4 ──野田少尉の弁明そして遺書──
ここまで、鈴木明が朝日新聞の連載記事「中国の旅」の「競う二人の少尉」(昭和46年11月5日)を読んで以降翌年3月までに発掘した資料を紹介してきました。ほぼこれと平行してイザヤ・ベンダサンと本多勝一氏との論争が始まっていたのですが、本多氏が『諸君』紙上に「百人斬り競争」に関わる4つの資料を提示したのは『諸君』4月号(4月1発売)ですから、鈴木明は、彼らとは別に、独自の視点で調査を進めていたことになります。(洞富雄氏は「鈴木氏は、〈ベンダサン〉とともにお窮地に追い込まれた『諸君』編集部によって頽勢を一挙に挽回せんものと送り出された」などどいっていますが・・・)『南京大虐殺まぼろし化工作批判』p38 こうして新しく発掘された資料をもとに書かれたものが「向井少尉はなぜ殺されたか」(『諸君』8月号掲載)でした。ここには、先に紹介した向井少尉に関する資料だけでなく、野田少尉の母親から送られてきた「上訴申辨書」(死刑判決後に、最後に弁護人が裁判所に出したもの)や、東日の「百人斬り競争」の新聞記事をもと書かれたティンパーレの「南京殺人レース」と題する英字新聞記事の概要、南京法廷における向井少尉の無罪を証明す「証言」集めに奔走した実弟の向井猛氏や向井少尉の戦友の証言、そして「百人斬り競争」の新聞記事を書いた浅海一男氏の証言、さらに、台湾の台北市に行き、この裁判を担当した五人の裁判官の内の一人(石氏)の証言も得ています。 この内、石氏の証言次のようなもので、きわめて貴重な証言といえます。 「南京事件は大きな事件であり、彼らを処罰することによって、この事件を皆にわかってもらおうという意図はあった。無論、私たちの間にも、この三人は銃殺にしなくてもいいという意見はあった。しかし、五人の判事のうち三人が賛成すれば刑は決定されたし、更にこの種の裁判には可応欽将軍と蒋介石総統の直接の意見も入っていた。私個人の意見はいえないが、私は向井少尉が日本軍人として終始堂々たる態度を少しも変えず、中国側のすべての裁判官に深い感銘を与えたことだけはいっておこう。彼は自分では無罪を信じていたかも知れない。彼はサムライであり、天皇の命令によりハラキリ精神で南京まできたのであろう。・・・最後に、もし向井少尉の息子さんに会うことがあったら、これだけはいって下さい。向井少尉は、国のために死んだのです、と──」 こうした取材のエピローグとして、鈴木明は次のようにいっています。 「本多勝一氏は『中国の旅』の連載途中で、読者への断わり書きとして、『かりに、この連載が中国側の”一方的な”報告のようにみえても、戦争中の中国で日本がどのように行動し、それを中国人がどう受けとめ、いま、どう感じているかを知ることが、相互理解の第一前提ではないでしょうか』と書いた。 いま僕も、全く同じように『かりに、この小文が、”銃殺された側”の”一方的な”報告のようにみえても、終戦後の中国で、二人の戦犯がどのように行動し、それを、関係者や遺族がどう受けとめ、いまどう感じているかを知ることも、相互理解の第一前提ではないでしょうか』と問いたい。 そして、同じく『百人斬り』を取材しながら、このルポで僕が取材した内容の意識と、朝日新聞の『中国の旅』の一節との間に横たわる距離の長さを思うとき、僕は改めてそこにある問題の深さに暗澹たる気持ちにならないではいられなかった。」と(同書p109) その後、鈴木明は、もう一人の戦犯である野田少尉が死の寸前に書いたと思われる獄中手記を入手したとして、その一部を紹介しています。この全文は、向井少尉の遺書と同じ『世紀の遺書』巣鴨遺書編纂会(講談社)に収録されていますが、ここでは、平成一三年三月に、野田少尉の実妹、野田マサさん(当時七二歳)が保管していた遺品の中から見つかった「新聞記事の真相」と題する手記と、死刑当日(昭和23年1月28日付)の日記に記された「遺書」を紹介しておきます。 新聞記事ノ真相 被告等ハ死刑判決ニヨリ既ニ死ヲ覚悟シアリ。「人ノ死ナントスルヤ其ノ言ヤ善シ」トノ古語ニアル如ク被告等ノ個人的面子ハ一切放擲シテ新聞記事ノ真相ヲ発表ス。依ツテ中国民及日本国民ガ嘲笑スルトモ之ヲ甘受シ虚報ノ武勇伝ナリシコトヲ世界ニ謝ス。 其ノ後被告等ハ職務上絶対ニカゝル百人斬競争ノ如キハ為サザリキ又其ノ後新聞記者トハ麒麟門東方マデノ間会合スル機会無カリキ 記者 「ヤアヨク会ヒマシタネ」 野田毅氏の「遺書」(昭和23年1月28日日記より) 南京戦犯所の皆様、日本の皆様さようなら。雨花台に散るとも天を怨まず人を怨まず日本の再建を祈ります。万歳、々々、々々 死刑に臨みて 此の度中国法廷各位、弁護士、国防部の各位、蒋主席の方々を煩はしました事につき厚く御礼申し上げます。 野田毅 『世紀の遺書』巣鴨遺書編纂会(講談社)p4 |