2 ──「殺人ゲーム」と鈴木明の疑問──
まず、「百人斬り競争」といわれる事件の概要を述べます。 この事件は、1937年7月7日北京郊外で勃発した盧溝橋事件を発端とする日中戦争が、北京、天津陥落後8月に上海に飛び火し激しい市街戦となり、10月からは上海周辺に築かれたゼークトライン(ドイツ軍事顧問団の指導により塹壕要所に機関銃ポスト(トーチカ)を設けたもの)での攻防、そして11月5日、日本軍が杭州湾に上陸(第10軍柳川兵団)して以降、全面潰走となった国民党上海攻囲軍(約50万)を南京城まで追撃する間、二人の日本軍将校が、11月26日頃から12月11日までの約2週間余りの間、無錫‐南京間(約180㎞)において、どちらが早く日本刀で100人を斬るかを競ったとされる事件です。 この事件は、東京日々新聞(今の毎日新聞)の従軍記者だった浅海一男等により、武勇談として当時の大阪毎日新聞と東京日日新聞(毎日の支社)に4回にわたり掲載されました。戦後、この記事が東京裁判の国際検事団の注目するところとなり、昭和21年6月、関係者が召喚され尋問を受けましたが、同7月「書類不備」(証拠不十分)ということで不起訴釈放(向井少尉)されました。ところが、昭和22年になって再び戦犯として身柄を拘束され、巣鴨刑務所から南京軍事裁判所に移され、同年11月頃南京軍事裁判所の検察官の尋問を受けました。二人は、この記事は、無錫における記者を交えた「食後の冗談」を浅海記者が戦意高揚のため武勇伝化したものであり事実無根と訴えましたが、二人は12月18日「捕虜および非戦闘員を屠殺」したとして死刑判決を受け、翌年1月28日南京郊外で処刑されたものです。 この事件は、戦後は特に注目されることはなく、ほとんど忘れ去られていましたが、朝日新聞の本多勝一記者が、昭和46年8月から12月にかけて、朝日新聞紙上に「中国の旅」(日中戦争時における日本軍の残虐行為を紹介)を連載し、同年11月5日この事件を「競う二人の少尉」という見出しで、中国人の姜さんの話として次のように伝えたことから、この話が事実か否かをめぐって大きな論争に発展しました。 「”これは日本でも当時一部で報道されたという有名な話なのですが”と姜さんはいって、二人の日本兵がやった次のような”殺人競争”を紹介した。 この記事を見た鈴木明(『南京大虐殺」のまぼろし』(1973.3.10)の著者)は、「ちょっと待てよ、・・・この殺人がもし戦闘中のことならば、少なくとも昭和十二年当時の日本人の心情には『許される』残虐性であろうが、いかに戦時中の日本といえども、戦闘中以外の『殺人ゲーム』を許すという人はいないだろう。では、何故、本多氏はあえてこのような記事の書き方をされたのだろうか?」と疑問に思い、そのモトの話とは、一体どんなものなのだろうか、と当時の新聞をしらみつぶしに調べたところ、すぐに上述の東京日日新聞に該当する記事を見つけることができました。(この本で紹介されているその新聞記事は第1報と第4報のみですが、ここでは第2報、第3報も併せて紹介しておきます。なお、この記事は、東京日々新聞(毎日新聞の東京支社)と大阪毎日新聞だけに掲載され、他紙の後追い報道はありませんでした。また、この両紙に掲載された記事内容には若干の違いがありますが、追って検討したいと思います。) (以下の新聞記事データは次のサイトより転載しました)http://homepage3.nifty.com/m_and_y/genron/data/nangjin/hyakunin/nichinichi.htm 1937年11月30日付朝刊(第1報)1937年11月30日付朝刊(第1報) 1937年12月4日付朝刊(第2報) 1937年12月6日付朝刊(第3報) 1937年12月13日付朝刊(第4報) 鈴木明は、この記事は、「今の時点で読めば信じられないほどの無茶苦茶極まりない話だが、この話が人づてに中国にまで伝わってゆくプロセスで、いくつかの点でデフォルメされている」として、次のような指摘をしました。 その上で次のような感想を述べています。 「これは僕が思うのだが、この東京日日の記事そのものも、多分に事実を軍国主義流に誇大に表現した形跡が無くもない。確かに戦争中は、そういう豪傑ぶった男がいたことも推定できるが、トーチカの中で銃をかまえた敵に対して、どうやって日本刀で立ち向かったのだろうか?本当にこれを『手柄』と思って一生懸命書いた記者がいたとしたら、これは正常な神経とは、とても思われない。・・・事の真相はわからないが、かって日本人を湧かせたに違いない『武勇談』は、いつのまにか『人切り競争』の話となって、姿をかえて再びこの世に現れたのである。・・・ともあれ、現在まで伝えられている『南京大虐殺』と『日本人の残虐性』についてのエピソードは、程度の差こそあれ、いろいろな形で語り継がれている話が、集大成されたものであろう。被害者である中国がこのことを非難するのは当然だろうが、それに対する贖罪ということとは別に、今まで僕等が信じてきた『大虐殺』というものが、どのような形で誕生したのか、われわれの側から考えてみるのも同じように当然ではないのか。」 こうした感想を、氏は昭和47年4月号の『諸君』に「『南京大虐殺』のまぼろし」と題して発表したわけですが、この同じ号の『諸君』には、本多勝一氏のエッセイ「雑音でいじめられる側の目」が掲載されていました。これは、私が前回のエントリーで紹介したように、イザヤ・ベンダサンが同誌に「日本教について」の連載中1月号で「朝日新聞のゴメンナサイ」と題して、日本人の謝罪の不思議について論じたところ、本多勝一氏がこれに「公開質問状」(同2月号)を寄せ、これに対してベンダサンが「本多勝一様への返書」(同3月号)と題して、朝日新聞の「中国の旅」における日本軍の二人の少尉の「殺人競争」の話を伝説だといい、このA、B二少尉の実名を明らかにするよう求めたことに対する反論として掲載されたものです。 この中で本多勝一氏は、私の原稿では実名を出していると述べた上で、先に紹介した東京日日新聞の第1,4報の外2資料を示し、次のように述べました。 「ベンダサンサン、以上四つの資料をごらんになって、なおも、ダンコとして”伝説”だと主張いたしますか。それでは最後の手段として、この二人の少尉自身に、直接証言してもらうよりほかにありませんね。でも、それは物理的にできない相談です。二人は戦後、国民党蒋介石政権に逮捕され、南京で裁判にかけられました。そして野田は一九四七年一二月八日、また向井は一九四八年一月二八日午後一時、南京郊外で死刑に処せられています。惜しいことをしました。と申しますのは、それからまもない一九四九年四月、南京は毛沢東の人民解放によって最終的に現政権のものとなったからです。もしこのときまで二人が生きていれば、これまでの日本人戦犯にたいする毛沢東主席のあつかいからみて、すくなくとも死刑にはならなかったにちがいありません。そうすれば、当人たちの口から、このときの様子を、くわしく、こまかく、ぜんぶ、すっかりきいて、ベンダサンサンにもお知らせできたでしょうに」(死刑は二人とも昭和二三年一月二八日─筆者注) これを読んで、鈴木明ははじめて二人が南京で二十数年前に銃殺されたことを知り大きな衝撃を受け次のような感想を漏らしました。 ところが、こうして「百人斬り神話」はそのまま「神話」として、永劫の彼方に消え去るかに見えましたが、ある日、『諸君』編集部に「北岡千重子」さん(向井少尉の未亡人)から手紙が送られてきて、その手紙には向井少尉の遺書の一部と、南京裁判における向井敏明付弁護人の上申書が添えられていたのです。そしてこれ以降、先に述べたような鈴木明の疑問を解き明かす新たな事実が次々と明らかにされていくのです。 |