3 ──向井少尉の弁明そして遺書──
鈴木明が、向井少尉の申辨書と彼の遺書の一部を読んだのは、昭和47年3月中旬頃のことです。また、向井少尉から彼の母宛の遺書(全文)を読んだのは、成田に住む先妻の次女千恵子さんを訪れた3月24日です。この遺書や申辨書が中国からどのようにして持ち出され遺族の手に渡ったかというと、それは「南京刑務所で、向井氏が処刑される寸前まで、彼と共に生活した」人たちの手によるもので、このことは、その中の一人当時島根県江津市に住む小西さんという方が、鈴木氏に次のような手紙を送ったことで判明しました。 ─「私は当時南京戦犯拘留所で、向井、野田、田中その他の人たちと一緒に生活し、彼らが内地から送られてきたときから、死刑になるまで、ともに語り合ったものです。 彼らは死刑判決後、柵をへだてた向こうの監房に移されましたが、書籍や煙草を送ることや、会話は許されました。彼らは、この事件は創作、虚報であるとくり返し訴え、浅海記者がそのことを証明してくれるだろうといっていました。 判決後、その浅海記者の証言を取り寄せるため、航空便を矢つぎ早に出しました。その費用を出すため、私たちも衣類を看守に売ったりして援助しました。やがて待望の証言書が届き、その時は彼は声を上げて泣きましたが、この証言内容は、よく読むと老獪というか、狡猾というか、うまく書いてあるが決して『創作』とは書いてありませんでした。そして、彼らは処刑されました。 残された我々は当時、皆涙を拭いながら、浅海記者の不実をなじったものです。記者が、どういう思惑があったかは知りませんが、何物にもかえ難い人命がそこにかかっていたということを、知っていたのでしょうか。 たしかに、裁判もでたらめでした。二回の審議で、つぎは判決だったと思います。証拠も新聞記事が主なものでした。彼らは日記をつけていたので、私たちが遺族にとどけようということになり、私は向井、酒井隆、鶴丸光吉のものを引き受けました。向井の分は上海拘留所に移された時、無罪で三重県に帰る人がいたのでお願いしました。後に、確かに渡したという照会も致しました。 私はこの手紙を書くに当たって、今更このようなことを書いても、余りに空しいと思いましたが、刑の執行の朝、彼らが、軍事法廷になっていた二階で、”天皇陛下万歳、中華民国万歳、日中友好万歳”と三唱した声が今でもはっきり蘇ってくるので、あえてここに筆を執りました。まずは、ご参考までに。」(『「南京大虐殺」のまぼろし』鈴木明p121」) また、この時、鈴木明の見た「上申書」は、向井少尉の弁護人(『偕行』記事によると薛弁護士)が南京軍事法廷に提出したと推定されるものです。(南京軍事裁判所の検事による二人に対する審問は昭和22年11月6日に始まり、12月18日に死刑判決が下されるまで数回なされていますが、この審問の後二人が裁判所に提出したものが「答辨書」で、起訴事実に対する論駁として提出したものが「申辨書」です。ここで鈴木の見た「上申書」はこのいずれかの草稿と思われますが、日付の記載がないのでわかりません。)また、この本には、この「上申書」(カナ書きで長文のもの)を鈴木明が要約したものが掲載されていますので、ここでは、平成17年8月23日に言渡された本裁判(東京地裁)の判決資料として付された向井少尉の答辨書(s22.11.6)─おそらく最初の審問後に裁判所に提出したもの─を紹介しておきます。 *次のファイル資料は、「読める判決『百人斬り』」のサイトより転載しました (向井少尉の答弁書11.6警察庭における審問後提出) 「私は,無錫の戦闘最終日に到着して砲撃戦に参加した。しかしながら,砲撃戦の位置は,第一線よりも常にはるかに後方で,肉迫突撃等の白兵戦はしていない。常州においては戦闘はなかった。中国軍隊も住民も見なかった。丹陽の戦闘では,冨山大隊長の指揮から離れて,私は,別個に第十二中隊長の指揮に入り,丹陽の戦闘に参加して砲撃戦中に負傷した。すなわち丹陽郊外の戦闘中迫撃砲弾によって左膝頭部及び右手下膊部に盲貫弾片創を受け(昭和12年11月末ころ),その後,第十二中隊とも離別し,看護班に収容された。」 新聞記事には句容や常州においても戦闘を行い,かつ,百人斬りを続行したかのような記載があるが,事実においては,句容や常州においては全く戦闘がなく,丹陽以後,私は看護班において受傷部の治療中であった。昭和12年12月中旬頃,湯水東方砲兵学校において所属隊である冨山大隊に復帰した。冨山大隊は,引き続き砲兵学校に駐留していたが,昭和13年1月8日,北支警備のため移動した。その間,私は,臥床し,治療に専念していた。」 「私の任務は歩兵大隊砲を指揮し,常に砲撃戦の任にあったものであって,第一線の歩兵部隊のように肉迫,突撃戦に参加していない。その任務のために,目標発見や距離の測量,企画,計算等戦闘中は極めて多忙であった。戦闘の間,私は,弾雨下を走り,樹木に登り,高地に登ることを常としていたために身軽であって,軍刀などは予備隊の弾薬車輪に残置して戦闘中には携行しないのが通常であった。そのため,私は,軍刀を持って戦争した経歴がない。」 「私の戦争参加に関しては,新聞記事に数回連続して報道されたが,私は,中支においては前後2回の砲撃戦に参加したのみで,かつ,無錫郊外にて浅海記者と初回遭遇したほかは再会しなかった。ところが,記事には数回会合したかのように記載してある。しかも,私は負傷して臥床していたにもかかわらず,壮健で各戦闘に参加し百人斬り競争を続行したかのように報道したものである。」 「昭和21年7月1日,国際検事団検察官は,私と新聞関係者,1日軍部関係者等に対して厳重なる科学的審査を反復した結果,百人斬り競争の新聞記事が事実無根であったこと,私が浅海記者と無錫郊外において一度会談した以外それ以後再会していないこと,私が戦闘に参加したのは,無錫における砲撃戦参加と丹陽における砲撃戦参加の2箇所であること,私が丹陽の戦闘で負傷し,野戦病院に収容され,爾後の戦闘に参加しなかったことなどが判明し,本件に関しては再び喚問することがないから,安心して家業に従事せよとの言い渡しを受けて,同月5日,不起訴釈放されたものである。」 鈴木明はこの「上申書」を読んで、すぐに北岡千重子さんに会いに行きました。(3月19日)そこで、彼女から向井少尉との出会いや、昭和21年の夏に向井少尉が復員して以降約1年間の生活のこと、そして、東京の市ヶ谷の軍事法廷に連れて行かれた時の様子をきくことができました。「ある日、警察が『MPが向井敏明という人を探しているが、お宅の敏明さんは、本人ではないのか』と照会してきた。向井敏明は、彼女の実家である北岡家の養子という形で入っていたので、姓も北岡と変わっており」、警察は「姓も違うし、もし本人でないなら、そういってくれればいい」と暗に逃亡をすすめたといいます。 しかし、彼は「僕は悪いことをしていないから、出頭します」といい、「珍しいものをのぞいてくるのも経験の一つ。それに、このことで困っている人がいるのかも知れない。大丈夫だよ。連合軍の裁判は公平だから」といったそうです。(*すでに21年7月に国際検事団の審査を受け不起訴となった経験があったからと思われます─筆者注)彼女が、虫の知らせもあって、「もしや、百人斬りのことが問題になるのでは・・・?」と彼にきくと「あんなことは、ホラさ」とこともなげにいい、「何だ、それじゃ、ホラを吹いて、あたしをだましたのね」と彼女がいうと「気にすることはないよ。大本営が真っ先にホラを吹いていたんだから。そんなこといい出したら、国中がホラ吹きでない人は一人もいなくなる─」とまじめな顔をしていったといいます。 その後、鈴木明は向井少尉の先妻(先の北岡千重子さんは再婚)の次女にあたる向井千恵子さんに合い、彼女の所持していた、向井少尉から祖母(つまり向井少尉の母)宛ての遺書を見ることができました。千恵子さんは祖母のフデさんに(実母は終戦後ほどなく死亡)親代わりの愛情をそそがれて育ちました。フデさんのこうした苦労の支えになったのは、この『孫を頼むといった敏明の遺書』だったそうです。 その遺書は次のようなものです。(『「南京大虐殺」のまぼろし』にはその一部が紹介されているだけですので、ここでは、その全文を紹介しておきます。) 向井敏明氏の遺書 辞 世 中国万歳 遺 書 『世紀の遺書』巣鴨遺書編纂会(講談社)p41─42 |