7 ─山本七平からベンダサンへの質問状─

2007年7月 3日 (火)

 山本七平が自分の手で「百人斬り競争」に関する資料を集め始めたのは、昭和47年7月29日号の『週刊新潮』の記事や、『諸君』8月号の鈴木明の記事を読み、向井少尉が歩兵砲小隊長、野田少尉が大隊副官であることを知った後の9月頃からだといっています。その後、二人の上訴申辨書を書いた中国側弁護人(山本は催文元、鈴木明は崔培均、洞富雄は薛某としている。以下原文のまま)の公正な態度に感銘を覚えるとともに、その弁論の限界点も知りました。すなわち、催弁護人は両少尉の新聞記事を「唯一の罪証」としてはならないと主張はできても、その「唯一の罪証」である記事が、実はフィクションだと証明する手段が彼にはない。従って、催弁護人のできなかった点は、日本人自らの手でやるべきではないかと、山本七平は考えたのです。

 しかし、山本七平は、こうして「百人斬り」を究明していく内に、何とも解しかねる問題に改めてつき当たらざるを得なくなった、と次のように言っています。

 「これは私にとって余りに不思議であり、不可解なことであった。この記事は、35年間も事実であった。事実だったが故に、二人の処刑が事実になった。「おかしい」と思った人も昔も今もいたであろう。しかし、「おかしい」というのは、事実ともフィクションとも判断がつかないということであっても、「フィクションだ」ということではない。事実という証拠はなくても「フィクションだ」という証拠もなかったはずなのである。従って、資料が出てこない限りあくまでも「おかしい」で終わるはずである。

 ところが、本多・ベンダサン論争で、〈ベンダサンは、この二少尉の百人きり競争は伝説だとし、ルポとは「伝説を事実だと強弁する仕事ではありますまい」と、またしてもご指導下さいました。たしかに、ご指導されるまでもなく、そのとおりであります。自称ユダヤ人としてのあなたの目には、日本の新聞記者などは、かくもいい加減なものにみえるようですね、こういうひとにたいしては、やっぱりルポ的な手法でお答えすることにしましょう。まず、事実を列挙しますから、じっくりお読み下さい。〉

 という本多氏の前書き付きで、『浅海版』が三十五年ぶりに再登場したとき、ベンダサン氏はすぐに『浅海版』もフィクションだと一笑に付したが、その根拠は何かという問題である。
・・・初めはあまり気にもならなかったが、昭和47年7月『週刊新潮』を見、その後、鈴木明氏の『向井少尉はなぜ殺されたか・補遺』(「諸君」十月号)を読んで自分で分析しはじめてから、この疑問は日々に強くなった。というのはこれらの資料を一、二度読んだぐらいでは、このフィクションがどのように組み立てられていったかは、ちょっとやそっとでは解けないはずだからである。これは軍隊の記事だから、軍隊の実情を解明しつつ解かなければ、絶対に「フィクションと断定する証拠」は出てこないはずなのである。日本軍といっても最盛時には七百万もいたそうだから、兵科や境遇が違えば、その人の位置によっては、かえって事実にみえてくることもあるはずなのである。

 偶然としか言えないが、向井・野田そして私という三人が実に似た境遇にいたことが、資料以外の大きな解明のポイントのはずである。何しろ向井少尉は幹候の少尉であり(山本七平も同じ幹候=幹部候補生の少尉のことで士官学校出の本職の将校に対して臨時雇いの将校のこと──筆者)、しかも野田少尉も私も「ブヅキはコジキ」のブヅキ少尉(本部付将校とか指令部付将校の総称で、本部と現場の中間に位置し連絡調整・条件整備をする職で、同じ少尉でも本部付もいれば小隊長もおり、後者が殿様なら前者は乞食ぐらいの待遇の差があったという。──筆者)であり、向井少尉は歩兵砲とはいえ私と同じように「砲測即墓場」の一人であって、「ツッコメー、ワーッ」ではない。このほかにも共通点はあるが、何しろ七百万の中からこれだけの共通点がある三人が会い、私に二人と似たような体験があり、それを基にして資料を分析するから解けるので、そうでなければ、私ではフィクションと証明することは不可能なはずである。第一、もし二人が本当に第一線の歩兵小隊長であったら、もうそれだけで、私には何も論証できない。「おかしいと思うけどネ」が限度である。

 従って少なくとも私にとっては、これは、前記の三要素、すなわち資料・体験・共通性が、どれか一つでも欠けたら絶対に解けないはずなのである。そしてベンダサン氏は、そのどの一つも持っているはずがないのである。たとえ氏が日本軍に関する資料や情報をもっていても、それは、「本多版」「浅海版」という二つの記事だけから、これをフィクションと断定する根拠を提供(ママ)するはずがないからである。

 氏がフィクションと断定された直後、事務所に来られた「諸君!」の記者に「氏はヤケに自信がありますなあ、あんなこと断言して大丈夫なのかな。事実だったら大変ですな」と言って笑ったおぼえがあるが、氏がフィクションと断定したので、私も二つを読み比べたのだが、私にさえ、フィクションと断定を下す鍵は見つからないのである。・・・

 私は資料を読んでいるうちに、資料も何一つ出てこないうちに、氏に、こういうことが言えるはずがないという気になった。私がこれを解明していく根拠は、あくまでも資料・体験・同境遇の三つだが、氏はそのいずれももっていない。そして、この三つがない限り、絶対に解けないはずだ。何しろ、今までに何百万人という人が、あらゆる体験者がこれを読んだはずなのに、結局、記事だけでは、誰一人シッポをつかまえることはできなかった。その記事を初めて目にした人間が(ひょっとしたら始めてではなかったかも──筆者)その記事だけを見て、なぜすぐにフィクションだと断言できるのか。それは不可能のはずだ。・・・

 私は、自分の方法で解明を進めていけば行くほど、この疑問は強くなった。そしてついに氏に質問状を送った。要旨は簡単で、「これは確かにフィクションである。しかし二人が、同一指揮系統下の歩兵二小隊長であれば、フィクションと証明することは不可能である。そして記事は、二人が歩兵小隊長ではないという事実を、伏字まで使って消している。そして不可能なゆえに事実とされてきたはずである、あなたはいかなる論拠でフィクションと断定されたのか」ということであった。

 大分かかったが返事が来た。一読して私は驚いた。軍隊経験とか資料とか同一体験とかいったものが全くなくとも、いや軍隊も戦場も中国も何一つ知らなくても、「本多版」「浅海版」の二つだけでこれをフィクションと断定しうる鍵はちゃんとあったのである。まさにコロンブスの卵、といわれればその通りで、今となるとなぜそれに気づかなかったか不思議なくらいである。以下氏の分析を要約しておこう。氏は次のようにいわれる。」(『私の中の日本軍』p240─44)(次回につづく)

 ここで、読者の皆さんも、「本多版」と「浅海版」(「百人斬り競争報道から何を学ぶか2」参照)をごらんになって、分析してみられてはいかがでしょうか。あるいは、読者の中には、この「百人斬り競争」論争は、最高裁で原告敗訴となったことで決着済み、と理解されている方もおられるのではないかと思いますが、私見では、決着したのは、民法上の「名誉毀損」等をめぐる訴訟であって、その敗訴の理由は、結局、この問題は論争としては未だ決着していないということなのです。東京高裁判決4争点に関する裁判所の判断(2)は次のように述べています。

 「『百人斬り競争』の話の真否に関しては、現在まで肯定、否定の見解が交錯し、様々な著述がなされており、その歴史的事実としての評価は、未だ、定まっていない状況にあると考えられる。以上の諸点に照らすと、・・・本件摘示事実(これが実は曖昧なのですが、ここでは浅海版新聞記事の内容としておきましょう──)が全くの虚偽であると認めることはできないというべきである」

 つまり、「浅海版百人斬り競争の新聞記事の内容が全くの虚偽である」ということは未だ証明されていない、といっているのです。私が、再度、この論争の歴史的経過を再点検してみようと思い立った所以です。