11 ─”虚報”のメカニズムとその恐るべき帰結─

2007年8月12日 (日)

 イザヤ・ベンダサンが「朝日新聞のゴメンナサイ」で、本多勝一氏の「中国の旅」の「殺人ゲーム」について指摘したことは、「日本教」における「謝罪の不思議」ということでした。ベンダサンは、それを人間同士の「相互懺悔・相互告解」と理解し、朝日新聞はこの特集を通じて、中国に対し懺悔・告解することによって相互に和解が成立し、中国と「二人称の関係」に入りうると考えているのではないかと指摘したのです。問題はそのように「私の責任です」と言いまわることで「責任は解除された」と中国が考えるかどうかだと。

 また、この記事を契機に始まった本多勝一氏との論争において、ベンダサンは本多氏に対し、「言葉の踏絵」を逆用した誘導術を使って、「殺人ゲーム」は事実だと証言させ、それを証明する数多くの証拠(=信憑性のほとんどない伝聞証拠)を提出させることに成功したといっています。これによって、ベンダサンは、日本教徒がどのようにして「相手に迎合してオシャベリ機械」になってしまうかを紙上で再現し得たとしてこの主題を打ち切っています。また、それに続けて次のような驚くべき見解を述べています。「日本人は世界一謀略に弱い・・・これによって日本人をある方向へ誘導することは、そう難しいことではない・・・とすれば『真珠湾攻撃』の謎も解けるはずです。」と

  なお、この時、本多勝一氏が証拠として提出した「百人斬り競争」の新聞記事についても、ベンダサンはフィクションだと断定し、「もしこの一九三七年の記事の記者も、あくまでもこの記事が『事実』だと主張したら、そのときは前回と同様に『調書』の中の非常に類似したものと対比しつつ、一つ一つ論証いたします。」と述べています。この論証については、本エントリーのサブタイトル──ベンダサンのフィクションを見抜く目──で紹介しましたのでご覧下さい。

 こうしたイザヤ・ベンダサン独自の主題設定とは全く別の観点から「中国の旅」の「殺人ゲーム」に疑問を持ち、その「事実」解明に立ち向かったのが鈴木明でした。
鈴木明は、「中国の旅」の「殺人ゲーム」の記事について、これを東京日日新聞の「百人斬り競争」の記事と比較し、次のような感想を述べています。

 「今の時点で読めば(東京日日の「百人斬り競争」の新聞記事は)信じられないほどの無茶苦茶極まりない話だが、この話が人づてに中国にまで伝わってゆくプロセスで、いくつかの点でデフォルメされている。
一 戦闘中の話が平時の殺人ゲームになっている。
二 原文にない「上官命令」が加わっている。
三 百人斬りが三ラウンド繰り返されたようになっている。
これは僕が思うのだが、この東京日日の記事そのものも、多分に事実を軍国主義流に誇大に表現した形跡が無くもない。確かに戦争中は、そういう豪傑ぶった男がいたことも推定できるが、トーチカの中で銃をかまえた敵に対して、どうやって日本刀で立ち向かったのだろうか?本当にこれを『手柄』と思って一生懸命書いた記者がいたとしたら、これは正常な神経とは、とても思われない。・・・事の真相はわからないが、かって日本人を湧かせたに違いない『武勇談』は、いつのまにか『人切り競争』の話となって、姿をかえて再びこの世に現れたのである。・・・ともあれ、現在まで伝えられている『南京大虐殺』と『日本人の残虐性』についてのエピソードは、程度の差こそあれ、いろいろな形で語り継がれている話が、集大成されたものであろう。被害者である中国がこのことを非難するのは当然だろうが、それに対する贖罪ということとは別に、今まで僕等が信じてきた『大虐殺』というものが、どのような形で誕生したのか、われわれの側から考えてみるのも同じように当然ではないのか。」

 では、こうした鈴木明の疑問が、その後どのように解明されていったかを見てみたいと思います、がその前に、まず、ベンダサンが提出した疑問─「『殺人ゲーム』と『百人斬り』は、場所も違い、時刻も違い、総時間数も違い、周囲の情景描写も違い、登場人物も同じでない(前者は三人、後者は二人)ので、もし『百人斬り』が事実なら『殺人ゲーム』はフィクションだということになります。・・・どう読めばり『百人斬り』が『殺人ゲーム』の証拠となりうるのか」について、その答えを紹介しておきます。

 この疑問については、洞富雄氏が指摘していることですが、「中国の旅」で中国人の姜さんが本多勝一氏に語ったという「殺人ゲーム」の話は、「これは当時日本で報道された有名な話」だと姜さん自身が断っているように、当時の東京日日新聞の「百人斬り競争」の記事がもとになっているのです。では、なぜ、この二つの話に、場所、時刻、総時間数、周囲の情景描写、登場人物の違いが生じたのでしょうか。

 その理由は、この「殺人ゲーム」のもとになった東京日日新聞の記事は、実際は1937年11月30日の第一報から1937年12月13日の第四報まであり、これが東京で発行されている英字紙『ジャパン・アドバタイザー』に転載されたとき、1937年11月6日の第三報と12月13日の第四報の記事のみが紹介され、第一報及び第二報の記事の紹介が漏れていたのです。これを、当時上海にいたティンパーレー(マンチェスター・ガーディアン特派員、その実国民党中央宣伝部顧問)が『戦争とは何か─中国における日本軍のテロ行為』の「付録」として掲載したものが、「日軍暴行紀実」として出版されたことから、この(東日の第一、二報抜きの)話が中国人に知られるようになったのです。

 洞氏は、このように「殺人ゲーム」が東京日日新聞の「百人斬り競争」の記事をもとにしていることを知りつつ、さらに、「百人斬り競争」の二少尉の職務が、大隊副官(野田)と歩兵砲小隊長(向井)であり、この二人が、歩兵小隊長のごとく第一戦に出て戦えるわけがない、と戦闘行為としての「百人斬り」を否定しつつも、実は、この東日の「”百人斬り競争”はやっぱり虐殺だったのだ。野田少尉もまた、百人以上の中国兵を虐殺しながら、恬として「私は何ともない」といってはばからないような精神状態の持ち主に仕立てられていた、若手将校だったのである」『南京事件』洞富雄P212~3)と述べています。

 それにしても、この二つの話は句容という地名や八九や七八という数字は合っていますが、物語としてはずいぶん異なっています。こうした相違点の分析を通して、どのように「事実」に肉薄するかが、問われていると思うのですが、しかし、洞氏は、「殺人ゲーム」の出所となった「百人斬り競争」の新聞記事の信憑性を自ら否定しながら、「殺人ゲーム」=伝説には向かわず、逆に、「百人斬り競争」を「戦場では不可能であるが・・・捕虜の虐殺なら・・・ありえたと思う」という形で「殺人ゲーム」を「事実」と推断しているのです。(『南京大虐殺』洞富雄P37)

 では、この東京日日新聞の「百人斬り競争」に関する第三、四報の記事が、どのような経路を経て「殺人ゲーム」に変化したのかを見てみましょう。

A1 東京日日新聞の「百人斬り競争」第三報(12月6日朝刊)は次のようになっています。
(見出し) 八十九─七十八/〝百人斬り〟大接戦/勇壮!向井、野田両少尉
(本文) [句容にて五日浅海、光本両特派員発] 南京をめざす「百人斬り競争」の二青年将校、片桐部隊向井、野田両少尉は句容入城にも最前線に立つて奮戦入城直前までの戦績は向井少尉は八十九名、野田少尉は七十八名といふ接戦となつた。

A2 同第四報(12月13日朝刊)は次の通りです。
(見出し) 百人斬り〝超記録〟向井 106-105 野田/両少尉さらに延長戦       (本文) [紫金山麓にて十二日浅海、鈴木両特派員発] 南京入りまで〝百人斬り競争〟といふ珍競争を始めた例の片桐部隊の勇士向井敏明、野田巌(ママ)両少尉は十日の紫金山攻略戦のどさくさに百六対百五といふレコードを作つて、十日正午両少尉はさすがに刃こぼれした日本刀を片手に対面した。
野田「おいおれは百五だが貴様は?」 向井「おれは百六だ!」……両少尉は〝アハハハ〟結局いつまでにいづれが先に百人斬ったかこれは不問、結局「ぢやドロンゲームと致さう、だが改めて百五十人はどうぢや」と忽ち意見一致して十一日からいよいよ百五十人斬りがはじまつた。十一日昼中山陵を眼下に見下ろす紫金山で敗残兵狩真最中の向井少尉が「百人斬ドロンゲーム」の顛末を語つてのち、知らぬうちに両方で百人を超えていたのは愉快ぢや、俺の関孫六が刃こぼれしたのは一人を鉄兜もろともに唐竹割にしたからぢや、戦ひ済んだらこの日本刀は貴社に寄贈すると約束したよ十一日の午前三時友軍の珍戦術紫金山残敵あぶり出しには俺もあぶりだされて弾雨の中を「えいまゝよ」と刀をかついで棒立ちになってゐたが一つもあたらずさこれもこの孫六のおかげだ、と飛来する敵弾の中で百六の生血を吸った孫六を記者に示した。

 この記事の第三報が、昭和12年12月7日付のジャパン・アドバタイザーに次のように紹介されました。(東京高裁判決3資料より転載)
B1「百人斬り競争の両少尉 接戦中
日本軍が完全に南京を占領する前に,どちらが先に中国兵を白兵戦で斬るか,仲良く競争中の句容の片桐部隊,向井敏明少尉と野田毅少尉は今やまさに互角の勝負をしながら最後の段階に入っている。
「朝日新聞」によれば,句容郊外で彼等の部隊が戦闘中であった日曜日の成績は,向井少尉89人,野田少尉は78人であった。」

 次いで、第四報が、1937年12月14日付けジャパン・アドバタイザーに次のように紹介されました。

B2「百人斬り競争 両者目標達成で延長戦
向井敏明少尉と野田厳少尉の,日本刀で百人の中国兵をどちらが先に殺すかという競争は勝負がつかなかった,と日日新聞が南京郊外の紫金山麓から報じている。向井は106人,競争相手は105人を斬ったが,どちらが先に100人を斬ったかは決められなかった。二人は議論で決着をつける代わりに,目標を50人増やすことにした。
向井の刀はわずかに刃こぼれしたが,それは中国兵を兜もろとも真っ二つに斬ったからだと彼は説明した。競争は"愉快"で,二人とも相手が目標を達成したことを知らずに100人を達成できたことは結構なことだと思う,と言った。
土曜日の早朝,日日新聞の記者が孫文の墓を見下ろす地点で向井少尉にインタビューしていると,別の部隊が中国軍を追っ払おうとして紫金山の山麓めがけて砲撃してきた。その攻撃で向井少尉と野田少尉もいぶし出されたが,砲弾が頭上を飛び過ぎる間,呑気にかまえて眺めていた。"この刀を肩に担いでいる間は,一発の弾も私には当たりませんよ。"と彼は自信満々に説明した。」

 これを、ティンパーレーが『戦争とは何か─中国における日本軍のテロ行為』に「付録」として掲載しました。(『南京大虐殺のまぼろし』鈴木明より転載)

C1〔南京”殺人レース”
一九三七年一二月七日「日本新聞(The Japan Advertiser)」という東京にあるアメリカ人経営の英字日刊紙が、次の記事を掲載した。
陸軍少尉、中国人百人斬りレースで接戦す。
句容(Kuyung)にあった片桐部隊の向井敏明少尉と野田毅少尉は、日本軍が完全に南京を占領する前に、刀による単独の戦闘(individual sword combat)でどちらが先に中国人百人を切り倒すかという腕くらべ(friendly contest)でギリギリの終盤戦に言っているが、ほとんど五分五分の競り合いを演じている。彼らの部隊が句容郊外で戦っていた日曜日には、『朝日新聞』(原文のまま)によれば、その”スコア”は向井八十九人、野田七十八人であった。

C2 一九三七年一二月一四日、同紙は次の追加記事を掲載した。
向井少尉と野田少尉とで争われたどちらが先に日本刀で中国人百人を殺すかという競争の勝者は決まっていない、と、『東京日日新聞』が南京郊外紫金山麓から伝えている。向井は百六人を数え、彼のライバルは百五人を片づけたが、二人の競争者はどちらが先に百人の目標を超えたか決められないことがわかった。討論でそれを解決するかわりに、彼らは目標を五十人だけ増やすことにした。
向井の刀身は競技中少し痛んだ。彼はそれを彼が中国人を鉄カブトもろとも一刀両断にした結果である、と説明した。この競技は、”遊び(fun)”だ、と彼は言明した。そして二人とも相手も百人を超しているとは知らずに百人の目標を超えたことはすばらしいことだ、と彼は考えている。「この刀を肩にかついでいれば、一発も当たらない」と彼は自信たっぷりに説明した。〕

 このティンパーレーの紹介記事をもとにしたと思われる「殺人ゲーム」では
D 「AとBの二人の少尉に対して、ある日上官が殺人ゲームをけしかけた。南京郊外の句容から湯山までの約十キロの間に、百人の中国人を先に殺した方に賞を出そう─。
二人はゲームを開始した。結果はAが八九人、Bが七十八人にとどまった。湯山についた上官は、再び命令した。湯山から紫金山まで十五キロの間に、もう一度百人を殺せ、と。結果はAが百六人Bが百五人だった。今度は二人とも目標に達したが、上官はいった、”どちらが先に百人に達したかわからんじゃないか。またやり直しだ。紫金山から南京城まで八キロで、こんどは百五十人が目標だ”
この区間は城壁が近く、人口が多い。結果ははっきりしないが、二人はたぶん目標を達した可能性が強いと、姜さんはみている」
となっています。

 そこで、このA,B,C,Dの記事を、①表題、②行為の性質、③対象者及び方法、④場所・時間、⑤結果、の各項目について比較すると次のようになります。

  A ①「百人切り競争」 ②刀による「私的盟約」に基づく戦闘行為。(第一報では向井少尉は、横林鎮の敵陣に部下とともに躍り込み五十五名を斬り伏せたとなっており、個人的戦闘行為か集団的戦闘行為か明確でない) ③中国人兵士 ④無錫から南京まで約180キロの間 ⑤第一報では無錫から常州まで向井59、野田25、第二報では丹陽まで向井86、野田65、第三報では句容まで向井89、野田78、第四報では紫金山までに向井106、野田105。どちらが先に100人斬ったかは不問、ドロンゲームとし、改めて150人を目標とする。(数字は第一報から四報までそれぞれの到達点における累計を示す。8/20修正)

 B ①「百人斬り競争」 ②刀による個人的戦闘行為。 ③白兵戦で中国兵100人を日本刀でどちらが先に斬るかを競う ④句容から紫金山まで約25キロの間 ⑤紫金山までに向井106、野田105。どちらが先に100人斬ったか決められないので、話し合いで決着するかわり目標を50人増やす。

 C ①「南京”殺人レース”」 ②刀による単独の戦闘(individudal sword combat) ③中国人(戦闘員か非戦闘員かはっきりしない)100人をどちらが先に斬るかを競う ④句容から紫金山まで約25キロの間 ⑤紫金山までに向井106、野田105。どちらが先に100人斬ったか決められないので、討論で解決するかわりに目標を50人増やす。

  D ①「殺人ゲーム」 ②上官がけしかけた個人的殺人ゲーム ③中国人(非戦闘員)  100人を先に殺した方に賞を出そう(武器の指定なし) ④句容から湯山まで約10キロの間 ⑤向井89人、野田78人にとどまった。上官は、湯山から紫金山まで約15キロ間にもう一度100人殺せと命令、結果は、向井106人、野田105人。上官は、”どちらが先に百人に達したかわからんじゃないか。またやり直しだ。紫金山から南京城まで八キロで、こんどは百五十人が目標だ”と命令した。

次に、これらの4つの記事を比較すると、次のようなことが明らかになります。
1 Aの、無錫から南京まで約180キロ間における、戦闘行為としての百人斬り競争の 話が、B、Cでは、句容~紫金山まで25キロの間における白兵戦での、百人斬りを競う個人的戦闘行為となっている。 ただし、Cでは対象が「中国人」となっており、戦闘員か非戦闘員かの区別が曖昧になっている。Dでは、句容から南京城までの間に、非戦闘員百人をどちらが先に殺すかという殺人ゲームを、3ラウンド繰り返した話になっている。これは、B、C、DがAの第3,4報の記事によっていることの証拠であるとともに、Cは非戦闘員殺害をほのめかし、Dは、事件の残虐性を明確にするため、はっきりと非戦闘員を対象とし、湯山という地名を新たに設けて、殺人競争を3ラウンド繰り返すなど、もとの記事にはない創作が加えられ、ほとんど”伝説”と化している。

2 Aは、第一報の、数をきめて時間を争う方法の非現実性に気づき、第四報で、その矛 盾を隠蔽する答弁を向井にさせている(野田に対して、何時100人に達したか聞かず に、現在までの到達人数を尋ねさせていること。つまり、数を決めて時間を争う競技を、時間(=場所)をきめて数を争う競技であったかのような表現にしている。どちらとも逃げられる表現で、実際の競技ではあり得ない)さらに、そのルールを曖昧にしたまま、改めて150人を目標としている。しかし、これも、プラス50人という意味か、改めて150人という意味わからない。つまり、競技のルールが明確でないということで、虚報であることの決定的な証拠となる。この点、B、C、Dではルールーの自覚は明確で、B、Cでは、うっかり100人を超えてしまい、どちらが先に100人斬ったか話し合いでは決められなかったので、仕方なく目標を50人増やしたとしている。Dは、数を限定して時間を争う競技を、3ラウンドやり直させたことにしている。ジャパン・ アドバタイザーの記者及びティンパーリー、さらに中国人は、この競技のルールをそのように理解し、それが一貫して適用されたとものと理解しているのである。(ベンダサンの分析)

3 Aは、二少尉による「私的盟約」に基づく戦闘行為としての「百人斬り競争」である。 しかし、徹底的な縦社会であり命令のみで動く軍隊組織では、こうした「私的盟約」に基づく戦闘行為は絶対に許されない。これが、B、Cでは個人的戦闘行為(Iindividual combat)とされている理由であり、Dでは、上官のそそのかし、または命令によったことになっている。これが、Aでは、第一報で、向井少尉が部下と共に敵陣に切り込んだとする記述があり、必ずしも個人的戦闘行為とはいえぬ部分があり、このことは向井少尉が「私的盟約に基づき陛下の兵を動かした」ことになり、そう認定されれば日本軍では「死」以外にない。これが、「百人斬り競争」報道に対する、野田少尉と向井少尉のその後の対応の差になっている、と山本七平は見ている。(『私の中の日本軍』上P203)

4 B、Cは、Aの記述を紹介した記事だから、そのまま、日本刀による「百人斬り競争」 の話になっている。しかし、Bでは、白兵戦での戦闘行為だが、Cでは、相手が戦闘員か非戦闘員かが曖昧になっている。これに対してDでは、平時における非戦闘員の殺人ゲームとなっている。また、「殺人ゲーム」の武器としての刀が明示されていない。非現実的な話ととられることを避けるためであろう。

5 Dでは、競技の勝者に賞を出す話になっている。中国ならではの督戦の方法か。「滅 私奉公」の「天皇の軍隊」には考えられない発想である。。(上掲書P210)日本軍の、いわゆる手柄に対 する報償は、「個人感状」あるいは「勲章」である。

6 Aでは、両少尉は、同一指揮下の歩兵小隊長であるかのような書き方がなされている。野田の場合○官と表示されその職務が故意に隠されている。だが、実際には、野田は大隊副官、向井は歩兵砲小隊長であり、両者とも前線に出て白兵戦を行う職務ではなく、彼らが自らの職務を放擲して「百人斬り競争」を行うことは不可能である。従って、A では両少尉の職務を隠した。これは、この記事を書いた記者がそのことを知っていたことの有力な証拠となる。(このことは『週刊新潮』の佐藤証言でも明らか。8/20挿入)(上掲書P209~214)B、C、Dは当然のことながら、二少尉を同一指揮系統下の歩兵として扱っている。

7 Aには、「鉄兜もろとも唐竹割」などという非現実的な記述がある。「鉄兜」という言葉は恐らく新聞造語であって軍隊にはない。軍隊では「鉄帽」であって、軍人は「鉄兜」などという言葉は口にしないものである。(上掲書下P91)Dでは、こうした表現はなくなっている。

8 (削除─別稿で扱う8/13)

 このようにAの記事の内容をB、C、Dと比較してみると、Aが虚報である故に隠蔽せざるを得なかったと思われる部分が、B、C、Dで必然的に浮かび上がっていることに気づきます。と同時に、戦意高揚のため戦闘中の武勇をたたえるはずの記事が、次第に、非戦闘員の虐殺を目的とした前代未聞の「殺人ゲーム」へと変化していることにも気づかされます。その結果、二少尉が、必死にそうした「残虐行為」はしていないと弁明しても、一切受け入れてもらえず、その新聞記事が「自白」に基づく唯一の証拠とされ、死刑判決が下され、さらに南京大虐殺を象徴する残虐犯人へと祭り上げられていったのです。

 こうした虚報のもつ恐るべきメカニズムの解明に立ち上がり、両少尉の等身大の実像を、南京法廷の裁判記録や両少尉の答辨書や手記や遺書等を発掘して明らかにしたのが鈴木明であり、こうした虚報のもつ罠に陥りやすい日本人の「日本教徒」としての弱点を指摘し、それを克服する視点を提供したのがイザヤ・ベンダサンであり、これらの視点を、日本軍の軍隊経験に照らして検証し、両少尉の無実を論証するとともに、「虚報」が日本を滅ぼしたという「事実」を、渾身の力で証明したのが山本七平であったといえます。

 では、次に、以上のような論証を一切無視して、Aの記事の「真相」について、それを捕虜や非戦闘員に対する「据えもの百人斬り競争」であったとする「恐るべき」主張について、果たしてそうした主張が成り立つものかどうかを、山本七平の論考等を参考に考えてみたいと思います。