11 ─”虚報”のメカニズムとその恐るべき帰結─
イザヤ・ベンダサンが「朝日新聞のゴメンナサイ」で、本多勝一氏の「中国の旅」の「殺人ゲーム」について指摘したことは、「日本教」における「謝罪の不思議」ということでした。ベンダサンは、それを人間同士の「相互懺悔・相互告解」と理解し、朝日新聞はこの特集を通じて、中国に対し懺悔・告解することによって相互に和解が成立し、中国と「二人称の関係」に入りうると考えているのではないかと指摘したのです。問題はそのように「私の責任です」と言いまわることで「責任は解除された」と中国が考えるかどうかだと。 また、この記事を契機に始まった本多勝一氏との論争において、ベンダサンは本多氏に対し、「言葉の踏絵」を逆用した誘導術を使って、「殺人ゲーム」は事実だと証言させ、それを証明する数多くの証拠(=信憑性のほとんどない伝聞証拠)を提出させることに成功したといっています。これによって、ベンダサンは、日本教徒がどのようにして「相手に迎合してオシャベリ機械」になってしまうかを紙上で再現し得たとしてこの主題を打ち切っています。また、それに続けて次のような驚くべき見解を述べています。「日本人は世界一謀略に弱い・・・これによって日本人をある方向へ誘導することは、そう難しいことではない・・・とすれば『真珠湾攻撃』の謎も解けるはずです。」と なお、この時、本多勝一氏が証拠として提出した「百人斬り競争」の新聞記事についても、ベンダサンはフィクションだと断定し、「もしこの一九三七年の記事の記者も、あくまでもこの記事が『事実』だと主張したら、そのときは前回と同様に『調書』の中の非常に類似したものと対比しつつ、一つ一つ論証いたします。」と述べています。この論証については、本エントリーのサブタイトル──ベンダサンのフィクションを見抜く目──で紹介しましたのでご覧下さい。 こうしたイザヤ・ベンダサン独自の主題設定とは全く別の観点から「中国の旅」の「殺人ゲーム」に疑問を持ち、その「事実」解明に立ち向かったのが鈴木明でした。 「今の時点で読めば(東京日日の「百人斬り競争」の新聞記事は)信じられないほどの無茶苦茶極まりない話だが、この話が人づてに中国にまで伝わってゆくプロセスで、いくつかの点でデフォルメされている。 では、こうした鈴木明の疑問が、その後どのように解明されていったかを見てみたいと思います、がその前に、まず、ベンダサンが提出した疑問─「『殺人ゲーム』と『百人斬り』は、場所も違い、時刻も違い、総時間数も違い、周囲の情景描写も違い、登場人物も同じでない(前者は三人、後者は二人)ので、もし『百人斬り』が事実なら『殺人ゲーム』はフィクションだということになります。・・・どう読めばり『百人斬り』が『殺人ゲーム』の証拠となりうるのか」について、その答えを紹介しておきます。 この疑問については、洞富雄氏が指摘していることですが、「中国の旅」で中国人の姜さんが本多勝一氏に語ったという「殺人ゲーム」の話は、「これは当時日本で報道された有名な話」だと姜さん自身が断っているように、当時の東京日日新聞の「百人斬り競争」の記事がもとになっているのです。では、なぜ、この二つの話に、場所、時刻、総時間数、周囲の情景描写、登場人物の違いが生じたのでしょうか。 その理由は、この「殺人ゲーム」のもとになった東京日日新聞の記事は、実際は1937年11月30日の第一報から1937年12月13日の第四報まであり、これが東京で発行されている英字紙『ジャパン・アドバタイザー』に転載されたとき、1937年11月6日の第三報と12月13日の第四報の記事のみが紹介され、第一報及び第二報の記事の紹介が漏れていたのです。これを、当時上海にいたティンパーレー(マンチェスター・ガーディアン特派員、その実国民党中央宣伝部顧問)が『戦争とは何か─中国における日本軍のテロ行為』の「付録」として掲載したものが、「日軍暴行紀実」として出版されたことから、この(東日の第一、二報抜きの)話が中国人に知られるようになったのです。 洞氏は、このように「殺人ゲーム」が東京日日新聞の「百人斬り競争」の記事をもとにしていることを知りつつ、さらに、「百人斬り競争」の二少尉の職務が、大隊副官(野田)と歩兵砲小隊長(向井)であり、この二人が、歩兵小隊長のごとく第一戦に出て戦えるわけがない、と戦闘行為としての「百人斬り」を否定しつつも、実は、この東日の「”百人斬り競争”はやっぱり虐殺だったのだ。野田少尉もまた、百人以上の中国兵を虐殺しながら、恬として「私は何ともない」といってはばからないような精神状態の持ち主に仕立てられていた、若手将校だったのである」『南京事件』洞富雄P212~3)と述べています。 それにしても、この二つの話は句容という地名や八九や七八という数字は合っていますが、物語としてはずいぶん異なっています。こうした相違点の分析を通して、どのように「事実」に肉薄するかが、問われていると思うのですが、しかし、洞氏は、「殺人ゲーム」の出所となった「百人斬り競争」の新聞記事の信憑性を自ら否定しながら、「殺人ゲーム」=伝説には向かわず、逆に、「百人斬り競争」を「戦場では不可能であるが・・・捕虜の虐殺なら・・・ありえたと思う」という形で「殺人ゲーム」を「事実」と推断しているのです。(『南京大虐殺』洞富雄P37) では、この東京日日新聞の「百人斬り競争」に関する第三、四報の記事が、どのような経路を経て「殺人ゲーム」に変化したのかを見てみましょう。 A1 東京日日新聞の「百人斬り競争」第三報(12月6日朝刊)は次のようになっています。 A2 同第四報(12月13日朝刊)は次の通りです。 この記事の第三報が、昭和12年12月7日付のジャパン・アドバタイザーに次のように紹介されました。(東京高裁判決3資料より転載) 次いで、第四報が、1937年12月14日付けジャパン・アドバタイザーに次のように紹介されました。 B2「百人斬り競争 両者目標達成で延長戦 これを、ティンパーレーが『戦争とは何か─中国における日本軍のテロ行為』に「付録」として掲載しました。(『南京大虐殺のまぼろし』鈴木明より転載) C1〔南京”殺人レース” C2 一九三七年一二月一四日、同紙は次の追加記事を掲載した。 このティンパーレーの紹介記事をもとにしたと思われる「殺人ゲーム」では そこで、このA,B,C,Dの記事を、①表題、②行為の性質、③対象者及び方法、④場所・時間、⑤結果、の各項目について比較すると次のようになります。 A ①「百人切り競争」 ②刀による「私的盟約」に基づく戦闘行為。(第一報では向井少尉は、横林鎮の敵陣に部下とともに躍り込み五十五名を斬り伏せたとなっており、個人的戦闘行為か集団的戦闘行為か明確でない) ③中国人兵士 ④無錫から南京まで約180キロの間 ⑤第一報では無錫から常州まで向井59、野田25、第二報では丹陽まで向井86、野田65、第三報では句容まで向井89、野田78、第四報では紫金山までに向井106、野田105。どちらが先に100人斬ったかは不問、ドロンゲームとし、改めて150人を目標とする。(数字は第一報から四報までそれぞれの到達点における累計を示す。8/20修正) B ①「百人斬り競争」 ②刀による個人的戦闘行為。 ③白兵戦で中国兵100人を日本刀でどちらが先に斬るかを競う ④句容から紫金山まで約25キロの間 ⑤紫金山までに向井106、野田105。どちらが先に100人斬ったか決められないので、話し合いで決着するかわり目標を50人増やす。 C ①「南京”殺人レース”」 ②刀による単独の戦闘(individudal sword combat) ③中国人(戦闘員か非戦闘員かはっきりしない)100人をどちらが先に斬るかを競う ④句容から紫金山まで約25キロの間 ⑤紫金山までに向井106、野田105。どちらが先に100人斬ったか決められないので、討論で解決するかわりに目標を50人増やす。 D ①「殺人ゲーム」 ②上官がけしかけた個人的殺人ゲーム ③中国人(非戦闘員) 100人を先に殺した方に賞を出そう(武器の指定なし) ④句容から湯山まで約10キロの間 ⑤向井89人、野田78人にとどまった。上官は、湯山から紫金山まで約15キロ間にもう一度100人殺せと命令、結果は、向井106人、野田105人。上官は、”どちらが先に百人に達したかわからんじゃないか。またやり直しだ。紫金山から南京城まで八キロで、こんどは百五十人が目標だ”と命令した。 2 Aは、第一報の、数をきめて時間を争う方法の非現実性に気づき、第四報で、その矛 盾を隠蔽する答弁を向井にさせている(野田に対して、何時100人に達したか聞かず に、現在までの到達人数を尋ねさせていること。つまり、数を決めて時間を争う競技を、時間(=場所)をきめて数を争う競技であったかのような表現にしている。どちらとも逃げられる表現で、実際の競技ではあり得ない)さらに、そのルールを曖昧にしたまま、改めて150人を目標としている。しかし、これも、プラス50人という意味か、改めて150人という意味わからない。つまり、競技のルールが明確でないということで、虚報であることの決定的な証拠となる。この点、B、C、Dではルールーの自覚は明確で、B、Cでは、うっかり100人を超えてしまい、どちらが先に100人斬ったか話し合いでは決められなかったので、仕方なく目標を50人増やしたとしている。Dは、数を限定して時間を争う競技を、3ラウンドやり直させたことにしている。ジャパン・ アドバタイザーの記者及びティンパーリー、さらに中国人は、この競技のルールをそのように理解し、それが一貫して適用されたとものと理解しているのである。(ベンダサンの分析) 3 Aは、二少尉による「私的盟約」に基づく戦闘行為としての「百人斬り競争」である。 しかし、徹底的な縦社会であり命令のみで動く軍隊組織では、こうした「私的盟約」に基づく戦闘行為は絶対に許されない。これが、B、Cでは個人的戦闘行為(Iindividual combat)とされている理由であり、Dでは、上官のそそのかし、または命令によったことになっている。これが、Aでは、第一報で、向井少尉が部下と共に敵陣に切り込んだとする記述があり、必ずしも個人的戦闘行為とはいえぬ部分があり、このことは向井少尉が「私的盟約に基づき陛下の兵を動かした」ことになり、そう認定されれば日本軍では「死」以外にない。これが、「百人斬り競争」報道に対する、野田少尉と向井少尉のその後の対応の差になっている、と山本七平は見ている。(『私の中の日本軍』上P203) 4 B、Cは、Aの記述を紹介した記事だから、そのまま、日本刀による「百人斬り競争」 の話になっている。しかし、Bでは、白兵戦での戦闘行為だが、Cでは、相手が戦闘員か非戦闘員かが曖昧になっている。これに対してDでは、平時における非戦闘員の殺人ゲームとなっている。また、「殺人ゲーム」の武器としての刀が明示されていない。非現実的な話ととられることを避けるためであろう。 5 Dでは、競技の勝者に賞を出す話になっている。中国ならではの督戦の方法か。「滅 私奉公」の「天皇の軍隊」には考えられない発想である。。(上掲書P210)日本軍の、いわゆる手柄に対 する報償は、「個人感状」あるいは「勲章」である。 6 Aでは、両少尉は、同一指揮下の歩兵小隊長であるかのような書き方がなされている。野田の場合○官と表示されその職務が故意に隠されている。だが、実際には、野田は大隊副官、向井は歩兵砲小隊長であり、両者とも前線に出て白兵戦を行う職務ではなく、彼らが自らの職務を放擲して「百人斬り競争」を行うことは不可能である。従って、A では両少尉の職務を隠した。これは、この記事を書いた記者がそのことを知っていたことの有力な証拠となる。(このことは『週刊新潮』の佐藤証言でも明らか。8/20挿入)(上掲書P209~214)B、C、Dは当然のことながら、二少尉を同一指揮系統下の歩兵として扱っている。 7 Aには、「鉄兜もろとも唐竹割」などという非現実的な記述がある。「鉄兜」という言葉は恐らく新聞造語であって軍隊にはない。軍隊では「鉄帽」であって、軍人は「鉄兜」などという言葉は口にしないものである。(上掲書下P91)Dでは、こうした表現はなくなっている。 8 (削除─別稿で扱う8/13) このようにAの記事の内容をB、C、Dと比較してみると、Aが虚報である故に隠蔽せざるを得なかったと思われる部分が、B、C、Dで必然的に浮かび上がっていることに気づきます。と同時に、戦意高揚のため戦闘中の武勇をたたえるはずの記事が、次第に、非戦闘員の虐殺を目的とした前代未聞の「殺人ゲーム」へと変化していることにも気づかされます。その結果、二少尉が、必死にそうした「残虐行為」はしていないと弁明しても、一切受け入れてもらえず、その新聞記事が「自白」に基づく唯一の証拠とされ、死刑判決が下され、さらに南京大虐殺を象徴する残虐犯人へと祭り上げられていったのです。 こうした虚報のもつ恐るべきメカニズムの解明に立ち上がり、両少尉の等身大の実像を、南京法廷の裁判記録や両少尉の答辨書や手記や遺書等を発掘して明らかにしたのが鈴木明であり、こうした虚報のもつ罠に陥りやすい日本人の「日本教徒」としての弱点を指摘し、それを克服する視点を提供したのがイザヤ・ベンダサンであり、これらの視点を、日本軍の軍隊経験に照らして検証し、両少尉の無実を論証するとともに、「虚報」が日本を滅ぼしたという「事実」を、渾身の力で証明したのが山本七平であったといえます。 では、次に、以上のような論証を一切無視して、Aの記事の「真相」について、それを捕虜や非戦闘員に対する「据えもの百人斬り競争」であったとする「恐るべき」主張について、果たしてそうした主張が成り立つものかどうかを、山本七平の論考等を参考に考えてみたいと思います。 |