「百人斬り競争」事件について――浅海記者は二少尉から聞いたままを記事にしたか

2012年2月5日 (水)

だが、こうした中国人弁護士崔培均等の努力も向井、野田両少尉の訴えも空しく、両少尉は、昭和23年1月28日、南京郊外の雨花台で処刑(銃殺)されました。

ではなぜ、これだけの反証がなされたにもかかわらず、二少尉の死刑判決は覆らなかったのでしょうか。そこでまず、私が前回、この事件の核心として述べたこと、この記事を書いた記者は「二少尉から聞いたという話を事実として聞いたか、それともフィクションとして聞いたか」について検討したいと思います。言うまでもなく、この「百人斬り競争」の記事は事実ではありません。それは、この南京法廷自体がこれを戦闘行為だとは認めていないことで明らかです。

つまり、近代戦においては、「百人斬り競争」のようなことはありえず、だから、中国人は、これを住民・俘虜虐殺事件と見たのです。本多勝一氏等は、こうした主張を「百人斬り競争」論争が不利に陥った後になすようになりましたが、こうした見方は、中国側が南京裁判以前より主張していたのです。

しかし、これは、前回紹介した「上訴申弁書」によって完全に論破されました。というのは、裁判所が「百人斬り競争」を住民・捕虜の虐殺と認定したその唯一の証拠は、浅海記者が書いた東京日日新聞の記事以外にはなかったからです。だから、もし、これが浅海記者の創作つまりフィクションであった事が証明されれば、住民・捕虜虐殺の証拠と見なされたその元になる事実がなくなるのですから、これを住民・捕虜虐殺事件にすり替えることも出来なくなります。故に、浅海記者が、自分の書いた記事について「二少尉の話を事実と思って書いたか否か」が問題になるのです。

だが、この事を知っているのは、浅海記者、向井少尉、野田少尉の三名しかいない。そして、向井少尉と野田少尉は、裁判の中でこれを「無錫において記者と会見した際の食後の冗談であって全然事実ではない」と全面否認している。そこで浅海記者は何と言ったか。彼は、向井少尉の弟に懇請されて南京法廷宛ての証明書に次のように書きました。(本来なら軍事法廷は、彼を召喚して証人尋問すべきだったのですが・・・。)

一、同記事に記載されてある事実は右の両氏より聞き取って記事にしたので、その現場を目撃したことはありません。

二、両氏の行為は決して住民・捕虜等に対する残虐行為ではありません。当時といえども残虐行為の記事は日本軍検閲当局をパスすることは出来ませんでした。

三、四は省略

もし、この記事作成の事情が二少尉の主張する通りのものであったら、この浅海記者の証明書は、「両氏より聞き取って記事にした」ではなく、戦意高揚記事を書くため、両少尉に架空の武勇伝を語ってもらい、いわゆる”ヤラセ”をやり(山本七平は、無錫で三者談合、常州では両者を佐藤振寿記者の前及び紫金山周辺の安全地帯で鈴木記者の前で”演技”させたと見ている)、それを佐藤記者や鈴木記者の前で自分がはじめて取材したように見せかけて、「百人斬り競争」の記事を書いた」となります。

しかし、浅海記者は、向井猛氏(向井少尉の弟)の願いにもかかわらず、この証明書には、「両氏より聞き取って記事にした、ただし現場を見ていない」としか書きませんでした。ということは、浅海記者は、裁判所が彼の書いた記事を住民・捕虜虐殺があったことの証拠としているのに、「私はその記事を事実と思って書いたが、直接見ていないので、それが住民・捕虜等に対する残虐行為であるはずはないと思うが、実際に何があったかは知らない」と言ったことになります。

では、本当に浅海記者は、一切の「主観的操作」を加えないで、この記事を作成したのでしょうか。このことを検証したのが山本七平の『私の中の日本軍』で、その結果、この「百人斬り競争」の記事は、先に述べた通り、浅海記者による”ヤラセ”事件であったことが明らかになったのです。

これが事実であれば、三階まで中国人でぎっしり詰まった南京法廷において、戦犯容疑の日本兵の弁護人を務め、前回紹介したような「上訴申弁書」を作成して、その全面無罪を主張したのが中国人弁護士であったのに対して、この日本人新聞記者は、自分の記者生命を守るため、戦意高揚記事作成のために自分に協力してくれた二少尉を見殺しにしたことになります。

では、なぜそう言えるか。もちろん、こうした解釈はこの記者にとって大変不名誉なことですから、その後の論争でも本人はこれを否定しています。また、この「百人斬り競争」については、今日まで様々な観点からの論評・論争がなされています。しかし、私は、この事件の核心は、先に述べた通り、浅海記者は「二少尉から聞いたという話を事実として聞いたか、それともフィクションとして聞いたか」というこの一点に集約できると考えています。

以下、こうした観点に沿って、山本七平が浅海版「百人斬り競争」をフィクションと断定した思考経路をたどってみたいと思います。

○ ベンダサンvs本多論争で、ベンダサンが本多勝一氏の書いた「中国の旅 競う二人の少尉」をフィクションだと断定したのに対し、本多氏は、東京日日新聞の浅海記者が昭和12年末に書いた「百人斬り競争」の新聞記事を証拠として提示した。これに対して、ベンダサンは、この浅海記者の書いた記事も直ちにフィクションだと断定した。しかし、山本は、なぜベンダサンがこれをフィクションと断定できたのか分からず、事務所に来た『諸君』の記者に、「氏はやけに自信がありますなあ、あんなこと断言して大丈夫なのかな。事実だったら大変ですな」と言った。

○ その後、鈴木明が『南京大虐殺のまぼろし』を書き、向井少尉の未亡人から送られてきた向井少尉の遺書と南京裁判における向井敏明付き弁護人の「上申書」によって、この浅海版「百人斬り競争」が作成された経緯を明らかにした。それによると、浅海記者は、向井少尉と野田少尉に「行軍ばかりで・・・特派員の面目がない」といい、向井少尉が「花嫁を世話してくれないか」と冗談を言ったところ、「貴方があっぱれ勇士として報道されれば、花嫁候補はいくらでも集まる」と言った。これに両少尉が応じたことからこの記事が作成されたという。

○ この記事の発表後、向井、野田両少尉は、記者の創作した「百人斬り競争」という虚報記事によって、南京大虐殺の象徴的な犯人とされ処刑された、との見方が一般化した。しかし、山本は、これは、両少尉が記者に「百人斬り競争」の武勇伝を話し、記者がそれを事実と思って記事にしたのか、それとも記者はこれをフィクションと知りつつ記事にしたのか判らない。結局これは水掛け論に終わらざるを得ないと思った。そこで山本は、その時書いた文藝春秋の記事に”これはもう良心の問題だ”と書いた。

○ ところが、その後の鈴木明の調査で、この両少尉は、最前線で戦闘する歩兵小隊長ではなく、向井少尉は歩兵砲小隊長、野田少尉は大隊副官だった事が明らかになった。山本は、浅海記者が書いた「百人斬り競争」の第一報における野田の会話に「僕は○官をやっているので成績があがらないが丹陽までには大記録にしてみせるぞ」とあるのを、歩兵には何か○官という職務でもあるのか、と思っていたが、まさか、これが副官の「副」を伏字にしたものだとは気づかなかった。

○ そこではじめて、この記事は、職務も指揮系統も全く異なる歩兵砲小隊長と大隊副官を、あたかも同一指揮下にある歩兵小隊長であるかのように見せかけた記事であることが分かった。つまり、前者は砲兵、後者は副官つまり部隊長付の事務官であって、前線に出て戦闘する職務ではない。そこでこの記者は、これが読者に分かると「武勇伝」としての「百人斬り競争」が成り立たなくなるので、野田少尉の「僕は副官をやっている・・」という会話の副官を○官としたのではないかと、山本は思った。となると話は違ってくる。なにしろ山本は軍隊では砲兵であり、また実質的に副官の職務を経験していたからである。

○ そこで、この「百人斬り競争」の記事をよく見ると、同一指揮系統に属する二人の歩兵小隊長が、部下と共に敵陣に切り込み、「百人斬り競争」しているように描かれている。しかし、それが誰の命令によるものかは分からない。まるで二人が「私的盟約」に基づいて兵を動かしているようにも見える。しかし、軍隊ではこのような「命令無視」の戦闘行動は絶対に許されない。もし私兵を動かしたとなれば、直ちに処刑されても仕方ない。

○ つまり、この記事に書かれたような戦闘は軍隊ではあり得ないのである。だから、この記事をもとに中国人が作成したと思われる本多版「百人斬り競争」には、上官が登場し、両少尉に「殺人ゲームをけしかけ」、三度次のような命令を下したことになっている。また「賞を出そう」とは、極めて中国的な「傭兵的」発想ということができます。

「南京郊外の句容から湯山までの約十キロの間に、百人の中国人を先に殺した方に賞を出そう・・・結果はAが八十九人、Bが七十八人にとどまった。湯山に着いた上官は、再び命令した。湯山から紫金山まで十五キロの間に、もう一度百人を殺せ、と。結果はAが百六人、Bが百五人だった。今度は二人とも目標に達したが、上官はいった。『どちらが先に百人に達したかわからんじゃないか。またやり直しだ。紫金山から南京城まで八キロで、今度は百五十人が目標だ」。

だが、この記事は、浅海記者の書いた「百人斬り競争」とは、競争区間も人数もゲームのルールも違っている。ベンダサンは、本多氏がこの記事を本多版「百人斬り」が事実である証拠として持ち出したことに対して次のように言った。「事実」と「語られた事実」は別である。我々は「語られた事実」しか知り得ない。従って、「事実」に肉薄するためには、「語られた事実」をなるべく多く集めて、その相互の矛盾から事実に迫るしかない。ところが本多氏は、この矛盾に満ちた二つの「語られた事実」をそのまま「事実」としていると。