「百人斬り競争」論争の現在1
ここまで、wikipedia の山本七平評──「本多勝一とのいわゆる百人斬り競争における論議で、彼はイザヤ・ベンダサンの名義のまま、山本七平の持論である「日本刀は2~3人斬ると使い物にならなくなる」という誤った論理を中心に本多を批判した」というもの──の紹介からはじめて、山本七平が「百人斬り競争」論争においてどのような主張をしたのかを見てきました。この間、私は「日本刀」に関する山本七平の議論には全く触れませんでしたが、それは、この議論が本論に対していわば傍論に過ぎず、あえて論じる必要を感じなかったからです。 また、この「百人斬り競争」論争は、ついに裁判でも争われることになり、これは昨年末に最高裁が東京高裁の判決を支持して結審しましたが、私は、その事実認定に疑問を持ちました。というのは、東京高裁判決は「少なくとも、両少尉が、浅海記者ら新聞記者に話をしたことが契機となり、「百人斬り競争」の記事が作成されたと認められる」として、「両少尉が「百人斬り競争」として新聞報道されることに違和感を持たない競争をした事実自体を否定することはできない」と認定しているからです。 つまり、「百人斬り競争」の記事が作成されたことの原因を、両少尉が、浅海記者ら新聞記者に話をしたことにのみ求めている。さらに、東京裁判の検事が浅海記者に記事の信憑性を訪ねたのに対し、記者が「真実です」と答えたことについて、それを、「両少尉の言葉に粉飾を加えていない」という意味に解し、それをそのまま受け入れている。結局、ホラを吹いた両少尉の責任であり、それを「見たまま聞いたまま」記事にした新聞記者には責任はないといっているに等しいのです。 実は、こうした見方に最初に疑問を投げかけたのが山本七平でした。山本七平は、『週刊新潮』の記事「『百人斬り』の”虚報”で死刑戦犯を見殺しにした記者が今や日中かけ橋の花形」(s47.7.29号)について次のようにいっています。 つまり、山本七平はここで、こうした『週刊新潮』の”非常に常識的な結論”に対して疑問を投げかけているのです。「浅海特派員は、本当に二少尉のホラを事実として収録したのか。真実は、ホラをホラと知っており、それ故に、それがほらと見抜かれないよう、「ある点」を巧みに隠蔽したのではないかと。そして、その「ある点」とは、この二少尉が、向井は歩兵砲小隊長であり野田は大隊副官であって指揮系統も職務も全く異なることを、浅海記特派員は知っていたにもかかわらず、「百人斬り競争」の記事で、この両者をあたかも「同一指揮系統下にある二歩兵小隊長」として描いたのではないかと。」(本稿「『週刊新潮』の常識的な判断」参照) しかし、そうはいっても、以上のような東京高裁の判断は、こうした山本七平の見解も検討した上で下されたはずです。しかし、そうならば、それを覆すだけの、「記者が、両少尉の言葉に粉飾を加えていない」ことを立証する確たる証拠が示される必要がありますが、それは皆無です。というより、そうした観点からの議論を回避しているとしか思えません。あるいは、それが「その歴史的事実としての評価は、未だ、定まっていない状況にある」という判断につながっているのかも知れませんが・・・。いずれにしても、これが、残された論争におけるの第一の争点だと思います。 次に問題となるのが、「両少尉が「百人斬り競争」として新聞報道されることに違和感を持たない競争をしたという事実自体は否定することができない」という裁判所の判断です。しかし、これは必然的に、「両少尉が捕虜や非戦闘員を(一人でも二人でも)殺したことがあるか否か」を問うこととなり、もともとの「百人斬り競争」報道をめぐる論争の真の争点──この新聞記事を唯一の証拠として「南京大虐殺」を象徴する残虐犯として両少尉が処刑された!──からずれてしまいます。従って、この点に十分注意した上で、ではなぜ両少尉は記者にそうした話をしたのかが問題となります。裁判所のいうように、「新聞報道されることに違和感を持たない競争をした」事実が背後にあったからか、それとも、両少尉のいうように単なるホラ話か、これが第二の争点です。 以上のように、「百人斬り競争」論争の争点を整理した上で、「『百人斬り競争』論争の現在」について、秦郁彦氏やトロント大学のボブ・ワカバヤシ氏の所論等を紹介しながら、私見を申し述べたいと思います。が、その前に、洞富雄氏が、これまでに紹介したイザヤ・ベンダサンや山本七平の見解に対して、逐一詳細な反論を行っていますので、それを概略見ておきます。ネット上では、こうした反論をもって、山本七平や鈴木明の主張が完全に論破されたと見なす向きもあるようですが、本論の冒頭に紹介したwikipediaの山本七平評に見るごとく、見当外れのものが多いようです。 では、洞富雄氏の山本七平に対する反論を「”南京大虐殺”はまぼろしか」(『ペンの陰謀』1977.9.25所収)に見てみたいと思います。ただ、こうした洞氏の反論に対しては山本七平も鈴木明もほとんど何も答えていません。実際のところ、氏の反論は、あまり生産的なとはいえないものが多いですから、そうしたのだろうと思いますが、それが誤解を招いている部分もあると思いますし、一方、肯首すべき論点がないわけでもありませんから、今後の論争の発展のためにも、ここで概略紹介し、あわせて、それに対する私見を申し添えておきたいと思います。 論点1〈職務が隠された真相〉 (洞)野田少尉を「○官」として登場させてしまったのは、「百人斬り」が正当な戦闘行為ではなかったこと、(つまり、「捕虜の据えもの斬り」だったということ)を最初から知っていたからではないか。だが、真正面からそうとは書けぬので、向井少尉の職務の方は曖昧にしてしまったのであろう。 論点2〈浅海記者の証言は偽証か〉 (山本)「浅海特派員は、この事件における唯一の証人なのである。そしてその証言は一に二人の話を「事実として聞いたのか」「フィクションとして聞いたのか」にかかっているのである。いわば二人の命は氏のこの証言にかかっているにもかかわらず、氏は、それによって「フィクションを事実として報道した」といわれることを避けるため、非常に巧みにこの点から逃げ、絶対に、この事件を自分に関わりなきものにし、すべてを二少尉に転嫁して逃げようとしている。しかし、もう一度いうが、そうしなければ命が危なかったのなら、それでいい─人間には死刑以上の刑罰はない、人を道ずれにしたところで死が軽くなるわけでもなければ、人に責任を転嫁されたからと入って、死が重くなるわけでもないのだから。 (洞)この山本の主張は浅海氏の人格を抹殺するようなものである。向井・野田少尉を救うために、「百人斬り」は実は虚報だったと、なぜ偽証してくれなかったのだ、と浅海氏の非情をとがめるのならまだしもだが、浅海氏の証言は「”『百人斬り』は事実だから、早く処刑しなさい”といっているに等しい」(『私の中の日本軍』p257)といっているのは曲解というものだ。だいいち、十分な根拠もなしに、どうして人に向かって”お前は人殺しだ”などといえるのだろう。 論点3〈なぜ、二少尉は「新聞記事」を了解したか〉 (洞)こうした軍隊経験のない私には、山本氏の戦場心理の分析を理解できないのは残念だが、常識で考えた場合次のようなことがいえる。上官に秘密にして「百人斬り」を創作するのはよいとしても、それが新聞で報道されることに同意する将校がいるとは私には到底考えられない。山本氏のいうように、これは私的盟約のもとづき軍を勝手に動かしたとして、「軍法会議」に回されるほどのことだからである。また、④のような記者の心理が働いていたとしても、そんなすぐにネタ割れするインチキ記事を、四度まで堂々と大新聞に書き続けたとは、到底考えられない。 以上三点が、洞氏の山本七平の見解に対する主要な反論です。これに対する私の意見は次の通りです。 〈論点1〉について 〈論点2〉について 〈論点3〉について このことについて、野田少尉自身は、南京法廷で「なぜ新聞記事の虚報を訂正しなかったのか」と聞かれて次のように答えています。 「自分が記事を見たのは昭和13年2月華北に移駐した頃であるが、その後も各地を転々としたため、訂正の機会を逃がし、かつ軍務繁忙のため忘却してしまったこと、何人といえども新聞記事に悪事を虚報されれば憤慨して新聞社に抗議し訂正を要求するが、善事を虚報されれば、そのまま放置するのが人間の心理にして弱点であること、自分の武勇を宣伝され、また賞賛の手紙等を日本国民から受けたため、自分自身悪い気持ちを抱くはずはなく、積極的に教法を訂正しようとしなかったこと、また反面で、虚偽の名誉を心苦しく思い、消極的に虚報を訂正したいと思ったが、訂正の機会を失い、うやむやになってしまった」 一方、向井少尉は、「向井は、自分がどんな記事を書かれて勇士に祭り上げられたのかは、全然知らなかったので、後であの記事を見て、大変驚き、且つ恥ずかしかった。」といっています。というのは、新聞記事には、向井少尉が「横林鎮の敵陣に部下とともに躍り込み五十五名を斬り伏せた」と書いてあり、これは砲兵の向井少尉にとっては、上官の命令を無視し、勝手に砲側を離れ、勝手に兵を動かした」ことになるからです。つまり、こんな事は、「上官の命令は天皇の命令」である日本軍では絶対に許されないことであり、そう認定されれば死以外になく、従って、そういうことは、たとえ口が裂けても向井少尉が新聞記者にいうはずがなく、この点、あらゆる関係者は一致して、向井少尉が『百人斬り』に触れられることを生涯いやがったと証言しています。(『私の中の日本軍』p202) また、向井少尉自身は「浅海記者が創作記事を書いた原因として、向井少尉が冗談で『花嫁の世話を乞う』と言ったところ、浅海記者が「貴方等を天晴れ勇士に祭り上げて、花嫁候補を殺到させますかね。」と語ったのであり、それから察すると、浅海記者の脳裏には、このとき、既にその記事の計画がたてられていたであろうと思われ、浅海記者は、直ちに無錫から第1回の創作記事を寄稿し、報道しており、無錫の記事を見れば、『花嫁候補』の意味を有する文章があって(大阪毎日の記事=筆者)、冗談から発して創作されたものであることが認められる」といっています。(向井少尉「最終弁論」) ただ、両者には、その後の浅海記者に対する対応に違いが見られることも事実です。というのは「新聞記事の内容は記者の創作である」という主張が明確なのは、野田少尉の方で、「被告等ノ冗談笑話ニヨリ事実無根ノ虚報ノ出デタルハ全ク被告等ノ責任ナルモ又記者ガ目撃セザルニモカカハラズ筆ノ走ルガママニ興味的ニ記事ヲ創作セルハ一体ノ責任アリ」と明確に浅海記者の責任を問うているのに対し、向井少尉は「浅海さんも悪いのでは決してありません。我々の為に賞揚してくれた人です。」(遺書)と、むしろかばう姿勢を見せています。 しかし、母に充てた遺書では、浅海氏が南京軍事法廷に提出した証言の第一項「同記事に記載されてある事実は、向井、野田両氏より聞き取って記事にしたもので、その現場を目撃したことはありません。」について、「浅見氏のも本当の証明でしたが一ヶ条だけ誤解をすればとれるし正しく見れば何でもないのですがこの一ヶ条(一項)が随分気に掛りました。勿論死を覚悟はして居りますものの人情でした。浅海様にも御礼申して下さい。」と一種の「うらみ」の心情を吐露しています。 これらの証言から解ること、それは、野田少尉の場合は、そんな冗談が新聞に載るとは思いもよらず、かつ、その誇大妄想狂的な記事を見て、大変恥ずかしく思った。しかし、自分の武勇を宣伝されたため、自分自身悪い気持ちはせず、従って、積極的に虚報を訂正しようとしなかった。また反面で、虚偽の名誉を心苦しく思い、消極的に虚報を訂正したいと思ったが、訂正の機会を失い、うやむやになってしまった」というのが正直な彼の気持ちではなかろうかと思います。 一方、向井少尉の場合は、自分がホラ話を浅海記者にしたこと、それを「百人斬り競争」として新聞記事に載せることに同意し、かつ、第一報や第四報で記者の求めに応じて、「百人斬り」のシナリオに沿う発言をしたことの責任を十分自覚しており、浅海記者に対しては、「浅海さんも悪いのでは決してありません。我々の為に賞揚してくれた人です。」とかばう一方、その証言の第一項について、「正しく見れば何でもないのですがこの一ヶ条(一項)が随分気に掛りました。勿論死を覚悟はして居りますものの人情でした。」 というに止めているのです。これらの証言は、洞氏の疑問に対する説明として、十分納得できるものだと私は思います。 また、浅海記者が、そうした、すぐネタバレするインチキ記事を四度までも書くはずがない、という洞氏の意見についてですが、しかし、どう考えても、彼の書いた「百人斬り競争」の新聞記事は、洞氏がいい、また浅海氏自身も後にそれをほのめかしているように(「新型の進軍ラッパはあまり鳴らない」『ペンの陰謀』所収)、両少尉が「捕虜の据えもの斬り競争」をやっていて、それを白兵戦における武勇伝として話したのを、それをそのまま粉飾することなく記事にした、とはとても思われません。 もし、そうなら、それは浅海記者が事実を見抜く目を全く持っていなかったということになりますし、また、「据えもの斬り」を知っていて、それを武勇伝に仕立て上げたというのなら同罪ということになります。さらに、両少尉が副官と砲兵であることは、佐藤振寿氏の証言によって、浅海記者が第一報の記事を常州で書いた段階ですでに知っていたことは明白です。それをあたかも両少尉が歩兵小隊長であるかのように描いている、これを粉飾といわずして何というのでしょうか。 東京高裁の判決文も、「百人斬り競争」の記事について、浅海記者が粉飾を加えていないと認定している(かのよう)ですが、これについては洞氏以下の盲断というほかありません。 |