8 ─ベンダサンのフィクションを見抜く目─

2007年7月 4日 (水)

 以下の文章は、前回紹介した山本七平からベンダサンに宛てた質問状に対するベンダサンの回答を山本七平が要約したものです。大変おもしろいので、長くなりますが、そのまま引用させていただきます。

 〈これは競技の記事である。たとえ場所を戦場に設定しようと、競技の対象が殺人という考えられない想定であろうと、これは競技の記事であって、戦争の記事ではない。言うまでもなくすべての競技には「ルール」「審判」「参加者」が必要であり、それを記録するなら「記録者」が必要であり、そしてその全員がルールを熟知していなければ、競技も競技の記述も成立しない。全員が自分たちが何を争っているかわかっていない競技は存在しない。従ってこの二つの記事にも、もちろん最初にまずルールが記述されている。ルールは「本多版」も「浅海版」も同じで、それは「本多版」に次のように明確に記されている通りである。

 「これは日本でも当時一部で報道されたという有名な話なのですが」と姜さんはいって、二人の日本人がやった次のような「殺人競争」を紹介した。
AとBの二人の少尉に対して、ある日上官が殺人ゲームをけしかけた。南京郊外の句容から湯山までの約十キロの間に、百人の中国人を先に殺した方に賞を出そう・・・。従って、この競技は、「フィールドの範囲を示し、次に数を限定し、時間を争う型」の競技である。従ってその原則は基本的に百メートル競走と差はない。「一人斬り」を「一メートル走り」となおせばそれでよい。すなわち競技者は、どちらが早く百に達するか時間を争っているはずであって、時間を限定して数を争っているのではない。

 通常、競技は、ルールという多くの確定要素の中の一つの不確定要素を争うもので、不確定要素が二つあっては競技は成立しない。またこの不確定要素すなわち争点が絶えず変化する競技も存在しない。

 しかしこれはあくまで原則であって、実際には、不確定要素が二つある場合もある。これがいわば「百人斬り競争」であって、百という数は確定していても、これは百メートルのように予め設定されているわけではなく、現実には、競技の進行と同時に発生していく数である。

 この種の競技に審判が判定を下す方法は原則として二つあるが、通常採用されているのは「ストップ」をかける方式である。一応「ストップ方式」としておく。すなわち、一方が百に達した瞬間にストップをかける。その際、もちろん、相手の数が百を超えることはありえない。この際、相手が九十八ならその差は数で示されるが、この数はあくまでも時間を数で表現しているのであって、争われているのは時間である。

 この方式は、通常、減点方式がとられるはずである。明らかにこの「ストップ方式」を想定しているのが「本多版」である。これについては後述するが、いかにフィクションとはいえ、戦場においてストップ方式を採用させることは出来ない。理論的には別だが、実際問題において、この種の競技はストップ方式しかとれないのが普通だから、「事実」にしようと思うなら、戦場もしくは戦闘行為という想定をはずさなければならない。従って「本多版」は、実質的に戦場ではない。前記のルール通りなら、こうする以外には不可能である。

 ここで「浅海版」を見てみよう。恐るべき論理の混乱ではないか。この点「本多版」から本多氏の加筆を除いた部分は、論理の混乱は全くない。中国人は日本人より論理的なのかも知れぬが、これは恐らく「浅海版」が、基本的には上記と同じ論理を戦場にあてはめようという「不可能」を無理に行ったため生じた混乱であろう。

 「百人斬り競争」という言葉自体が、「数を限定して時間を争う」ことを規定しており、同時に部隊が移動していることは、場所の移動が時間を示している。言うまでもなく、向井少尉の「丹陽までで云々」は丹陽につく時間までには、百というゴールに到達してみせるぞ、という意味であって、この場合の彼の言葉は、あくまでも「百という数を限定して、それを争っているこの競技において、おれは、時間的に相手を切り離したから、俺の勝ちになるぞ」といっているわけである。ここで彼は、はっきりと数を限定して時間を争う競技と意識しており、これへの野田少尉の返事も同じである。ところがいつの間にか、このルールをあやふやにして、時間を限定して数を争う競技でもあったかの如く、次のように変えている。

 野田「おい俺は百五だが貴様は?」向井「俺は百六だ!」・・・両少尉は”アハハハ”結局いつまでにいづれが先に百人斬ったかこれは不問、結局「ぢゃドロンゲームと致そう、改めて百五十はどうぢゃ」

 いかなる競技であれ、本当に競技を行ったのなら、そしてそれが「時間を争う」競技なら、百に達した時間を記憶していないと言うことはない。第一その時に出てくる質問はあくまでもまず相互に「お前は何時何分に(場所にかえて「どこで」でもよい)百に達したか」であっても数ではない。次のそれにつづく「改めて百五十」とは何を意味するのか。数を決めて時間を争うというのか、時間を決めて、百五十を目標に争うと言うのか。

 もし、本当にルールが設定され、競技が行われ、その結果を摘記要約したのなら、いかなる競技の記事であれ、このような混乱は生じえない。たとえばオリンピックの百メートル競走において、百メートルという数を限定してそれに到達する時間を争っている、と書いているものが、途中で、時間を十五秒にきめてその間に何メートル走れるかを争っている、と書きかえていたら、すべての人が、この記述はおかしい。何かの混乱か、誤記か、とまず考えるであろう。私の考えでは、そう考えない人のほうがおかしい。だが、事実を記述した場合の混乱は、記者の認識不足から生ずるのであって、「事実」が混乱を生じているのではない。従って事実を整理すれば、記者の認識不足が浮かび上がる。そしてこの場合は、フィクションではないと考えるのが本当であろう。だがここで、この点で「本多版」の検討に移ろう。

 「本多版」は論理的構成においては破綻を来しておらず、ルールの設定、審判の態度、その他すべて筋が通っており、二人は終始、はっきりとそれを意識して数を限定して時間を争っている。第一回は百に達しなかった。これは百メートル競走において一人が八十九メートル、もう一人が七十八メートルで転倒したに等しい。これでは競技をやりなおすより仕方がない。しかし第二回においては、一方が百に到達した瞬間にストップをかけよと審判に注意すべきものが失念し、二人が共に百を超してしまったときに、はじめて審判がこれに気づいた。いわばゴールにテープをはるのを忘れて、一方が百六メートル、一方が百五メートルまで走ってしまったときにそれに気づいたに等しい。当然審判は不機嫌になり、コースを百五十メートルにのばして、もう一度競技を再開することを命じた。

 この設定を読んだ場合、本多氏のように、「・・・二人はたぶん目標を達した可能性が強いと、姜さんはみている」と見ることは少しおかしい。そうでなく姜氏は、三回目には審判もストップ係も緊張して、一方が百五十に達したときにストップをかけ、従って一方は百五十以下にとどまり、競技は成立したであろうと見ているはずである。記者の認識不足により生ずる混乱はこのような形で起こる。従って本多氏がこの話を聞いたという事実は、絶対にフィクションではない。これが、事実を整理すれば記者の無能と理解力の欠如に基づく誤認及びこれに基づく混乱がわかる例である。だが「浅海版」はそうではない。しかし「本多版」をさらに検討しよう。

 なぜ上官が登場したか。これは、審判である。前述のように不確定要素が二つあるに等しいため、ストップをかけて時間を数に還元して勝敗を決めるという方式の競技は、実際には、審判の目の前で行い、審判がストップをかけねば成立しないからである。従って、数に異常な誇張がなければ、「本多版」は、論理的には「ありえなかった」とは断言できない。

 従ってこのように記者の誤認を整理すれば、論理的設定が完全な場合の真偽は、数を単位に還元して調べる以外にない。たとえば長距離競走の記事があり、その論理的構成は完全であっても、逆算すると百メートルを三秒で走ることになっていたら、そういうことはあり得ない。しかしこれは人間の能力測定の問題であって議論の対象ではないから、これを議論の対象にすることはおかしい。

 ではここで「浅海版」へもどろう。戦場においてもし競技が行われうるなら、それは、「時間を限定して戦果を争う」競技以外にはありえない。「戦果を限定して時間を争う」ことは、「本多版」のように、一方が無抵抗な場合に限られる。いかにのんきな読者でも、少なくとも相手の存在する戦闘において、戦果が一定数に達した瞬間に何らかの形でストップをかけうる戦闘があることは納得しない。

 もちろん二人の背後に測定者がいて、百までを数え、同時に百に達した時間を記録し、その時間を審判に提示しうれば別であるが、それを戦場における事実であると読者に納得させることは不可能である。走者と共に走りつつ、巻き尺で百メートルを計測しつつ、百メートルに達した瞬間にストップウオッチを押すという競技は、平時でも、理論的には成り立ち得ても実施するものはいないであろう。しかし、もしこの「百人斬り」が数の競技なら、読者からの質問に、何物かに数を数えさせたと答弁しうるであろうが、時間を測定させたのでは誰が考えても作為になってしまう。従って、この作者は、非常に注意深く、人に気づかれぬように、時間の競技を数の競技へと書きかえていったのである。従ってそれによって生じた混乱は、「本多版」の混乱とちがう。

 なぜこういう混乱が生じたか。その理由は言うまでもない。この事件には「はじめにまず表題があった」のである。「百人斬り」とか「千人斬り」とかいう言葉は、言うまでもなく俗受けのする慣用的俗語である。何物かが、この言葉を、新聞の大見出しにすることに気づいた。そしておそらく三者合作でその内容にふさわしい物語を創作した。

 しかしその時三人は、この言葉を使えば、それが「数を限定して時間を争う競技にならざるを得ないこと、そして戦場ではそれは起こりえないことに気づかなかった。そしておそらく第一報を送った後で誰かがこれに気づき、第二報ではまずこの点を隠蔽して、読者に気づかれぬように、巧みに「時間を限定して数を争う」別の競技へと切替えていった。この切替えにおける向井少尉の答弁は模範的である。事前の打合せがあったか、三者相談の結果を向井少尉に語らせたか、であろう。すべての事態は、筆者の内心の企画通りに巧みに変更されていく。事実の要約摘記にこのようなことは起こらないし、誤認に基づく記述の混乱にもこのようなことは起こらない。人がこのようなことをなしうるのは創作の世界だけである。・・・〉

 高裁判決文4争点に対する裁判所の判断(2)では、両少尉が「百人斬り競争」を行ったこと自体が、何ら事実に基づかない新聞記者の創作によるものであるとまで認めることは困難である。」とする論拠について、「少なくとも、両少尉が、浅海記者ら新聞記者に話をしたことが契機となり、「百人斬り競争」の記事が作成されたと認められる」ことを第一にあげています。しかし、このことは35年前に始まったこの論争の認識の出発点だったのです。前回のエントリーで、山本七平が『週刊新潮』の常識的判断に疑問を投げかけたことを紹介しましたが、ベンダサンもこのことを基本認識に据えた上で、この話をフィクションと断定していたのです。(下線部筆者)