──イザヤ・ベンダサンと山本七平──
wikipediaの「山本七平」の項目では、山本七平の評価について「山本は、その評価をめぐっては賛否が激しく分かれており、きわめて毀誉褒貶の激しい人物といえよう。」と前置きし、「死後10年以上経った現在でも、著作が復刻されたり、文庫・新書化されたりすることがあらわしているように、山本の著作は今なお読者を惹きつけている。・・・その一方で、山本の著作には記憶にたよった不正確な引用や、出所のあきらかでないエピソードの披露などが多く、評論家としては信用に値しないと考える人間もまた少なくない。・・・」としています。 そして、その具体的な批判として、朝日新聞の本多勝一記者との、いわゆる「百人斬り競争」をめぐる論争を取り上げ次のように批判しています。 こうした主張は、wikipediaの、この項目の「ノート」を見ていただければ判りますが、「らんで」さん外、山本七平を批判される方が執拗に主張しているものです。しかし、「彼(山本七平)はイザヤ・ベンダサンの名義のまま、・・・」というのは、以下に述べる通り事実に反していますし、山本七平が「百人斬り競争」の新聞記事を批判した根拠は、「日本刀の性能」だけではなく、また、そこで使われた論理が誤っていたわけでもありません。さらに、「この論理がユダヤ人からわざわざ『ヒントをもらった』とは考えにくい」という批判も意味がわかりません。 「百人斬り競争」をめぐる論戦におけるイザヤ・ベンダサンの主張は、「朝日新聞のゴメンナサイ」(『諸君』S47.1)で、朝日新聞の「中国の旅」を日本人の謝罪=責任解除の問題として取り上げたことが最初です。これに対して本多勝一氏が「イザヤ・ベンダサン氏への公開質問状」で、私も「日本的な『謝罪』の無意味さ」を指摘してきた。また、私は「南京大虐殺事件」当時幼児であり直接の責任はない。従って、中国に「ゴメンナサイ」とはいわない。そのかわり、その真の責任者である天皇の戦争責任を追及することが真の謝罪になる、と反論しました。 これに対して、イザヤ・ベンダサンは、「日本人がすぐ『私の責任』という」のは、本多氏のいう「責任回避」の意味ではなく「責任解除」(一種の「懺悔告解」)という意味だ。また、本多氏が、中国民衆への真の謝罪は「天皇の戦争責任」を追求すること、と断言する以上、天皇裕仁個人に公開書簡を送るなど個人責任の追及をすべきではないか。また、そのように天皇の責任追求を主張する方が、「中国の旅」の「百人斬り競争」(=殺人ゲーム)における加害者の名前をなぜ匿名にしたか(といっても「身代わり羊」にしろということではなく、すべての人間には「釈明の権利」があるということ)。また、一体、本多氏はこの「百人斬り競争」報道で、「中国人がかく語った」という事実を示しているのか、それとも「中国人が語ったことは事実だ」といっているのか。おそらく、私は、この物語は「伝説」だと思うが、ルポとは、この「伝説」の中から事実の「核」を取り出す仕事ではあっても「伝説」を事実だと強弁することではありますまい、と反論しました。 これに対して、本多氏は、「責任回避でなく責任解除だ」というベンダサンの論は理解しない(できない?)まま、あなたのおしえてくれた天皇の『責任の糾弾』の方法は、ばかげた、ムダなことなのでしない。「中国の旅」には加害者個人の名前を全部出したが新聞社の編集権によりA,Bとなった。また、あなたは、この「百人斬り競争」を伝説だとし、ルポとは「伝説を事実だと強弁する仕事ではありますまい」といったが、ではルポ的な方法でお答えする、といって、『東京日々新聞』(1937.11.30、12.13)の「百人斬り競争」の2本の記事、月刊誌『丸』(1971.11)の鈴木二郎もと特派員の「私はあの”南京の悲劇”を目撃した」の記事、月刊誌『中国』(1971.12)の志々目彰氏の「日中戦争の追憶」の資料を提出し、「ベンダサンサン、以上四つの資料をごらんになって、なおもダンコとして『伝説』だと主張いたしますか」と反論しました。 これに対して、ベンダサンは、「中国の旅」の記者に「殺人ゲーム」はフィクションであると思うと書いた書簡を送ったところ、反論とともに「事実である」という多くの証拠が『諸君』に掲載された。しかし、ここで提出された「殺人ゲーム」と「百人斬り」は、場所も違い、時刻も違い、総時間数も違い、周囲の情景描写も違い、登場人物も同じでない(前者は3人、後者は二人)ので、もし「百人斬り」が事実なら「殺人ゲーム」はフィクションということになる。一体どう読めば「百人斬り」が「殺人ゲーム」の証拠となりうるのか。というのは、これらの記事はともに「語られた事実」にすぎず、従ってその相互の矛盾から、ぎりぎりの推断によって事実の「核」に迫るべきであるが、この記者は「語られた事実」と「事実」を峻別することができず、いまだ証明されてもいない「語られた事実」を事実と断定して、それと矛盾する資料でも量を集めればそれの証拠となる、と考えているらしい。もし、本多氏があくまでもこの記事が『事実』だと主張するなら、それがフィクションであることを一つ一つ論証する(『日本教について』p271)と反論しました。 こうしたイザヤ・ベンダサンの主張に対して山本七平は、この時点で提示された「百人斬り競争」関連資料(鈴木明氏の発掘したものを含む)だけで、この事件をフィクションと断定することはできないのではないかと考え、次のような会話を訪れた記者と交わしたといっています。「氏はヤケに自信がありますなあ、あんなこと断言して大丈夫ですかな。事実だったら大変ですな」と。そこで「いかなる論拠でフィクションと断定できるか」という趣旨の手紙をベンダサンに出し、しばらくして返事をもらったとして、その内容を紹介しているのです。(『私の中の日本軍』p240) つまり、山本七平は、イザヤ・ベンダサンとは全く別の手法で、自分と、この事件の首謀者とされる向井少尉、野田少尉との共通体験(向井とは同じ幹部候補生出身で砲兵、野田とは同じ副官経験を持ち、また日本刀で手足を切断したというような)を手がかりに、この東京日々新聞の「百人斬り競争」記事は、この記事を書いた新聞記者の創作ではないかと論証していったのです。(この論証の内容は、大変おもしろい、というよりここで紹介された日本人の行動様式は、日本人が、戦争という危機的状況におかれたときどのように行動するか、を考える上で誠に貴重な体験といえるものですから、是非ともこの『私の中の日本軍』をご一読いただきたいと思います。) 話はもとに戻りますが、wikipediaのノートで「らんで」氏は、このようにイザヤ・ベンダサンと山本七平の主張をごちゃ混ぜにすることによって、山本七平はその著作において虚偽、捏造を行った人間であり信用できないときめつけているのです。(そんなに言うなら「らんで」なんていう匿名も使うべきではないと思いますが。) 驚くべき事に、この種の「ためにする」批判が、山本七平に対する批判の主要な根拠となっているのです。つまり、イザヤ・ベンダサンと山本七平を同一人物視することで、「出所のあきらかでないエピソードの披露などが多く、評論家としては信用に値しないと考える人間もまた少なくない。」といった批判が作られているのです。現在では、『日本人とユダヤ人』の著作は山本の外2名のユダヤ人が、それ以降のベンダサン名義の著作は山本の外1名のユダヤ人が関わっていることが明らかとなっているにもかかわらず。 この件に関して、『日本人とユダヤ人』には英語の原著がなく、日本語で書かれたものであることをもって、イザヤ・ベンダサンと山本七平を同一人物と見なす意見がありますが、この謎について、山本七平は「昭和62年のPHP研究所の研究会で、ホーレンスキーの日本人妻が、山本を加えた三人のディスカッションを日本語に直して筆記したものが原本になった」と説明しています。(『怒りを抑えし者』P409)ただ、稲垣氏自身は、「それは多分、ローラーとホーレンスキーの語った部分を日本語にしたものを、山本が参照したものにすぎないと思われる。」としていますが。 私自身は、今まで論じてきたように、この問題は、山本七平の言葉によって理解すべきだと考えているわけですが、たとえ、稲垣氏のいうように『日本人とユダヤ人』のコンセプトは山本七平自身のものであったとしても、イザヤ・ベンダサン名義の著作に出てくるエピソードのうち山本七平自身の体験とは思われないものは、当然、ローラーやホーレンスキーによりもたらされたものと考えるのが筋だと思います。山本七平は自らの名義で、ベンダサン名義のものとは別のコンセプトでこの問題に関する著作をしているのですから。 そこで次回から、本多勝一氏が1971年に朝日新聞に連載した「中国の旅」においてとりあげた「百人斬り競争」をめぐる論争において、山本七平がどのような主張をしたかを、詳しく見てみたいと思います。この問題は近年裁判でも争われ(2006.12.22最高裁で原告敗訴)、その結果をめぐって誤解も生じているようですが、この問題から私たち日本人が何を学ぶべきかということについては、すでに、イザヤ・ベンダサンと山本七平によって論じ尽されている、と思うからです。 ネットにおけるこの裁判に関するコメントも見てみましたが、こうした観点からなされたものを見つけることはできませんでした。「天秤の論理」の世界では、ものごとを歴史的に把握する視点がなく、「今」の勝ち負けだけで物事を判断する傾向がある、と山本七平は指摘しています。そこで、次に、この「百人斬り競争」をめぐる論争の経過を、「歴史的」に検証してみたいと思います |