「百人斬り競争」報道の実像に迫る4

2007年9月21日 (金)

 では次に、「百人斬り競争」の実像に迫るため、浅海氏の主張する「事実経過」と両少尉の主張する「事実経過」とを突き合わせて見ましょう。(参照 判決文添付「南京攻略作戦要図」)

 浅海氏は、この「百人斬り競争」の話が両少尉よりもたらされたのは、最初は「無錫の駅前の広場の一角」で、その次は、丹陽をはなれて少し前進したころで一度、その次は、麒麟門の付近で一度か二度、その次は、紫金山麓孫文陵前の公道あたりで一度か二度といっています。また、両少尉はあるときは一人で、あるときは二人でやって来、そして担当の戦局が忙しいとみえて、必要な談話が終わるとあまり雑談をすることもなく、あたふたと彼らの戦線の方へ帰っていった、と述べています。

 これに対して野田少尉は、「新聞記事ノ真相」(参考)で、浅海記者とは(11月26日頃)無錫において向井少尉とともに「笑談」した。その後、冨山大隊(野田少尉はその副官)は丹陽東方から北方に迂回した(この時、向井少尉の歩兵砲小隊と別れた)。従って、常州(注1)、丹陽、句容には入っていない。その後、12月11,12日頃麒麟門東方付近において戦車に乗った浅海記者と出会った。浅海記者は、その時、最後の記事(第四報)を送ったことと、記事は日本国内で評判になっていることを告げた、と述べています。

 一方向井少尉は、無錫郊外で野田少尉と共に浅海記者に会って「笑談」した。私は無錫戦が初陣で、常州では戦闘はなく、11月末、(本隊を見失ったために第12中隊の指揮下に入り)丹陽の砲撃戦に加わり、左膝頭部及び右手下膊部を負傷し看護班に収容された。また、句容では戦闘はなく、昭和12年12月中旬頃湯水鎮東方砲兵学校において所属部隊である冨山大隊に復帰した、と述べています。

 そこで、新聞記事の方ですが、両少尉は11月25日、無錫入場後「百人斬り競争」を始め、11月29日常州入場まで、向井56人(注2)野田25人、12月2日丹陽まで向井86人野田65人(ここで向井少尉は丹陽城中正門一番乗りを果たす。野田少尉は手首に軽傷を負う)12月5日句容まで向井89人野田78人(両少尉は句容入城にも最前線に立って奮戦)、12月10日紫金山の某所で、両少尉は刃こぼれした日本刀を片手に対面”(野田)おれは105だが貴様は (向井)おれは106だ”。翌12月11日昼紫金山中山陵を見下ろす所で、向井少尉が「百人切りドロンゲーム」の顛末や紫金山残敵あぶり出しの話などを浅海、鈴木記者相手にしたことになっています。

 こうした新聞記事における斬殺数の推移は、両少尉と浅海記者が無錫で「笑談」した際、それぞれの日本刀の話から「百人斬り競争」の話が出た後、浅海記者から”競争してみたら”との慫慂をうけ、向井少尉が「小説として」語ったという数字(無錫から常州まで向井40対野田30、丹陽まで60対50、句溶まで90対80、南京まで向井、野田共に100以上)と、記事の後半部分でほぼ一致しています。しかし、野田少尉は丹陽東方で第3大隊本隊が北方に迂回したため丹陽にも句容にも入っておらず(この事実は、東中野修道氏が近著で論証)、また、向井少尉は12月2日、丹陽の砲撃戦で負傷し,12月中旬部隊復帰するまで戦闘に参加しなかった、といっています。(山本七平は向井少尉の部隊復帰の日を10日と見ています)

 次に、こうした三人の主張から何が判るか、ということですが、まず、三者の無錫における談合の事実は間違いないと思います。三者にはそれぞれにこの談合に加わる動機がありました(前述の通り。ただし、浅海・向井は積極的、野田は消極的)。しかし、この無錫での三者談合は、常州で写真を撮った佐藤カメラマンには隠され、浅海記者はあたかも常州ではじめて両少尉に会い「百人斬り競争」を知ったようなふりをしてこの記事を書いたのです。なお、記事の発信人は、浅海特派員の他光本特派員、安田特派員となっていますが、光本特派員は大阪毎日本社の特派員で浅海記者と同行していなかったことが判明していますし、安田特派員は無電技師で記事とは関係ありません。つまり浅海氏の取材ティームといっても、実際は浅海記者一人なのです。

 また、その後の、第二報における丹陽までの戦闘の描写中、「中でも向井少尉は丹陽城中正門の一番乗りを決行」という記述は先に述べた通り事実に反していますし、「野田少尉も右の手首に軽傷を負ふ」の記述は、あるいは、向井少尉の負傷のことかも知れません。また、向井少尉の「野田の奴が大分追ひついて来たのでぼんやりしとれん、(この分だと句容までに競争が終りさうだ、そしたら南京までに第二回の百人斬競争をやるつもりだ、)野田の傷は軽いから心配ない、陵口鎮で斬つた敵の骨で俺の孫六に一ケ所刃こぼれが出来たがまだ百人や二百人は斬れるぞ、大毎、東日の記者に審判官になつて貰ふ(ワッハッハッハ)」という台詞ですが、それを、向井少尉が、追撃中の行進の隊列の中からニコニコしながら語ったというのですから、「ふざけている」としか思えません。(ここの( )内の会話は、大阪毎日新聞朝刊に載った第二報の記事にあるもので、それが東京日日でカットされたのは、おそらく、そこに「悪ふざけ」を読み取ったためと思われます。それにしても、ここでの向井少尉の台詞が何時のものか、負傷の前か後か、そもそも負傷の事実がなかったのか、それとも記者の創作か、判然としません。)なお、第三報の記事は、句容入城まで向井が89野田が78という筋書き通りの経過を知らせるためだけのものですが、両少尉とも句容に入城しておらず、談話もとれなかったためではないかと推測されます。*「それにしても」以下加筆9/23)

 最大の問題は、第4報の紫金山における12月10日の両少尉の会見と、12月11日の向井少尉の浅海、鈴木両記者を前にしての怪気炎─”知らぬうちに両方で百人を超えていたのは愉快ぢや、俺の関孫六が刃こぼれしたのは一人を鉄兜もろともに唐竹割にしたからぢや、戦ひ済んだらこの日本刀は貴社に寄贈すると約束したよ、十一日の午前三時友軍の珍戦術紫金山残敵あぶり出しには俺もあぶりだされて弾雨の中を「えいまゝよ」と刀をかついで棒立ちになってゐたが一つもあたらずさこれもこの孫六のおかげだ”─ですが、山本七平は、12月11日の会話がなされたことは、その内容から見てほぼ確実だとし、一方、その前日の12月10日の両少尉の会見記事は、イザヤ・ベンダサンが指摘したように、浅海記者が「百人斬り競争」を「時間を争う競技」から「数を争う競技」に切り替えるために行った創作と断定しています。

 そして山本七平は、向井少尉が部隊に復帰したのを12月10日湯水鎮と推定し、12月11日部隊本部は紫金山麓の雲谷寺にいたので、両少尉と浅海記者及び鈴木記者との会合は、この紫金山東麓の霊谷寺付近ではないかと推測しています。これについて野田少尉自身は、浅海記者とは11日か12日に麒麟門東方(霊谷寺東方約5キロ)で行き違ったとのみ答え、向井少尉は12月半ばに湯水鎮東方の砲兵学校(霊谷寺東方約15キロ)で部隊復帰したと答えています。しかし、鈴木記者が12月11日に紫金山麓で両少尉に会ったと証言していますので、この紫金山麓というのは大隊本部がいた霊谷寺付近ではないかと見ているのです。(ただし、12月11日の新聞記事の会話には野田少尉は出てきません)

 ところで、山本七平は、こうした判断を、東京日日新聞の「百人斬り競争」の2回(第一報と第4報)の記事をもとに行っているのです。しかし、実際には「百人斬り競争」の記事は4回あり、山本七平は「私の中の日本軍」執筆当時は、第二,第三報の記事の存在を知りませんでした。また、浅海記者の書いた記事原稿は、実は、大阪毎日新聞に掲載されたものがオリジナルで、東京日日新聞に掲載されたものは、東日の編集部の手が加えられていることも知りませんでした。しかし、もし知っていたなら、両少尉は丹陽東方で別れた後別ルートを進み、丹陽にも句容にも入城していないのに、第二、三報では、両少尉がそこで戦闘をしたかのように書かれているのですから、さらに明確に「百人斬り競争」の創作性を指摘できたと思います。

 ともあれ、この「百人斬り競争」の記事は、無錫における三者談合に始まり、その後、向井少尉にその筋書き通り「百人斬り競争」の戦果を語らせ、それを浅海記者が「取材」するという形で記事が書かれたものと思われます。その際、浅海記者は、この記事が「創作」であることがばれないよう、向井、野田両少尉を、同一指揮系統下にある歩兵小隊長であるかのように描き、佐藤カメラマンや(あるいは)鈴木記者を引き込んで談合の事実をカムフラージュし、また、記事中両少尉の「談話」を組み込むことで、記事の創作性を隠蔽しようとしたのです。

 しかし、丹陽東方で第3大隊にアクシデントが生じて、両少尉は別ルートを進むことになった。また、丹陽の砲撃戦で向井少尉が負傷した。そのため第三報が数あわせのためだけの記事になってしまった。幸い(?)紫金山麓で部隊復帰した向井少尉に会い筋書き通り怪気炎を吐かせ、それを「取材」することができた。だが、野田少尉がいないと話が完結しないので、12月10日の紫金山某所における両少尉の会見記事を創作し付け加えた。おそらく、そんなところではなかろうかと私も思っています。

 さて、この場合、浅海記者の言葉「当時、二人から話を聞いたことは間違いありません。私の記事によって向井さんらが処刑されたってことはないです。ご本人のなさったことがもとです。私は”百人斬り”を目撃したわけではないが、話にはリアリティーがあった。だからこそ記事にしたんです。」(この言葉は、浅海記者が向井少尉に求められて南京軍事法廷に提出した証言内容と同趣旨)には正当性があるでしょうか。山本七平は、次のように言っています。

 「浅海特派員は、この事件における唯一の証人なのである。そしてその証言は一に二人の話を「事実として聞いたのか」「フィクションとして聞いたのか」にかかっているのである。いわば二人の命は氏のこの証言にかかっているにもかかわらず、氏は、それによって「フィクションを事実として報道した」といわれることを避けるため、非常に巧みにこの点から逃げ、絶対に、この事件を自分に関わりなきものにし、すべてを二少尉に転嫁して逃げようとしている。しかし、もう一度いうが、そうしなければ命が危なかったのなら、それでいい─人間には死刑以上の刑罰はない、人を道ずれにしたところで死が軽くなるわけでもなければ、人に責任を転嫁されたからといって、死が重くなるわけでもないのだから。
しかし、死の危険が浅海特派員にあったとは思えない。それなら一体なぜこういう証言をしたのか。たしかに浅海氏が小説家で、これが「東京日日新聞」の小説欄に発表されたのなら、この証言でもよいのかもしれぬ。しかし氏は新聞記者であり、発表されたのはニュース欄である。新聞記者がニュースとして報道するとき、実情はどうであれ、少なくとも建前は、その内容はあくまで『事実』であって、この場合、取材の相手の言ったことを『事実と認定』したから記事にしたはずだといわれれば、二少尉には反論できない。従って、すべてを知っている向井少尉がたのんだことは、『建前はそうであっても、これがフィクションであることは三人とも知っていることなのだ。しかし二人は被告だから、残る唯一の証人、浅海特派員にそう証言してもらってくれ』といっているわけである。それを知りつつ、新聞記者たる浅海特派員が前記のように証言することは、『二人の語ったことは事実であると私は認定する。事実であると認定したが故に記事にした。ただし現場は見ていない』と証言したに等しいのである。すなわち浅海特派員は向井少尉の依頼を裏切り、逆に、この記事の内容は事実だと証言しているのである。この証言は二人にとって致命的であったろう。唯一の証人が『二人の語ったことは事実だ』と証言すれば、二人が処刑されるのは当然である。これでは、この処刑は軍事法廷の責任だとはいえない。」(『私の中の日本軍(上)』p262)

(注1)常州は、文章の前後の関係から間違いと思われる。

(注2)東日の第一報では総計56のはずが内訳を合計すると59(55+4)になる。しかし、オリジナルの記事原稿と思われる大阪毎日の第一報では56(52+4)になる。東日の単純ミスと思われる。