「百人斬り競争」報道の実像に迫る2

2007年9月8日 (土)

 この事件の概要については、本エントリー─「殺人ゲーム」と鈴木明の疑問─で紹介しましたが、ここでは、どうして北京郊外の廬溝橋で偶発的に発生した事件が、華中の上海に飛び火し、それが首都南京の攻略戦に発展したのかについて、もう少し詳しく説明しておきたいと思います。(『南京事件』秦郁彦第三章「廬溝橋から南京まで」の記述を引用要約)

 昭和12年7月7日の廬溝橋事件をきっかけに始まった日中の紛争は、「通常なら現地交渉ですぐに片づく程度の局地紛争」にすぎませんでしたが、「満州事変にひきつづく日本の華北進出をめぐって、悪化しつつあった日中関係は、すでに局地紛争が連鎖的に全面戦争へエスカレートしていくだけの危機的条件を成熟させて」いました。

 「すなわち、『一面抵抗、一面交渉』を標語に日本との衝突を回避しながら、念願の本土統一をほぼ達成した中国は、1936年頃から国共合作を軸とする抗日統一戦線を形成し、これ以上の対日譲歩を許さない姿勢に固まりつつ」あったのです。こうした趨勢を決定づけたものが「西安事件」(1936.12.12)で、これ以降、支那は内戦停止・一致抗日へと結束を固めていきました。

 「しかし、日本政府も軍部も、こうした中国ナショナリズムの新しい潮流を認識せず、武力による威嚇か、悪くても一撃を加えるだけで中国は屈服するだろうと楽観し、マスコミも世論も中国を軽侮し続けてきた固定観念から、安易に『暴支鷹懲』を合唱」していました。つまり、”排日・侮日を続ける支那を懲らしめる”といった程度の認識で、「大戦争になるという予想なしに」安易に華北戦線を拡大していったのです。

 一方、蒋介石(中国国民政府主席)は、廬溝橋事件勃発後の7月17日、「最後の関頭演説」といわれる次のような演説を行っています。「万一、避けられない最後の関頭に至ったならば、我々は当然ただ犠牲あるだけであり、抗戦あるのみである。我々の態度は戦いに応ずるのであって、戦いを求めるのではない。我々は弱国ではあるが、わが民族の生命を保持せねばならず、祖先から託された歴史上の責任を負わざるを得ない。」

 その蒋介石の日中戦争に臨む戦略は、第一段階が「華北退却戦」、第二段階が「華中への誘引作戦」、第三段階が「奥地引き込み戦略」であったといいます。この作戦通り、蒋介石は、華北戦線ではつねに「決戦を回避して早々に退却する戦術」をとりました。その一方で、「中央軍の主力を上海地区に投入、主戦場を華北から華中に転換」するよう誘引作戦を行いそれに成功しました。(大山中尉事件など)

 こうして、8月11日、「張治中の指揮する中央軍三個師団(約三万)に攻撃が下令され、上海市街を守る兵力四千の日本海軍陸戦隊との間に、十三日から上海における本格的戦闘が始ま」りました。一方、「同日、日本政府は海軍の要請を承認して、陸軍へ威力の増援を決定、その後、中国軍の増勢に応じて華北から兵力を抜き、内地からも増援部隊を次々に投入」していきました。

 しかしながら、日本政府は、「上海に出兵したものの、拡大への不安から兵力を出し惜しみ、苦戦するとそのつど追加投入して、さらに損害を増すという拙劣な対応を重ね」ました。一方、中国は、1936年からドイツ式の近代装備を持つ師団編成に取り組むと共に、ドイツ軍事顧問団の指導により、上海の非武装地帯にトーチカを備えた網の目のような防御陣地を構築しており、その総兵力は30万に達していました。

 そのため、8月23日に応急動員のまま軍艦で上海北方に輸送された第11師団と第3師団は、網の目状に広がるクリークを利用した堅固な防御陣地による中国軍の激しい抵抗に会い、攻撃は停頓し、兵員の損害も急増しました。そこで陸軍中央部は、9月7日に台湾から重藤支隊、10日に内地から第9,第13,第101師団などを送り込み、こうして上海地区の激戦は、10月末まで二ヶ月余にわたってつづいたのです。

 そこで、こうした「正面からの力攻めだけでは戦局は打開しないと判断した参謀本部は、華北から一部の兵力を抜いて、11月5日、新たに第十軍(柳川平助中将)を編成、杭州湾北岸に上陸させ、また、16師団を揚子江上流の白茆口に上陸させ、上海派遣軍の危急を救う」とともに、三方向から上海の中国軍を包囲撃滅しようとしました。しかし、それは主戦場を華北から華中に転換するものでしたが、作戦は、あくまで上海地区に限定する方針に変わりはなく、補給計画もそれに応じるものでしかありませんでした。

 ところが、「それに先だって、上海方面の戦局も急速に動きはじめて」おり、「10月26日大場鎮陥落後は、中国軍の防御態勢は崩れ落ち」、かつ「第十軍の上陸北上を知ると、側面から包囲されることを恐れた中国統帥部は西方への全面退却を下令」しました。「すでに浮き足だっていた中国軍の逃げ足は速く、日本軍の上海西方地区での包囲殲滅は夢に終わりましたが、それが、陸軍中央部が予定していなかった南京追撃を誘発することに」なったのです。

 ところで、この二ヶ月半にわたる上海攻防戦における日本軍の損害は、予想をはるかに上回る甚大なものでした。「戦死9,115名、戦傷31,257名、計約4万という数字は、惨烈無比といわれた日露戦争の旅順攻防戦(死傷者6万人)に迫るもの」となりました。「こうした上海戦の惨烈な体験が、生き残り兵士たちの間に強烈な復讐感情を植えつけ、幹部をふくむ人員交代による団結力の低下もあって、のちに南京アトロシティーを誘発する一因となった」と秦郁彦氏は述べています。

 そこで、本題に戻りますが、「百人斬り競争」の主役となった向井少尉と野田少尉は、先ほど述べた、華北から上海派遣軍に増援された第16師団(11月13日揚子江南岸の白茆江に上陸)の歩兵第9連隊第3大隊(冨山大隊)に属していて、総退却となった中国軍を追って、11月25日無錫(26日を訂正9/14)、11月29日常州、12月2日丹陽、12月5日句容、12月11日紫金山へと急追・進撃したのです。

 無錫、常州、丹陽、句容間はそれぞれ約40キロで、この間をそれぞれ三日程度で走破していますから、一日10キロ以上進んだことになります。この間、向井少尉は「無錫の戦闘最終日に到着して砲撃戦に参加したが、・・・常州においては戦闘はなかった。中国軍隊も住民も見なかった。丹陽の戦闘では、冨山大隊長の指揮から離れて、別個に第12中隊長の指揮下に入り、丹陽の戦闘に参加して砲撃戦中負傷して看護班に収容された」と南京軍事法廷で証言しています。(s22.11.6の検察審問に対する答辨書)

 一方、野田少尉は、冨山大隊(定員1,091名)の副官であり、その冨山大隊(歩兵一個小隊、歩兵砲小隊を除く)は、丹陽付近から北方に遠く迂回し、本隊(第16師団)に遅れたため、草場部隊の予備隊となり、本隊に追求すべく急行軍を実施した。従って、常州、丹陽、句容に入ることはなく、これらの地では全く戦闘をしていない(同11月15日付答辨書)と同様に証言しています。

 これに対して、東京日日新聞の浅海記者は、11月29日常州発「百人斬り競争」の新聞記事で、「記者等が駅に行つた時この二人が駅頭で会見してゐる光景にぶつかつた。」として、次のような両少尉の会話を記事にし新聞に掲載しています。
「向井少尉  この分だと南京どころか丹陽で俺の方が百人くらゐ斬ることになるだらう、野田の敗けだ、俺の刀は五十六人斬つて歯こぼれがたつた一つしかないぞ。
野田少尉  僕等は二人共逃げるのは斬らないことにしてゐます、僕は○官をやつてゐるので成績があがらないが丹陽までには大記録にしてみせるぞ。」

 つまり、浅海特派員は、常州で、はじめて、両少尉が、「百人斬り競争」をしていることを知ったとして、11月29日発の「百人斬り競争」の第一報を書いているのです。浅海記者はこのことの証人とするため、同僚の佐藤振寿カメラマンを呼び、この取材の様子を写真に撮らせています。この時、佐藤カメラマンは、両少尉に対して、”あんた方、斬った、斬ったというが、誰がそれを勘定するのか”と質問したといっています。(『週刊新潮』s47.7.29)

 また、浅海氏は、本多氏の「中国の旅」を契機に、この東日の「百人斬り競争」記事に疑問が投げかけられるようになって後、本多勝一編『ペンの陰謀』(s52)に「新型の進軍ラッパはあまり鳴らない」と題する小論を寄せています。その中で、両少尉との最初の出会いを「無錫の駅前の広場の一角」(『同書』p340)としていますので、次の野田少尉の「新聞記事の真相」に述べる通り、その発端となった両少尉との出会いは、無錫であったことが明らかとなりました。

 おそらく浅海記者は、この話を、先の小論でも弁解している通り、数日間暖めていて(気後れしたのか?)、11月29日に佐藤振寿カメラマンに両少尉の写真を撮らせた段階で、それを、その日に(はじめて)取材したように記事を書き、本社である大阪毎日に送ったのです。大阪毎日はそれを支社である東京日日に転送し、両者それぞれ、その原稿をもとに新聞記事を作成し、それぞれの新聞に掲載したのですが、興味深いことに、その原稿の取り扱いに違いが生じています、がそれは後ほど。()内は9/14挿入

 そこで問題は、この「百人斬り競争」の話が、どのような経緯で新聞に掲載されることになったのかということなのですが、「百人斬り競争」報道から何を学ぶか4─野田少尉の弁明そして遺書─で紹介したように、野田少尉は、この間の事情について、昭和22年12が18日の死刑判決後に、「新聞記事ノ真相」と題して次のような手記を残しています。再掲になりますが、全文紹介させていただきます。

 被告等ハ死刑判決ニヨリ既ニ死ヲ覚悟シアリ。「人ノ死ナントスルヤ其ノ言ヤ善シ」トノ古語ニアル如ク被告等ノ個人的面子ハ一切放擲シテ新聞記事ノ真相ヲ発表ス。依ツテ中国民及日本国民ガ嘲笑スルトモ之ヲ甘受シ虚報ノ武勇伝ナリシコトヲ世界ニ謝ス。
十年以前前ノコトナレバ記憶確実ナラザルモ無錫ニ於ケル朝食後ノ冗談笑話ノ一節左ノ如キモノアリタリ。
記者 「貴殿等ノ剣ノ名ハ何デスカ」
向井 「関ノ孫六デス」
野田 「無名デス」
記者 「斬レマスカネ」
向井 「サア未ダ斬ツタ経験ハアリマセンガ日本ニハ昔カラ百人斬トカ千人斬トカ云フ武勇伝ガアリマス。真実ニ昔ハ百人モ斬ツタモノカナア。上海方面デハ鉄兜ヲ切ツタトカ云フガ」
記者 「一体無錫カラ南京マデノ間ニ白兵戦デ何人位斬レルモノデセウカネ」
向井 「常ニ第一線ニ立チ戦死サヘシナケレバネー」
記者 「ドウデス無錫カラ南京マデ何人斬レルモノカ競争シテミタラ 記事ノ特種ヲ探シテヰルンデスガ」
向井 「ソウデスネ無錫付近ノ戦斗デ向井二十人野田十人トスルカ、無錫カラ常州マデノ間ノ戦斗デハ向井四十人野田三十人無錫カラ丹陽マデ六十対五十無錫カラ句溶マデ九十対八十無錫カラ南京マデノ間ノ戦斗デハ向井野田共ニ一〇〇人以上ト云フコトニシタラ、オイ野田ドウ考ヘルカ、小説ダガ」
野田 「ソンナコトハ実行不可能ダ、武人トシテ虚名ヲ売ルコトハ乗気ニナレナイネ」
記者 「百人斬競争ノ武勇伝ガ記事ニ出タラ花嫁サンガ殺到シマスゾ ハハハ、写真ヲトリマセウ」
向井 「チヨツト恥ヅカシイガ記事ノ種ガ無ケレバ気ノ毒デス。二人ノ名前ヲ借シテアゲマセウカ」
記者 「記事ハ一切記者ニ任セテ下サイ」

 其ノ後被告等ハ職務上絶対ニカゝル百人斬競争ノ如キハ為サザリキ又其ノ後新聞記者トハ麒麟門東方マデノ間会合スル機会無カリキ
シタガツテ常州、丹陽、句溶ノ記事ハ記者ガ無錫ノ対談ヲ基礎トシテ虚構創作シテ発表セルモノナリ
尚数字ハ端数ヲツケテ(例句溶ニ於テ向井八九野田七八)事実ラシク見セカケタルモノナリ。
野田ハ麒麟門東方ニ於テ記者ノ戦車ニ添乗シテ来ルニ再会セリ

 記者 「ヤアヨク会ヒマシタネ」
野田 「記者サンモ御健在デオ目出度ウ」
記者 「今マデ幾回モ打電シマシタガ百人斬競争ハ日本デ大評判ラシイデスヨ。二人トモ百人以上突破シタコトニ(一行不明)
野田 「ソウデスカ」
記者 「マア其ノ中新聞記事ヲ楽ミニシテ下サイ、サヨナラ」

瞬時ニシテ記者ハ戦車ニ搭乗セルママ去レリ。当時該記者ハ向井ガ丹陽ニ於テ入院中ニシテ不在ナルヲ知ラザリシ為、無錫ノ対話ヲ基礎トシテ紫金山ニ於イテ向井野田両人ガ談笑セル記事及向井一人ガ壮語シタル記事ヲ創作シテ発表セルモノナリ。
右述ノ如ク被告等ノ冗談笑話ニヨリ事実無根ノ虚報ノ出デタルハ全ク被告等ノ責任ナルモ又記者ガ目撃セザルニモカカハラズ筆ノ走ルガママニ興味的ニ記事ヲ創作セルハ一体ノ責任アリ。
貴国法廷ヲ煩ハシ世人ヲ騒ガシタル罪ヲ此処ニ衷心ヨリオ詫ビス。

 おそらく、この野田少尉の、自らの死を覚悟して後の「被告等ノ個人的面子ハ一切放擲シテ新聞記事ノ真相ヲ発表ス」としたこの手記の内容が、「百人斬り競争」報道がなされるに至った事実関係を、最も正確に描出しているのではないかと思います。ここで野田氏は、浅海記者に対して、「右述ノ如ク被告等ノ冗談笑話ニヨリ事実無根ノ虚報ノ出デタルハ全ク被告等ノ責任ナルモ又記者ガ目撃セザルニモカカハラズ筆ノ走ルガママニ興味的ニ記事ヲ創作セルハ一体ノ責任アリ」と告発する姿勢も見せています。

 これに対して、向井少尉の浅海記者に対する態度は、浅海氏との共犯関係をより強く想起させるもので、一方で浅海氏をかばう姿勢を見せつつも、他方でその”非情”をうらむ屈折した心情を吐露しています。が、その怒りの矛先は、浅海記者に対してより、むしろ、こうした非道な裁判を行い、無実の自分等を処刑しようとする中国に対して向けられているように思われます。その遺書には次のような言葉がつづられています。

 「母上様不孝先立つ身如何とも仕方なし。努力の限りを尽くしましたが我々の誠を見る正しい人は無い様です。恐ろしい国です。・・・何れが悪いのでもありません。人が集まって語れば冗談も出るのは当然の事です。・・・公平な人が記事を見れば明らかに戦闘行為であります。犯罪ではありません。記事が正しければ報道せられまして賞讃されます。書いてあるものに悪い事はないのですが頭からの曲解です。浅海さんも悪いのでは決してありません。我々の為に賞揚してくれた人です。日本人に悪い人はありません。我々の事に関しては浅海、富山両氏より証明が来ましたが公判に間に会いませんでした。然し間に合つたところで無効でしたろう。直ちに証明書に基いて上訴しましたが採用しないのを見ても判然とします。富山隊長の証明書は真実で嬉しかつたです。厚く御礼を申上げて下さい。浅見氏のも本当の証明でしたが一ヶ条だけ誤解をすればとれるし正しく見れば何でもないのですがこの一ヶ条(一項)が随分気に掛りました。勿論死を覚悟はして居りますものの人情でした。浅海様にも御礼申して下さい。今となっては未練もありません。富山、浅海御両人様に厚く感謝して居ります。富山様の文字は懐かしさが先立ち氏の人格が感じられかつて正しかつた行動の数々を野田君と共に泣いて語りました。」

 これからわかることは、この「百人斬り競争」報道に対して、向井少尉は、野田少尉よりはるかに強く責任を感じていて、「人が集まって語れば冗談も出るのは当然の事です。・・・公平な人が記事を見れば明らかに戦闘行為であります。犯罪ではありません。記事が正しければ報道せられまして賞讃されます。書いてあるものに悪い事はないのですが頭からの曲解です。」と自分がやったことに対する自己弁護を試みています。

 また、浅海記者に対しては、「浅海さんも悪いのでは決してありません。我々の為に賞揚してくれた人です。」とその善意を認めつつ、しかしその一方で、「浅見(ママ)氏のも本当の証明でしたが一ヶ条だけ誤解をすればとれるし正しく見れば何でもないのですがこの一ヶ条(一項)が随分気に掛りました。勿論死を覚悟はして居りますものの人情でした。浅海様にも御礼申して下さい。今となっては未練もありません。」と述べています。

 この一ヶ条(一項)というのは、向井少尉の弟である向井猛氏が、市ヶ谷に拘留中の向井少尉に頼まれて、「今のところ、向こうの決め手は、例の百人斬りの記事だ。この記事がウソだということを証明してもらうのは、これを書いた毎日新聞の浅海さんという人に頼む外はない。浅海さんに頼んで、あの記事は本当ではなかったということを、是非証明してもらってくれ。」といわれ、有楽町の毎日新聞に浅海氏を訪ねて書いてもらった証明書の第一項のことです。そこには、”① 同記事に記載されてある事実は、向井、野田両氏より聞き取って記事にしたもので、その現場を目撃したことはありません。”と書いてありました。

 つまり、向井少尉は、この浅海氏の証明書の第一項について、確かに自分がそうした武勇伝を氏に話したことは事実だが、しかし、それが事実でないことは浅海記者自身も知っていることではないか。なのに、この書き方では、”それが事実でない”ということを浅海記者が知っているというその事実を、浅海記者自身が否定していることになる、そう”誤解をすればとれる”書き方ではないか、それは”人情”にもとるではないかといっているのです。

 確かに、そうした武勇伝が新聞記事で報じられれば、戦場における手柄話であり故郷の名誉となるし、自分が元気でいることの家族への知らせにもなる。また、婚期を逸して出征した自分の花嫁募集の宣伝にもなる(山本七平氏によると、これは、早く内地に帰って平和な生活をしたいという隠されたメッセージだそうです)。一方、記者は、行軍ばかりでおもしろい記事がなく困っているというから、ホラ話の武勇伝を特ダネとして提供したわけで、それで”飛来する弾雨の中で取材する特派員”としての面目も立ったではないか、というわけです。

 こうした、三者合作の申し合わせがあったことを窺わせる記事が、実は、12月1日付大阪毎日新聞(夕刊)に掲載された「百人斬り競争」第一報に残されています。これは、東京日日に掲載された第一報の記事にはないもので、記事の末尾の”僕は○官をやっているので成績はあがらないが、丹陽までには大記録にしてみせるぞ”という野田少尉の会話の後に、「記者らが、「この記事が新聞に出ると、お嫁さんの口が一度にどっと来ますよ」と水を向けると、何と八十幾人斬りの両勇士、ひげ面をほんのりと赤らめて照れること照れること」という記述があるのです。

 11月30日付東京日日新聞(朝刊)の第一報では、この部分が削除されていますが、さすがにその「不自然さ」が気になったのでしょう。もちろんこの記事の原稿は、浅海氏が先の小論で証言している通り、まず大阪毎日新聞本社に送られ、それからその支社である東京日日新聞に送られているのです。ということはもとの原稿にこの記述があったということです。両少尉との約束を律儀に守ろうとする、浅海記者の”苦心”の跡が見えるようではありませんか。