした事実自体を否定することはできず、本件日日記事の「百人斬り競争」を新聞記者の創作記事であり、全くの虚偽であると認めることはできないというべきである。

前記認定事実によれば,① 本件日日記事第四報に掲載された写真を撮影した佐藤記者は,本件日日記事の執筆自体には関与していないところ,「週刊新潮」昭和47年7月29日号の記事以来,当法廷における証言に至るまで,両少尉から直接「百人斬り競争」を始める旨の話を聞いたと一貫して供述しており,この供述は,当時の従軍メモを基に記憶喚起されたものである点にかんがみても,直ちにその信用性を否定し難いものであること,② 本件日日記事を発信したとされる浅海・鈴木両記者も,極東軍事裁判におけるパーキンソン検事からの尋問以来,自ら「百人斬り競争」の場面を目撃したことがないことを認めつつ,本件日日記事については,両少尉から聞き取った内容を記事にしたものであり,本件日日記事に事実として書かれていることが虚偽ではなく真実である旨(両少尉から取材した事実に粉飾を加えていないという趣旨であると理解される。)を一貫して供述していること,③ 両少尉自身も,その遺書等において,その内容が冗談であったかどうかはともかく,両少尉のいずれかが新聞記者に話をしたことによって,本件日日記事が掲載された旨述べていることなどに照らすと,少なくとも,両少尉が,浅海記者ら新聞記者に話をしたことが契機となり,「百人斬り競争」の記事が作成されたことが認められる。〉

* 問題は、無錫における「三者談合」の存在である。そもそも近代戦において日本刀で「百人斬り」を競うなどということはあり得ず、また、それを事実と信じて記事を書く新聞記者がいるとも思われない(佐藤カメラマンも信じていない)。要するに戦意高揚のための武勇談を「特ダネ」として報じたい、という記者の思惑に、両少尉(特に向井少尉)が乗せられたということなのである。

 両少尉は、無錫における戦闘終了後の食後の「笑談」を記者相手にした際、記者に軍人の手柄意識や里心をくすぐられ、新聞に掲載してもらう代わりに「百人斬り」という俗受けする表題の物語に名を貸すことになった。こういう場合、そのディレクター役ができるのは記者以外にはいない。両将校を歩兵小隊長にしたのも、佐藤カメラマンを呼んできて写真を撮らせその写真を使ったのも、最後に鈴木記者を仲間に引き込んだのも、この話を「事実」らしく見せるためのカムフラージュである。その証拠に、両記者とも三人の無錫における「三者談合」の存在を知らず、佐藤カメラマンに至っては、「百人斬り競争」は常州から始まるものと思いこんでいた。

 判決は、「少なくとも,両少尉が,浅海記者ら新聞記者に話をしたことが契機となり,「百人斬り競争」の記事が作成されたことが認められる。」としているが、しかし、問題は誰が「百人斬り競争」をプロデュースしたかであろう。確かに、「両少尉が,浅海記者ら新聞記者に(ほら)話をした」ことは事実であろう。しかし、戦場における「ほらやデマ」のもつ意味については、山本七平が「戦場のほら・デマを生み出すもの」(『私の中の日本軍』)で次のように詳細に論じているところであり、従軍記者にそうした実情が判らぬはずはない。浅海記者が「百人斬り競争」の記事を書くに際して「両少尉から取材した事実に粉飾を加え」たことは明白である。

 この点、本高裁判決で特に重要な部分は,上記②の判決文「浅海・鈴木両記者が,自ら「百人斬り競争」の場面を目撃したことがないことを認めつつ,本件日日記事については,両少尉から聞き取った内容を記事にしたものであり,本件日日記事に事実として書かれていることが虚偽ではなく真実である旨(両少尉から取材した事実に粉飾を加えていないという趣旨であると理解される。)を一貫して供述していること」における下線を付した部分である。高裁は、ここで初めて、浅海記者がいった「真実である」という言葉の意味について、「両少尉から取材した事実に粉飾を加えていないという趣旨であると理解される。」としたのである。(本パラグラフ追加10/1)

 「苦しみが増せば増すだけ、人間はあらゆる方法で、あらゆる方向に逃避し、また妄想の世界に半ば意識的に『遊ぶ』ことによって、苦痛を逃れようとするのである。それが軍隊におけるほら・デマ・妄想であって、これは、狂い出さないための安全弁だったといえる。」(『私の中の日本軍』p74)
「『管理社会』とか『人間を歯車にする』とかいう言葉があるが、これが最も徹底していたのは軍隊であって、その徹底ぶりは戦後社会の比ではない。そしてこれが徹底すればするほど、また現実の苦痛が増大すればするほど、残酷映画やポルノや低俗番組顔負けの、ものすごいほらやデマが飛び始めるのである。──斬り殺した、やり殺した、焼き殺した、人肉を食った、等々々々・・・(そうした)兵士のほらやデマや妄想を、それは現実ではないと言って論破する人間がいたらかえっておかしいのである。しかし一方、そういうほらやデマや妄想を収録して、『これが戦場の現実だ』と主張する人間がいたら、それは『人斬り』動画を現実だと主張することと同じことで、これも少々おかしいと言わねばならない。」(同p76)
「以上のことは、日本軍に虐殺も強姦も皆無だったという意味ではない。」「毎日の新聞を開けば、強盗殺人、痴情殺人、カッとなったという意味不明の殺人、集団暴行、集団輪姦、強姦殺害、死体寸断等々、こういった記事が載らない日はないと言っても過言ではあるまい。」一昔前なら、そのような事件を起こした人も当然一兵士、一将校であった。「従って、もし歩兵のように警備隊に編成替えされて、さまざまな場所にばらばらに駐屯すれば、多くの事件が起こったと思う。だがそのような事件と、兵士のほらやデマを事実だと強弁することは別である。そしてそのことは、(前記のような)日本の実情を記すということと、低俗番組や残酷映画やポルノや『人斬り』動画をそのまま事実だと主張することとは別なのと同じである」(同p79)

 浅海記者のやったことは、戦場における苦痛から逃れるための安全弁としての兵士の「ほら・デマ」を、「ほら・デマ」と知りつつ、それを、あたかも事実であるかのように粉飾して新聞記事を書いたことが明白であるにもかかわらず、戦後それが問題となると、一転して「低俗番組や残酷映画やポルノや『人斬り』動画をそのまま事実」と信じたというが如く、「百人斬り競争」を「そのまま事実だと信じた」と主張しているに等しい、と山本七平はいっているのである。

〈また,前記認定事実によれば,昭和13年1月25日付け大阪毎日新聞鹿児島沖縄版には,野田少尉から中村碩郎あての手紙のことが記事として取り上げられ,その記事の中で野田少尉が「百人斬り競争」を認めるかのような文章を送ったことが掲載されていること,野田少尉が昭和13年3月に一時帰国した際に,鹿児島の地方紙や全国紙の鹿児島地方版は,野田少尉を「百人斬り競争」の勇士として取り上げ,「百人斬り競争」を認める旨の野田少尉のコメントが掲載され,野田少尉自身が鹿児島で講演会も行っていることなどが認められ,少なくとも野田少尉は,本件日日記事の報道後,「百人斬り競争」を認める旨の発言を行っていたことが窺われる。〉

 * 野田少尉本人は「武人トシテ虚名ヲ売ルコトハ乗気ニナレナイネ」と思いつつも、結果的に「百人斬り競争」の新聞報道により英雄視され、内地に一時帰郷したときなどに新聞記者の取材を受け、また講演等を依頼されたりした。そういう場合、報道内容を完全否定することは困難であって、「お茶を濁すか」「恥にならぬ程度に話を一般化する」こと位しか出来なかったであろう。野田少尉は、「虚報ならばなぜ訂正しなかったか」と問われ、「善事を虚報されれば、そのまま放置するのが人間の心理にして弱点である」「反面で、虚偽の名誉を心苦しく思い、消極的には虚報を訂正したいと思ったが、訂正の機会を失い、うやむやになってしまった」と弁明している。(昭和12年12月15日付け申辨書)

 ただし、新聞報道後の向井少尉と野田少尉の態度は逆転している。これは、向井少尉は記事中に自ら口にした「ホラ話」が第一、第二(?)、第四報に収録されており、その内容も砲兵なのに「部下と共に敵陣に斬り込み55名を斬り伏せた」とか、「丹陽中正門一番乗り」をしたとか、「残敵あぶり出し」(=催涙ガスの使用)を漏らすなど、場合によっては軍法会議にかけられてもおかしくない内容を含んでいた。故に「冗談が新聞に載って、内地でえらいことになった」というのが向井少尉の正直な気持ちであったと思われる。氏は、この話を話題にされるのを終始いやがったという。

 一方、野田少尉の記事中の言葉は「二人とも逃げる奴は斬らないことにしている」とか「おれは105だが貴様は?」程度で、戦闘描写も個人戦闘の話であり、向井少尉よりはるかに気が楽だったと思われる。また、南京軍事法廷では「自分は中国人7名の生命を救ったことがある」(野田少尉最終発言)とも述べており、遺書を見ても「武人としてのいさぎよさ」は十分持っていたようである。そうであるが故に、「百人斬り競争」を「善事の報道」と割り切るところもあったのではないだろうか。もし、そうした報道の裏で、罪もない住民を虐殺するなどの後ろめたい行為をしていたとすれば、そうした疑いを生じさせるパフォーマンスを生徒たちの前でするはずがなく、逆に、野田少尉に「虚報をてらう」気持ちがあったからこそ、そのパフォーマンスが、志々目証言にあるような誤解を生じさせる結果にもなったのだと思う。(こうした野田少尉と向井少尉の対応の違いは、前者が陸士出の職業軍人将校であり、後者が幹部候補生、いわば民間からの臨時雇将校であったことが起因していると山本七平は指摘している。)

 〈もっとも,原告らは,向井少尉が丹陽の戦闘で負傷し,救護班に収容されて前線を離れ,紫金山の戦闘に参加することができなかったと主張し,南京軍事裁判における両少尉の弁明書面や南京軍事裁判における冨山大隊長の証明書にも同旨の記載がある。しかしながら,前記認定事実によれば,両少尉の弁明書面や冨山大隊長の証明書は,いずれも南京軍事裁判になって初めて提出されたものであり,この点に関して南京戦当時に作成された客観的な証拠は提出されていないこと,向井少尉が丹陽の戦闘で負傷し,離隊しているのであれば,向井少尉直属の部下であった田中金平の行軍記録に当然その旨の記載があるはずであるにもかかわらず,そのような記載が見当たらないこと,犬飼総一郎の手記には,向井少尉の負傷の話を聞いた旨の記載がなされているものの,その具体的な内容は定かではないことなどに照らすと,向井少尉が丹陽の戦闘で負傷して前線を離れ,紫金山の戦闘に参加することができなかったとの主張事実を認めるに足りないというべきである。

また,原告らは,紫金山の攻撃については,歩兵第三十三連隊の地域であり,冨山大隊は紫金山を攻撃していないと主張する。しかしながら,前記認定のとおり,冨山大隊は,草場旅団を中心とする追撃隊に加わり,先発隊として活動していたのであって,その行軍経路には不明なところがあるものの,第九連隊第一大隊の救援のため,少なくとも紫金山南麓において活動を展開していたと認められ,紫金山南麓においては,比較的激しい戦闘も行われていたようであって,本件日日記事第四報が「中山陵を眼下に見下す紫金山で敗残兵狩真最中の向井少尉」と報じている点などをとらえて、本件日日記事を虚偽の創作記事であると言うことはできない。〉

* 各種の証言を総合すると、向井少尉が丹陽の戦闘で負傷したことは事実だが、おそら傷の程度は比較的軽く、救護班で治療を受けた後は部隊に戻り、移動時は馬に乗るなどして部隊と行動を共にできたのではないだろうか。山本七平は、向井少尉が部隊に復帰した日を昭和12年12月10日湯水鎮とし、11日、部隊が霊谷寺(紫金山東方山麓)にあったとき、野田少尉と共に浅海記者及び鈴木記者と会合したのではないかと推測している。また、向井少尉が部隊復帰後紫金山の戦闘にどの程度関わったかについては明らかでないが、第四報の記事から見て、向井少尉は、少なくとも、紫金山の残敵掃討戦で使われた「毒ガス=催涙ガス」を吸引し棒立ちになる経験をしたことは間違いないと見ている。

 ところで、ここにおける裁判所の判断は、原告が、両少尉とも紫金山の戦闘に参加しておらず、第四報の記事は全て記者の創作であると主張していることから出てきたものである。しかし、私は、山本七平の解明した実像の方が、より「事実」に近いのではないかと思っている。また、その事実を認めたからといって、原告が特に不利になるとも思わない。

 〈さらに,原告らは,向井少尉が,昭和21年から22年ころにかけて,東京裁判法廷において,米国パーキンソン検事から尋問を受け,「百人斬り競争」が事実無根ということで不起訴処分となった旨主張する。しかしながら,向井少尉の不起訴理由を明示した証拠は何ら提出されておらず,また,パーキンソン検事が向井少尉に対して,「新聞記事によって迷惑被害を受ける人は米国にも多数ありますよ。」と述べたことを裏付ける客観的な証拠も何ら存在しないのであって,その処分内容及び処分理由は不明であるというほかなく,仮に向井少尉が不起訴であったとしても,東京裁判がいわゆるA級戦犯に対する審判を行ったものであることからすると,A級戦犯に相当しないと見られる向井少尉の行為が,東京裁判で取り上げられなかったからといって,当然に事実無根とされたものとまでは認められないというべきである。 〉

* 東京裁判における向井少尉の不起訴理由は、「百人斬り競争」の証拠としては東京日日新聞の記事があるだけで、その記事が記者の「伝聞」に過ぎないものであることが明白だったからである。確かに浅海記者や鈴木記者は、この件で昭和21年6月15日に東京裁判の検察官の尋問を受け、「記事に事実として書かれていることが真実か虚偽かお答えになれますか」と聞かれ、見てもいないのにいずれも「真実です」と答えている。しかし、浅海記者が検事の請求によって陳述台に立ち、宣誓を終えるや否や、判事の一人が「この証人の陳述は伝聞によるものであるから、当裁判の証人、証拠となり得ない。よってこの証人を証人とすることを承認しない」と発言したという。すると裁判長はこの発言を取り上げ、浅海記者は直ちに退廷を命じられた。この間1分にも満たない短時間だった、と浅海記者自身が回想している。(「新型の進軍ラッパはあまり鳴らない」『ペンの陰謀』所収p351)その後、向井少尉は即刻不起訴処分となったのであるから、これは裁判上「事実無根」と認定されたということにほかならないと思う。なお、東京裁判で南京大虐殺の責任を問われた松井石根はB級裁判で死刑判決を受けたのである