9 ─ベンダサンが「中国の旅」を取り上げたワケ─

2007年7月16日 (月)

 ベンダサンが朝日新聞の「中国の旅」を取り上げたのは「昭和47年1月号の『諸君』です。ベンダサンはこの時「日本教について─あるユダヤ人への手紙」と題するエッセイを『諸君』に連載中で、これはその第9回目にあたり論題は『朝日新聞の「ゴメンナサイ」』となっていました。

 ベンダサンのこのエッセイは、その前年に出版されて大評判となった『日本人とユダヤ人』の内容を敷衍するもので、『日本人とユダヤ人』が主として「日本教」の長所と思われる部分(=政治天才など)を論じていたのに対して、ここではその逆に「日本教」の短所と思われる部分を論じていました。

 それは「言葉の踏み絵と条理の世界」に始まり、日本人は言葉を「踏絵」として差し出す。この踏絵は一宗教団体が正統、異端を見分けるためのものである。この踏絵の基礎となる教義を支えている宗教が私のいう日本教である。そして日本語とは、その日本教の宗教用語である。その基礎は教義であって論理ではない。日本語には論理はない。論理がないから、厳密な意味の叙述もない、など、かなり思い切った論述がなされていました。(立花隆氏などはこれに猛反発していましたね)

 では、日本人の論理(論理ではないが、何かそれに似た順序で、結論を追っていく方法)とはどういうものかというと、それは「天秤の論理」とでもいうべきもので、天秤皿の一方には実体語(=本音に近い言葉)が載っており、他方の分銅を乗せる皿には、その尺度としての空体語(=建前に近い言葉)が載っており、この二つの言葉を(日本人の言う)「人間」という支点でバランスをとることによって、提示された問題についての政治的決着がはかられる、というのです。

 また、こうした政治的決着に至るためには、その相手と「お前と、お前のお前(=自分)」という二人称の関係に入ることが必要で、そのためには両者の「話し合い」が極めて重要になると論じています。また、日本人はこのような二人称の関係に入ることを「民主的」と考えている、というのです。

 そしてここから、日本人における「責任」という問題に論及し、夏目漱石の「坊ちゃん」の狸校長の「私の寡徳の致すところ」(=自分の責任)という言葉を引き合いに出して、日本人の謝罪の不思議を指摘しました。いわく、日本人は「自分の責任」ということによって自分の純粋性を証明し、それによって、逆に「自分の責任が免除される」ことを当然としている、と。

 こうした論述の流れの中で、冒頭に述べた朝日新聞の「中国の旅」がとりあげられたのです。つまり、今、朝日新聞が、中国で日本人が行った虐殺事件の数々を報道しているが、不思議なことにこの記事にも、この記事への反響にも、その虐殺事件を起こした個人に対する責任追及が全くない、というのです。

 そしてベンダサンは、「『ソンミ事件』の報道がカリー裁判となったように、この報道が中国における虐殺事件の責任者を日本の法廷に立たせることが起こりうるか、と問われれば、この連載はまだ終わってはいないが、終わった時点においても、日本ではそういうことはもちろんのこと、個人の責任の追求も、絶対に起こらないと断言できます。」

 といっても、「もちろん日本人は一部で誤解されているような『フェアーでない民族』ではありませんから、以上の考え方を自己弁護のため自らにだけ適用しているのではなく、自らが被害者になった場合にも等しく適用しているのです(これは見落とされがちですが)。たとえば『原爆反対』の運動はあっても『ヒロシマに原爆投下を命じたトルーマン元大統領(故人)の責任を追及する』ということは起こらないのです。」

 「では一体『朝日新聞』は何のためにこの虐殺事件を克明に報道しているのでしょうか。これによって『だれ』を告発しているのでしょうか。『だれ』でもないのです。・・・(それは)『戦争殺人』『侵略殺人』『軍国主義殺人』を告発しているのであって、直接手を下した下手人個人および手を出させた責任者個人を告発しているのではないのです。そしてこの虐殺事件を起こしたのは『われわれ日本人』の責任だといっているのです。」

 そこで、こういった日本人の態度について、「坊ちゃん」の狸校長への批判の言葉を適用すると、「われわれ日本人の責任だというなら、そう言っているご本人も日本人なのだろうから、そう言う本人がまずその責任をとって、記事など書くのはやめて、自分が真っ先に絞首台にぶら下がってしまったら、よさそうなもんだ」ということになります。

 「しかしそう言えば、この記者はもちろんのこと、『朝日新聞』も識者も読者も非常に怒り、・・・『そういうことを言うやつがいるから、こういう事件が起こるのだ』と言われて、この言葉を口にした人間が『責任』を追求されますから、これはあくまでも『ひとりごと』に止めねば、大変なことになります。」

 つまり、「日本教=二人称の世界では、『それは私の責任』ということによって『責任=応答の義務』はなくなるのに、この論理は逆に『(私の)責任だと自供したのなら、自供した本人がその責任を追及されるのは当然だ』としているからです。もう一度申し上げますが、これは日本教では絶対に許されません。もしこれを許したら、日本教も天皇制も崩壊してしまうからです。」

 以上のように述べた後、ベンダサンは再び『朝日新聞』の「中国の旅」にもどり次のように言います。
「私は、日本人はまた中国問題で大きな失敗をするのではないかと思っております。日本には現在『日本は戦争責任を認め、中国に謝罪せよ』という強い意見があります。一見、誠に当然かつ正しい意見にみえますが、それらの意見を仔細に調べてみますと、この意見の背後には、まさにこの「狸の論理」が見えてくるのです。すなわち『私の責任です、といって謝罪することによって責任が免除され、中国と『二人称の関係に入りうる』と言う考え方が前提に立っているとしか思えないのです。・・・

 しかし中国側からこれを見れば『日本人は昔通りの嘘つきだ、自分の責任だと自分の方から言い、かつ謝罪までしておいて、責任を認めているなら当然実行すべきことを要求すれば、とたんにこれを拒否するとんでもない連中だ』ということになります。これは『債務を認めます』と自分からいうので、それを取り立てに行ったところが、玄関払いされたと同じような怒りを中国人に起こさせるわけです。」

 今「日中国交正常化」は日本のあらゆる言論機関の共通したスローガンですが、私の知る限りでは、明治初年以来、日本と中国の関係が正常であった時期は皆無と言って過言ではありません。・・・理由は私の見るところでは非常に簡単で、日本人と中国人とは『お前のお前』という二人称のみの関係に入りうると、日本人が勝手に信じ込んでいるからです。」

 そして「以上のことは、もちろん、別に日本の政府や新聞を批判するために書いたわけではありません。ただこれらのことを絶えず念頭に置いておきませんと、これからのべる『世にも不思議な物語』が、全く理解できないであろうと考えたからです。」といって、「松川事件」における被告の、ほとんど「鸚鵡的供述」ともいうべき「自供」「証言」の「不思議」について論究していくのです。(以上『日本教について』「朝日新聞の『ゴメンナサイ』」)

 これに対して、朝日新聞の「中国の旅」の記者である本多勝一氏は、同年の『諸君』2月号に「イザヤ・ベンダサン氏への公開状」を掲載し、次のように反論しました。

 「あの一月号のベンダサン氏の文章を読んだら、最初から『あ、これはアラビア人の目で日本人を見たときと同じだ』(本多氏の「アラビア遊牧民」参照=筆者)そのような共通な視点にある僕に対して、ベンダサン氏は『責任を持って追及すべき相手は〈ゴメンナサイ〉といわなかった者でなく、この行為の下手人と責任者なのだ。それをしないで〈ゴメンナサイ〉といわない者を追求しても、それで〈日本人は責任を果たした〉と考えるのは日本人だけだということを、あなたは一体知っているのか知らないのか』とかみついているんだなあ。困っちゃったよ。だって全く同じことを、僕自身がベンダサン氏よりずっと前に書いているんだから。」といって、氏の著作『極限の民族』「秘境日本」(p410)の一節を引用しています。

 〈・・・とにかくだまされたら命がないのだから、人間は絶対に信用してはいけない。また、たとえ何か失敗しても、断じてそれを認めてはいかんのだ。100円の皿を割って、もし過失を認めたら、相手がベドウィンなら弁償金を1000円要求するかもしれないからだ。だからサラを割ったアラブはいう─『このサラは今日割れる運命にあった。おれの意志と関係ない』

 さて、逆の場合を考えてみよう。サラを割った日本人なら、直ちにいうに違いない─『まことにすみません』。ていねいな人は、さらに『私の責任です』などと追加するだろう。それが美徳なのだ。しかし、この美徳は世界に通用する美徳ではない。まずアラビア人は正反対。インドもアラビアに近いだろう。フランスだと『イタリアのサラならもっと丈夫だ』というようなことをいうだろう。

 私自身の体験ではせますぎるので、多くに知人、友人または本から、このような『過失に対する反応』の例を採集した結果、どうも大変なことになった。世界の主な国で、サラを割って直ちにあやまる習性があるところは、まことに少ない。『私の責任です』などとまでいってしまうお人好しは、まずほとんどいない。日本とアラビアとを正反対の両極とすると、ヨーロッパ諸国は真中よりもずっとアラビア寄りである。隣の中国でさえ、サラを割ってすぐあやまる例なんぞ絶無に近い〉

 本多氏は、このように、日本人にすぐ「私の責任です」と謝る習性があることについて、それは世界の主な国においてはまことに特殊なことだと、ずっと前に私自身指摘していると述べた上で、次のような内容の、氏が、「中国の旅」の取材に協力してくれた人たちに対して述べたお礼の言葉を紹介しています。

 その要旨は、南京大虐殺が行われていた当時私は幼児だったので、この罪悪に対する直接の責任はない。本質的には、中国の民衆と同じく、日本の民衆も被害者だった。だから、私自身が皆さんに謝罪しようとは思わない。だが、日本の一般人民は、日本敗戦後二十数年過ぎた今なお、中国で日本が何をしたかという事実そのものを知らされていない。その事実を日本国民に知らせ、現在進行中の日本における軍国主義の進行を阻止することこそ、真の謝罪になる、というものです。

 そして、その終章で「真の犯罪人は天皇なのだ」として、ベンダサンが発した、朝日新聞の「中国の旅」の記者は「これによって『だれ』を告発しているのでしょうか」という問に答える形で、次のような、氏が『月刊社会党』に書いた一文を紹介しています。

 〈中国人が何千万人も殺された行為が、どのような構造によってなされたかを、素朴に、原点にさかのぼって考えてみよう。・・・天皇制。すべては天皇に象徴される天皇制軍国主義によってなされた。・・・すべては天皇の名において駆り出され、殺されたり、殺させられたり、あるいは本土でも大空襲や原爆で殺された。・・・ところが、そのわかりきった最大の戦争犯罪人を日本の私たちは平然と今でもそのまま保存している・・・

 天皇制などというものは、シャーマニズムから来ている未開野蛮なしろものだということは、ニューギニア高知人だって、こんな未開な制度を見たら大笑いするであろうことも知っている。・・・この世界で最もおくれた野蛮な風習を平気で支持している日本人・・・こんな民族は、世界一恥ずべき最低民族なのであろうが、私もまたその一人なのだ。少しでも、ましな民族になってほしいと、いたたまれない『愛国』の気持ちで、こんな文章も書いている。・・・

 戦後、天皇は人間になったなどといわれたが、『象徴』という奇妙な存在として、結局は天皇制が残された。この曖昧な存在。こういう思想的甘さが、どれだけ残酷な結果をもたらしてきたことだろうか。天皇が断罪されるかどうか。まさにこれこそ日本人がアニミズムから脱却できるかどうかの「象徴」なのだ。・・・このような天皇制について、一切口をぬぐっている者は、中国やアジア諸国に対して「謝罪」の如きを決して口にしてはならない〉

 そして、最後に、ベンダサンが、「中国の旅」を「謝罪」だと決めつけたことに対して、あれは、とにかくまず素材としての事実を知ることを第一の目的とするルポであるといい、ベンダサンの視点と自分の視点は「ある限界までは同じ」だが、「基本的には同じ」ではないとして、ベンダサンに対して、その名解釈を期待したいとする次のような問題を出しました。

 「『責任者個人』を追求して裁判にかけないのは日本的特徴だと彼は書いているが、またこれには僕自身も大賛成なのだが、それでは、アメリカ人が主体となってやった東京の極東軍事裁判は、どうして天皇を裁判にかけなかったんだろうか。これでは日本人のやり方とアメリカ人のそれと全く一致してしまうじゃないか」と。

 こうして、イザヤ・ベンダサンと本多勝一氏の論争が開始されたわけですが、ここにおける本多氏の論を見れば、この論争が「日本人の謝罪」論に止まるものではないことは明らかです。しかし、それにしても、この本多氏の公開状に対するベンダサンの返書は驚くほど挑発的なもので、慇懃無礼というほかないものでした。識者の中にはこれを惜しむ意見もありましたが、その後の、ベンダサン自身の「種明かし」によると、これはなんと、氏が「日本教について」で論じてきた、日本人の証言における「鸚鵡的供述」(=オシャベリ機械)を、本多氏を相手に紙上で再現するためであった、というのです。(『日本教について』p277)
なにはともあれ、次回以降、その論争の跡をたどってみましょう。ここから「据えもの百人斬り競争」という恐るべき主張が姿を現すことになるのですから。