2 ──「殺人ゲーム」と鈴木明の疑問──

2007年6月16日 (土)

 まず、「百人斬り競争」といわれる事件の概要を述べます。

 この事件は、1937年7月7日北京郊外で勃発した盧溝橋事件を発端とする日中戦争が、北京、天津陥落後8月に上海に飛び火し激しい市街戦となり、10月からは上海周辺に築かれたゼークトライン(ドイツ軍事顧問団の指導により塹壕要所に機関銃ポスト(トーチカ)を設けたもの)での攻防、そして11月5日、日本軍が杭州湾に上陸(第10軍柳川兵団)して以降、全面潰走となった国民党上海攻囲軍(約50万)を南京城まで追撃する間、二人の日本軍将校が、11月26日頃から12月11日までの約2週間余りの間、無錫‐南京間(約180㎞)において、どちらが早く日本刀で100人を斬るかを競ったとされる事件です。

 この事件は、東京日々新聞(今の毎日新聞)の従軍記者だった浅海一男等により、武勇談として当時の大阪毎日新聞と東京日日新聞(毎日の支社)に4回にわたり掲載されました。戦後、この記事が東京裁判の国際検事団の注目するところとなり、昭和21年6月、関係者が召喚され尋問を受けましたが、同7月「書類不備」(証拠不十分)ということで不起訴釈放(向井少尉)されました。ところが、昭和22年になって再び戦犯として身柄を拘束され、巣鴨刑務所から南京軍事裁判所に移され、同年11月頃南京軍事裁判所の検察官の尋問を受けました。二人は、この記事は、無錫における記者を交えた「食後の冗談」を浅海記者が戦意高揚のため武勇伝化したものであり事実無根と訴えましたが、二人は12月18日「捕虜および非戦闘員を屠殺」したとして死刑判決を受け、翌年1月28日南京郊外で処刑されたものです。

 この事件は、戦後は特に注目されることはなく、ほとんど忘れ去られていましたが、朝日新聞の本多勝一記者が、昭和46年8月から12月にかけて、朝日新聞紙上に「中国の旅」(日中戦争時における日本軍の残虐行為を紹介)を連載し、同年11月5日この事件を「競う二人の少尉」という見出しで、中国人の姜さんの話として次のように伝えたことから、この話が事実か否かをめぐって大きな論争に発展しました。

 「”これは日本でも当時一部で報道されたという有名な話なのですが”と姜さんはいって、二人の日本兵がやった次のような”殺人競争”を紹介した。
AとBの二人の少尉に対して、ある日上官が殺人ゲームをけしかけた。南京郊外の句容から湯山までの約十キロの間に、百人の中国人を先に殺した方に賞を出そう─。
二人はゲームを開始した。結果はAが八九人、Bが七十八人にとどまった。湯山についた上官は、再び命令した。湯山から紫金山まで十五キロの間に、もう一度百人を殺せ、と。結果はAが百六人Bが百五人だった。今度は二人とも目標に達したが、上官はいった、”どちらが先に百人に達したかわからんじゃないか。またやり直しだ。紫金山から南京城まで八キロで、こんどは百五十人が目標だ”
この区間は城壁が近く、人口が多い。結果ははっきりしないが、二人はたぶん目標を達した可能性が強いと、姜さん(日本軍の南京攻撃の際に日本兵に家族が虐殺された経験を持つという人物─筆者注)はみている」

 この記事を見た鈴木明(『南京大虐殺」のまぼろし』(1973.3.10)の著者)は、「ちょっと待てよ、・・・この殺人がもし戦闘中のことならば、少なくとも昭和十二年当時の日本人の心情には『許される』残虐性であろうが、いかに戦時中の日本といえども、戦闘中以外の『殺人ゲーム』を許すという人はいないだろう。では、何故、本多氏はあえてこのような記事の書き方をされたのだろうか?」と疑問に思い、そのモトの話とは、一体どんなものなのだろうか、と当時の新聞をしらみつぶしに調べたところ、すぐに上述の東京日日新聞に該当する記事を見つけることができました。(この本で紹介されているその新聞記事は第1報と第4報のみですが、ここでは第2報、第3報も併せて紹介しておきます。なお、この記事は、東京日々新聞(毎日新聞の東京支社)と大阪毎日新聞だけに掲載され、他紙の後追い報道はありませんでした。また、この両紙に掲載された記事内容には若干の違いがありますが、追って検討したいと思います。)

(以下の新聞記事データは次のサイトより転載しました)http://homepage3.nifty.com/m_and_y/genron/data/nangjin/hyakunin/nichinichi.htm

1937年11月30日付朝刊(第1報)1937年11月30日付朝刊(第1報)
(見出し)百人斬り競争!/両少尉、早くも八十人
(本文)[常州にて廿九日浅海、光本、安田特派員発] 常熟、無錫間の四十キロを六日間で踏破した○○部隊の快速はこれと同一の距離の無錫、常州間をたつた三日間で突破した、まさに神速、快進撃、その第一線に立つ片桐部隊に「百人斬り競争」を企てた二名の青年将校がある、無錫出発後早くも一人は五十六人斬り、一人は廿五人斬りを果たしたといふ、一人は富山部隊向井敏明少尉(二六)=山口県玖珂郡神代村出身=一人は同じ部隊野田毅少尉(二五)=鹿児島県肝属郡田代村出身=銃剣道三段の向井少尉が腰の一刀「関の孫六」を撫でれば野田少尉は無銘ながら先祖伝来の宝刀を語る。
無錫進発後向井少尉は鉄道路線廿六、七キロの線を大移動しつつ前進、野田少尉は鉄道線路に沿うて前進することになり一旦二人は別れ、出発の翌朝野田少尉は無錫を距る八キロの無名部落で敵トーチカに突進し四名の敵を斬つて先陣の名乗りをあげこれを聞いた向井少尉は奮然起つてその夜横林鎮の敵陣に部下とともに躍り込み五十五名を斬り伏せた
その後野田少尉は横林鎮で九名、威関鎮で六名、廿九日常州駅で六名、合計廿五名を斬り、向井少尉はその後常州駅付近で四名斬り記者等が駅に行つた時この二人が駅頭で会見してゐる光景にぶつかつた。
向井少尉  この分だと南京どころか丹陽で俺の方が百人くらゐ斬ることになるだらう、野田の敗けだ、俺の刀は五十六人斬つて歯こぼれがたつた一つしかないぞ
野田少尉  僕等は二人共逃げるのは斬らないことにしてゐます、僕は○官をやつてゐるので成績があがらないが丹陽までには大記録にしてみせるぞ

 1937年12月4日付朝刊(第2報)
(見出し)急ピッチに躍進/百人斬り競争の経過
(本文)[丹陽にて三日浅海、光本特派員発] 既報、南京までに『百人斬り競争』を開始した○○部隊の急先鋒片桐部隊、富山部隊の二青年将校、向井敏明、野田毅両少尉は常州出発以来の奮戦につぐ奮戦を重ね、二日午後六時丹陽入塲(ママ)までに、向井少尉は八十六人斬、野田少尉六十五人斬、互いに鎬を削る大接戦となつた。
常州から丹陽までの十里の間に前者は三十名、後者は四十名の敵を斬つた訳で壮烈言語に絶する阿修羅の如き奮戦振りである。今回は両勇士とも京滬鉄道に沿ふ同一戦線上奔牛鎮、呂城鎮、陵口鎮(何れも丹陽の北方)の敵陣に飛び込んでは斬りに斬つた。
中でも向井少尉は丹陽中正門の一番乗りを決行、野田少尉も右の手首に軽傷を負ふなど、この百人斬競争は赫々たる成果を挙げつゝある。記者等が丹陽入城後息をもつかせず追撃に進発する富山部隊を追ひかけると、向井少尉は行進の隊列の中からニコニコしながら語る。
野田のやつが大部追ひついて来たのでぼんやりしとれん。野田の傷は軽く心配ない。陵口鎮で斬つた奴の骨で俺の孫六に一ヶ所刃こぼれが出来たがまだ百人や二百人斬れるぞ。東日大毎の記者に審判官になつて貰ふよ。

1937年12月6日付朝刊(第3報)
(見出し) 89-78/〝百人斬り〟大接戦/勇壮!向井、野田両少尉
(本文) [句容にて五日浅海、光本両特派員発] 南京をめざす「百人斬り競争」の二青年将校、片桐部隊向井、野田両少尉は句容入城にも最前線に立つて奮戦入城直前までの戦績は向井少尉は八十九名、野田少尉は七十八名といふ接戦となつた。

1937年12月13日付朝刊(第4報)
(見出し) 百人斬り〝超記録〟向井 106-105 野田/両少尉さらに延長戦
(本文) [紫金山麓にて十二日浅海、鈴木両特派員発] 南京入りまで〝百人斬り競争〟といふ珍競争を始めた例の片桐部隊の勇士向井敏明、野田巌(ママ)両少尉は十日の紫金山攻略戦のどさくさに百六対百五といふレコードを作つて、十日正午両少尉はさすがに刃こぼれした日本刀を片手に対面した
野田「おいおれは百五だが貴様は?」 向井「おれは百六だ!」……両少尉は〝アハハハ〟結局いつまでにいづれが先に百人斬ったかこれは不問、結局「ぢやドロンゲームと致さう、だが改めて百五十人はどうぢや」と忽ち意見一致して十一日からいよいよ百五十人斬りがはじまつた、十一日昼中山陵を眼下に見下ろす紫金山で敗残兵狩真最中の向井少尉が「百人斬ドロンゲーム」の顛末を語つてのち
知らぬうちに両方で百人を超えていたのは愉快ぢや、俺の関孫六が刃こぼれしたのは一人を鉄兜もろともに唐竹割にしたからぢや、戦ひ済んだらこの日本刀は貴社に寄贈すると約束したよ十一日の午前三時友軍の珍戦術紫金山残敵あぶり出しには俺もあぶりだされて弾雨の中を「えいまゝよ」と刀をかついで棒立ちになってゐたが一つもあたらずさこれもこの孫六のおかげだと飛来する敵弾の中で百六の生血を吸った孫六を記者に示した。
(写真説明)〝百人斬り競争〟の両将校/(右)野田巌(ママ)少尉(左)向井敏明少尉=常州にて佐藤(振)特派員撮影。

 鈴木明は、この記事は、「今の時点で読めば信じられないほどの無茶苦茶極まりない話だが、この話が人づてに中国にまで伝わってゆくプロセスで、いくつかの点でデフォルメされている」として、次のような指摘をしました。
一 戦闘中の話が平時の殺人ゲームになっている。
二 原文にない「上官命令」が加わっている。
三 百人斬りが三ラウンド繰り返されたようになっている。

 その上で次のような感想を述べています。

 「これは僕が思うのだが、この東京日日の記事そのものも、多分に事実を軍国主義流に誇大に表現した形跡が無くもない。確かに戦争中は、そういう豪傑ぶった男がいたことも推定できるが、トーチカの中で銃をかまえた敵に対して、どうやって日本刀で立ち向かったのだろうか?本当にこれを『手柄』と思って一生懸命書いた記者がいたとしたら、これは正常な神経とは、とても思われない。・・・事の真相はわからないが、かって日本人を湧かせたに違いない『武勇談』は、いつのまにか『人切り競争』の話となって、姿をかえて再びこの世に現れたのである。・・・ともあれ、現在まで伝えられている『南京大虐殺』と『日本人の残虐性』についてのエピソードは、程度の差こそあれ、いろいろな形で語り継がれている話が、集大成されたものであろう。被害者である中国がこのことを非難するのは当然だろうが、それに対する贖罪ということとは別に、今まで僕等が信じてきた『大虐殺』というものが、どのような形で誕生したのか、われわれの側から考えてみるのも同じように当然ではないのか。」

 こうした感想を、氏は昭和47年4月号の『諸君』に「『南京大虐殺』のまぼろし」と題して発表したわけですが、この同じ号の『諸君』には、本多勝一氏のエッセイ「雑音でいじめられる側の目」が掲載されていました。これは、私が前回のエントリーで紹介したように、イザヤ・ベンダサンが同誌に「日本教について」の連載中1月号で「朝日新聞のゴメンナサイ」と題して、日本人の謝罪の不思議について論じたところ、本多勝一氏がこれに「公開質問状」(同2月号)を寄せ、これに対してベンダサンが「本多勝一様への返書」(同3月号)と題して、朝日新聞の「中国の旅」における日本軍の二人の少尉の「殺人競争」の話を伝説だといい、このA、B二少尉の実名を明らかにするよう求めたことに対する反論として掲載されたものです。

 この中で本多勝一氏は、私の原稿では実名を出していると述べた上で、先に紹介した東京日日新聞の第1,4報の外2資料を示し、次のように述べました。

 「ベンダサンサン、以上四つの資料をごらんになって、なおも、ダンコとして”伝説”だと主張いたしますか。それでは最後の手段として、この二人の少尉自身に、直接証言してもらうよりほかにありませんね。でも、それは物理的にできない相談です。二人は戦後、国民党蒋介石政権に逮捕され、南京で裁判にかけられました。そして野田は一九四七年一二月八日、また向井は一九四八年一月二八日午後一時、南京郊外で死刑に処せられています。惜しいことをしました。と申しますのは、それからまもない一九四九年四月、南京は毛沢東の人民解放によって最終的に現政権のものとなったからです。もしこのときまで二人が生きていれば、これまでの日本人戦犯にたいする毛沢東主席のあつかいからみて、すくなくとも死刑にはならなかったにちがいありません。そうすれば、当人たちの口から、このときの様子を、くわしく、こまかく、ぜんぶ、すっかりきいて、ベンダサンサンにもお知らせできたでしょうに」(死刑は二人とも昭和二三年一月二八日─筆者注)

 これを読んで、鈴木明ははじめて二人が南京で二十数年前に銃殺されたことを知り大きな衝撃を受け次のような感想を漏らしました。
「『美談』が『真実』とうけとられ二人の人間が衆人の前で銃殺され、更にその『真実』は『神話』にまで高められ、『日中国交回復に当たって、まず日本人が中国に土下座して詫びなければならない残虐行為の代表的なもの』にまでなってしまった」と。

 ところが、こうして「百人斬り神話」はそのまま「神話」として、永劫の彼方に消え去るかに見えましたが、ある日、『諸君』編集部に「北岡千重子」さん(向井少尉の未亡人)から手紙が送られてきて、その手紙には向井少尉の遺書の一部と、南京裁判における向井敏明付弁護人の上申書が添えられていたのです。そしてこれ以降、先に述べたような鈴木明の疑問を解き明かす新たな事実が次々と明らかにされていくのです。