「百人斬り競争」報道の実像に迫る1

2007年8月23日 (木)

 私は、本稿副題─ベンダサンのフィクションを見抜く目─で、本件に関する高裁判決文4争点に対する裁判所の判断(2)では、両少尉が「百人斬り競争」を行ったこと自体が、何ら事実に基づかない新聞記者の創作によるものであるとまで認めることは困難である。」とする論拠について、「少なくとも、両少尉が、浅海記者ら新聞記者に話をしたことが契機となり、「百人斬り競争」の記事が作成されたと認められる」ことを第一にあげていることを指摘しました。

 しかし、本稿副題─『週刊新潮』の常識的判断─で、すでに指摘した通り、こうした見解は、今回の裁判で初めて明らかにされたものではなく、35年前に行われた論争における出発点でもあったのです。こうした議論をふまえて山本七平は、昭和47年7月29日の『週刊新潮』の「『百人斬り』の”虚報”で死刑戦犯を見殺しにした記者が今や日中かけ橋の花形」の記事内容について、次のように述べています。

 「『週刊新潮』の結論は、戦場に横行する様々のホラを浅海特派員が事実として収録したのであろうと推定し、従って、ホラを吹いた二少尉も、気の毒だが、一半の責任があったのではないか、としているように思う。非常に常識的な考え方と思うが、果たしてそうであろうか。」(『私の中の日本軍』上「戦場のほら・デマを生み出すもの」p60)

 つまり、山本七平は、ここで、こうした『週刊新潮』の”非常に常識的な結論”に対して疑問を投げかけているのです。浅海特派員は、本当に二少尉のホラを事実と信じて収録したのか。真実は、ホラをホラと知っており、それ故に、それがほらと見抜かれないよう、「ある点」を巧みに隠蔽したのではないかと。

 そして、その「ある点」とは、この二少尉が、向井は歩兵砲小隊長であり野田は大隊副官であって指揮系統も職務も全く異なるということで、このことを浅海記特派員知っていたにもかかわらず、「百人斬り競争」の記事で、この両者をあたかも「同一指揮系統下にある二歩兵小隊長」として描いている、と指摘しているのです。

 また、ベンダサンは、本稿副題─ベンダサンのフィクションを見抜く目─で紹介した通り、氏独特の論理分析によって、東京日日の「百人斬り競争」をフィクションと断定し、結論として、「この記事はまず「百人斬り」という俗受けする表題がまず先にあり、その上で、両少尉と浅海記者の三者合作でその内容にふさわしい物語を創作した」と述べているます。これも繰り返しになりますが、その結論部分を再掲しておきます。

 「戦場においてもし競技が行われうるなら、それは、「時間を限定して戦果を争う」競技以外にはありえない。「戦果を限定して時間を争う」ことは、「本多版」のように、一方が無抵抗な場合に限られる。いかにのんきな読者でも、少なくとも相手の存在する戦闘において、戦果が一定数に達した瞬間に何らかの形でストップをかけうる戦闘があることは納得しない。

 もちろん二人の背後に測定者がいて、百までを数え、同時に百に達した時間を記録し、その時間を審判に提示しうれば別であるが、それを戦場における事実であると読者に納得させることは不可能である。走者と共に走りつつ、巻き尺で百メートルを計測しつつ、百メートルに達した瞬間にストップウオッチを押すという競技は、平時でも、理論的には成り立ち得ても実施するものはいないであろう。しかし、もしこの「百人斬り」が数の競技(ある時間または地点に到達するまでに何人殺すかを競う競技=筆者)なら、読者からの質問に、何物かに数を数えさせたと答弁しうるであろうが、時間を測定させたのでは誰が考えても作為になってしまう。従って、この作者は、非常に注意深く、人に気づかれぬように、時間の競技を数の競技へと書きかえていったのである。・・・

 なぜこういう混乱が生じたか。その理由は言うまでもない。この事件には「はじめにまず表題があった」のである。「百人斬り」とか「千人斬り」とかいう言葉は、言うまでもなく俗受けのする慣用的俗語である。何物かが、この言葉を、新聞の大見出しにすることに気づいた。そしておそらく三者合作でその内容にふさわしい物語を創作した。

 しかしその時三人は、この言葉を使えば、それが「数を限定して時間を争う競技にならざるを得ないこと、そして戦場ではそれは起こりえないことに気づかなかった。そしておそらく第一報を送った後で誰かがこれに気づき、第二報ではまずこの点を隠蔽して、読者に気づかれぬように、巧みに「時間を限定して数を争う」別の競技へと切替えていった。この切替えにおける向井少尉の答弁は模範的である。事前の打合せがあったか、三者相談の結果を向井少尉に語らせたか、であろう。すべての事態は、筆者の内心の企画通りに巧みに変更されていく。事実の要約摘記にこのようなことは起こらないし、誤認に基づく記述の混乱にもこのようなことは起こらない。人がこのようなことをなしうるのは創作の世界だけである。・・・」

 このように、山本七平もベンダサンも、二少尉がホラを吹いたことは認めた上で、実は、浅海記者もこれがホラであることを承知の上で、これを「百人斬り競争」という主題にあうように、いわば「三者合同」で戦意高揚記事を創作した、と推断しているのです。ただ、ベンダサンの場合は、本多氏との論争を通じて、日本人には「語られた事実」と「事実」を峻別することができないという、当時の氏の連載(「日本教について」)における所論を、紙上で実証することに関心を寄せていて、浅海氏の責任を追及する、というような方向には向かっておりません。

 これに対して山本七平は、「百人斬り競争」という虚報が、それが意図的に隠蔽した部分を補うという形で必然的に「殺人ゲーム」に変化していくプロセスを明らかにするとともに、さらにその記事の内容を、鈴木二郎特派員や佐藤振寿特派員の証言ともつき合わせて仔細に分析することによって、特に昭和12年12月10日の両少尉の会見の記述について、それを浅海記者の創作と断定し、これが両少尉の非戦闘員殺害の「自白」と見なされたことが、二人を処刑場に送ることになった、と言っています。

 これは相当に思い切った推論で、洞富雄氏が浅海氏を弁護するところともなっているわけですが、この新聞記事が唯一の証拠となって二人が処刑され、今では南京大虐殺を象徴する残虐犯として、両少尉の写真が、その後南京大虐殺記念館の入口に掲示されることにもなったのですから、その無実を確信する限り、この記事の「創作」責任を問う方向に向かわざるを得なかったのだと思います。というより、山本七平は、戦場においてこの二少尉と同様の境遇にあり、また、「戦犯」の怖さを身を以て体験していましたから(かろうじて戦犯を免れた体験を持つ、という表現を訂正8/26)、両氏の「虚報」による刑死を人ごととは思えなかったのです。

 そこで、次に、山本七平の、以上のような結論に至るその論証の過程を詳しく検証してみたいと思います。その上で、「百人斬り競争」の報道内容と、実際の両少尉の動きや会話を、現在までに明らかになっている証拠資料とも突き合わせて、そのより真実に近い「実像」の再現に努めてみたいと思います。