「百人斬り競争」報道の実像に迫る3

2007年9月20日 (木)

 ここで、浅海一男氏の記す、向井、野田両少尉との出会いそしてその後の経過と、氏が東京日日新聞に書いた「百人斬り競争」の記事との関係について考えてみます。

 浅海氏がこの間の事情についてはっきり語ったのは、本多勝一編『ペンの陰謀』(s52.9初版)に収録された氏の文章「新型の進軍ラッパはあまり鳴らない」においてですが、氏が戦後はじめてこの事件についての取材を受けたのは、昭和47年4月(20日を過ぎた頃)のことです。それは、鈴木明が、前回紹介した向井少尉の弟向井猛氏を取材した直後に、『諸君』編集部を通じて電話をかけたのが最初でした。鈴木明は、浅海氏にできればお会いしたい旨告げましたが、浅海氏は「向井、野田両少尉に関しても浅海氏は『どこかの戦場で会ったような気がする』という程度の記憶」しかなく面会を断ったそうです。

 それでも鈴木氏は、「当時でも、人間を百人斬るというのは異常なことだったと思うのですが、その信憑性について疑いは持たなかったのでしょうか?」とたずねたところ、浅海氏は「当時どういう風に感じたかについても記憶はありません。唯、責任ある人(将校という意味?)が語ったことだから、そのまま信じて疑わなかったのだろうと思います。あり得ることだと思いました」

「後にこれが問題になるとは想像もされなかった?・・・?」
「戦闘中の話として書きましたから・・・。戦後遺族の方からこういう答弁をしてくれと依頼があり、お気の毒と思って上申書を書きましたが、何しろ本人が言ったことを書いたわけですから、他に証明書の書きようもなかったわけです。その辺のこともよく覚えていません」(中略)

「処刑された二人に対するお考えは?」
「特に亡くなられた方だから、何も言いたくありません──」と答えています。

 その後「週刊新潮」昭和47年7月29日号に掲載された「南京百人斬りの”虚報”で死刑戦犯を見殺しにした記者が今や日中かけ橋の花形」という見出しの、氏に対するインタビュー記事では次のように答えています。

 「(前略)当時、二人から話を聞いたことは間違いありません。私の記事によって向井さんらが処刑されたなんてことはないです。ご本人のなさったことがもとです。私は”百人斬り”を目撃したわけではないが、話にはリアリティーがあった。だからこそ記事にしたんです。判決をしたのは蒋介石の法廷とはいえ、証人はいたはずだ。また、私の報道が証拠になったかどうか、これも明らかではありませんからね。しかし、私は立派な亡くなり方をなさった死者と、これ以上論争したくないな・・・」

 そして、昭和52年の「新型の進軍ラッパはあまり鳴らない」では次のようにいっています。

 「連日の強行軍から来る疲労感と、いつどこでどんな”大戦果”が起こるか判らない錯綜した取材対象に気を配らなければならない緊張感に包まれていたときに、あれはたしか無錫の駅前の広場の一角で、M少尉、N少尉と名乗る若い日本将校に出会ったのです。・・・筆者たちの取材チームはその広場の片隅で小休止と、その夜そこで天幕野営をする準備をしていた、と記憶するのですが、M、N両将校は、われわれが掲げていた新聞社の社旗を見て、向こうから立ち寄ってきたのでした。『お前たち毎日新聞か』といった挨拶めいた質問から筆者らとの対話が始まったのだと記憶します。両将校は、かれらの部隊が末端の小部隊であるために、その勇壮な戦いぶりが内地の新聞に伝えられることのないささやかな不満足を表明したり、かれらのいる最前線の将兵がどんなに志気高く戦っているかといった話をしたり、今は記憶に残っていないさまざまな談話をこころみたなかで、彼ら両将校が計画している『百人斬り競争』といういかにも青年将校らしい武功のコンテストの計画を話してくれたのです。筆者らは、この多くの戦争ばなしのなかから、このコンテストの計画を選択して、その日の多くの戦況記事の、たしか終わりの方に、追加して打電したのが、あの「百人斬り競争」シリーズ第一報であったのです。

 両将校がわれわれのところから去るとき、筆者らは、このコンテストのこれからの成績結果をどうしたら知ることができるかについて質問しました。かれらは、どうせ君たちはその社旗を掲げて戦場の公道上のどこかにいるだろうから、かれらの方からそれを目印にして話にやってくるさ、といった意味の応答をして、元気に立ち去っていったのでした。」 また、当時は、多くの将兵が新聞記者に声をかけてきて、かれらの部隊が何県何郡出身だとか、元気に戦っているか知ったら、郷里の人々がどんなに喜んでくれるとか、安心してくれるとか、また、さまざまの武勇のさまを話したことを紹介した後、浅海記者は、自分自身の従軍記者としての身分上の制約と、多くの武勇の話の中から、なぜ「百人斬り競争」を選択したかについて次のように説明しています。

 「当時の従軍記者には、これらの(将兵たちの語る)『談話』について冷静な疑問を前提とする質問をすることは不可能でした。なぜなら、われわれは『陸軍省から認可された』従軍記者だったからです。」もっとも、われわれはこれらの『談話』のなかから取捨選択をすることは可能でした。しかし、その選択の幅がきわめて狭いものであったことは、前にあげたようなもろもろの『戦果ばなし』がそれ自身かなり現実性をもっていたことと、『陸軍省認可』のわれわれの身分とが規定していたのです。

 事実、「『敵』を無造作に『斬る』ということは、激しい戦闘の時はもちろんですが、その他のばあいでも、当時の日本の国内の道徳観からいってもそれほど不道徳な行為とはみられていなかったのですが、とくにわれわれが従軍した戦線では、それを不道徳とする意識は皆無に近かったというのが事実でした。」そして、その実例として、氏が見聞したいくつかの捕虜処刑の様子や、普通の市民を「東洋鬼」に変えていった南京戦の過酷な実情を紹介した後、次のように「百人斬り競争」のその後の経過を述べています。

 「このような異常な環境のなかにあって筆者たちの取材チームはM、N両少尉の談話を聞くことができたのです。両少尉は、その後三、四回われわれのところ(それはほとんど毎日前進していて位置が変わっていましたが)に現れてかれらの『コンテスト』の経過を告げていきました。その日時と場所がどうであったかは、いま筆者の記憶からほとんど消えていますが、たしか、丹陽をはなれて少し前進したころに一度、麒麟門の付近で一度か二度、紫金山麓孫文陵前の公道あたりで一度か二度、両少尉の訪問を受けたように記憶しています。両少尉はあるときは一人で、あるときは二人で元気にやって来ました。 そして担当の戦局が忙しいとみえて、必要な談話が終わるとあまり雑談をすることもなく、あたふたと彼らの戦線の方へ帰っていきました。古い毎日新聞を見ると、その時の場所と月日が記載されていますが、それはあまり正確ではありません。なぜなら、当時の記事草稿の最優先の事項は戦局記事と戦局についての情報であって、その他のあまり緊急を要しない記事は二日、三日程度『あっためておく』ことがあったからです。」

 つまり、浅海氏は、「百人斬り競争」の話は両少尉が浅海記者の取材チームに持ち込んだものであること。その話にはリアリティーがあったから記事にしたこと。しかし、われわれは「陸軍省から認可を受けた」従軍記者であり、また、当時は「敵」を無造作に「斬る」ことは、戦闘中でなくても不道徳な行為とは見なされていなかったので、「百人斬り競争」のような武勇談を戦意高揚記事として書いたこと。また、そうした話に冷静な疑問を前提とする質問をすることは不可能だったこと等を述べています。

 要するに、浅海記者は「百人斬り競争」の新聞記事の内容は、両少尉の話を記事にしただけで、自分に責任はない。また、それを戦意高揚のための武勇談として新聞記事を書いたことについても、「陸軍省から認可を受けた」従軍記者としてやったことで、自分に責任はない。また、冷静に事実関係を確かめることなくこの記事を書いたことについても、こうした「手柄ばなし」に「冷静な疑問を前提とする質問をすることは不可能だった」ので、自分に責任はない、といっているのです。

 だが、「両少尉の話を記事にしただけ」という氏の言い分は、その後、鈴木明の調査で両少尉の上申書や手記・遺書が発見されたことにより、三者談合の存在が明らかとなりました。また、山本七平による自らの体験に基づく分析によって、記者は、両少尉が大隊副官と歩兵砲小隊長であることを知っていたのに、「百人斬り競争」を事実らしく見せるため、二人をあたかも第一線の歩兵小隊長であるかのように描いていることが指摘され、さらに、記事は、両少尉に「筋書き通り」に戦果を語らせ、浅海記者がそれを「百人斬り競争」らしく仕立て上げる形で創作されたものであることが解明されました。

 また、山本七平は、冷静に事実関係を確かめることなく、国民の戦意高揚のため、不確かな「手柄ばなし」を特電として報じたことについて、新聞記事というのはあくまで事実に基づいて書かれるものであり─それ故にこそ、それが唯一の証拠となって二人の人間が処刑されようとしているのだから─軍に迎合してこのような記事を書いたことについて、浅海記者の新聞記者としての責任を鋭く追及しました。同時に、毎日新聞もこの記事を再調査をすることなく放置したのだから責任は免れない、まずこれを事実と報道したことを取り消し、遺族に賠償してほしいと訴えたのです。